雪を欺く白き闇
1
眼下に広がる風景は、よく言えば長閑。しかし普通に言えば、荒んだ村だった。
貧しい上汚らしい上救いがない上色もない。
木枯らしが散らす木の葉は、寒々しくすべての終わりを示すかのようだ。
冬に入る、最も備蓄が充実したこの季節。
そして日暮れの皆が疲れ果てたこの時間。
ここは、彼らにとっては最も狙いやすい時だろう。何もしなくても、彼らは十分な食料と燃料を手に入れることが出来る。
奪われた側はこの薄汚い村と共に、等しく近く降る雪に埋もれて、美しく終わるだろう。そして春になれば醜く土に帰る。
それは醜い。実に醜く無駄な最期だ。
永遠に凍っていれば美しいのに、などと思いながら、彼は風で顔にかかる髪を手で払う。
「盗賊に襲われるとは、貧しいくせに不運な村だ」
呟きは風に阻まれるようにして、日が暮れようとする死へ向かうこの土地に、響くことはない。
片田舎の地図にも名が記されているだけのこの村は、いざ探そうと思ったとき、迷う程度には田舎だった。
そんな田舎にのこのことやってくる盗賊というのも、さぞ生活が逼迫しているのだろう。このような田舎でなければ、手が出せないほど力のない盗賊か、もしくは──
「どうなさいますか、ご主人様」
問いかける下僕に対し、彼は再び顔にかかった髪を払いながら言う。
「あのような低俗な輩の手にかけるのは、望むところではない」
このような田舎までやってきたのは、村が一つ死ぬのを見に来たからでも、盗賊を成敗しに来たからでもない。
それが収穫ではとんだ笑い物だ。生涯最大の汚点となるだろう。
わざわざ、求めて探しに来たのだから。
汚すならば、自分の意志で。奪うならこの手で。殺すならば、この爪で。食らうなら、この牙で。
「お前達、行け。僕が望む者を探し出せ」
雪のごとき白の中、血の如く紅き唇が、にいと笑みの形を作り、ちらと真白い牙を覗かせた。
「かしこまりました、ご主人様」
「必ずや、探し出してみせましょう」
木枯らしは冷たく快い空気を運ぶ。日の熱を打ち払うように。
それらは冬の訪れを知らせ、雪の予感をもたらす。
「素晴らしい」
そう口にすると、彼は自らの言葉に頷いた。
「うん、これはなかなかいい。素晴らしい」
思えば彼の望みを叶えるには、実にいい条件である。見極めるには、こういう些細な出来事があった方が易いだろう。
「聖女が聖女たるには、やはり試練が必要だ。仕組むことなく試練が降りるとは実に運がいい」
枯れ葉舞う音が、山を下ってゆく。
そして里からは、怒号と悲鳴と破壊の音色が登ってきた。
まったくもって、実にいい。
悲鳴が聞こえた。幾人もの、いくつもの叫びが遠くに聞こえた。
小さな子供を少女が抱きかかえ、狭く暗いそこで震えながらじっと身を潜めている。
野菜を入れるための室の中、子供達はひゅうひゅうと息をして、がちがちと歯を鳴らす。この室は決して広くはなく、人が一人も入ればいっぱいだ。ここは家の中、台所の床の下。
暗く土臭く寒い、床下に掘った穴。
人が入るための物ではないが、そこには少女が一人、子供が二人隠れている。
子供達は窮屈ながらも座れば問題ない。少女は必死で背を丸め、耐えている。長時間このままの姿勢でいることは不可能だ。それでも今は耐えるしかない。
外には賊がいる。
日が暮れてきたので、いつものように馬の世話をしていたら、突然山賊に襲われた。
雪が降るのも近いため、最近大人達は忙しく、子供達が家のことをしていた。少女が朝食の準備をしている間だに、小さな子供達が掃除をする。少女が洗濯をしている間に、皿を洗い水くみをする。それが終われば大人達の手伝いをする。
