13話 白
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ディオルが珍しく研究室から出て、半分死んだような顔を天井に向けて、目を半開きのまま固まっていた。
目につかない場所ではなく、わざわざ人がいる図書室まできて不気味な姿を晒す三つ編み男に、エリアスはいつも以上の不愉快さを感じた。
そんな彼を慰める元人間のキメラも不愉快だった。
「坊ちゃん。失敗なんて気にせず、またやればいいじゃないすか。どうせ失敗する用に買った奴らじゃないすか」
ジークがぎょっとしてゼノンを見て、すぐさま、ひなたぼっこをしていたロロが、すっかり眠ってしまい、話を聞いていない事を確認してほっと胸をなで下ろした。
エリアスはディオルが不気味な物体を作っている事をよく知っているので、失敗していた方が世界は平和だと、彼の失敗は喜ばしい事だと思っている。しかしその失敗のせいで、気味の悪い顔をされるのは気持ちが悪かった。彼の顔立ちは彼の祖母に似ているから、よけいに不気味だ。
「こういうのはあの姐さんの得意分野じゃないすか? 気晴らしに手紙でも書いて、知恵を貸してもらったら…………手紙は無理っすね」
自分の言葉がどれだけ馬鹿げているかゼノンは気づき、悲しげに目をそらした。彼の悪筆はこの屋敷に知らぬ者はいない。
ディオルは化け物が大好きだ。化け物を作っては、戦わせてまた作り戦わせて、残っているのはほとんど非戦闘用という、おかしな事になっている。
その上、やはり化け物が好きなので、非戦闘員も人形の原型がある者などいないため、手先が器用なのはコロムぐらいなのだが、コロムの中身はすっかり子供だ。ペンなど持たせても、手紙を書ききるこらえ性がない。普通の大人でも、理解できない内容を書くなど、嫌になる作業だ。子供のコロムでは飽きて同然だった。だから書くのはディオル自身となって、誰にも解読できない。研究者としては、暗号を使う必要性がないため、理に叶ってはいる。
「あの人宛の手紙は、さすがに代筆を頼むわけにもいないし……あ、いっそのこと、遊びに行くって手紙を書けばいいんすよ。コロムでも書けますよ」
「僕だってそれぐらい」
「解読させる時間を取らせるのはどうかと思いますよ。遊びに行ったら、まだ解読できてなかったとか、諦められたとか、悲しいっすよ」
「分かった分かった」
ディオルはロロの隣で昼寝していたコロムを掴み上げ、ペンを持たせる。
寝ていた彼は、いきなり起こされてむくれた。
「菓子をやるから」
子供なので、コロムはその一言で機嫌を直してしまった。甘味の力は絶大だ。
「何を書くの?」
「遊びに行くと書いて欲しいんだ」
「遊びに行くの? 僕も行く」
ディオルはコロムのおねだりに顔をしかめた。
「じゃあ、俺も行きたいっす」
ゼノンまで出かけたいと言うのは、エリアスから見ても珍しい気がした。
「なんで君まで」
「どうせ撫でられるなら、若くて美人の女の方がいいじゃないすか」
よく撫でるのは、若くて美人ではあるが、男であるジークだ。キーラは生き物に触れるのを嫌がり、ヘルネは強くない生き物に興味がない。
「ああ、ひょっとして、いつぞやの手紙の彼女に会いに行くのか?」
この男の彼女。
ふと、彼がアンセムで一緒にいた女を思い出す。
賢者だという女。
女の知り合いなど、そういはしまい。しかも頼りになる相手なら、間違いない。
アルファロスの連中は、バイブレットを警戒して、彼女の身元が分かるような情報を、エリアスにすら渡さなかったので、仕方なく忘れてやる事にしていたが、個人的に知り合ったのなら、彼らも文句などつけられない。
「エリアス、何か面白い事でもあったのか?」
つい笑ってしまったのをジークに見られ、エリアスは首を横に振る。握っていたペンを揺らし、誤魔化す言葉を考えた。
「いえ、面白いというか、何度考えてもディオルの字はありえないというか、なんで指先は器用なのに、字だけああなのかと」
心の底からの本音を語った。
エリアスも達筆と言うほどではないが、彼の字を見た後だと、過剰なほどに自信がわいてくる。
「そういうものだろう。画家の字が上手いかというと、そうでもなかったりする。ディオルほどひどくはなかったが、緻密な絵を描く男が、いざ字を書き出すと、今まで描いていた芸術性がどこかにいってしまったり。なぜそんなに違うのかと聞いてみたら、自分は筆を選ぶんだと言っていた」
