緑の丘

 

 そこはとても高い。
 大好きな場所。
 柵の向こう側の眼下には美しい森が広がっている。
 柵を超え、行ける場所まで行く。
 そうして下を見る。時折風が吹く。しかし風まも彼女を嫌うかのように避けていく。
 その瞬間、帰ろうといつも思う。
 嫌われているのに、長くいるのは嫌だ。それでも来てしまう。好きなのだ。とても。
「今日でお別れだから……」
 今日で最後。
「安心してね」
 だから、もう少しだけ………
「何をしているの!?」
 突然腕を引かれた。
 気が付くと、緑の茂る地面に倒れていた。
「……………」
 その瞬間、何もかもがどうでもよくなった。
 動くのも面倒だ。
「こんなところで、何をして………ちょ、どうかしたのか?」
 誰かが肩をゆする。
 どうでもいい。
「まさか頭打って? しっかりしろ」
 ゆさゆさゆさ。
「……………」
 鬱陶しいので、仕方なく目を開き、声の主を見る。
 知らない男の人だった。男の人、というよりももう男の子といった年頃の、とても綺麗な顔の人。
「げっ」
 男の人は彼女の顔を見るなり身を引いた。
 これで分かってくれただろう。みんなのように怖れて逃げる。
「か……」
 怪物。化け物。悪魔。
 言われ慣れている。
「顔に傷@」
 男の人は青ざめて彼女の顔に触れる。
 傷。
 おそらく、草で切れたのだろう。
「……………お迎えの人?」
「え、ああ」
 彼女は頬を手で触れた。
 生ぬるい液体。
 赤い血。
 とりあえずぬぐってから、
「………………」
「って、また寝るの?」
「…………」
「こんなとこで寝ると風邪をひくよ」
「…………」
 どうでもいい。
「ちゃんと消毒しないでそんなとこで寝て、どうなっても知らないよ」
「もう治した」
「なお………?」
 彼は、彼女の首根っこをつかみ、無理やり起す。
「………いつ術を?」
「ほっといて。もうしばらくだけ」
 逃げ込みたい先は、彼女を頑なに否定する。
 早く行ってくれと。そんな思いが伝わってくる。
 もう、最後。
 ここを見るのも最後。
 人を殺す生活も最後。
 ──私はこれからどうなるのだろう?
 役立たずの賢者。
 緑の賢者など、何の役にも立たない。その上、自分は呪われている。その呪われた身体も、役に立ったのは戦時中だったから。
「ねぇ」
「何だい?」
「私がどうなるか、知っている?」
「ああ」
 彼は頷いた。
「君はこれから、正式な『魔術師』になる」
 彼女は目を細めた。可笑しな話だと思うが、顔は笑わない。笑えないのだ。
「青の賢者様がいるのに」
「あれは死んだよ」
「なぜ?」
「心臓を病んでいたからね。戦争に勝利して、安心したのが原因だろう。あっという間だったよ。今、国にいる賢者は君一人だ」
 賢者と言えども、老いと病気には敵わない。老いだけなら、何とかなる者もいるが、病気だけはどうにもならない。
「補欠からの繰り上がり、か」
 彼女は崖を振り返る。
「嬉しくはない?」
「なぜ?」
「表舞台に立てる」
「そんなものはいらない……」
 欲しかったのは、平凡。
 生まれ持ったこの瞳が、彼女にこんな人生を歩ませた。この瞳さえなければ、彼女は母親に捨てられることもなかっただろうし、人殺しの道具にされることもなかった。そして、賢者になどならなかっただろう。
「………せっかく美人なんだ。もうすこし、愛想をよくした方がいいよ」
「………美人? 私が?」
 笑えない冗談だ。
「………」
 彼は彼女を見下ろす。
「まあいい。
 それよりも君の名を考えなければならない。君の自分の新しい名、どんなものにしたい?」
「どうして?」
「暗殺者、のままじゃまずいからだよ」
 彼女は地面を見た。
 思いつかない。
「突然そんなことを言われて、決められるはずがない」
 そういうのは苦手だ。
 可憐な野草が咲いていた。ぷちりと千切る。意味はなかった。ただ、何かを奪いたかった。自分には何もないから。
 何も……。
「それは?」
「キンポウゲ。強いて特徴をあげるなら、毒があるわ」
「毒………君は植物のスペシャリストだったな」
 彼は顎に手を当てて言う。
「ええ。いろいろな毒を作らされたわ。毒に関しては植物も、動物も、鉱物も関係なく」
「なら、ヴェノムだ。ポワゾンでは、いくら何でもあれだろう」
「単純ね」
「分かりやすくていいだろう」
「どうでもいいわ」
 名前などどうでもいい。この名をつけてくれた人は、もういない。この名前で呼ばれるのも辛い。大切だった人。人をたくさん殺しておいて、その人が死んだときはとても悲しかった。何もかも、どうでもよくなるほどに。
「私の名はウィト。今はウィトラン」
「誰に貰った名前?」
「陛下だよ。私が『真実の瞳』に選ばれたとき」
 彼は隠者のようだ。
 彼女の属する「ナイブ」の指導者にして、賢者の天敵。
「いつの間に代替わりしたのかしら。ずいぶんと若いけれど」
「つい一週間前だよ。偶然前の隠者に出会い。年は君よりも二つ上らしい」
 彼女は立ち上がる。
「ここはいい場所だね。精霊の数もすごい」
「だけど、嫌われている」
「そんなことはないよ。君が好きだから、皆君をわざわざ避けて通っている。君が飛び降りそうに見えたのでは? 風が吹いてバランスを崩す可能性もある」
 妙な男。
 少し、義父に似ている。
「行こう」
「………そうね」
「これからは大変だよ」
 想像すると、かなり鬱陶しい。
「私達はこれから、とある貴族の養子になる」
「でしょうね」
「私たちはそこで、兄妹になるんだよ」
「は…………?」
 天敵たる愚者と?
「行こう。『父上』がお待ちだよ。礼儀正しくするんだよ」
 彼は彼女の手を引いた。
 その手は大きく暖かく──

