1話 逃げた花嫁
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鐘が鳴る。鳩が飛んでいる。
白いドレスに身を包まれ、まあお似合いですわと皆に言われ、ドレスは可愛いが着ているのが自分でなければ可愛いだろうにと思う自分自身がいやだった。
周囲は祝福する。
相手の条件も申し分ない。いや、自分には考えられないほどの相手だ。
それでも自分は望まない。
「お嬢様、しっかりなさいませ」
使用人の言葉に、彼女は反応を返せなかった。
「結婚というものが恐ろしいと思う気持ちはよくよくわかりますわ。相手様が相手様でございますから、緊張や恐れがあって当然でございます」
そんなことを恐れているのではない。
「…………わたくしは、殿方が苦手です」
「しかしお嬢様。相手様はお嬢様も知ったお方。兄上の親友であられるお方。相手様の身分など気にせず、何かあれば私や兄上に言えばよいのですよ。妻ともなれば、対等な存在なのですから」
「そういう意味ではありません。何というか……ばあやには、理解できない事です」
彼女、ヒルトアリスはため息をつく。
この老女は好きだ。品もあり、教養もあり、女性から見ても素晴らしい女性だと言えた。
しかしだからこそ彼女にはわからない。
この気持ち。この否定する心。
「ばあや……一人にして頂けませんか?」
「かしこまりました。一人になって考えるのも良いでしょう」
「その前に、着替えを手伝っては頂けませんか?」
「はいはい、お嬢様。その代わり、これから旦那様に会うのですからそれなりの恰好はして頂きますわ」
ヒルトアリスはその言葉に閉口した。現実は残酷だ。
──ああ、嫌だ。
夫となる方が嫌いなわけではない。気のいい兄の友人なだけあり、優しくそして身分を盾にしない素敵な男性だ。しかし、それだけだ。人としては好きだが、恋愛の対象としてはとんでもない話だった。彼も彼女を女として見た事などなかっただろう。
あの時までは。
ヒルトアリスは、ため息が出るほど手の込んだ贅沢なドレスを用意され、何度ついたのかもわからないため息をつく。
「なんて斬新なデザイン。この刺繍は、どれだけの時間がかかったのでしょうか」
凝ったデザイン性の高いドレスだ。
「今一番人気のデザイナーに特別に作って頂いたものですわ。他にも、まだまだございますが、今日はお嬢様のお嬢様のプロポーションを引き立てるため、こちらのドレスを用意いたしました」
どちらかと言えば、動きやすそうなドレスである事には、感謝した。
ドレスを身につけ一人になると、ヒルトアリスは精神安定剤として使用している宝物を腕に抱き、すぅと息を吸う。
限界だった。
彼には会えない。彼は彼女を見ていない。好きでもない相手、彼女を見ていない相手の妻になるなど、耐え難い。
──ごめんなさい、ばあや。
ヒルトアリスは準備を始めた。カーテンを引きちぎり即席ロープを作ると、窓からの脱出を計る。三階だが、高い場所も安定していれば平気だ。問題ない。
──あの方と結婚だけはいや。
強く思い、彼女は窓から身を投げる。風が吹き、彼女を助けてくれた。なんとなく、誰かがいるような気がして、彼女は礼を言う。昔から、何かが視界の隅にいたような気がする時、何か偶然が起きていた。それが精霊である事を知ったのは、小さな頃。彼女は心から礼を言う習慣を身につけていた。
「きっと、逃げ切れるわ」
何が何でも、逃げなければならない。彼女のためにも、彼のためにも。
貝殻に口をあてると、彼は囁いた。
それは今年の夏に拾った巻き貝。見栄えのとびきりいいものを探し、それを彼の元から去る大切な人に渡した。
