黒の魔道師
3話 暗黒の塔
黒魔道師エルマ。
ナイブの第一部隊の隊員という彼女の主な仕事は以下の三つである。
交代で、王の一人マシェルの護衛。
幼い後輩達の管理。
「魔術師」シアの補助。
これらは決して楽な仕事ではないが、比較的楽しい日々を送っている。
今日も今日とて、シアの補佐をつつがなくこなしている。
「シアおねえちゃん。お菓子忘れてるよ」
親しい者しかいない場合、エルマは今だシアを姉と呼ぶ。王の従妹姫に対してとんでもない話なのだが、本人がそれでいいと言うのでそう呼んでいる。
「せっかく作ったのに、忘れていったらディオル様が可哀想よ」
いつの間にか親しくなっていた少年を思いきつく言う。
初めて会った時は乱暴な扱いにくそうな男だと思っていたのだが、話してみると逆に扱いやすそうな男だと思った。いかにも操りやすい可愛い男性だ。
「エルマ。私の留守は任せますよ。仕事の方はリグに任せていますから」
リグとは第一部隊の副隊長のことだ。二十代にもかかわらず、第一部隊最年長者である。この辺りから、この国の魔道師に関する人材の不足が分かるだろう。大半が前国王についたか、殺されているのだ。彼は魔道師からは特に支持されていた。独特の思想、発想、才能は、魔道師を魅了したらしい。
「はい。何かあったら私が適当に収拾つけるから、シアおねえちゃんは安心して……」
その時だった。
「シアさん!」
息を切らしたマシェルと、顔色一つ変えていないウィスが駆け込んできた。マシェルはどこで手に入れたのか、どこにでもありそうなセーターを着ている。
孤児院にいたときよりはずいぶんと立派な服ではあるのだが、それはいかにも安物である。国で手配した衣類はどれもすべて高級な素材で出来ているはずだった。エルマも貧乏育ちなので、そういったことには詳しくないのではっきりとは言えないが、今朝も彼は金の刺繍が施された服を着ていたはずである。暖かそうなマントを羽織っていたので、はっきりとは言えないが。
「……まあ、素敵なセーターですわねマシェル様」
余所行きの顔をしていたシアが、余所行きの笑顔で痛烈な嫌味を言い放つ。
「あ、兄さんに借りたんです。やっぱりこういうシンプルなのが好きなんですよね。絹とかは肌触りがいいですけど、ほら派手じゃないですか」
彼はよほど高級素材から逃れられたことが嬉しかったのか、珍しくシアの不機嫌に気付かずしゃべっていた。
「で、何用ですか?」
「ちょっとデュークと喧嘩してきたんで、連れて行ってください」
「……嫌ですわ」
シアは迷うことなく荷物を手に、転移用の魔法陣へと足を踏み入れた。
「あ、ウィトラン様には言ってきましたから」
「……本当に?」
「はい。治療ついでに。やっぱり治療はシアさんの方が上手ですね」
どのような喧嘩が繰り広げられたのだろうか。その場にいたであろう者達に合唱した。エルマだったら、どうしたらいいかわからずに半泣きしていただろう。
「殴り合いですか?」
「ちょっとした切り合いです。剣と槍を室内で振り回すのはやめようという話しで落ち着きました。その後、木刀で仕切り直しをしたんです」
死人が出なかったことに対して、どこかにいる何かの神様に心の中で手を合わせた。
「……まあ、今日ぐらいなら。
ウィス様は……言うまでもありませんわね」
ウィスはシアの監視である。出かけると知って駆けつけたのだ。
日に日に激しくなる喧嘩にシアも頭を痛めている。上手く間に入る者がいないと、すぐに喧嘩を始めるのだ。毎回大した理由ではない。
「して、今回のケンカの理由は?」
「僕が猫になつかれるから因縁をかけられたのが始まりだったような……。ふと気がつくと、前の会議の時の話しになって、なぜか罵りあいになって……。ラァサさんと兄さんがやれやれとか言っていたような気が」
エルマとシアは脱力する。よその国のお嬢様かつデュークの恋人であるラァサはともかく、アズバルが煽るのは大きな問題である。
「で、気がつくとラァスさんにデュークが殴り倒されていた気がする。ほんと強いなぁあの人」
「後でお礼を言わなければ」
