大人の階段

 中庭のベンチで寝ていると、頬に触れられるような感じがして目を開く。
 そこには、やや驚いた顔をしたの風神ウェイゼルが立っていた。彼は微笑みヴェノムの前に片膝をついてしゃがみ込む。彼の美しい顔が目の前に来た。
「起こしてしまいましたか」
 ヴェノムは自分が昼寝をしていたことを思い出した。中庭のベンチに座っていたら、陽気があまりにもいいものだからつい横になってしまったのだ。今日はとくに何もすることはない。探せばあるのだが、こう気持ちのいい天気だと、何もする気にならないのだ。
「よだれ出ていますよ」
 ヴェノムは慌てて起きあがると、ごしごしと口を手の甲でぬぐう。ちらとウェイゼルを見ると、彼はくすくすと笑った。神と言われなければわからないほど、彼は人のような表現をする。夜中だと出会い頭に悲鳴を上げられるヴェノムよりは、よほど人間っぽさというものに恵まれている。
「可愛い」
 ウェイゼルの言葉に内心むっとしながら、ヴェノムは身なりを整え座り直す。その隣にウェイゼルが座る。
「今日は何かご用でしょうか」
「もちろん、愛しい君に会いに」
 ウェイゼルはヴェノムの頬に手を添え、唇に口づける。ついばむようなそれを、ヴェノムはあきれながらも素直に受けた。
「ヴェノム、キスをする時は目を閉じなさい」
「……そうなのですか?」
「そうなのです。じゃあもう一回してみましょうか」
 ヴェノムは目を閉じた。長いものには巻かれるのが一番である。彼に逆らう意味など無い。
 目を閉じると、彼の存在がわからない。気配がない。息もしなければ、死にもしない。絶対的な存在であるからこそ、そこにあるのかないのかわからない。
 ひとたび力を使えば、ヴェノムなど目を開く間もなく消滅する。
 圧倒的な差があるにもかかわらず、二人はこうしている。
 本来なら並ぶはずもないほど違う存在がこうして並ぶことを、世間では奇跡と呼ぶらしい。
 ずいぶん俗物的な奇跡もあったものだと、ヴェノムは世間の認識を冷ややかに見つめていた。


 ウェイゼルは何が楽しいのか、最近よく来るようになった。ガディス以上に頻繁にやってくる。ガディスよりも話がわかるので、彼の方がまだ安心できる。
 ガディスはつかみ所がない。良くも悪くも理解できない。ウェイゼルのような人間に近い部分がないのだ。彼はとても神らしい。
 どちらにしても、彼らは人ではなく、風や炎の主であり、精霊達の王である母なる創造主に次ぐ、この世界では最も位の高い神達だ。
 神を二人も引き連れる女として、魔道師仲間の間でずいぶんと彼女は有名になった。気ままに人の前に姿を見せることで有名なウェイゼルはともかく、他人に興味のないガディスを袖にしているという紛れもない事実が、誇張されて噂として流れているらしい。
 絶世の美女というのは当たり前で、類い希なき清らかな聖女だとか、逆にとんでもない悪女だという話もある。
 そんな話を本人達が聞いて、心配してやって来てはまた話が大きくなるのだ。
「お兄様、私はどうすればよいのでしょうか?」
 一人だけならまだ良かった。二人いるから、どちらかを立てれば片方の機嫌が悪くなる。彼らの不機嫌は、世界に影響を及ぼす。世界に被害を与えかねない、微妙な位置に彼女はいる。
 書類を作る手を止めて、ウィトランは笑顔で言った。
「誰かと結婚してしまえば? そうすれば神様とは、恐れ多くて結婚できません。卑しい私にはこの程度の男が似合いですって断れますよ」
 人の良さそうな顔をして、彼はとんでもないことを言う。
 十代もようやく半ばをすぎた彼女にとって、結婚とは遠いものである。もちろん、世の少女達ならば既に適齢期である。しかし自分を女性として意識して間もない彼女にとっては、結婚などととんでもないことでだった。結婚すれば、個人差はあるが、普通は子供が出来る。母親になる自分というものが、想像できなかった。父親はともかく、母親のことなど全く知らない者が、母親になどなれるのかと心配でならない。
 まず先に相手がいない。結婚とは相手がいてこそするものだ。
「じゃあ、俺と結婚しないか?」
 ウィトランを手伝っているロズウェルが冗談めかして言う。
 昔なら理解できなかったが、今なら理解できた。彼は本気でそう言っている。将来王になる可能性がある、王子がだ。
「ロズウェル様と結婚などしたら、気苦労が絶えないことでしょうね」
「そんなの、試してみなけりゃわからないぞ」
 彼の言葉にヴェノムは複雑な思いになる。
 わからない。
 試したことがないからわからない。
 人を好きになると言うことがどのようなことかわからない。
 母親というものが分からない。
 家庭というものが分からない。
 普通の生活というものが分からない。
「どうしたヴェノム。考え込んで」
「いえ」
「お前は考え込むとすぐに下を向いて無口になる」
 ふと、ヴェノムは彼らと一年以上の付き合いになることを思い出した。
 二年前はこのようなことになるなど思いもしなかった。ずいぶんと予測とは違う道を歩いているものだ。王族のロズウェルと会話して、冗談を言い合う。神に会ったのも、元々は王室に出入りしていたからだ。
 ──本当に遠いところへ来たものだ。
 自分も教育の結果変えられてしまった。唯一、作り顔だけはどんなに練習しても自然にできなかったのだが。笑おうとするとウィトランは無理をしなくてもいいと言うし、ロズウェルは笑う。
 そんな不思議な立場に自分はいる。
「そんなにあいつらが嫌なのか。まあ、気持ちはわかるけどな。ああいうのにつきまとわれたら、断ろうにも断れな……まさか、何かされたりしていないだろうな?」
 ロズウェルは顔色を変えて言う。器用だと思いながら、ヴェノムはいつもと変わらない抑揚のない声で言う。
「何も」
 手の早いことで有名なウェイゼルにもキス以上のことはされていない。ある意味こちらの方が奇跡といってもいいだろう。
 おそらくは、ガディスを気にしてのことと、ただ逆らわないだけの女に何をしても仕方がないからだと予測できた。
「ヴェノム、これに関しては俺は本気だからな。お前にはまだ早いと思って言ってなかったが、あいつらが強硬手段に出そうなら、俺がお前をすぐにでももらってやる」
 ヴェノムはそれを丁寧に辞退した。