これならば、きっと似合うと思い。
「おい」
一言。それだけで、片割れ身につけているだろう彼には通じる。
「何? 今忙しいんだけど」
貝殻から、少年の声が響く。
「いや、俺暇だし」
「ハウルはいいね、のんきな扶養家族続行中で」
「お前は偉いなぁ。うん、エライ」
向こうから大きなため息が聞こえる。きっと、大変な思いをしているのだろう。
「で、何やってるんだ、ラァス」
「…………ファーリアさんとラナさんの特訓を受けてる」
「あいつの趣向か」
「それ以外にあるとでも?」
「がんばれ」
彼はどこに行っても身体を鍛えさせられるらしい。魔法はいいのかとも思うが、それは肌荒れを気にしつつも睡眠時間を削ってやるだろう。
「んで、何?」
「なんかさぁ、最近お前らがいなくなってから、うちのババアとカロンが妙に仲良くてさぁ」
「それは前からでしょ。気が合うんだし、子育ての先生だし」
「ずっと二人きりなんだよ」
「僕がいないから寂しいんでしょ」
「むぅ」
「それとも、僕に引きとれっていうの? サメラちゃんは喜びそうだけど」
「いや、それは困る」
「んじゃどうしろと……」
ハウルは言葉につまり、首をかしげる。姿は見えないが、ラァスはあくびでもしているだろう。
「そんなに師匠といちゃつきたいなら、どっかに誘えばいいんじゃない?」
「誰がいちゃつきたいと言った。あんなババアとだぞ。気色悪い」
「ははは、素直じゃないなぁ」
「お前は変だ」
「ハウルに言われたくないよ。客観的に見ての意見だよ、これが。ねぇ、ファーリアさん、ヴァルナさん」
ラァスの言葉に、好き勝手を言う二人の会話が始まった。
「あのぐらいの男の子は、まだまだ素直になれない時期ですもの。仕方がないですわ」
「ファーリアもそんな時期があったんですか」
「うふふ。ひ・み・つ」
「いやぁ、僕は昔っからラナ一筋だったんで……う……来る」
「あら、ダーナ様の逆鱗に触れる事を言うから。ハウルさん、こういう人もいるのですから、素直になれる時に素直になっておいた方がいいですよ」
ハウルはため息をついた。二人が親しいのはなんとなく知っていたが、本当に親しいらしい。
「…………ハウル。僕そろそろ帰った方がいいみたいだから、切るね」
「ああ……わかった」
ハウルは込めていた魔力を解き放ち、しばらく貝殻を眺めた。
「…………っぅし」
ハウルは立ち上がり、ヴェノムの部屋へと向かう。
二人の言葉は一理ある。
素直になろう。
「ヴェノム!」
部屋に入ると、ヴェノムとカロンが顔を寄せ合い、何かを覗き込んでいた。相手が普通の男ならたたき出して埋めているところだが、カロン相手なら何の問題もない。
「ちょうどいいところに来ましたね、ハウル。面白いから見てみなさい」
言われるがままに覗き込むと、キラキラと光る氷名砂が黒い布の上に広げられていた。
「人工の魔石です」
「カロンが?」
「ええ。さすがは殿下。素晴らしい」
ヴェノムはカロンを手放しで褒めた。彼はその賞賛を受け、ふっとキザったらしく笑う。これでカロンでなければ、まず間違いなく笑いながら追い出していただろう。背中のラフィニアも大喜びしているので、ハウルはなんとなく和んだ。
「ラフィはご機嫌だな」
「さっき、ブリューナス殿に遊んでもらったからな」
「さすがは悪魔……か」
悪霊と遊ぶ有翼人。その図は想像すると何とも奇妙だが、ラフィニアならありなのだろう。ラフィニアに触れても平然としている悪霊は、この城の中で彼だけだ。ラフィニアが通ると悪霊が避けるほどである。
「で、ハウル君は何か用だったんじゃないのかい?」
「ああ。買い物に行こう」
