天の城の魔女
閉じられたまぶたごしにある朝日の心地よさに彼女は目を覚ました。
眠る前まで隣にいた男の姿はない。
どこに行くのも彼の自由。彼は気まぐれ。彼は私のものではない。何よりも、彼が何をしようが関係ないし興味ない。人間の男ならば下手な病気を貰ってくる可能性もあるのだが、彼は神だ。何をしようが自由である。
彼は自由の象徴、風そのもの。捕らえることなど到底不可能。
「ああ、あの男がいないとなんて気楽なの」
ヴェノムは心の底から清清しい朝に感動した。
あの男の元に来て約一年。成長の止められた身体はほとんどあの頃と変わらず、しかし髪だけが伸びた。元々背中の半ばまであった髪が、腰の辺りまで伸びた。それほどの時がたって、彼女はこの白の生活に慣れた。
あの男がいないとき、ヴェノムは決まって風呂に入る。いつも適温かつ綺麗な湯が沸いている。これに関してはとても感謝していた。ゆったりとくつろいでいるときに、あの男が突然湧いて出るのが唯一気に食わないが、それさえなければこのバスルームに関してはとても気に入っていた。
少し身体を温めると、ヴェノムは身体を拭いて裸のままクローゼットへと向かう。中には彼女の好むような服はない。王宮で働いていたときに見た姫君が着るようなドレスがあれば、下女の着るようなドレスもある。曰く「メイド服は男のロマン!」だそうだ。オプションとしてめがね。そして髪形は三つ編みが望ましいそうだ。ヴェノムはまだ一度も着た事がないし、皆そこまで付き合う必要はないと言う。主である彼に、彼の部下達は主のいないときはとても横着になる。そしてヴェノムには好意的だった。
「まったく……こんなもの着られるはずがありません」
だからいつも黒のドレスを選ぶ。今日は少し派手な気がした。
黒はとても落ち着く。昔は黒い服ばかりしていたから。昔を思うと無性に懐かしくなるものだ。自分を理解しているので、白やピンクのドレスを身につけている姿など思いつかない。無理だ。不可能だ。仮装でしかない。
ヴェノムがドレスを身につけ終えた頃、ドアがノックされた。
「誰?」
「ウィアとクロフでございます」
「入ってください」
ヴェノムが許すと、ドアが開き二人の風精が部屋に入る。風精独特の青みがかった銀髪と青の瞳。そして人知を超えた美貌。人の身であるヴェノムには、神にも等しいはずの高位の精霊達だった。風神ウェイゼルの側近中の側近達なのだから、下手な神よりも発言力は上だろう。
「おはようございますヴェノム様。今日もお健よかでいらっしゃいますか?」
ヴェノムの身の回りの世話を任されているウィアは、いつのにように問うてくる。成長を強制的に止められた好みに健よかとは皮肉でしかないのだが、彼女にそのようなつもりはないのだろう。
「ええ。あの方がいないのでとても気分がいいです」
その言葉に、滅多に笑うことのないクロフの唇がわずかに笑みの形になる。
「我らが主がいないと体調がよいとは」
「あの方は人が寝ているのに気まぐれに起してきては下らない遊びの相手をさせますから」
前回は突然駒遊びをしようと勝負を持ちかけてきて、夜が明けるまで連敗し続け不貞寝をした。その前は、突然卑猥な本を持ってきて、強制的に見せられて感想を聞かれた。ヴェノムはただ不快と答え眠ると、彼はしょぼくれて出かけていった。その前は突然飲めと飲めない酒を飲まされ、翌朝もう二度と飲まなくていいですと言われた。
いないとせいせいする。
「ヴェノム様、御髪をといてもよろしいでしょうか?」
「ええ」
ヴェノムは鏡台の椅子に腰掛け、その背後にウィアとクロフが立った。
クロフが風を起し髪を乾かし、ウィアが櫛で髪をとく。
「ヴェノム様の御髪は本当にお綺麗で羨ましい限りですわ」
「普通だと思いますが」