ジークは本のしおりを弄りながらディオルを見て言った。
ディオルはコロムをあめ玉でなだめながら手紙を書かせている。よければ数日泊めてもらうつもりらしい。
「騒がしいので、私は部屋に戻ります」
「ああ。夕飯が近いから寝るなよ」
ジークはそう言いながらも、よく寝ている子猫のロロを眺めていた。
この猫馬鹿はロロを手に入れてから毎日ご機嫌で、以前の感のよさが鈍っている。エリアスにとっては、その方が好都合だ。
店内へのペットの持ち込みはご遠慮下さいと言われたため、ディオルは寒空の下、カフェのテラスに結界を張って待っていた。寒いので温度を上げると、日差しもあってゼノンとコロムが早くも昼寝の体勢に入った。
しばらくすると、フードをかぶった神官服の女が向かってくるのが見えた。
普段の美しい歩き方を崩すことによって人混みにとけ込み、目立たないように歩いている。神官もこの辺りでは珍しくないため、誰も目に留めない。それでも見る者が見れば、それ故に彼女は目立つ。
周囲に対する警戒心が目に見えるように分かる。
大胆な割には、回りを気にするのだ。賢者であるから、何を抱えていても不思議ではない。
「こんにちは、ディオル様」
「こんにちは、シアさん」
シアがディオルの前に座り、フードを取り払う。
現れた美貌を見て、始めて通行人達は彼女を見た。
彼女の美貌は、元々の資質に加え、完璧な左右対称が生み出したものだ。人体の、生命の専門家は、自分を美しくする方法で、自分が何者であるかを語っているようだ。
その上、美女が多いと言われているカーラント風の特徴が、彼女に年齢以上の独特な色を与えていた。
「ディオル様から手紙が来るなんて、驚きました」
「ちょっと詰まっててね。君にも関係なくはないよ。
手に入れたアシュターの身体のことを、本格的にどうにかしたいと思って」
手に入れたはいいが、元の呪いが強すぎて、石化の呪いだけ解いたとしても、何かを聞くだけ無駄だ。苦痛の前に、人は冷静さを保つ事は出来ないし、話をする事も出来ない。
「そこまでなら、いままでもいたことでしょうね」
シアは辛辣とも言える一言を、神官らしい慈愛に満ちた笑顔で吐いて、寄ってきたウエイトレスに注文する。
「アシュターの呪いを誤魔化すのが僕の最終目標だけど、今の僕では知識が足りなすぎる。だから知識の獣が欲しいけど、居場所が分かるのはアシュターぐらいだ」
だから身動きが取れない。
アシュターを殺してしまったら終わりだ。だから、少しでも呪いを誤魔化す方法が必要になる。
「いくつか手を考えて強い呪いを代用して試してみたけど、一か八かの賭にしかならない」
「強い呪い、ですか?」
「緑神は呪われているからね。分けてもらっているんだよ。
でも本物は悪意の分、もっと強いだろうから。そういう意味では、君にかけられた念入りな呪いより厄介かもしれないね」
「嫉妬は怒り。怒りはすべてに勝る強く激しい感情です」
強さという意味では、アシュターの呪いの方が強いはずだ。
ただ、計画的に呪われたので、強さはないが緻密なのがシアの呪い。怒りだけの強い呪いよりも難しい。
「お待たせいたしました」
ウェイトレスがシアのお茶と、ディオルが頼んでおいたケーキを運んできた。
「三つも?」
「一つは君が食べていいよ。」
テーブルの下でゼノンと遊んでいたコロムが出てくる。
「おいしそう。僕ね、いちごのが好きなの」
「分かってるよ」
コロムは椅子に立ち、皿ごとケーキを持って、椅子の上で食べ始めた。
コロムはロロを連れて来たがっていたが、あれはまだ幼いので、下手にシアの事を覚えて口にしてしまうとまずいので、ジークに預けてきた。それはもう、嬉しそうに引き受けてくれた。実に皮肉がきいている。
「ところで、お兄さまはお元気で?」
「元気だよ。子猫で馬鹿になったけど」
「お兄さま、相変わらず……」
猫にかまいっぱなしなので、ヘルネが少し不服そうにしているが、いつもなら気づく彼はそれにすら気づかないほど猫に夢中だった。
「君の兄は変わり者だよ。女でダメになる男は多いけど、猫でダメになる男というのは珍しいね」
シアはさすがに可笑しいような、複雑な表情を浮かべる。
「ジークの妹!?」
ため息をつこうとした瞬間、聞き覚えのある、聞きたくない声が聞こえた気がした。
「ディオル、どういう事ですっ」
「あー、聞こえない、聞こえない」