たまには何か刺激が欲しい。というか、混ざれないから少しヒマ。
「ははは。ハウル君はヴェノム殿べったりだな。たまには二人でショッピングというのも悪くないのではないか?」
「お前も行くんだよ」
「…………ハウル君、ヴェノム殿と仲の良い私に嫉妬していたのでは?」
「アホかお前は。ラフィもそろそろ新しい秋冬の服買っといた方がいいだろ。もう秋だぞ。ラフィだって、いつまでもお古じゃ可哀想だしな」
ラフィニアはメビウスの小さな頃の服を改良して着ている。さすがにかなり古いので、生地もデザインも古くさい。
「そうだな。ラフィにも新品の可愛い服を着せてやりたいな」
ラフィニアは突然ノーラに奪われていく。ノーラは最近ラフィニアの面倒をよく見る。反抗期な彼女は、父親に反発するために、ラフィニアを独り占めにしようとしている。それを見た時は、子供のようで思わず笑ってしまった。微笑ましいが、カロンはどこか寂しげだ。
「ノーラにも、洒落た服を着せてやりたいしな」
名を口にされたノーラはカロンを睨んだ。
「あいつ服に興味あるのか?」
いかにも服になど興味はなさそうだ。花より団子である。
「甘いな、ハウル君。そろそろおしゃれに目覚める年頃だよ。最近、私の宝石に興味を持つようになってきた」
「そ、そうか。年頃なのか。難しいな」
「子育てとはそういうものだ」
最近思うのだが、彼は子育てに追われてラァスの事を忘れてはいやしないだろうか。時々連絡をとっているようだが、そのうち疎遠になるのではと考えた。
「しかし、ラフィは人よりも成長が早いので、服もすぐに小さくなるのではないですか?」
ヴェノムはすでに飛んで歩いておしゃべりを始めたゼロ歳児の頬をつついた。
「問題はない。普通の子供でもどうせ来年は着られない。可愛い服を着せたいと思うのが親心というものだ」
「それもそうですね。殿下にとっては初めてのお子。その気持ちはよくわかります」
ヴェノムは納得して道具を片づけはじめた。今から行くつもりらしい。
「で、どこに行くんだ?」
「ウェイゼアに行きましょう」
「ウェイゼアか。でも一日で回れるかな。ラフィは服選びが難しいのに、ノーラの服も選ぶんだろ」
「ショッピングは何日もかけてするものです。ラフィニアとノーラの服だけを見るつもりですか? 私の新しいドレスをオーダーする必要もあります」
「お前いつも似たようなドレスしか着ないだろ」
しかも黒か、灰色や紫色というところだ。もちろん、黒が圧倒的に多い。
「わかっていませんね。ドレスにも流行があるのですよ。ウェイゼアには、気に入りのデザイナーがいます。代々素晴らしい感性を持っています。最近本格的に独立したそうなので、援助をしなければなりません」
「代々かよ」
年代のギャップを感じた。年代というか、むしろ人としての何か。
「私も何か買うか。クロフィアの冬は寒いから、ラァス君にプレゼントする皮の手袋も買おう」
「あ、ラァスの事覚えてたんだな」
「当たり前だ。私の世界はラフィとラァス君を中心に回っているのだから」
「ああ、そう」
「あと、ラフィを抱きやすいよう、インバネスを新調しようと思う。マントは子育てには向かない」
その言葉に、ハウルは己が耳を疑った。
「い、インバネス!?」
「何か問題が?」
「お前、怪盗のくせに、探偵の着るもの着てるんじゃねぇよ!」
「君は日頃一体どんな推理小説を読んでいるんだい」
「だって変だろ! インバネスの怪盗なんて!」
「別に衣装ではないぞ。マントではラフィを抱くと寒いから、インバネスにしようとしているのだが」
「なるほど。子守のためか。でもコートでいいじゃねぇか」
