雪を欺く白き闇
2
人とは愚かで脆弱が基本である。
無知蒙昧な輩が胸を張って偉そうに道の真ん中を占領して闊歩し、そのすべては砂上の楼閣であることを理解してそれを守ろうと必死に他者を陥れる。
人とは他の生物よりもより多く悪意を持って裏切る生き物だ。
人とは基本的にろくでもない。
しかし時に驚くほどの賢人がいる。
時に完全な地盤の上に天に届かん塔を建てる者がいる。
時に裏切らない者がいる。
時に、素晴らしく強い者がいる。
肉体の強さは手に入れやすい。しかし心の強さだけは、手に入れようと思って手に入れられる物ではない。
人生そのものを問われる、何にも勝る素晴らしい美点だ。
気の強さと心の強さは違う。追いつめられたとき、このように違いを見せる。
気が強いだけの人間は、自分が助かるために子供を突き出し、自分だけは逃れようとする。
心の強い人間は、己の命を賭けても意志を貫く。
その少女は決して美しいとは言えない。手入れして飾ればそれなりになるだろうが、美貌というようなものはない。せいぜい骨格の良い、顔の小さな可愛らしい女の子といった容貌だ。
しかし今の彼女はどんな美女にも勝る輝きを放っていた。その決意で飾られた彼女は、どんな装飾で着飾った麗人よりも美しい。
その内から放つ輝きは、この世で最も美しい装飾である。
そして聖女の血脈。素晴らしき極上の血が、焼けた張りのある皮膚の下に流れている。
「気に入った」
手を打ち、彼女のあり方に感激した。
これならば希望が持てる。
「田舎臭いだけの愚者であったら殺してやろうと思っていたが……」
突然現れた男を見て、薄汚れた少女はびくりと震え、しかし短剣だけはしっかりと握りしめている。
肌寒いこの季節、額に汗をちりばめ、唇を噛みしめ、低く構えている。
その短剣には家紋がある。彼女はその意味を知らないだろう。誰も知らないだろう。その印が意味するものを、知る者はこの村にはいない。
「さすがはあれの血を引くだけはある。性格がそっくり」
面白いほど、よく似ている。環境は全く違うはずだが、似ている。似ても似つかないが、肝心なところはうり二つ。
この期に及んで抵抗する意志がある。普通なら力をなくし、狂気に身をゆだねていただろう。
しかし彼女の目は生きている
「その子供らを助けたい?」
少女はびくりと身を震わせた。毒がなく純朴で可愛らしい。
「……」
「他の者達も助けたいか?」
少女は意図を計る目を向けた。ただのこれだけで彼の言葉を理解し信じるなど愚か。
しかし皆を助けるという言葉には、確実に反応した。
土に汚れた頬は興奮で朱に染まっている。あの女から受け継いでる緑の瞳は真実を探り迷っている。息をつく度、栗色の髪はうごめくような気すらした。
「契約をしよう」
「契約……」
「お前は僕に血を差し出せ。そうすれば、この村の者達を救ってやる」
瞼が大きく開かれ、美しい緑の瞳がすべてを表す。
それを見ていると、その目に触れたく思い手を伸ばした。しかし彼女は目をつぶり顔をそらす。
人は顔──目に対する攻撃に臆病だ。
それを思い出して、やり場のない手を彼女の頬に添えた。
日に焼けているが、若いためみずみずしく弾力がある肌だ。頬にかじりついて、血の味を確かめたかった。
彼女はその思いを知ってか知らずか、恐る恐る目を開き、ゆっくりと距離を縮める彼を見つめた。
「お前がすべてを差し出せば、お前の望みを叶えてあげよう」
怯えの色は消えない。保身というよりは、その信頼性が問題なのだ。
人は裏切るため、他者も裏切る者だと思い込む節がある。
「安心しろ。かなえた後に、それをわざわざ壊したりはしない」
物語りの中では、契約した後にでも、魔物の言葉遊びの策略ですべてを失う者がいる。
「互いに信頼し約束を守ることが前提だ。そうでなくては契約とは言わない」
彼女は瞳の中の敵意と恐れを引っ込め、疑心のみが浮かび上がった。不思議そうに彼を見上げる様に、本来の彼女が見えた気がした。
「何より、お前を謀っても僕にメリットなどない。
よく考えるといい。
ここであの賊どもを掃討できるのは僕らだけだ。幸い、もうすぐ日も暮れる。僕らにかなう者などどこにもいない。
ここでお前が拒むなら、僕らはとどまる理由をなくす。
それが何を意味するかは理解できるな?」
彼女はしばしの葛藤の後、こくりと頷いた。