「耳を塞いで現実逃避をしないで下さい」
見たくない姿が、大きな看板の影から出てきた。
「つけられていたんですか?」
「行き先なんか言ってないよ。どうやって追ってきたのやら」
ヴェノムの私物の魔方陣を使ってこの街まで来た。送り側に塔の魔術師がいないのだから、追う手だてはないはずだ。
「ストーカーか、君は」
「ジークに黙って、ジークの妹と会っている男に言われる筋合いはありません」
「ジークの妹だから会ってるわけじゃないよ。たまたまジークの妹だっただけだ」
エリアスは勝手に席に着き、勝手にディオルのケーキを食べた。
「人の栄養を奪うな。頭も使わないくせに」
「私はあなたが賢者に会いに行きそうだったから、とっておきの魔獣を使っただけです。
ジークの妹が賢者とはどういう事ですかっ」
どういう事。
詳しくは知らない。聞こうとも思わない。下手な事に首を突っ込まない方がいい。
「あら、ご存じないのですか?」
「バイブレットを警戒して、僕には伝えられていません。秘密にしたい気持ちは、貴方の素顔を見て理解しました」
シアはとびきりの微笑みをエリアスに向けた。猫を数十匹はかぶった、神官らしい慈愛の笑みのことだ。
「でしたら、秘密のままの方がよさそうですね」
「僕は、別にバイブレットに貴方の事は漏らしません」
「ふふ……」
シアは笑い、目を細め、薄い唇をわずかに開いてエリアスを見つめた。エリアスはその反応に戸惑い、ケーキを惨殺する手を止める。
それからシアは両肘をテーブルに載せて、両手で頬杖をついた。その結果、シアは上目遣いでエリアスを見る格好となり、彼の心を乱す。
「せっかくの秘密ですもの。簡単に明かしてしまっては、つまらないではありませんか」
こういうところが、イレーネと似ている。イレーネと似ているという事は、裏表があるという意味だ。
ただしイレーネ以上に徹底している。イレーネは悪い女にはなりきれないが、彼女はなりきれる。
「とても素直なジークの妹とは思えませんね」
「お兄さまはまっすぐ健やかに育っていただかなければ困ります。お兄さまは大きな家を継がれるお方だもの。あまり歪めないで下さいね」
一番歪める原因になりそうなのが猫なので、ディオルにはどうにも出来ない。
あとの心配の種は女達だ。とくにラァサはラァスが溺愛している。もしもラァサがジークに好意を持っているなどと知ったら、ジークがどうなるか想像もつかない。
「まあいいです。
弱みは握りましたしね」
「弱み? 君にとっての弱みではあると思うけど」
「なぜ私の弱味になるのです」
「僕はまったく困らない。彼女が秘密にして欲しいって言うからしているんだ。
君がジークに変な事を吹き込んだら、殺されても僕は知らないよ。庇うつもりもないし。君がジークの妹から身を守れると思う? ジーク並みに腕が立つよ」
エリアスは目を伏せ、ふっと息をつく。
「もちろん、わざわざ女性に嫌がらせするような真似はしません。優秀な人間は宝ですからね」
自分の性格が戦闘向きではないのを、彼は自覚している。能力は限りなく戦闘向きではあるが、性格がとにかく向いていない。ディオルも人の事は言えないが、彼ほど両極端ではないからいい。ディオルは能力的にも戦闘向きではない。
「で、知識の獣の話でしたね。私も興味があります」
「やらないよ」
「いりません。私が神を得てどうするのですか」
聖性主義者は神は存在だけしていればいいという団体だ。エリアスが表立って知識の神を手に入れようとしたら、組織の同朋から睨まれるのは間違いない。しかし、知り合いが持っている分にはかまわない。組織の聖人が持っているのでなければいいのだ。だから利害は一致する。ただ、利害は一致しても、エリアスが役に立つかどうかが問題だ。彼は魔獣使いとしては優秀だが、魔獣の知識はシアの方がはるかに上なのだ。
ディオルは考えるのを中断し、エリアスに取られたケーキを注文し直した。考える時は甘い物が一番。昔からそうだ。ヴェノムの作る甘い物を食べて、勉強して、カロンを捕まえて色々と教えてもらい、今がある。
「知識の獣自信には興味有りませんが、叡知には興味があります。協力しますよ」
「君に協力してもらう事なんて無い」
どれだけ考えても、やはりないものはない。
エリアスは震える手を額に当てた。
「君、馬鹿だし、愚図だし、役立たずだし、いらない」