しかし、おそらくはただの私怨からデュークを殴ったのだろう。それに感謝するのも国としてはどうなのだろうか。
「ところでシアさん。ディオル君の所に行くんですか?」
「ええ。行き先も知らずに連れて行けと言っていたのですか?」
「はい。もうどこでもいいからあいつと顔をあわせない場所に行きたいんです」
エルマはため息をつくシアを見つめた。
「そういえば、マシェル様が来てしまったら、エルマの仕事がなくなってしまいますね。エルマも来ますか?」
もちろん仕事などいくらでもあるのだが。
「はい」
シアの配慮に、エルマは胸ときめかせて頷いた。
ディオルはふっと笑う。エプロンを脱ぎ、はたきを構え、
「完璧だね」
「さすがはご主人様。やろうと思えば何でも出来るなんて素敵です。さすがは世紀の大天才! これならシア様もご主人様にめろめろですぅ〜」
エリキサはディオルにまとわり付いて褒め称えた。普段は気になることに対して口を挟むだけなのだが、今日に限っては過剰なまでのおべっかを使う。
「褒めても何もでないし、今後常に部屋を綺麗にしておくつもりもないよ」
「ちぃ」
「言うようになったな」
「私は鏡ですから。ご主人様の思う姿となる鏡。
ご主人様は姿は似も希望していないのでこのままですがぁ、性格はだんだんとご主人様に似てくるんですぅ」
「はいはい」
ディオルははたきを指先でくるりと回転させると、それをアシュターに押し付けた。
精密機械というわけではないのだが、設備を掃除するのも悪くない。
散らかしているのは、その方がいい考えを思いつくからだ。それに気付いたのは、考えがまとまらずに、やけを起こして部屋を散らかしたら妙に落ち着いてしまった十三歳の春の日だった。
それ以来、部屋は乱雑にしている。研究を続ける限りは、そうしていくつもりだ。もちろん、定期的に一度掃除をしてから散らかすのだ。それである程度の衛生状況は保たれる。すべては研究のため。そしてシアのためである。
「あ、来るな」
ディオルは魔法陣の前に立つ。自分専用に設定したこれは、シアといえどもこちらから道を開かなくてはここまで無事にはたどり着けない。ディオルが道を開くと、シアの可憐な姿…………と、おまけのデカブツが現れた。
デュークほどではないが、ディオルよりもはるかに身長が高い男。
デュークの片割れのマシェル。と、ついでにそれと同じ程の身長の持ち主のウィス。
よく見れば、その影にエルマがいた。大きいのが二人もいるので、小柄な彼女の姿が隠れてしまっている。
「……シアさん、なんでこれがいるの」
「お兄様とケンカなさったのですって」
デュークとケンカ。つまりはあの馬鹿とは不仲。
「いやぁ。ちょっと流血沙汰になってさぁ。やっぱり刃物でケンカしちゃだめだね」
「……デュークは?」
「さぁ。まだ気を失ってるんじゃないかな」
「そうか。いい気味だ。くくくくくっ」
ディオルは忌まわしいあの男がぼろぼろになった姿を想像し、思わず笑みがこぼれた。
「で、エルマはどうしてここに?」
「……迷惑ですか? お邪魔をするつもりはないのですが」
「いや別に。君にしては珍しいと思っただけだから」
ディオルとシアの邪魔になる事をしない少女なのだが、マシェルやウィスというおまけがいるのでそのせいだろう。
その時、今まで大人しくしていたエリキサが動いた。
「さあさあ、皆様方。このようなむさくるしい場所立ち話も何ですからぁ、リビングの方へどうぞぉ」
「まてこの獣女。人の部屋をむさくるしいとは何だ。むさくるしいとは。
お前には、この古い本棚や本の匂いのよさが分からんのか!?」
「美味しいお茶があるんですよぉ。ケーキも頑張って作りました」
「まあ、エリキサ様の作られたケーキ! きっと素晴らしい英知の結晶なのでしょうね。私の作ったマフィンなど、お出しするのが恥ずかしくなりますわ」
ケーキの味と英知は決して直結するものではない。エリキサの料理は、長年人間に仕えていた経験から美味いだけである。
「大丈夫ですぅ。シア様の作ったものなら、ご主人様が私達にわけてくれない勢いで食べてしまいますから」
