1話 大地の愛でし子

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 急いでいたわけではない。だが、早く雑踏から抜け出たかった。人の中に紛れるのに嫌気がさした。
 堅く古びた石畳を蹴り、露店で呼び止める知り合いの声も無視して、ラァスは走った。
 行き交う人をかき分け、すり抜け、歴史ばかりはある街を駆け抜ける。
 この程度、造作もない。人に覚られないように、静かに、避けて走るのは彼の特技であった。そのはずだ。
「きゃっ」
 突然、目の前で人が倒れた。
「うわっ」
 バランスを崩したラァスは、声を上げて倒れた。
 ぶつかった相手は声からして女性だろう。突っかかって転んで下敷きにしてしまっているので確認できないが、それだけは間違いない。
「っすみませんっ」
 ラァスは慌てて踏んでしまった女性の上から飛び退いた。長くて真っ直ぐな黒い髪に、同じ色をした上等のドレスを身につけている。
 打ったらしい顔を押さえているので顔は分からない。ぱっと見たところ、ずいぶんとスタイルの良い女性だ。適度に筋肉がつき、無駄な脂肪もない。ほどよく鍛えられた身体をしている。この筋肉の付き方は何か武術の心得があるのだろう。最近は身分の高い女性は痩身のために武術を習うらしい。
「あの、大丈夫ですか?」
「はい」
 女性は顔を上げる。
 おそらくは、美人なのだろう。細い顎にすっとした鼻筋。赤い唇はたまらなく色っぽい。ただ、その瞳は黒い布で隠されていた。顔を隠すための仮面のようだが、視界確保のためにある穴はない。
 これでは、目が見えていると仮定するなら、まったく見えないだろう。目を覆い隠しているなら、彼女は目が不自由な可能性が高い。だからこそ変な気配もなく、ラァスは気付かずぶつかってしまったのだ。もしも目が見えていたなら、相手の反応で避けることが出来ただろう。
「すみません。つまずいてしまいました」
 彼女は少し低めの淡々とした口調で謝罪の言葉を述べた。
「いや……こっちこそ走ってて。大丈夫ですか?」
 幸いにも、怪我があるとか、鼻が曲がっているとかそういうことはないようだ。もしも傷でも付いていたら、大変なことになっていた。彼女は見たところかなり裕福か、裕福な男性と付き合いがあるように見える。
「おい、ヴェノム! 何やってるんだ?」
 少し離れたところから、こちらに向かって少年が声をかけた。
 一瞬、目の錯覚かと我が目を疑う。
 光を受けて輝く銀の髪に、秋の空色の瞳。噂に聞く精霊とやらのような、信じ難いほどの美貌の少年だった。
 年の頃は十代後半。背はすらりとして高い。ややきつめの印象はあるが、美形揃いのエルフでも、あれほど美しい者はなかなかいないだろう。
「ハウル?」
 黒髪の女性は振り返ることもせずに、少年が近寄ってくるのを待った。そして当然のように前に手を差し出した。
「まったく。何やってるんだ? 何も見えないくせに」
「すみません」
「少しぐらい大人しくしてろよ。子供じゃないんだぞ」
 美少年は美少年らしからぬきつい調子で言い、ヴェノムと呼んだ女性の手を取って立たせた。優雅さを感じられない動作だが、彼の持つ華やかな容姿のせいで、乱暴なその光景が光り輝いてすら見えた。いや、錯覚ではない。彼の銀髪の髪が、光を乱反射させて虹色に輝いているのだ。なんて目立つ少年だろうと、ラァスはする。
「ぼうやは大丈夫ですか?」
「あ、はい」
 ラァスは我に返り、女性の方へと意識を戻した。
 まじまじと見ると、彼女は少年のインパクトに劣らぬほど妖艶であると感じた。目が隠れていると、なぜこうも妖しげな色気が漂うのだろうか。もちろん、ヴェノムというこの女性が、冷ややかな感じのする淡々とした物のいい方であるのも原因だが、それでも妙に艶があるのだ。目元が見えないので何とも言えないが、飾らずにこういう妖しい雰囲気を出せる美女というのはとても少ない。
「すみませんでした。それでは、私どもは急ぎますので」
 今度こそ迷子にさせないためか、ハウルはヴェノムを軽々と抱きかかえ、雑踏の中に消えた。
 何のことはない、ただそれだけの出来事だった。
 だが、印象的な二人のことは、脳裏に焼き付いた。