「インバネスなら、ケープ部分にいろいろと隠す事ができるから便利だぞ。もしもの時はラフィの羽根も隠せる。何よりもコートを着ていると、どうしてもアーバンを思い出してね」
「お前、あのおっちゃんにも気があるのか?」
「これだけ長い事追いかけ回してもらえればつい……何を言わせるのかねハウル君」
ハウルは何も答えずにきびすを返し、部屋に財布をとりに行く。ついでにルートも迎えに行く。
魔法陣を利用させてもらった理力の塔の支部に、謝礼金を払い建物の外に出ると、街の空気を吸い込んだ。
カロンはウェイゼアには滅多に来ない。風神の支配下にあるだけあり、風通しの良い街だ。街をはずれれば、風車が立ち並んでいて、観光地としても有名。
「久しぶりだな、ここ」
「そうですね」
二人は迷わず裏路地へと向かい、カロンは目を丸くする。
「どこへ?」
「いい魔法屋があるんです」
魔法屋とは、魔法が売られているわけではない。魔具や魔法薬を売る店の総称だ。
「しかし珍しい。このような場所に来るなど、初めてではないか?」
「今までは子供達がいましたから。ラァスだけの時は連れきていていたのですが、アミュやメディアがいては、恐ろしくてこのような場所には寄る事などできませんでした」
「なるほど」
アミュなどは意味を理解する間に誘拐されている可能性もある。メディアは呪文さえ封じれば、ただの小さな女の子だ。女の子達には、とても危険である。
何よりも、柄が悪い連中が多い。できればラフィニアも近づけたくないほどだ。ラフィニアは眠っているので、悪い影響を受ける事がなさそうなのでよいが。
「ヴェノム殿は、何か用入りで?」
「いえ、納品に」
「商売ですか」
彼女は様々な商売をしている。魔具から香水まで、様々な商売だ。人の才能を見抜く彼女だからこそ、様々な商売に手を出し、人に任せても成功しているのだ。
「知人ですから」
ヴェノムは言うとさらに路地を進む。
こういった場所にあるのは違法なものを取り扱い店が多いのだが、売る相手さえ見極めることを前提とするなら、ヴェノムは容認派だった。
カロンはラフィニアをしっかりと抱えた。こういう場所は犯罪者も多い。
例えば、誘拐など……。
その時、建物の間に響く複数の足音が聞こえた。
「…………」
少し先の道を、見事なドレスを着た黒髪の少女が通り過ぎた。
それを追って、何人もの武装した男達が追いかけていく。
「…………ゆ、誘拐か!?」
一瞬だけ見えたドレスは、暗がりでもわかるほどに高価なものだ。
「ってか、行くぞ」
真っ先にハウルが走り出し、あっという間に姿が見えなくなる。ヴェノムと顔を見合わせると、彼女はゆっくりと歩いた。
──ついた頃には終わっているか。
そう判断し、カロンも彼女のペースに合わせて歩く。女性の足に合わせるのは、男としての常識である。
空を飛び先へと回り込み、ハウルは薄暗い路地に降り立った。ハウルの立った場所は偶然光が差し込む場所で、ハウルの髪を照らした。少しの光でも輝くので、夜中にラァスと出くわすと逃げられ、キラキラお化けなどとも言われた。その他、時によっては魔神、悪魔、大魔王などとさまざま名バリエーションがあったが、最近はきいていない。それが少し寂しい気もした。
「だ、誰っ」
少女の声。
片手に剣を持つ少女は、驚いて目を見開いていた。
黒髪と緑の瞳を持つ美しい少女。追われる理由はこの美貌。そう悟らせるほど美しい少女は足を止め、ハウルを見た。
緑の瞳がハウルを射抜く。
胸が高鳴る。
「な……」
ぞわぞわとする。生まれて初めての感覚だった。不快ではない。むしろ心地よいものだった。
──な、何だ!?