「まあ。ふふふ」
シアは口元を押さえて上品に笑った。シアは何をしても美しい。それから彼女はエリキサとの会話にふける。
内容は、ただの魔道に関しての質問である。彼女の領域外のことで、人に聞かれて困ったことを質問しているらしい。真剣に魔道について問う彼女もまた美しい。
彼女と共にいると、向上心が沸き起こってくる。彼女に侮られたくない。知識は自分の方が下だと理解しているから、せめて応用力に関しては上にならなければ格好が付かない。
今も、悩んでいたことついて少し改善案を思いついた。彼女のおかげだ。彼女と会うと、研究がはかどる。
「エルマ、エリーちゃんのケーキだって。どんなんだろうね」
「さあ。想像も付かないです」
エルマは首をかしげた。可愛いその仕草に、マシェルはくすりと笑う。
ディオルの隣に立つのはウィス。普通ならディオルよりも身長は低いくせにに、大人になるとディオルを見下ろしてくる。
「……ウィス」
「ん?」
「お前いつまでシアさんのストーカーをしてるつもりだ? シアさんは子供好きだから許してくれているけどね世間はそんなに甘くないよ?」
「誰がストーカーなどしなければならない? オヤジがいいと言えば、今すぐにだって帰ってやるさ!」
「命令を理由にストーカーするなんて、嫌なガキだなぁ、お前も。ああいやだいやだ」
「勝手に言ってろ、このマッドサイエンティスト!」
ディオルは彼の言葉に首をかしげた。
「マッド……この僕がマッドサイエンティスト?」
「自覚ないのか?」
「僕はただ普通にキメラの研究をしているだけだ。ごく真っ当な研究をしている僕がマッドなら、世の中の魔道研究者は皆そうなるよ」
「研究内容によるだろ、それは」
「これだって立派な魔道学の一分野だよ。いやだねぇ、物を知らないガキは」
「最近、お前にだけは何を言われても怒る気がしなくなってきた」
「あ、そ」
別に怒らせる気もないのだから、怒らない方が正常なのだ。
シアだけが来ると思って楽しみにしていたのだが、こちらにも邪魔者は二匹いるのだから、この際三人増えたところで大差ないだろう。
マシェルはリビングに着くと、きょろきょろと周囲を見回した。
「思ったよりも可愛い部屋だね」
ディオルは無言でエリキサを指し示す。彼女はにこりと笑い、マシェルを動揺させた。それを見て、嫉妬心の強いアシュターが彼女を抱きしめる。
「それに、思ったよりはフツーの人がいてよかった」
「??」
きょとんとするアシュターに、エリキサは囁いた。
貴方のことだと。
「っ……わ、私はこいつの作品ではないぞ!」
「違うんですか?」
「違うのですか?」
マシェルはともかく、シアまでに疑問を持たれ、アシュターは落ち込んだ。
エルマが思わずといった様子で笑みを漏らす。
「あのさぁ、お前は自覚ないかもしれないけどね、僕の手が入った時点でもう僕の作品だってこと、自覚しなよ。その下半身を作ったのは実際に僕なんだし」
そう、実際にその過程を見ていたし、エリキサも彼に知識を貸した。応用して……いや、ほとんどを自力で行ったのは彼。彼が天才であることには違いない。ただ、思いやりなどの人間味が欠けている。
「でも、私も驚きました。ディオル様が上半身だけとはいえ人間に見えるものを作るなんて」
エルマの言葉にアシュターは実験室の試験体を思い出し顔を引きつらせた。
あれと比べられるのは、彼にとっては屈辱であると共に恐怖であろう。
「私も思いましたわ。いつもは前衛的な作品ばかりですのに」
あれを前衛的と表現するシアの優しさは、ディオルにも見習わせたい。それが例え、ただの皮肉であったとしても。
「……私は、ああならなかっただけ幸せなのだろうか」
「アシュター様、そんなに気にすることはありませんよ。私はアシュター様がどのような姿になっても、アシュター様一筋です」
「エリー」
ほんの少し寂しがり屋のアシュターは、エリキサにすりすりと擦り寄った。大胆なそれに、マシェルとエルマは目のやり場に困りおろおろとする。
「ディ、ディオル君はそんなにすごいものばかり作ってるの? ちょっと見てみたいなぁ」