 仮面の美女と、輝くような美少年。
 ──妙なカップルだな。
 ラァスはそれだけを今は思い、再び雑踏の中を走り出す。
 今度は気を付けて、人にぶつからぬように。

 ヴェノムは女性にしては長身の部類だが、いざ抱き上げてみるとかなり軽い。ハウルの力が強いからだと彼女は言うが、それにしても軽いのだ。
 女性特有の柔らかさもあり、彼女を抱き上げることについてはなんの苦もない。
 ただこの姿はというのは、他人に物珍しげに見られるのが難点だ。ヴェノムが少女であればもっとしっくりくるのだろうが、彼女はどう見ても成人女性で、ハウルは未成年の少年である。
 車椅子を押すには、この程度の舗装では乗り心地が悪いし、いつ車輪が外れるとも知れないので使えない。無骨な石畳ではなくもっと綺麗で細かい石を使えばいいのだが、それには費用がかかりすぎるのだろう。この国の景観は古く、いい意味では歴史があり、悪い意味では整備が行き届いていない。この国は軍事の方に金をつぎ込んで、街の整備は馬車が走れる程度で十分だと思われているのだ。 馬車ほどの重量があれば通りやすいだろうが、軽い車いすはとにかく押しにくい。
「ヴェノム、腹すかないか?」
「いいえ。食事は依頼人のお宅で取らせていただきましょう」
 ヴェノムはハウルの腕に乗り、肩に手をかけてバランスを取っている。
 一見美人なもので、下手に歩かせると変な男に連れていかれかねない。もちろん、一見ではなく、かつては本当に一国すら揺るがせた絶世の美人だ。
 それが過去の栄光とはいえ、危険である。相手の男は、まず殺されるだろう。もちろんそれを止める気など起こりもしない。女を無理矢理どうこうしようなどという男は、引き回し、八つ裂きの刑にされればいいのだ。しかしそれをヴェノムにさせるのは気が引ける。
 ハウルはしっかりとヴェノムを抱き直す。
「ハウルは心配性ですね」
「こけて人に迷惑かけた奴が言うか? すっげぇ可愛い女の子だったぞ」
「男の子でしたよ」
「顔を見てないくせに。金髪と金目の可愛い女の子だった」
「あの年頃の少年は華奢ですから、女の子にも見えるのでしょう。ですが確かに男の子でした。私が間違えると思いますか?」
 彼女は淡々と耳元で語る。
 この声だけで、子供は泣くだろう、それほど冷たい声音。彼女は美人だが、暖かみも癒しもなく、氷の女王と言われるほど感情を表さない氷の面を被っている。大人であっても彼女の迫力に飲まれ、押し黙るものだ。
 露店のある下町からは離れ、高級住宅街へとやって来た。その中でも最も目立つ一角。
 ハウルは足を止めその屋敷を見上げた。
「ここか?」
「さあ」
 何も見えていない相手に聞いても無駄か。
 住所からしても間違いないはずだが、なにぶん初めてくる都市であり、自信などは溢れ出ない。
 ハウルは門の中を覗き、庭師が忙しそうに植木を手入れしているのを発見した。まだ寒いものの、春も近くなり、可憐な花が咲く時期だ。
「すみません」
「はい?」
「ここはハインツァーさんのお宅ですか?」
「ああ、そうですよ。お宅様は?」
「ご主人に雇われた者です。深淵の魔女が来た。そう伝えていただけば、ご理解いただけると思います」
 ハウルは低めの声でそう伝えた。この職業では、相手になめられたら終わりだ。
 弟子とはいえお気楽な馬鹿では、信頼度が落ちるのは当然のことである。
 魔女とは、イメージが大切である。
「……ああ。はい。しばらくおまちくだせぇませ」
 言って、男は一度屋敷に入り、しばらくすると慌てた様子でこちらに走り、門を開けると二人を中へと通した。
 その屋敷の内装は、まったくもって悪趣味だった。
 場違いな置物や、絵画。色の組み合わせなど考えていないような壺。何より、統一性など皆無の、てんでバラバラな文化の美術品が所狭しと飾られているのだ。これではせっかく美しい美術品が泣いている。
 自分の財力を誇示したいのだろう。雇い主は遠い地まで聞こえる有名な商家で、一等地でこれほどの豪邸を建て、これだけの物を揃えられるほどの財力を人々に見せつけたいのだ。が、なぜこんな悪趣味なのか、理解できない。成金というわけでもないのだが、やはり当主の趣味が悪いのか。