そして一日の最後に、馬を小屋に入れる。
冬の始まりの、当たり前な一日だった。
それがほんの一瞬で崩された。馬の首を撫でるだけのほんのわずかな時間で、それをなすには十分だった。
彼らは野蛮な人でなしで、手には武器を持ち、棘のついた棒で男達を殴った。女子供は捕らえ、どこかに集められている。
今抱えている女の子の父親は、賊に切られて倒れた。子供達と共にいた彼女が子供達を抱えたのを見て、時間を稼ぐために前へと出た。子供達を連れて逃げろと言って。
何もかもに目をつぶり、叫ばないよう子供達を締め付けて、ここに隠れ身を潜めた。今、逃げることはできない。逃げようと思えば捕まり、この子達はあの父親の意志に反して不幸になる。今でも十分不幸だが、それ以上の不幸が待つ。
あの父親は親を亡くした彼女を、引き取ってくれた恩人だ。
親なしの彼女にとって、血はつながらないが家族であり、尊敬し誇りに思う立派な人だった。
涙は出てこない。いや、出さない。歯を食いしばって、引っ込める。
泣いてはいけない。泣けば嗚咽が漏れる。自分のこの両手は子供達の口をふさぐためにあり、自分の口をふさぐ手はない。
泣いてはいけない。声を出してはいけない。
じっとしていれば、ここは見つからない。見ても言われなければ気づかない。こんな所に何か隠してあるとは思わない。彼らはそれほどゆっくり探したりはしないだろう。
じっとして、息を殺して。
ここから逃れることが出来れば、領主様に訴えてどうにかしてもらえるかもしれない。
山賊とは領内を蹂躙し、財を食う、天災にも等しき害を持つ。天災は叩きようはないが、人災ならそれを根絶やしにすることも出来る。
女王様は優しい人だと聞く。昔都に住んでいた母がよく言っていた。現にこの国に飢えて死ぬ者や、家のない子供はいない。最低限の保証はされている。
だからここで見たことを言えばいい。彼らがどのように来たか、どのような姿であったか、言えばいい。そうしたら、捕まってしまった者達も助けられるかも知れない。馬を置いていってくれればいいが、もしもの時は走ればいい。
先はまだある。
「大丈夫」
小さく、彼らの耳にも届くか届かないかの声で囁く。
ここは寒い。恐怖で震え、冷たい土に震え、身を寄せ合い、互いのぬくもりを支えとする。
「大丈夫」
ただそう繰り返す。何か言わなければ、彼らは恐慌をきたして叫ぶかもしれない。幼い彼らを守れるのは自分だけ。
見つかっても殺されないだろう。子供なら男の子でもそれなりの値段で売れる。まだ若い女である彼女は、それよりも高い値段で売れる。もっと小さな女の子なら、もっと高く売れる。
死ぬことと、どちらがましなのかは分からない。しかしそのような選択なら、この子達をそこに立たせるわけにはいかない。何が何でも、この子達だけは隠してみせる。賢い子達だ。きっと分かってくれる。
「一人でも逃げることが出来たら、女王様がきっとどうにかしてくださるわ。この国の治安と繁栄は、女王様のお力だからね」
何度も言った。何度も、何度も。
ここから大きな町へは遠いが、何度も行き来している彼らは、一人でも迷うようなことはないはずだ。子供の足では丸一日でつくかどうかも分からないが、それでも向かう先にはきっと光がある。
「大丈夫。きっと神様が守ってくださるから。ここは、土の中よ。私たちが敬愛する、地神様の中にいるの」
この地は大地に愛されている。村は小さいながらもよい作物が育つ。精霊達が戯れ、愛する遊び場。だからこそ、この村は精霊の加護がある。
きっと、この幼い子供達を隠してくれるだろう。
もしもの時は──