「いつまでも私が大人しくしていると思ったら大間違いですよ」
「だから馬鹿なんだよ。町中で何する気? 犯罪者になりたい? 聖人様が犯罪者なんて、笑えないね」
「くくくっ、自分に何がついているか分かっていないようですね」
「何がついてるか知らないけど、僕に攻撃したら死ぬよ?」
エリアスは黙ってディオルを頭からテーブルに乗せた腕まで見回すと、むすっとしてケーキを食べた。
本当なのかはったりか、彼には判断材料がないからだ。
「可愛い」
シアはケーキを食べるエリアスを見て呟いた。そんな彼女を見て、エリアスは再び口を開く。
「二人はどんな関係なのですか。付き合っているんですか?」
「そんなわけないだろう。身元と体質の事以外知らない人だよ」
美人だし、使えるけど、そんなつもりはない。
シアもおかしそうに笑っている。通行人達は、シアやエリアスのような、華やかな容姿の集まりを見て、目を止め、足を止める。
結界の外は木枯らしが吹き、身を切る寒さであり、足を止める連中の気が知れない、
「聞かれて困る事でもないけど、さすがに人が多いね。食べたら移動しようか」
「では、神殿を使わせていただきましょう」
「僕は人目がなければどこでもいいよ。クッキーでも買っていこうか」
「ディオル様は甘い物がお好きなんですね。可愛い」
彼女の場合、年下は全部可愛い対象だ。好きなだけ可愛いと言えばいい。
道を歩く有象無象の者達に、理解できたり、実行できたりする事ではないので、いくら聞かれても問題ないが、それでも見られているのは遠慮願いたい。さすがに気が散る。
肝心なのは、道だ。
道となるのは月神アシュター。太陽神の女を奪った奪略者。知識の獣の恋人。そう、恋人だ。心から愛し合い、太陽神を憎む二人。太陽神に呪われた恋人達。
シアにとっても、他人事ではないはずだ。
ディオルがどう出来るかによって、彼女も考え方を変えなければならない。
「いくつか方法があるんだよ。
呪いは『言葉』で合った場合、それが大きな力となり、制約ともなる。アシュターの場合、足から腐るという呪いだ。
だから考えられるのは、上半身の石化をとく……足だけ石化させるか、足を無くせばいい。ただ、生かしたまま足だけ石化させるのは、自分には無理だと黒の賢者であるカオスさんに言われたから諦めた。足がある以上、腐敗を止められるとも限らない。
だからボクは下半身を別の生き物とすげ替える方向で行く予定なんだ。
下半身を『足』でなくする。とにかく足をどうにかする方向が、今のところ一番確実だとボクは考えている」
問題は成功するかどうかと、成功した後に苦情が来るところだ。
しかしディオルは気にしない。恋人と会わせてやるだけでも、ありがたく思うべきだ。
「しかし、他人を──人の身とはいえ、中身は神を改造しようなんて発想が生まれるとは」
「その発想の奇抜さがディオル様の魅力ではないでしょうか。自由な発想と、それを現実に出来る能力。人が神を越えられる事があるとすれば、そういった創意工夫と、作り出す力になるでしょう。個人の特殊能力では、限界があります」
聖性主義者が認める聖人は、すべて特殊能力者のことだ。頭の中だけでは認められない。
そのためエリアスは不機嫌を露わにして、古びたテーブルを爪でトントンと打つ。女相手、借りた場所だから本を開いて暴れさせたりはしないはずだ。
「特殊能力者など、神が危険と判断したら、あっさりと封じられてしまいます。しかし思想、知識、発明であるならば、個人に偏る事はなく、潰すのも困難でしょう。
聖性主義の末端がこれに値します」
彼女も特殊な能力者の一人である。しかも危険だから潰された側の。
ディオルはそこでようやく、ここに集まる全員がアルファロスが聖人と指定するだろう能力を持っている事に気付いた。皮肉なものだ。
「まあ、そんなこと、今はどうでもいいよ。
大切なのは、卵が先か、鶏が先か状態の今、どうするかだよ」
アシュターを自由にするには、知識の獣による知識とデータがあると便利で、その知識の獣の居場所は石化しているアシュターのみが知る。
知識の獣は、賢者のように偏らない知識が詰まった辞典のようなものだ。シアは生物に関しては得意としているが、他の領域が混じるととたんに弱くなる。彼女はディオルの研究など、半分ほど理解していればいい方だ。
「キメラの知識は、黄と黒と白。白の部分を聞ける相手を無しに、研究を行っていたけど、今は目の前にいる。風は僕に向いている」