二人の髪の方が綺麗だと彼女は思っている。風精の髪の美しさは、精霊達の美貌と並ぶほど有名である。風にその髪がなびくと、光を反射させまるで宝石のように輝くのだ。
「私たちの姿は個性がない。どことはなくウェイゼル様に似てきてしまう。それは私達があのお方に焦がれる故に」
それが彼らの本能である。風神に気に入られたからこそ、彼らはヴェノムを敬う。決して妻ではないのだが、それでも彼らはそうする。
この一年、ずっとそうだった。
「ヴェノム様が羨ましい」
「なぜ?」
「人間はとても自由です」
「自由は風でしょう?」
「いいえ。風は自由ではありません。ほんの少し……人間からすれば大層な悪戯は出来ますが、自由にはなれません。それが精霊、自然です。私達は存在とその範囲を定められています。だから人が羨ましく、愛しいのです」
ウィアはヴェノムの長い黒髪をとかしながら言った。
人ならば誰もが崇めるであろう美しい彼女が、人間などを羨ましいと思うのは意外であった。
「人は何でも出来ます。例え神に逆らう事だって。
それで命があるかは別として、その行為を自らのままで行うことが出来ます。ある程度霊的な力の備わる生物には出来ません。おそらく人間だけでしょう」
ウィアは瞳を閉じた。クロフはただ背後でたたずんでいた。よく話すウィアと、あまり口を開かないクロフ。恋人かとも思ったのだが、同時期に生まれた兄弟のようなものらしかった。
「私に出来ることは、ヴェノム様をお慕いすることだけです」
「おし……?」
「ヴェノム様は主のもの。しかし思う心は自由です。それはウェイゼル様の命令であっても、決して従う必要はないのです。もちろん、ヴェノム様以外のことでウェイゼル様に反発しようとは思いません」
ウィアがにこりと笑う。ヴェノムには出来ない、微笑というものだった。この微笑一つで、多くの愚かな男を狂わせることが出来るだろう。
「私達の自由は思いだけ」
クロフが呟いた。生真面目で、ヴェノムよりはマシだが不器用で、それでいてとても優しい。
「思い……だけ?」
自由であるはずの風なのに。
「私達はヴェノム様をお慕いしております。ウェイゼル様よりもずっと真剣に」
「…………」
ウィアは微笑む。ヴェノムは彼女の笑顔が好きだった。柔らかくて好きだった。見た目の年頃が同じ程なのに、遥かな時を感じるのだ。
そう思った瞬間、ウィアは頬に片手を当てた。
「いやん、いっちゃったぁ」
「落ち着け。手がおろそかになっている」
「あら、申し訳ありません。今日はどんな髪型にいたしましょうか」
「たまにはアップにするのはどうだろう。大人っぽく」
「それも素敵ですね。ではヴェノム様、どちらの髪飾りを使いましょう? ヴェノム様の瞳に合わせて赤い宝石のものを使うのも素敵ですし、青い宝石でもとてもお似合いでしょうし」
「黒い髪には緑の石もよく似合うぞ。紫もいい」
時々、彼女達が理解できない。
「……なんでもいいです」
「よくはありません。今日はヴェノム様がここに来て一年の記念すべき日です」
クロフがいつもの生真面目な様相で言う。生真面目な顔で、生真面目な彼には似合わない言葉を口にした。
「ウェイゼル様が忘れているので、私達だけでお祝いいたしましょう」
忘れているのだろう。ヴェノムもそろそろ一年だとは思っていたが、日付までは忘れていた。まさか今日とは思ってもみなかった。
「ヴェノム様。ずっとずっとここにいてください」
「ウェイゼル様が飽きるまではそうなると思います」
今はまだ彼の中にヴェノムはいる。しかし男と女というものはそう長続きするものではないらしい。もって十年。
「それはありえない」
それを言ったクロフは、鏡の中で少し沈んで見えた。