子供達を抱きしめた。悲鳴が聞こえる。子供達には聞かせたくない、口汚い罵りが聞こえる。
悲鳴が聞こえる。知っている婦人の悲鳴だ。複数の男が下卑た笑いで婦人を痛めつける。耳をふさぎたい。しかしこの手は子供達の口をふさぐためにある。
「ああ、うるさい」
知らない声が聞こえた。その瞬間、どっ、という鈍い音が響く。
「まったく、野蛮ったらありゃしない。虫けらが騒ぐからなかなか見つけられないだろう」
知らない声。若い男の声。軽快な、場に合わない声。
「近くにいるのは確かなんだ。あの方と似た匂いがする。
ああ、奥さん。ここら辺にこの世の者とは思えない美しい女性はいませんか? どこかにいるはずなんだ。一番に見つければ、俺はご主人様に褒美を頂けるんだ。知っていたら教えて欲しい。知らないのか? うーむ。ということは、顔は受け継いでいないと言うことか。まあ大切なのは血だから問題は無いと思うけど、下手にブスならご主人様がお怒りになるかもしれない。見栄えは大切だ。さあどうしようか」
悲鳴の中には相応しくない、軽薄な声だ。
この村にそれほどの美女はいない。皆野良仕事をして薄汚れている。美女などという表現は、この村に相応しくない。
子供達が動く。おかしな声は、彼らに不安をもたらした。しかし同時に淡い希望をもたらした。
誰かが助けに来てのかも知れない。
「では奥さん、ここに聖女はいませんか?」
「ば、化け物っ!」
「化け物とは失礼な。この顔だけが取り柄の俺に向かって」
くつくつと笑う音と、ぎゃっという女の悲鳴。
子供達はガチガチと歯を鳴らし震えた。その口をふさぎ、指を歯の間に滑り込ませる。噛まれた指に痛みはない。
状況は悪くなっている。
血の臭いで魔物がやって来た。しかも人語を解すような知能が高い魔物だ。知能の高い魔物は、魔法を使う。
「ああ、こちらから美味しそうな子供の匂いがする」
びくりと身体が震えた。子供達が顔を押しつけてくる。
盗賊は人間だから隠れられるが、魔物からは隠れられない。
化け物はこちらに来る。
「子供の血の臭いがする」
かつかつと、床を叩く足音が近づく。
「気配が濃く……なったなぁ」
足音が動き回る。やがてどんどんと足を鳴らし──
がっがっ
他と違う、軽い音がした。
音が響く。頭上から、恐ろしい音が響く。
指が噛まれた。痛みはあまりない。しかしその鈍い痛みは、彼女に決意を促した。
子供達を放し、短剣を握る。
「みぃつけた」
それがふたを開き、闇とは違う影が落ちた瞬間、短剣を頭上に突き出した。うつむいているため何も見えない。しかし、短剣は肉を貫く嫌な感触を与えた。
「……」
見上げると、目が合った。暗く紅い闇の中の炎のような瞳と。唇を笑みにし、瞳に狂気を宿らせ、喉を貫かれた少年は彼女を見下ろしていた。
白い喉から短剣を伝う血は赤く、彼女の汚れた手を彩る。汚すではなく、飾るかのようなそれに、このような場でありながら彼女は顔をしかめた。
この村に美女などいない。日に焼けた、荒れた手の女ばかりだ。
この美しい少年が探す美しい女などどこにもいない。
「面白い」
その少年は彼女の手を取り言った。
死なない。
彼は喉を突かれても死なず、平然と笑って話している。その短剣が、何も意味しないかのように。
流れる血は彼女の顔をいっそう彩る。
「悪くはない。きっとご主人様も機嫌を悪くすることなく、俺に褒美をくださるだろうな」
それはわらう。
子供達が小さな悲鳴を上げた。
恐ろしいこの瞬間は、彼らにどんな傷を残すだろうか。この化け物に食われたら、きっと黄泉路には向かえない。現を彷徨い続けるだろう。