 夜になると肌寒く、窓から吹き込む風に身をすくめる。星を見ようと窓を開けたが、拒絶されたような気持ちになり窓を閉めた。
 そのまま鏡台に向かい、就寝の準備をする。高価な化粧水を顔につけて、自分で調合したクリームを塗る。昔では考えられないほど肌を大切にしている。昔はこのようなことに何の意味があるのか理解できなかった。しかし今では実感がある。肌のきめが整い、荒れることが無くなった。手には別の軟膏を塗る。冬にもなれば皮が切れるほど荒れることもあった手が、今では驚くほど綺麗になった。これが女の手なのだと、最近はしみじみと感心することもある。
 自己改革は進んでいる。
 今では自分で化粧もするようになった。昔は無駄と思いこんでいたことを、今では習慣のように行っている。
 身体はこういった贅沢になれてしまった。それでも、心は慣れない。
 ため息をつくと、ヴェノムは立ち上がった。
「考えても仕方がない」
 ヴェノムはすっきりしないので、寝るのをやめて着替えをした。
 彼女には、男物を着ては夜の町を人に見つからないように徘徊する癖がある。こういう何ともすっきりしないときに、悩みの無かった昔を思い出して、せめてと忍んで行動することにしている。どこかに忍び込んだりはしない。一般人としての常識だ。
 ヴェノムは着替え終えると、窓を開いてテラスに出る。
 そこに、どういうわけか男が立っていた。赤い髪に赤い瞳。それに比べればいくぶんか落ち着いた黒みがかった赤い服の男。
 ウェイゼルと似た雰囲気のある美しい男、火神ガディスがそこにいた。
「このような時間に、そのような姿でどこに行く」
「覗いていたのですか」
「違う」
「では着替えは見ていなかったのですね」
「…………」
 覗き行為をする神に対して、ヴェノムは自覚するほど冷ややかな気持ちになった。痴漢、覗き等の行為は、人でも神でも最低の行為である。
「いきなり部屋に行くわけにはいかないからまずここに出たら、偶然着替えていた。そんな姿でどこに行く?」
「散歩です」
「こんな時間に一人でか?」
「はい」
「夜の女の一人歩きは危険だ」
「ですから、この姿です」
「私もついていこう」
 ヴェノムはため息をついた。
 夜更けに女の部屋に来るという人でなくとも分かる非常識をする男に、なぜそのようなことを言われなければならないのだろう。
 やはりウェイゼルの方がまだマシだ。
「確かに、危険ですね」
 この男に対して、最も危機感を覚える。
「私はもう寝ます」
「寝るのか? 私はお前と話をしに来たのだが」
「夜更かしは美容の敵です。ガディス様、失礼いたします」
 ヴェノムは部屋に戻り、窓を閉める。そして、分厚い遮光カーテンを敷いて、再びネグリジェに着替えた。
「……本当に結婚、してしまうか」
 それにはまず相手がいる。ならば見合いをと考え、ヴェノムは肩を落とした。
 神を敵に回してまで、ヴェノムと見合いをしてくれる男など存在しない。いたとしても彼女の知り合いだけで、それはそれでウェイゼルやガディス同様やっかいな連中である。
 呪われたような境遇に、ヴェノムは嘆くようにしてベッドに横たわる。
 兄からもらった可愛らしい抱き枕に足を絡め、うんざりとした気分で目を伏せた。


「今思うと、私はさっさと徹底的に二人ともふっていれば良かったのですよ」
 若き頃の苦々しい思い出。
 それは大人への階段を登るというよりも、腰に綱を巻き付けられ、無理矢理引き上げられたようなものだった。
「何を今更当たり前のことを」
 孫の言葉にヴェノムはため息をつく。
「でも、今までの道があったからこそ、私はあなたとこうしているのですから、私は幸せです。
 人生でどのような大失敗をしても、それを取り戻すことは可能だと、つくづく思います」
「オヤジと出会ったことが人生の大失敗か」
「いえ、ガディス様と出会ったことです。あの方は昔から何を考えているのか理解できませんでした」
「お前が言うなよ」
「師に向かってお前とは何ですか」
「じゃあばーちゃん」
「私はまだ二十三歳です」
「まだ言ってるのかよ」
 いつも通りのハウルとの会話。これがあるからこそ、今は楽しい。
 永遠など望まないが、こうした繋がりがあるかぎり、生きていることに対して苦痛を感じることはない。
 なにせ、まだ二十三歳なのだから。

 

 

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