 口の悪いヴェノムがこれを見ることが出来たならば、悪趣味、と迷わず口に出していただろう。
 初めての場所なので、ハウルはヴェノムを抱いたまま、玄関で庭師に替わった執事に案内された。部屋には、慌てて走っていったメイドから聞いてこれまた慌ててやって来たのであろう主人がいた。
 やや息を切らしているものの、悪趣味な屋敷を持っている割には、すらりとした体格の中年男性だった。
 貴族のような立派な口ひげが印象的だった。着ている物も流行の品のいいものである。ファッションセンスの方は存在するらしい。ただ、どれも高価な物ばかりで、金のかけ方が成金というイメージを強くしている。
「ミスタ・ハインツァーですね?」
「はい。よくいらして下さいました。ヴェノム殿」
 ハインツァーはにっこりと笑みを浮かべる。ヴェノムに見えるわけでもないのに。それでもご機嫌を伺うのは、ハウルを警戒してのことだろう。
 深淵の魔女ヴェノムといえば、魔道師の中でも最も畏れられ、力ある者。だからこそ、彼は依頼し、機嫌を損ねぬように細心の注意を払うのだ。
「ご依頼の内容は身辺警護でよろしいでしょうか?」
「はい」
「改めて、詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです」
 ヴェノムは微笑むこともなく、ただハウルに降ろせと顎で催促するだけだった。
 魔女に、愛想など必要ない。必要なのは、ただ揺るぐ事なき恐怖による威厳と、実力と、口の堅さ。
 それだけあれば他に必要な物はない。それが魔女だ。


 心は焦るばかりだ。
 意味もなく動きたくなり、その衝動を抑えるのに苦労した。むやみに走るのは、危険だと実感したため早歩きで前へと進む。しかも今は仕事中である。
 無意味に微笑みを浮かべる。何も知らないとばかりの見せかけの無邪気さで。甘い香りで虫を誘い、捕食する花の如く、何も知らぬただ綺麗なだけの汚れない少年を装って、夫人に微笑む。
 ──ああ、いらいらする。
 皆は反抗期だというが、なぜこんな生活に耐えられるのかが、彼には理解できない。もちろん皆、好きでやっているわけではない。抜けるに抜けられない、理由がある。
 確かにこの仕事をしていれば飢えることはない。仕事をちゃんとこなせば、豪華と言っていい食事を与えられる。欲しい物も簡単に手に入る。
 昔は飢えて、やせ細って。餓死寸前まで水すら与えられなかったこともある。
 実の親にだ。
 父親は、記憶の中では酒浸りだった。気まぐれに人を折檻しては、酒を飲む。姉は娼館に売られ、生きているか死んでいるかも分からない。まあ、娼婦など、長生きできる職業ではない。死んでいたとしても、何とも思わないほどの薄い繋がりとなった姉だった。自分も売られた身なので、他人のことなど気にしているほどの余裕もなく、姉のことなどほとんどの時ころりと忘れてしまっている。
 ラァスは売られた当時、目も当てられないほどやせ細っていたので、ろくな買い手もつかなかった。同じほど痩せていた姉は、女だというだけでラァスよりもほんの少しだけ高く売られたらしい。
 もしも当時から、この金色の瞳であれば、話しは違っていただろう。しかし当時は色素はかなり薄かったが、金色ではなく茶と呼ぶべき色をしていた。この瞳は成長して色が変化したのだ。これは強い地に属する魔力を持っている証で、最近では隠すことに苦労している。
 今ではこれほど優れた容姿と力を持つ彼だが、売られた当時はやせ細った何の取り柄もない子供だった。そんな小さな男の子が売られる先は、限られてくる。
 今いる『この世界』ならば、幼い子供であればある程度の値で売れるから、ここに売られたのだ。どんな扱いを受けるかなど、きっと関心がなかった。
 売られた代金は、おそらく酒の代金に変わったのだろう。人の値段としては、二束三文だ。酒代のために売られて、彼はこのような苦しみを与えられている。
 あの生活に比べれば、今の生活は天国のようにも思えるかもしれない。実の親に殴られ、しまいには売られた悲しみに満ちた当時と比べれば、本当に天と地ほどの差がある。
 ただ、心を殺せばの話。
 自分の手を引き、どこかへ向かうこの婦人は、このことについて罪悪感はないのだろうか?