困った挙句だろう。素人のマシェルはとんでもない事を言った。ディオルの研究成果を見たいなど。
「見たいの? 見る? 掃除したばかりだから、けっこうすっきりしてるからいいよ」
「え……いいの!?」
見せてもらえるとは思わなかったのだろう。普通、魔道師は自分の研究を他人に見せることはない。しかも研究が研究である。普通は見せない。しかしディオルは普通ではない。キメラに対する彼の愛は、普通ではない。
「シアさんにも新作を見せようと思ったんだぁ。呪いを掛けまくっても、それを徐々に無効化していくのができたんだ」
彼は嬉しそうにキメラについて語り出した。そして、せっかく来た道を戻って行った。
シアはくすくすと笑いながら後に続き、エルマは肩をすくめてマシェルの手を引いて歩き出す。
「…………いいのか、本当に」
「いいのではないですか。ショックを受けそうなのは、国王陛下だけですから」
「それが問題だと思うのだが……まあいいか」
犠牲者が男性という事で、アシュターの中の罪悪感がずいぶんと軽減したらしい。
ディオルといえば、コレクションを見せびらかすチャンスを得て生き生きとしていた。このような無邪気な姿を見ると、年相応の男の子なのだなと実感する。ただし、浮かれる原因については間違いでしかない。
あの正気とは思えない実験を、人に見せられる神経自体が間違いでしかないのだから仕方がないことかもしれない。
立ち並ぶ培養ポッドの中にそれはいた。
目があった。
目があった、目が合った。そう、目が……目玉があった
「目玉お化け!?」
淡い緑色の液体の中で、その羽根のある目玉は元気に泳いでいた。
「ふん。これだから凡人は……。この目は偵察用に作ったものだよ」
「こわっ……こんなのに偵察されたらコワっ」
「まあ、確かに多少グロテクスかもしれないね。見つかれば誰がどう見ても怪しいのは認めよう」
これを多少と言ってしまう彼の神経が信じられなかった。
その横にいるのは、蛇のような、人間のような奇妙な生物だった。アシュターに近いのだが、全身に鱗が生えているところが決定的に違った。
「これは?」
「失敗作だよ」
『失敗作言うな!』
叫んだのは、中の生物だった。
「ああん? 失敗したのは君が暴れたのと体力がなかったせいだろ? 公開処刑される予定だった君をこうして生かして養っている寛大な僕に感謝とかしないわけ?」
ディオルはげしげしとポッドを蹴った。その振動に中の彼が怯え、ひぃと震え上がる。
『ぼっちゃん、今日はえらい美人をお連れですね。もしやぼっちゃんのこれっすか? よっ、色男!』
彼はディオルを持ち上げ始めた。
ふと、彼は自分の作ったデュークの猫にも怯えられていることを思い出した。それからわかるように、作品に対しての『愛情』はないようだった。
「あんまりうるさいと、今度舌切り落とすよ?」
その言葉に、その秘密の部屋は一瞬にして静かになった。他にも多少何かを囁いていた者もいたのだが、今は完全に無音になった。
教育が行き届いている。
「ディオル様。そんなに脅してはかわいそうです。シア様の前ですよ」
「シアさんの前だからこそだよ。シアさんのような清らかな人には、こいつらみたいなゲスは……」
作品に対して悪口を並べる彼を横目に、マシェルは研究室内を探索した。
ほとんどはあの情けない蛇男よりもさらに醜いのだが、時にはとても可愛いものもいた。角のあるウサギ。首の二つある可愛い犬。ぷくぷくとしたカエル。翼猫のロロも可愛いが、彼らもまた可愛らしい。
「この犬可愛いなぁ」
マシェルは犬の元に駆け寄った。犬の頭の一つは目を開けると威嚇するように牙をむいた。しかしもう一つの頭は期待に満ちた目を向けた。
「マシェル様は犬がお好きですものね」
後をついてきたエルマが言った。彼女は動物なら何でも好きな女の子だ。可愛い、しかし人工的なそれらを見て少し心を痛めているようだった。
「ああ。大きな犬が欲しいんだ。雑種でいいんだ。血統なんてどうでもいいから、子犬から育てて、毎日自分で散歩させたいなぁ」