「素晴らしい」
今まで試した連中に比べ、なんと模範的な答えだろうか。
血は薄れる。それでもこの高貴な血は、決して失われはしない。
血は汚れる。
生活習慣。生活環境による人格の歪み。安易に行う性行為。
穢れた血など価値はない。
この血こそ、求めていたもの。
唇が戦慄いた。歯がうずく。
「では、いただきます」
白いうなじに唇を寄せた。甘い予感に胸躍る。
そんな彼の足を、軽い衝撃が襲った。
「ね、ねぇちゃんを離せ!」
見れば、小汚い小僧が一人、右足に。将来に期待といった楽しめそうもない小娘が左足に。阻止しているのか、遊んでいるのか判断がつかない力で、可愛らしくしがみついている。
この娘が守るだけあり、なかなかいい心構えだ。
「死にたいか」
「ねぇちゃん逃げろ!」
「おねえちゃん逃げて!」
健気なものだ。男はともかく、女の方はこのまま成長すればさぞ美味くなるだろう。
「馬鹿! あんた達やめなさい!」
彼女は子供達を見て、しゃがみ込んだ。突然動くものだから、彼の鋭い爪が頬をひっかき、血が流れた。
人であったときには感じなかった、甘い香りが鼻孔をくすぐる。ともすれば、理性が飛んでしまいそうだ。
この村には血が流れている。血は彼等から理性を奪う。
人を捨てて、知識を得る以外で初めて覚えた快楽。
「安心しなよ、殺しはしないから」
血に誘われてふらふらと近づいたディートリヒの顎を蹴り飛ばし、彼は彼女を無理矢理立たせる。
「約束は守ってやる」
生命そのものである赤が流れる、唇の端にかかるその傷を、舌でちろと舐めてやる。
全身が震える女を無視し、今度は唇を押し当てて血を吸い出す。
それを口にする瞬間、この死した変わらぬ冷たい身体に、命が戻ったかのような熱を覚える。
あの女とは少し違うが、あの女と並ぶほどの美味。
全身に溢れるこの力は、あの女のような精霊や神の加護を受けるような力を持つ者独特のモノ。
「っふぅ」
このまますべて吸い出して腹に収めたいと、自分の中の野蛮な欲望が鎌首をもたげる。しかしそれでは今が意味のないものとなる。
理性は愛せど、本能は切り捨てるべき愚かな劣情である。身体の維持以上に、求めることがあってはならない。
自分の心を奮わす女から顔を離すと、彼女は呆然と虚空を見ていた。視点はいっこうに定まらぬ。
「ご主人様。乙女にそのような行為は、過激すぎるのでは」
「これはすまない。なにせ僕はここ最近、ろくに食事を取っていなかったから許してくれ。お前に危害を加えるつもりも、獣のように襲いかかるつもりもない。僕は理性を何よりも愛する者だ」
彼女の目に意識が戻る。
口を執拗にごしごしと土で汚れた袖で拭う様を見て、彼は笑う。
「まあいい。僕はお前を認めよう」
「み……認める?」
彼女は首をかしげた。先ほどの震えるほど魅力的な瞳は、年相応の幼い疑問に満ちた瞳へと変わる。
「約束は守ろう。お前達、行け」
「御意」
二人の下僕は快く頷き、渋々暗い家を出て行く。まだ日はわずかながら出ているが、あと十数分で夜になる。
「……どうして、吸血鬼が日光を浴びても平気なの?」
「日光は嫌いさ。ただ、嫌いだからと言って、その下にいられないというわけではない。そんな下等な連中と一緒にしないでもらいたい」
彼女はこくこくと頷いた。
足下にいた子供達は、彼から離れて彼女の腰にしがみつき彼を睨んでいる。
「そうそう。まだ名前を聞いていなかった」
「名前なんて、聞いてどうするの」
彼女は何も理解していない。名とは大切だ。文字の羅列でしかないが、一つのモノをさした瞬間、その羅列には力が宿る。
魔道において、名はとても重要だ。
「契約に必要だ。名乗れ」
「……い……イレーネ」
「いい名だ」
似合う名、似合わない名があるが、彼女の名は似合う名だ。
「僕の名はマディアスだ。
雪を欺く白き闇、白眼の悪魔マディアス」
日は暮れる。
彼等の支配する時がやってくる。
夜こそ彼等の住む世界──。
盗賊を一人殺していた時、日が暮れたのが分かった。
些細な差だが、肌で感じる。夜の支配が始まった。忌まわしい太陽が姿を消し、闇が世界を支配する。
「ああ、生き返るわ」
マディアスに請うて吸血鬼にしてもらった瞬間、死んでいるが。
昼間に活動するときは、どれほど大丈夫だと認識していても、泥の中を進むような気持ちだ。