 この婦人は夫を裏切り、見目のいい少年を金で買うつもりなのだ。
 彼女は金貨をちらつかせてくれたので、ラァスはそれにつられた振りをして、無邪気を装い女についていく。彼女の名は知らない。知る必要もない。
 やがて小さいながらも屋敷に辿り着く。こんなものを内緒で買って、この婦人は自分好みの美少年を招いている。
 ラァスはくつりと笑う。
「ねえ、なにをするの?」
 相手を喜ばせるために首を傾げて聞いてみる。実際ラァスは十三なのだが、歳よりも幼く見えるようにしてきた。こうすると、この手の女はとても喜ぶ。
 気色悪い。
「いいことよ。お姉さんと遊んでくれたら、お金もあげるし、美味しい物を食べさせてあげるわ。とっても楽しいことだから、怖がらなくていいのよ」
 痩けたように見せる化粧をした頬を撫でられた。女の手に化粧が移ることはなく、撫でられても気づかれない。もしも移っても、汚れだと思うだろう。
 化粧の下のラァスの肌は、毎日値の張る美容液をつけている。若さと努力。それにより、彼はより美しく見せている。大人はそれを好み、ラァスに騙される。
 手を引かれ、早々ベッドのある部屋に連れられ、まだ日も沈み切らぬ時間だというのに、彼女は強引に彼をベッドに腰をおろさせた。
「さあ、何をして遊びましょうか?」
 再び頬を撫でられる。安心させるように微笑みを浮かべ、彼女はラァスの頭部を撫でる。
 彼女はきっと、まだ子供はいないのだろう。
「他の人は?」
「大丈夫。誰もいないわ」
「そう………」
 女はラァスの顔をまじまじと眺め、ほうと息をつく。
「…………君は、本当に綺麗ね」
 頬を両手で挟まれた。
 キスでもするつもりなのだろう。
「汚れているわね。いっしょにお風呂に入りましょうか?」
 風呂があるとは好都合だ。しかしラァスは脅えた振りをして首を横に振る。
「怖がらないで。よぉく洗ったら、さっぱりしてきっと気持ちがいいわ」
 彼女は服を脱ぎながら言う。十分、綺麗な人だ。ラァスは上半身裸になると、服が汚れない場所に置く。
「ああ、そうだね。脅えられても楽しいとは思わないし」
 ラァスは、女の手をつかむ。
 彼女の両手を片手で封じてから、ズボンのポケットに手を入れた。
「っ!?」
「恨まないでね。お互い様なんだから」
 ラァスは、女の喉を鷲掴みにし、そのまま背後にあるベッドに押し倒す。
「な………にを」
「抵抗すると苦しいよ。どうせ助けもこなんだし。
 恨むならオバさんの旦那さんを恨んでね」
 ラァスはナイフで女の首を切る。シーツである程度返り血は防いだ。上半身に多少かかったが、風呂があるらしいので簡単にでも洗えばいい。
 死んだかどうかは分からないが、すでに声をあげることもできない女を見て、溜め息をつく。
 女の人に夫を殺してくれと言うのはよくあるが、その逆は実は珍しいことだった。普通、男の方に財力があり、女は捨てられるだけだ。そのためいつもは女の子の格好をして、スケベな中年オヤジを人気のない場所に誘い込み強盗に見せかけて殺している。
 ギルドの方も、ろくな仕事をよこさない。愛らしい見目を利用できる仕事を斡旋しているのだが、いつも同じような世間の闇を見せられては気が狂いそうだ。
 最近は、夫婦間の泥沼のもつれ合いばかり見せられる。
 中年女の裸など見ていても楽しくないし、中年男の出っ腹を見るのは不快だ。
 ──そういえば、あの黒い女の人……。
 彼女ほどならば歓迎なのだ。もちろん殺すのではなく、見る対象としてだ。
 年上はあまり好みではないが、やはり美人ならば別である。その中でも彼女は別格だった。
 ラァスは完全に息絶えている女を見て、最後の仕上げに取りかかる。
 ドレスを着せ直してから引き裂き、自然な風に乱れさせる。ついでに金品も拝借する。これでありきたりな死体の出来上がり。
 このようなことをしている男は山ほどいる。注目されるようなこともない。ましてや、暗殺ギルドに殺されたなど、疑う方がどうにかしている。疑った瞬間から、その者は命を狙われる可能性もあるのだから。
 そういう、杜撰な取り調べだからこそ、やりやすい。こんな偽装工作でどうにかなってしまう。
 自嘲気味に笑うと、吐き気がした。
 心はとっくに死んでいる。
 なのに、なぜか時折、無性に自分のしていることに嫌悪感を覚える。
 ──抜けたい。
 そう思うようになってきたのは、最近のことだ。
 皆は笑うが、数えられないほどの命を奪ったこの身で考える。
 ──この人は、殺されなければならないほどの罪があるのかな?
 ただ、寂しかっただけの女。少年達も見返りがあるからこそ、彼女についてきた。何かを得るためには、何かを与える。これは常識だ。
 彼女の財産はすべて夫のものとなり、その上に若く美しい妻を手に入れる。
 愚かである。
 なんと愚かだろう。
 ──なんて、馬鹿なことしてるんだろう?
 後悔しても、命が戻ることはない。
 そんなこと、母が死んだときから知っていた。
 なのに自分は誰かにとっては大切な人かも知れない人の命を奪う。そうやって、人間らしい暖かい物を食べて、服を着て──生活に不自由もなく、貯金の方もかなりのものになるほど……。
 ただ、それを得る方法が人と違うだけ。
 人を殺す。
 ──抜けたい。
 その一言で、服で見えない場所を殴られた。
 逃げ出せば、そこに待つのは死──。
 同僚達が、殺しに来る。逃げることなど叶わない。
 永遠に、このまま。
 人を殺して生きるしかない。
 闇の世界を生きるしかないのだ。

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