猫鬼
「こんなに人がいるのに、どうしてかな?」
彼女は呟いた。
彼女が見つめるのはサッカー部が練習をしていたグラウンド。片づけをほぼ終了し、間もなく帰るだろう。空はとうに暗く、彼女は月明かりに照らされていた。
「帰ろう」
私は言った。
夜は危険でしかない。彼女にとっての危険は普通の危険ではない。一般常識に外れる危険だ。
「一人でことを片付けようと思ってる?」
「そうだ」
「じゃあ、嫌」
彼女は小さく笑う。命を狙われているというのに呑気なものだ。
「貴方の側が、一番安全だし」
助けたのは偶然と気まぐれ。そして彼女に恋したのも。こちらの気持ちも知らずに彼女は我を張る。そんなところも含めて気に入っているのだが、命に関わる部分では言う事を聞いて欲しいものである。
「それにここなら部屋よりも広いし。うちだと、どうせ蚊帳の外に置かれるでしょ? 内、かな?」
敵が外にいて、自分が蚊帳を作り上げて彼女を守るのだから、そちらの方が近いだろう。
彼女は長い髪を指に絡めて弄び、窓際から離れて机に腰をかけた。
「でも、私ってそんなに美味しそうなの?」
「ああ」
血の匂いを嗅ぐだけで居ても立ってもいられなくなりそうなほど。
それ以上に、とても『魅力的』に感じるのだ。そう、彼女の出す空気そのものが、とても心地よい。フェロモン、という言葉があるが、あれに近いかもしれない。
その言葉に、彼女は怯えるでもなく笑う。
「クロになら、食べられてもいいよ」
彼女はとなりの机に座っていた私へと手を伸ばし、優しく喉を撫でた。
「可愛い」
彼女、夜依(やえ)は私を持ち上げ、抱きしめた。彼女は無類の猫好きらしく、普段は黒猫の姿をしている私を気に入っているようだ。だからこそ、彼女は怪しい私を家に連れ帰ったのだが。
お持ち帰りされたときは、さすがの私も戸惑った。
そうこうしているうちに、部活を終えた生徒たちが帰りだした。もうしばらくすると、教師たちも帰途に着く。おそらくこの校舎にいる者はもう他にいないだろう。そろそろ動き出すかもしれない。人が少なくなれば奴が来る。
今日、怪我を理由に今まで家に閉じこもっていた夜依が家を出て行動を始めた。私はわざと彼女の匂いを撒き散らした。知らない者なら、明らかに怪しいこの匂いに誘われてのこのこやってくることはないだろうが、知る者なら、その誘惑には耐えられないだろう。
そこを狩ればいい。不安要素は早めに摘み取るに限る。
私は夜依の腕から抜け出し鬼としての姿へとなる。夜依はといえば、私の姿を見て残念だとばかりにため息をついた。
「そんな顔をするな。これも私だ」
さすがに猫の姿のままでは格好がつかない。
「じゃあ、あの鬼もクロみたいに動物なるの?」
自分を襲った鬼を思いおこし、彼女はまるで甘いものの話をする気軽さで言った。
「猫ではない。しかし、別な動物の姿を取るのは確かだ」
私は黒猫。夜依を喜ばせるために常に猫の姿でいるが、常にこの姿で過ごすことも出来る。人の振りをして、彼女の横を歩くことも出来る。それを、理解して欲しかった。
「でもクロとはぜんぜん違うよね。クロは人みたいなのに、あのヒトは人間みたいだとは言えなかったね」
「私は長く生きている。力も強い」
「クロも人を食べるの?」
「とうに飽きた。人など力を付けたいひよっこが喰らうものだ」
彼女は私を見つめる。今までよく生きてこられたと思うほど、彼女は血の匂いは魅力的だった。人を喰わぬことにしている私ですら、おもわず血迷いそうになる。だからこそ、その魅力に抵抗できずに拾われたのだ。
それらのことを考えると、彼女は今まで誰かに守られていたとしか考えられない。そして、それが何らかの事情で離れるか殺されたのだ。死んでくれていれば私にとっては都合がいい。死んでいればいい。今まで彼女を守っていたのはほめてやるが、今で出来たとしても邪魔なだけだ。
「夜依、来たぞ」
私は夜依をさがらせ、彼女を庇う位置に立った。
一度覚えた極上の血の味を忘れられず、のこのこと出てきた愚かな若造。夜にならねばろくに力も使えぬくせに、この私にたてつこうというのだ。いや、だからこそ私の力を理解していない。それは夜依の表現したように、人とは明らかに違う外見をしてた。少し小柄で、おそらくは爬虫類。だが、以前見た時よりははるかに人に近くなっていた。あれが喰らった夜依の血肉はごくわずか。たったあれだけでこれほどまで強くなるとは、本当に一度味わってみたいものだ。
「クロ……」
「心配するな」
前回は夜依の治療を優先させ、逃がしてしまったが。
「あの程度、一瞬だ」
いくら強くなったとはいえ、元々が弱かったのだから私から見ればどちらも同じ。
私はその未熟な鬼へと力を放つ。衝撃などはない。力そのものを削り取る力。削り取ったそれを私は喰らう。人ではなく、同属を狩れるようになれば、そちらの方が効率がよい。人ほど美味くないが、ひっそりと生きたい身としてはこちらの方が都合がいいのだ。
その鬼は私の力の前に悲鳴もなく消えた。
「ほら、な」
褒めて欲しい。見て欲しい。そう思い彼女を振り返る。その彼女は、机の足に足をぶつけながらあの鬼がいた方へと駆け、何かを拾った。
「蛇だっ」
彼女は、嬉しそうに言ってそれを私に見せた。
「見て見て、蛇。可愛い!」
私は、思わず脱力した。
あの鬼が死んでいなかったことにも驚いたが、その小さな蛇を可愛いと言い切った彼女にも驚いた。
「まだ子供なのかな?」
「そのようだな。貸せ。消す」
「子供だよ」
彼女は眉をよせ、蛇を抱きしめた。
「危険だ」
「怯えてる」
私に睨まれそれは怯えていた。当然だろう。
「少しとはいえ、お前を喰った。お前は私のものだ。許すわけには行かない」
私は蛇を取り上げ今度そこ完璧に存在自体を喰らう。夜依は顔を曇らせた。
「あれは生かしておけば、私にとっても危険でしかなかった。同属狩りは、少なくとも好かれることはないからな」
彼女はしばらく私を見つめ、うつむいた。
「うん。困らせてごめんね」
それでも名残惜しそうに。どうやら、猫好きと言うよりもただの動物好きらしい。それはまずい。手を打たねば。
「私一人では不満か?」
「ううん。クロも可愛いから好きよ」
もっと別の意味として受け取って欲しいのだが、こればかりは仕方ない。
「私はお前を気に入った。お前を傷つけると分かっているモノは、生かしておけない」
「うん」
「だから、私だけにしておけ」
「うん」
私は猫の姿へと戻る。この方が、常に彼女の側にいられるから。
「帰ろう」
「うん」
彼女は微笑む。私は彼女の腕に飛び込んだ。
「あ、そうだ。帰りに首輪買おうか。野良猫と間違えられたら面倒だものね。住所とか名前とか書くんだよ」
彼女は何か大きく勘違いしているが。
それでも私は彼女が好きで、彼女に「飼われる」羽目になったとしても、幸せだと思う事実は否定しようもなかった。