「もう少し落ち着いたら、子犬を探しに行きましょうか?」
「そうだなぁ。里親募集している人からもらおうか」
マシェルは壁にもたれかかり、その部屋を一望する。
ディオルのしていることは決してほめられたことではない。それでもあの彼が嬉々としてシアに説明する様子を見ていると、容認せざるを得ない。これを糾弾すれば、あの少し感覚のずれた少年がもっと別のまずいものにのめり込む可能性もあるのだ。
そんなことを考えると、自分は汚い大人になってしまったのだと自嘲的になった。
マシェルはふっと笑い、なんとなくそばにあった奇妙な燭台をいじった。ディオルのキメラのような、見たこともない魔物の形をしている飾りが付いているのだ。
がこっ
マシェルがいじっていると、突然奇妙に音がした。
「に……にぃちゃん……今何した?」
「何って……うおわぁ!?」
マシェルがただ触っただけだと言おうとした瞬間、かれの背後の壁が動いた。あわてて離れると、マシェル達の目の前で、その壁は動いていた。
「…………隠し部屋?」
エルマがマシェルに隠れながらつぶやく。
「ディオル君って、発想がデュークと一緒なんだよなぁ」
デュークの場合、昔のシアを懐かしむ部屋であった。ディオルの場合は…………。
「あああああっ!」
ディオルがこちらに気づいて叫んだ。
マシェルは我が目を疑った。
そこにもキメラの入っている培養ポッドがあった。中にいるのは、完全に人の姿をしたものだった。
金色の髪は液体の中を舞い、緑の液体は彼女を不健康的に見せていた。
ただ、その美しさはどのような状況下にあっても完璧である。
それは、まさしくシア達であった。
「お、お前! なに人の部屋に勝手に入ってる!?」
「まだ入ってませぇん」
エルマはそれから目を離さずに言う。離せるはずもない。なにせシアが並んでいるのだから。もちろん、服は着ている。
「でもディオル君……いくらシアさんが好きだからって、こういう人形遊びは……」
「失礼な! 誰がそんなもので遊ぶかっ! シアさんはシアさんだからこそ魅力的なのであって、中身のないそいつらは、ただの実験用だ。もちろん、シアさんの身体には違いないから、エリーに服を着させているんだ! だから絶対に見ていないよ!」
彼は最後に必死にシアに訴えながら、ぜいぜいと息を荒げた。必死な彼の姿を見ると、確かに下心で人形遊びをする手のタイプには見えない。
「実験って……何の?」
「それは……」
マシェルはある一点を見つめた。
寝台があった。シアの一人が横たわっていた。何か苦しんでいるようにも見えたが、声はない。
「何あれ……」
マシェルが近寄ってみると、シアの身体の大半は黒い影に覆われていた。手かせをつけられ、動けずただ苦しんでいる。
「何……これ」
「触るな」
「ディオル君、君は一体何をしているんだ!?」
マシェルはたまらず苦しむシアに触れた。シアでないとわかっていても、彼女が苦しんでいるようで心痛い。
「どうしてこんなことを……シアさんじゃないからって、どうして」
声はない。声が出ないようにされているのかも知れない。苦しげにもがき、黒く染まった肌が痛々しい。
黒い腕をそっと撫でる。すると彼女は鳴くように大きく口を開き、眠りに落ちた。
「ちょっ……」
ディオルが近寄り、横たわるシアの腕を見た」
「何もしていないのに浸食が止まった……」
「ええ!?」
シアが驚き彼女うり二つのそれに触れる。
「むしろ、浸食部分が薄くなっている」
「なぜ?」
二人はマシェルを見た。
「今、何をした」
「し、知らないよっ! 触っただけで……別に下心なんてないよ」
二人に真剣に見つめられ、マシェルの声はどんどんと小さくなっていく。
「もう一度触れてみて」
ディオルに言われ、マシェルは彼女の手に触れる。
「違う、中心部。ここ」
指さされたのは、ちょうど胸の真ん中だった。乳房ではないが、触れるのはためらわれる場所だ。しかしディオルとシアが言うのだから、逆らうわけにもいかない。立場的には逆らってもいいはずなのだが、二人に逆らう事は恐ろしくてできない。だから気の小さい男だと言われるのだろうが、この二人を前にすれば誰だってそうだろう。