「貴女はあの方が始めてこの城に住まわせた女性だ。あの方は本当に貴女を気に入っている。ありえない」
「……理解できません」
何をどう気に入ったというのだろう。感情を表に出すことが苦手なので、見ていても楽しいはずがない。見た目は人としてはそれなりに整っているほうらしいが、精霊達の美しさには劣る。ではなぜ、彼は自分をそばに置くのだろう。
始めは火神ガディスへのあてつけだと思っていた。彼が誰かに執着するなど初めてのことらしいから、どんなものかと好奇心から近付いてきたはずだった。ヴェノムもガディスの手から逃れるためにウェイゼルの元へと来たようなものである。その程度の関係のはずだった。
なぜ。
それは考えても分からないことだ。
(私は逃げた。それだけが確かな事実)
大切なものが壊されてしまう前に。
ヴェノムがウェイゼルの元へ来ることにより、すべては収まった。誰かを傷つけたが、それでもヴェノムはこれでよかったと思っている。
「でも、もしもそんな日が来たら、私達と契約してくれませんか?」
ウィアはヴェノムの髪にピンを刺しながら言った。
「別に構いませんが……なぜ?」
「好きな方とは常に共にいたいからです」
「あの方のものでなくなったのなら、私達は貴女と何でも出来ます。今は無理ですが、数百年もすればその日が来る可能性もあります」
どうやら、二人は分かれて欲しがっているらしい。
それがあるとすれば、ヴェノムが捨てられるとき。それを思うと多少は胸が痛む。ヴェノムとて、嫌いな相手の愛人をするほど割り切れるほどしていない。少なからず、好意が存在するのは紛れもない事実。
「そうですね。その時が来たら……」
ヴェノムはその時が来るのを覚悟した。その時、一人になってどうすのだろうか。
(私に出来ることは少ない)
それでも、生きていればいいだろう。
生きる事は約束だ。亡き父との、数少ない約束。
「私は……」
言いかけてヴェノムは口を閉ざした。
鏡の中に、先ほどまでいなかった男の姿を見たから。
「ウェイゼル様、お帰りなさいませ」
気付いたウィアが振り返らずに言った。
「アップ?」
ウェイゼルは顔を顰め、ウィアの手元を覗き込んだ。
「だから、基本は三つ編みだって言いませんでしたか?」
「このドレスに三つ編みは似合いません」
「元がいいから何をしても似合うのですから、そのままおろしていればいいものを」
「ウェイゼル様は、何をしに戻られたのですか?」
「もちろん、ヴェノムと遊びに行くためですよ」
その言葉にウィアは明らかな不服を顔に表した。
「これからパーティなのですが」
「? 何の?」
「ヴェノム様がいらして一周年」
彼は首をかしげ、かしげ、
「まだ一年だったんですか!?」
彼らしいといえば彼らしい言葉だった。
「なるほど。なら、二人でデートをして二人でディナーを食べて、二人で高そうなホテルに一泊というのが最近の流行らしいので行きましょう」
唐突な言葉にヴェノムは呆れた。それが彼の脳内の予定だったのだろう。ヴェノムに対する予告相談一切なし。呆れるしかないそれに。ヴェノムはきっぱりと跳ね除けた。
「嫌です」
「そう言わずに」
「嫌です。またろくでもない場所に連れて行く気でしょう」
「ごく普通のクラブです」
「一人でどうぞ」
「ああ、冷たい。いつからそんなに冷たくなってしまったんですか?」
ヴェノムは無性に早く捨てて欲しいという願望に捕らわれた。
会話をするとろくな事がない。神のくせに嘘つきで軽くて、どこか憎めない男。
「ウィア。続けてください」
「はい」
馬鹿な神に振り回される毎日だが、最低だと思う自分がいて、同時に悪くないと思う自分がいる。
何年続くかも知りない来るべき終わりの日への時を思うと、ヴェノムはおかしくて笑えそうな気がした。