何者か。そう思うよりも前に、少女を追っていた誰かが、少女の腕をとり押さえ込む。
「しまっ」
その瞬間、ハウルの胸は男に対する憎しみに溢れた。
汚らしい手で彼女に触れた。彼女の顔を苦痛に歪めた。
「てめっ」
ハウルは容赦なく男へと力をぶつけた。風ではなく、圧縮した空気を。風よりも扱いは難しいが、有効範囲や動きは完全には意のままだ。誰かと密接している場合にとても役に立つ。その他様々な使い道があるが、殺しかねないのでぶつけるなどという芸のない方法をとった。最近習得した技術だ。
「ぐわっ」
相手に隙が出来、少女は男から離れ、取りこぼした剣を拾い上げて構えた。ハウルもしゃがみ込んで影から剣を取り出し構える。
ハウルはこの少女を追う彼らを許すつもりはなく……
ハウルが動こうとした瞬間だった。
ハウルより先に少女が一歩前に出た。鞘に収めたままの剣の柄に巻かれた紐を片手で持ちながら剣を振る。剣は手の中から抜け、一歩届かない位置にいた誘拐犯の腹を突く。少女は紐を引き手の中に剣を戻すと腹を押さえてうずくまる男の首に剣をたたき込む。完全に意識の飛んだ男を踏み越え、別の男へと剣を振るう。
──むちゃくちゃ強えよあいつ。
刃を鞘に収めたまま、呆れるほどの技量を持ってして相手を殺さずに無力化していく。
その姿を見ていると、ハウルの中のざわめきが消えた。
ぽかんとしているうちに、少女は五人の男をすべて叩き伏せた。
「…………助ける必要……なかったか?」
「いえ……ありがとうございます。この方達があなたの登場に心乱したので、ことのほかスムーズにいきました。まことにありがとうございます」
ある程度の距離を置いてから頭を下げられた。見つめられると、ハウルは再びどぎまぎした。
──なんなんだっ!?
わからない。
「あの……あなたは他の方にも見えていたようですが、精霊さんではないのですか?」
「せ、精霊?」
ということはつまり、彼女は日常的に精霊を見ているという事だろうか。ハウルは風精と外見的特徴が合致する。彼女が戸惑いを覚える理由も理解できた。
「ハウル、片づいたようですね」
ゆったりとした足取りでヴェノムがやってくる。彼女はもしもの事を考えてか、仮面を外していた。
ハウルはホッとした。ヴェノムにきけばわかるかもしれない。
「な、なんて素敵なお姉さまっ」
少女は頬をバラ色に染めてつぶやいた。
「は?」
ハウルは意味がわからずに眉を寄せる。
「お嬢さん、怪我はありませんか?」
「は、はい。お姉さま」
少女はぽーとヴェノムを見つめ、ふらふらと近づきその手を両手で握りしめた。
──な、何なんだ?
「あの、お姉さまは……」
「ヴェノムです」
「ヴェノムお姉さまとおっしゃるのですね。なんて素敵なお名前……」
ハウルは混乱した。ハウルに対するときとは態度が違った。先ほどはどちらかというと、距離を置きたがっていたような雰囲気だが、今は人なつっこくベタベタしている。
「一体なぜこのような者達に追われているのですか? よく見れば役人ではありませんか」
「えっ、役人なのか!?」
「…………」
少女は美しい顔を曇らせ、大きな瞳からははらはらと涙がこぼれた。その姿を見ると、相手が役人だろうが王だろうが許せない気持ちになる。
「あ、あれ」
変だ。絶対に変だ。
「どうしたハウル君。ははん、さては彼女に一目惚れでもしたのかい?」
「ええっ!? これがそうなのか!?」
ハウルの反応にカロンは小さく首をかしげた。
胸がドキドキする。できればじっとその目を見ていたい。見つめ合いたい。
──これは恋なのかっ!?