怖じ気づいている間はない。
歯を噛みしめた瞬間、彼女は持っていた短剣を掴まれていない右手で横に薙ぐ。
化け物でも、首を落とせば死ぬだろう。ならば落ちるまでやるだけだ。
仰け反った少年の首に、再び刃を向ける。
「ふぅっ」
再び斬りつけるが、今度は余裕で避けられる。先の短剣での突きはダメージすら与えられていないのか。
少年は笑いながら再び短剣を突き出した彼女の腕を掴んだ。
「気が強い。動きから見て素人だろうに……上出来だ」
目を見開き、不気味な笑いを顔に張り付かせ、呪われた暗い炎の瞳で彼女を見つめる。
「あら無様」
気がつけば、勝手口にもう一人化け物が立っていた。
美女とは彼女のような女をさすのだろう。病的なほど白い肌に紅い唇。曲線を描く身体は一度見た女神像よりも豊かな起伏がある。その身体に、黒いドレスを身に纏っていた。赤いアイシャドウが彼女をより美しく艶めかしく恐ろしいものにしていた。
美女ならここにいるではないか。子供達を手にかける必要など無いではないか。
しかしその美女もまた、化け物である。瞳が紅い。
二人の紅い唇からは、白い牙の覗いている。
その化け物達は、どういうわけか夕日の差し込むこの部屋で、灰となることもなく平然としていた。
「なぜ吸血鬼が、こんな時間に」
吸血鬼だ。人に似た姿と、牙に、紅い瞳。牙がなければ邪眼と呼ばれる人間だが、牙があるのは吸血鬼だ。
「日の光など、俺たちには意味がない」
「でも暑いのは嫌いよ」
吸血鬼は光で肌を焼かれる。日の光に当たれば即死ぬようなことはないが、昼間にこのように活動しては生きていられないはずだ。灰になるはずだ。
「その短剣では、首を落としても無駄だ」
「あんな短剣でどうして、貴方はそんなことになっているのかしら?」
首を落とせば吸血鬼はもうひとたび死ぬ。それから適切な処置をすれば、滅びるはずだ。
「俺が見つけた」
「でも貴方は可愛い子猫ちゃんを無闇に怯えさせただけよ。見なさい、あの目。まるで意を決した母親ね。生娘のくせに」
子供達が怯えている。怖い。当たり前だ。怖い。しかし怯えていてはいけない。逃げ道を探さなければ。
「ディートリヒ、子供を連れた女に、無闇に近づくものではないわ。実の子でなくとも、女は時に子供のために命を投げ出すものよ。それが母性というもの」
「エヴァリーンが母性を語るなんて、家畜が説法するよりも愉快だな」
女はディートリヒと呼んだ少年を一瞬睨み、しかしすぐにくすりと笑い、ゆったりとした足取りで彼女に近づいた。
「怯えないでくださいませ、偉大なる血を引く方。その人の子等を取って食おうというのではありませんわ。もちろん、こちらの馬鹿にもさせません」
ふぅふぅと荒い息が漏れる。彼らは何をしに来たのだ。何が目的だ。女など他にいる。生娘も他にいる。
なぜ引きこもっていたのにここに来た。
滅多にお目にかかることのない、吸血鬼が二人もだ。主がいるという吸血鬼が二人も、主のためにとなぜここに来た。
しかも彼女に話しかけてくる。
「素晴らしく意志が強い方。やはりあの方の血が一番濃いだけあるわ」
「だろう。思わず避けるのを忘れてしまった」
二人は根本的によく似た質の笑みを浮かべ、同時に言った。
「きっとご主人様もお気に召す」
どうして吸血鬼が、彼女を見てそのようなことを言うのだろうか。
壁が揺らいで見えた。
白い霧がさっと広がり、渦を巻くように集まり人の姿を作る。
空気すら凍らすような、雪のような白さの青年がそこにいた。
白の中にある血のような唇がわずかに開き、白く鋭い犬歯がのぞく。
「気に入った」
白い闇は低くわらった。