「これで相手がもっといい男なら、やる気も出るのだけれど……」
醜い男の胸板を貫いた左手を、引き抜き指先をちろと舐める。脂肪や肉片が手にまとわりつき、決して美しいとは言えない。しかし、濃密な血の気配は、どれほど美しいものを見た時よりも、心を奮わせる。
血の与える興奮は、男の与える興奮などとは比べものにならない。
永遠の若さと美貌のために闇にこの身を売ったが、今では不自由な身体になることで、この興奮を買ったのだと思っている。
酒に酔う代わりに、血に酔う快楽を得た。
どんなに醜い男でも、血は皆同じだ。特別なのは、ごく一部。主の契約者は、その中でも一等特別な血であるが。あの血を見た後では、この程度ではこの心は、魂は満たされない。
もっと血を、もっと悲鳴を、もっと死を。
「あちらは、やる気がなさそう」
姿は見えぬ彼女と同じ理由でマディアスに仕える少年は、極上の血を見た後で、この血を前にするのは、さぞ苦痛だろう。
なにせ、彼の大嫌いな男の血に酔っているのだ。しかも、彼が嫌いな醜い男。
しかし今の彼女たちに好き嫌いは許されない。
この者達は、マディアスに逆らった。わざわざ、彼女がいるこの村を襲ったのだ。
盗賊ではすまない可能性がある。その後に流れる血を思うと、彼女は愉快でたまらない。
生かすは数人でいい。それ以外には死を。
彼等にとって、この死は救いだろう。なにせ、このままでは処刑は確実。生きたまま焼かれる可能性が高い。今なら、一瞬の恐怖の後、即死だ。
そして死者は、彼女たちの人形となる。
離れたところで、ディートリヒが活発に動き出した。散っていた者達をあらかた殺すのにも飽きたのか、頭を拘束しに行ったようだ。
そこには、捕らわれた女子供達がいる。彼好みの美女はいないし、イレーネのような血を持つ者はいないだろう。それでも、女性というただそれだけで、彼にとっては価値を持つ。
「それなら私は、逃げる男を追いましょう」
哀れに命乞いをする男を見るのは、なかなか気持ちがいい。
マディアスは安全な場所に三人を移動させた。
村を見下ろす高台からは、村の様子は鮮明には見えない。だが、ディートリヒが女性達を助けているのは見えた。時間の問題である。
子供達は緊張が解けたのか、イレーネの膝で眠ってしまった。そのため、彼女は気まずげに時折こちらを横目で見た。
マディアスはひさびさの血を味わい、上機嫌で村を見下ろしていたが、彼女に何も説明しないでは無闇に不安がらせて血が不味くなるかも知れない。恐怖と絶望がスパイスだという馬鹿な吸血鬼もいるが、過度なストレスは血を不味くするだけだ。
「何か聞きたいのか?」
「え……あの……」
首をかしげ、顔をしかめた。しかし何かを思いついたか、目を大きく開いて問う。
「そういえば、どうして目が白っぽいんですか?」
突然問われ、彼女は混乱したらしく突拍子もないことを言う。
正確には薄い紫色だが、他のすべてが白いので、瞳も白く見えるのだ。
「吸血鬼って、目が赤いものだって聞きましたけど」
「僕は噛まれて吸血鬼になったわけじゃない。元々の色そのままではないけどな」
イレーネは不思議そうな顔を崩さない。知りたいと思う欲求は、人として当然のものだ。それがない者に対して、マディアスは軽侮する。
「不死の法の一つさ。自ら吸血鬼化することで、時の魔術を扱えない者でも不老となれる。そういう者は、赤い瞳にはならない。ただし、吸血鬼化限定の現象らしい。リッチーになる場合は、赤くなるようだ。例が極端に少ないから、例外があるかもしれない」
彼女は顔をしかめるが、納得したようで頷いた。何の知識もない彼女には難しい話だったかも知れない。
「他に疑問は?」
「吸血鬼は美女しか襲わないんじゃないんですか?」
「面の皮一枚がいくらよくても、血の味に影響はない。大切なのは、魔力と規則正しい生活だ。美しさなど、腹の足しにも、力の足しにもなりはしない」
見目がいい方が、物語は盛り上がるため、物語ではそういう組み合わせが多いだけだ。人から目を背けられるほどの醜女と、誰もが振り返る美女では、人の関心が違う。
もちろん、ディートリヒのように美女の血に固執する者もいるが、マディアスは味にこだわっている。
「お前に害を加えるつもりはない。ようやく見つけた血だ。僕の食事は、お前に苦痛を与えることは決してない」