「……じゃあ、失礼します」
恐る恐る指先で触れた。ディオルがややむっとした貌をしたのがほんの少し恐かった。
「ダメだね。さっきみたいに触って」
先ほどのように……手のひらで撫でるように。
びくびくしながらも促されるままに手のひらで触れる。
その拍子にエリキサが顔を出した。
「あ、浸食率さがってます。魔力は散っていません」
「どれぐらいさがった?」
「微々たる物ですからご主人様の空間操作より効率が悪いですが、ラーハ様の呪いの痕跡を消すのですから、そうとうの力ですよ」
突然『太陽神』の名が出て、マシェルは戸惑った。
太陽神はこの国の守護神だ。マシェルのいた孤児院も、太陽神殿直属のものであった。
それの呪いなど穏やかでない言葉が、なぜエリキサの口ら出るのだろう。
「ってことは、こいつは聖人の一種か」
「そのようですね。あの血筋で魔力がないのはおかしいと思っていたのですが、どうやら特殊能力型でいらっしゃるようです」
「好都合!」
戸惑うマシェルをよそに、ディオルは盛り上がり、エリキサに何かを持ってくるように指示した。
「王よ」
「は、はい」
「髪を一束」
「うえぇ!?」
「シアさんのためだ」
ディオルはマシェルの頭に手を伸ばし、髪を引っ張りかがませ、潜ませていたナイフで髪を切られた。
「あの……バランスとか……」
「気にするな。その顔じゃうさして差はないよ」
髪型は容姿の問題ではない。変な風に切られていないか、帰ったらデュークに笑われるのではないか。マシェルはそのことが心配でならなかった。
「あとで切ってあげますね」
エルマに言われ、マシェルは頷いた。そうしてくれると助かる。
悲しむ彼の元に、何かを持ってエリキサが近寄ってきた。
「腕を出してくださーい」
「え」
疑問には思うものの、女性相手なので逆らう事もできない。腕を出すと袖をまくりあげられた。そしてしめった脱脂綿で拭かれ、
「ちょ……」
「暴れると針が折れまーす」
と忠告すると、ぷすりと注射器の針が突き立てられる。
「いっ」
血がどんどん採られていく。
「……あの」
「はい」
「これは何のために?」
「マシェル様のそっくりさんを作るんですぅ」
「そ、そっくりさん?」
「クローンです。あのシアさんも、シアさんの遺伝的な呪いをすべて引きついでいます」
「遺伝的呪い?」
「ですからご主人様の手にかかれば、マシェル様の特殊な力も復元できるんです」
意味がわからない。マシェルに魔道の知識は爪の先ほどの知識しかないのだ。デュークのそばにいると、彼が馬鹿にするように教えてくれるのだが、教わりたいわけでもない。
「…………ええと、簡単に説明してください」
エリキサは困ったようにディオルを見た。
「まあ、見られた以上秘密にしておくのもあれだしね。ウィスがシアさんは美人だとか言わない限り、ほっとかれるだろうし」
「容姿の方が問題なのか?」
「当たり前だろ。あのじーさんは美少女の一言で世界のはてからでも飛んでくる。そうなったらシアさんが危ないだろう」
「実の父の事ながら、否定できない自分が情けない」
ディオルの祖父。風神とやらが女好きというのは有名な話だが、どうやら真実のようだ。
「で、あれは何だ。隠そうともしないという事は、重大な事ではないという事か」
「いや、シアさんにお前をつけているという事は、知られているということだから。
簡単に言うとシアさんの先祖、マシェルの先祖でもあるんだけどね。ちょっと神様を殺して、その上司だった太陽神がその神殺しに関わる者を殺せなかったから、遠くから呪ってみたらしい」
彼が言うととてもせこい事のように聞こえるのだが──
「神殺し?」
「そう。昔の白の賢者で、吸魔の力を持った月神を殺した男だよ」
「なんか前に聞いた事が」
デュークとシアの口から。
「でも、その人殺されたんだよね? 風神の息子に」
なんだか複雑な感じだ。つまりはシアとウィスのようなものなのだ。ただ、殺し合う理由はまだない。