 

 私達はそうして出会った。
 たったの二年で終わってしまったが。
 だが、それからの関係は今なお続いている。お互いに、これほどまでに長く生きるとは思わなかった。

 

「どうしたんだ、ヴェノム」
「いえ」
 突然ピクニックに行こうと言って、名もない丘に彼女は皆を連れてきた。昔は近くに村があったようだが、今はない。完全にヴェノムの私有地だ。
「思い出せないことがあるのです」
 彼女は崖の下に広がる、自分の森を見て言った。
 風の精霊たちは、彼女の髪を乱すことはない。その周囲を、楽しげに舞っている。
「何を思い出せないの?」
 アミュがデザートのブドウを手にしたまま問うた。
「名前が」
「はい?」
「思い出そうとしているのですが、どうしても思い出せません。デとか、ダとか、そんなような出だしだとは思うのですが………。誰かに聞こうにも、お兄様に言った覚えもありませんし」
「名前って…………誰の?」
「私の」
 ハウルは呆れた。
「数世紀だもんね。僕も十年も経たずに親の顔忘れたんだから、桁が上がれば自分の本名忘れても仕方ないよね」
「二十三です」
「はい?」
「二十三です」
 無表情で、彼女は訴える。
 ハウルは小さくため息をついた。
「図々しいぞ、ババア」
 いつもなら、物を投げるか見つめ続けてくる彼女が、視線を再び崖へと向けた。
 しばらくして、呟く。
「ここは本当に変わらない……」
「この場所、気に入りだもんな」
「私はこの場所を気に入って、この森を買ったのです」
 そこに、知らないヴェノムがいたような気がした。感傷に浸る彼女を見ると、生きた時の差を思い知らされる。
 彼女が何を思っているか、どんな顔をしているか。背を向けられていて、分からない。
 だが、
「俺も、ここ好きだぜ」
 その言葉に彼女は振り返り、頷いた。
 彼女の代わりにアミュが微笑み、ラァスが頷いた。
 それからハウルは言った。
 彼女は、ここにいるととても穏やかになるから。
「春になったらまた来ような」
 花咲き乱れる春の日に──。

 

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