ついている。白の賢者など、千年以上現れていないとディオルは聞いていた。それが目の前にいるのだから、ついている。
「しかし、私に何がお手伝いできるんですか?」
「聞きたい事はいろいろとあるよ。生物の限界とか」
「限界?」
「平均して、どれだけまでなら生きているとか」
「それは実際に行った方がいいでしょう」
「さすがに人間は実験で潰しまくってたら叱られるし。クローンはなんか弱いし。研究施設に来てもらえたらいいんだけど、ジークがいるからなぁ……」
自分だけの研究施設が欲しいとおねだりしているが、両親がまだ早いと言うのだ。
「あとは、これなんだけど」
ディオルはノートを差し出した。するとエリアスが鼻で笑う。
「だから、あなたの字など解読できるはずがないでしょう」
「カロンさんの字だよ」
「他人に字を書いてもらったんですか。珍しく妥協しましたね」
エリアスが驚いて目を大きく開き、ノートをのぞき込む。
すると今まで黙っていたゼノンが、立ち上がり、椅子の上に座った。おそらく、シア側の隣だからだ。
「他の専門家に質問してくるからって、まとめてもらったんすよ。俺がついてて、この人に無茶な要求を他人にさせるはずないでしょう」
直接話だけしても、まとまるはずがないし、手紙だけだと完璧な意思疎通が難しい。だから質問は紙にまとめて、本人に目を通してもらい、それから説明するのが一番だと、ゼノンがそうしろと言うからそうしたのだ。
「綺麗で几帳面な方の字ですね」
「カロンは確かに几帳面ですね。同じ研究者にしても、ディオルと違いしっかりと記録は取るし、整理整頓はするし、本当に大違いです」
「僕だって記録ぐらい取るよ。ちゃんとファイルさせるし」
「させるってのがあなたらしい。その後整理しないでしょう」
「何がどこにあるかは把握してるよ。僕は君と違って頭の容量は大きいんだ。
あのさ、茶々入れて邪魔するなら帰ってくれないかな。僕はシアさんに相談しに来たのに、なんで君ばかりと話してるんだよ」
こんないつものやりとりをするために来たわけではない。
この間にも、シアが資料に目を通してくれているから良いものの、本当ならここで騒ぎたくなどないのだ。
エリアスはむすりとして黙り、ようやく沈黙が訪れた。
騒がしいのは好みではない。
神殿の古く落ち着いた、どこか寒々とした雰囲気がようやく味わえた。こういう古びた雰囲気はいい。いつか、こういう落ち着いた雰囲気で、人里離れた場所にある研究施設が欲しい。人目を気にしないで実験が出来る、人里離れた施設だ。
外の靴音もよく聞こえる。これもいい。
その靴音が部屋の前で止まった。
「何かありましたか」
ノックの前にシアが問うた。
「シア様、事故でけが人です。癒し手が足りません。どうかお助け下さい」
「分かりました」
シアはノートを机において立ち上がる。
「少々お待ち下さい」
「ああ、気にしなくていいよ。人命救助は大切だからね。というか、君も行ったら、エリアス。仮にも聖人様だろ」
彼の唯一まともに人の役に立てる技術と言えば、世間では白魔術と分類される、治療術だけだ。聖人なら聖人らしく、聖人として人助けに行けばいい。
「仕方がありませんね。無力な者に施すのは、富める者の役目です」
エリアスは立ち上がり、シアについていく。
ディオルは一週間ほど戻らないかも知れないと、ヴェノムには伝えてある。
エリアスさえいなければ、この街から移動して、シアの住んでいる神殿に移る予定だった。彼女が住んでいるのはここではない。もう少し田舎の村だ。彼女ほどの神官なら、中央の太陽神殿に勤められそうだが、彼女が賢者である事から、国には知られたくない事だけは分かる。事情は聞かない。聞けば泥沼。そこまで係わるつもりはない。
エリアスを係わらせるつもりはさらにないので、今の内に追い返す説得の言葉を考える事にした。
どうせ彼には興味のない世界だ。シアとも面識が持てたので、そろそろ退屈するだろうから、難しくはない。
「最悪、君たちにはエリアスを追いかえしてもらうから」
「はいはい。分かってますよ」
ゼノンは猫のように丸くなって横になり、コロムはその上で横になる。
今更だが、なぜ猫を作ったのだろうかと首をかしげた。
あの女が、可愛いからと生き物を愛でるのか、よく分からないのに。
過去の自分でありながら、実に不思議な行動だったと腕を組んだ。