「呪われたのは、連れていた女もだ。本当ならその女は関係なかったんだけど、偶然ね。吸魔の力は遺伝しにくいにしても、やはり同じ家系から出る事が多い。腹の中の子が父親と同じ能力者だったから、呪いは偶然受け継がれて今に至る。太陽神の呪いは七代先どころじゃないほどしつこい」
「それって……子供にまで? ひどい人だね」
シアが監視されているのを思えば、それぐらいするのも理解できるのだが。
「ひどいヤツでなければ、この国の混乱もなければ、エリーもアシュターもここにはいないだろうな。無責任な引きこもり神が、自分の気まぐれで人を不幸にするんだ」
ディオルは言った瞬間、親指を床に向けた。
ぼーっしていたら、二本目の血液採取されてしまった。
「…………」
「あの人形と同じものがシアさんの胸にある。体内の魔力に応じて広がる。今は僕が元に戻してはいるものの、苦しみの除去にすぎないから、せいぜい魔力を使っても苦しくなりにくくなる程度だから根本的な解決にはならない。かといって、シアさんは魔力抜きしなければ死ぬ。
でもこの呪いの嫌な本質は、一度に大量の魔力を放出できなくすることにある。
常に魔力を発散していても、追いつかなくて死ぬことになる。魔力を使うのは体力も同時に使うからね」
「ええ!?」
マシェルは驚いてシアを見た。彼女は頬に手を当てにこりと笑う。一見品の良さそうな、実はかなり乱暴なこの女性が、そんな悩みを抱えていたとは。
「でも遺伝的って? シアさんのお母さんの方? それともその魔道師は王族だったの?」
「女の方がね。だからその子も王族だった。
吸魔の人間を殺すのは簡単だ。魔力を発散しにくくさせればいい。それで魔力にあてられて死ぬんだ。呪いは基本的に、魔力の発散の制限のみ。ついでに、魔力に応じて広がる黒い影。これが広がると余計に苦しみ出すから、呪いの本体だと思う。シアさんの身体にあんなものがあるなんて、許し難いしね」
ディオルは床を見て独り言のように言う。
シアは相変わらず笑っている。エルマはマシェルの手を取り、不安げに見上げてきた。
「……エルマは知ってた?」
「ううん。魔力の放出の制限とかは聞いていたけど、そんな理由でのことだとは知らなかった。倒れたのも、賢者だからだと思ってた」
慕っているシアに、彼女ですら知らない秘密があったのだ。ショックなのだろう。
「エルマ」
頭を撫でると、彼女はマシェルを見上げて頬をふくらませた。
「いい子だね」
「んもう。子供扱いしないでください。私はもう社会人です」
「そうだね。エルマは僕よりもしっかりしているし。
そろそろ、ここを出ようか。あまり見ていたくないし」
「うん」
あまり見せたくもない。シアと同じ姿の女性が苦しむ様を。かといって、ひどいからやめろとも言えないのだから。
家──城に帰るとマシェルはシアとエルマと共に談話室に向かった。今の時間なら、デュークはあそこにいるだろう。
なんとなく、怒っていたのがばからしくなった。兄弟で争っていても仕方がないだろう。助け合う事は素晴らしい事だ。
そう思いながらドアを開く。
その瞬間、信じられないものを目にした。
デュークがラァサをソファの上に押し倒していた。見事に押し倒していた。キスまでしていた。押し倒してキスをしていた。他にも手は……
「エルマ、見てはいけませんわ」
シアがさっとエルマに目隠しする。エルマはマシェルの服を掴んだ。
「し、シア!?」
「お兄様のふけつ」
「違う! これは事故だ!」
「何が事故なものですか! もうお兄様の馬鹿! 知らない! ラァス様に言いつけてやる!」
マシェルの中で芽生えた感情は打ち砕かれ、同時に暗い感情に支配される。
可愛い彼女のいる男になど、二度と同情してやるものかと。
「エルマ、行こうか。ちっょと街にデートに行こうか。同じ建物内にいるのも嫌だし」
「…………と、特別ですよ」
いつもなら止めるのだが、顔を赤らめた彼女は従順についてくる。
先ほどの光景を見てしまったらしい。
やはりエルマには、少々過激だったようだ。
「あったかいもの食べようか」
「はい」
彼女はうつむいたまま頷く。その仕草は、年相応で可愛かった。