前にしたのとは違う気がするが、前のは一目惚れではなかったので違うのかもしれない。
「落ち着いてください。あなたが彼らに追われるような事をする人間には見えません。事情があるのなら手を貸しますから」
「まぁ……でも、ダメです。巻き込んでしまいます。私が悪いんです。逃げ出したから」
「どこから?」
「結婚式から」
その言葉に、その場は凍り付いた。
役人が追いかける立場にある花嫁。
「お相手は?」
「ゼノン殿下」
王族相手の結婚から逃げ出してきたらしい。
──そりゃ追われるよ。
皆はことの大きさに、大きくため息をついた。
ここはヴェノム行きつけの宿。
ヒルトアリスと名乗った少女は、ヴェノムに抱きしめられて慰められている。それに関してはなぜかいい気がしない。
もちろんそのようなことを反対するのは馬鹿馬鹿しいので、口をつぐんでいる。しばらくすると彼女は本格的に落ち着いて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ゼノン殿下は……ご存じかも知れませんがこの国の太子でいらっしゃる方です」
「気さくで聡明な方だった。逃げ出したくなるほど嫌な相手だとは思わなかったが……好きな相手でもいたのかい?」
カロンの言葉に彼女は首を横に振る。ヴェノムは彼女から身を離し、彼女のために暖かいお茶を注ぐ。ハウルは思わずほっとした。
「とても素敵な方だと思います。
兄が殿下と親しくしていたたき、私も幼少時からよくお声をかけて頂いておりました」
「それで君は気に入られて、無理矢理婚儀が勧められたのかい?」
彼女はいっしゅんびくりとし、首を横に振る。一口お茶を飲み、切なげに言う。
「大筋はその通りなのですが、あの方が愛したのは私のお姉様でした」
その言葉に、聞いてはいけなことを聞いてしまった気がした。
「お姉様はとても美しい方でした。私など比べものにならないほど強く、美しく、素晴らしい理想の方でした。
その当時、お姉様は他に婚約者の方がいました。その方は素晴らしい剣士で、お姉様はずっと憧れを持っていました。しかし」
「まさか、無理矢理婚約を破棄させたのか?」
「いいえ、相手の男性が他に好きな方がいると国を出て行いき、お姉様は失意のあまり家を出ました」
「…………」
「そして思いを告げる間もなくお姉様が姿を消し、失意のどん底にいらした殿下は、お姉様の美しさにはほど遠いものの、顔立ちの似た私で手を打ちました」
「なるほど。身代わりにされたのが嫌だったのか」
「それに、殿下はいい方なのですが……私は男性が苦手で……」
「…………なんか様子が変だと思ったら、そういう事だったのか」
ヴェノムに懐いているのは、ラフィを除く彼女が唯一の女性だからなのだろう。
「ハウルさんは精霊のようなので少し平気ですけど……やっぱり少し恐いんです。助けて頂いたのに、ごめんなさい」
彼女はいまにも泣きそうな顔で謝罪した。
「いや、苦手なものは仕方ないだろ」
苦手だといわれて、かなり傷ついたのだが、それを言えば彼女も傷つくだろう。
「ああ。それは置いておき。
君は結婚は望んでいない。しかし王族相手だから断る事もできないと。家族は当然賛成しているのだね?」
カロンは相手を安心させるように微笑みながら言う。普通の女なら、これでいちころなのだが、ヒルトアリスは少し怯えた。
「は、はい。お父様はとても喜んでいらっしゃいました……。
私は親不孝者です。申し訳ありません、お父様……」
ヒルトアリスは声をつまらせると再び涙を流した。
「な、泣くなよ。お前が泣くと俺まで嫌な気持ちになる。その馬鹿王子は、俺が何とかするから」
「どうやって……?」
幸いこの国はウェイゼアだ。ウェイゼルから名前をとったほどの国だ。
「この国でなら、俺のあってなきに等しい地位も役に立つ。大丈夫だ。お前を泣かせたヤツは俺がきっとりちとっちめてやるから」
なんだかよくわからないが、彼女を見ているとやらなければならないと思わせるのだ。
「万が一の時は、ウェイゼル様を呼んではどうだろう」
突然、珍しくクロフが現れて言った。髪の色は相変わらずくすんでいるが、彼はやる気満々だった。
「なんだお前。どうした珍しい」
「私でもヴェノム様以外の事で動く事もある」
クロフは言い、ちらとヒルトアリスを見た。中性的な彼に見つめられ、ヒルトアリスは戸惑いながらも微笑んだ。
「まあ。変わった色の精霊さん」
彼女の花咲くような微笑みに、ハウルの胸はさらに高鳴った。