風に乗って、血の臭いが鼻につく。
口にする気にもならない、力もない穢れた血だ。しかし口にせずとも、血の臭いは彼らから理性を奪う。
野蛮な行いはマディアスの趣味ではないが、下僕達では血の臭いを嗅ぐとどうしようもないだろう。
「暴れているな」
「……殺しているの?」
「当たり前だ。盗賊を生かす愚かな者がどこにいる。この国に盗賊などという存在はあってはならない。何よりも、反逆者の可能性がある。一匹たりとも逃がしはしない」
「国……どうして吸血鬼の貴方が国など心配するの?」
彼女の質問に、彼は大切なことを忘れていたのに気づく。
とても大切な、肝心要の事柄だ。
「僕は魔石を生成することができる聖人の家系の、代々の当主と契約を結び、この国の繁栄を約束した」
彼女は理解できない様子で見上げてくる。間抜けな表情は、彼女の母に似ていないこともない。
「前の主が死んだ。新しい主となるのは、お前だ」
「死んじゃったんですか?」
「そうだ、お前の祖母に当たる女だ。お前と違って、顔もいい女だったな」
彼女はわずかに唇をとがらせた。
「でも私のおばあさんって……私の両親は家族はいないって」
「その両親はどうした?」
「数年前に、流行病で死にました」
記憶の中の、幼さが残る少女を思い出す。気の強い、恋多き女だった。マディアスの理解できない手の女だった。
「お前の両親は、駆け落ちした。
お前の父親は庭師の息子で、美しい薔薇を育てる腕のいい職人だった。母親は、雇い主の娘だった」
身分違いの恋は、当然反対される。
男の方はその意味をよく理解していたし、結果を考えずに動くようなタイプではなかった。そんな踏ん切りのつかない男を、彼女がどのようにして説得したかは想像もつかないが、二人は完璧な愛の逃避行を実現させた。
マディアスですら阻止できないほど、完璧に。
「お前の母は、本来ならお前の代わりに僕と契約を結ぶはずだった。もしくは、魔力の強い者と婚姻を結び、それが出来る子を産む予定だった」
それが、彼女は気にくわなかったようだ。
「あの……私のお母さんって、どんな人だったんですか? どこかのお嬢様だったんですか?」
彼女は本当に何も知らない。探す者がいなければ、一生知らずに平凡な人生を送ったのだろう。
「戻れば分かるさ。お前の祖母はまだ存在する。語るのは、彼女の口からでいいだろう」
彼女は目を見開き硬直する。信じないだろう、普通。マディアスのようなものの口から出た言葉でなければ。
「え? でも死んだって……」
「死んだが、まだ魂はある。跡継ぎであるお前を見つけ出すのに半年で、そろそろ限界だが……」
彼女はマディアスを見つめ言った。
「吸血鬼にしたんですか?」
「世の中には、死体に魂をくくり付ける方法がある。ただし、身体が腐れば新鮮な肉を求めて夜な夜なさまよう食人鬼になるが……ぎりぎりだったな」
彼女は青ざめていた。人間の大半は死霊術をおぞましいと思う。祖母がそのような風にされていると知れば、誰もが顔色を悪くする。
それが人というものだ。
「そこまでして……どうして?」
「正当な後継者がいなかった。お前以外では、僕はこの国に尽くす必要がなくなる。だからだ」
「ど……どうして国なんて……」
彼女の唇は、震えてそれ以上言葉を発しない。
「お前が否定した考えは、正しい」
彼女は瞬きもせずにマディアスを見つめた。姿はどれほど汚れても、その瞳のに宿る鮮烈さはくすみもしない。
「お前はこの国の要となる」
彼女はそのままふらりと後ろに倒れた。頭を打つ前に支えてやると、彼女は完全に気を失っていた。
「さすがに、こたえるか」
十四年前、この国の王女は謎の失踪している。
駆け落ちという、単純な理由の家出だが、その方法は今でも謎とされている。
その時、王女は家宝である短剣を持ち出した。
殺意を持って刺した者を、確実に殺す死の短剣を。だから逆に言えば死者は殺せない。どれほど心臓を突いても、それで首を切り落としたとしても。
彼女は何も知らない。
起きたときには、すべてが変わっているだろう。
彼女はこれから血と国に束縛されて生きることになる。
彼女は、何も知らない。
知るも、自覚するも、覚えるも、すべては彼女が引き返せない場所に立ってから──。
「うん、悪くない」
真白き悪魔は星の輝く晴れ空の下、血の香り漂う闇に一人わらう。