1話 天使


 そいつは、ある日突然庭に降ってきた。
 窓辺で月見酒を飲んでいた慶子は、それが落ちてきた時、ただの大きな鳥だと思った。
 だが違ったようで、起き上がった姿をよくよく見ると、人の形をしていた。
「あ?」
 おそらく塀を登ってきて跳んだのだろう。
 泥棒か? それとも、ここがうら若き乙女が一人で暮らすと知って侵入した変質者か? それともまたストーカーか?
 慶子は手近にあった金属バットを手にし、サンダルを足に引っ掛けそれに近付いた。それは周囲を見回した後、ようやく近付く慶子に気付いた。
「おっ?」
 それは、意外にも可愛らしい声だった。
 なんだ、女か。
 慶子は安心してバッドを持つ腕の力を緩めた。
「女!」
 それは慶子を指差し、無駄に広い庭を駆け彼女の前まで来た。
 女だと思って安心してみれば、慶子のそれは一瞬で砕け散る。
「……ええと、変なお店にアルバイトに入ったはいいけど、風俗店だったから逃げてきたの?」
 その女。おそらく十三、四歳だろう。服装から察するに、風俗店でアルバイトをしていたのだと思われる。しかし少なくとも風俗店で働いていい年頃ではない。明らかに法を犯しているのだから、おそらく非合法な店。未成年に、とんでもないわいせつな行為をする店だろう。しかもこの少女はどう見ても日本人ではない。淡い金髪、紅色の頬。とてもとても可愛い女の子だ。だから白い衣装に、背中に取り付けた羽がよく似合う。ほんの少し、翼がどうやって支えられているのかが気になった。
 だが、とても似合う。天使にして襲ってみたくなる気持ちも理解できる。スケベオヤジの気持ちが理解できてしまうほど、彼女は可愛いのだ。
「おい女、お前一人か? 一人だな?」
 それは乱暴な日本語だった。誰に習ったのだろうか。発音はいいのだが……。
 彼女の前に知り合いにも一人とんでもない事を教えられて癖になっていたインド人がいた。日本語で、もっとも丁寧な話し方は、ござるをつけるという。そして彼女は某有名漫画の忍者のように、あり得ない日本語を操る知らない人には引かれるインド人となった。
 それに近いものなのだろう。
「かくまえ。追われている」
「それは分かってるから。お嬢ちゃん、家は?」
「家はない」
 騙されて売られてきたとか?
 今の世の中、何があってもおかしくない。これほど可愛い女の子ならなおさらだ。
 慶子は周囲を見回し、その金髪美少女を家に入れた。
 そもそも、これが間違いの始まりだったのかもしれない。


 その少女はふぅと言ってソファに座りふんぞり返った。
(うわぁ偉そう)
 慶子は追われているくせに、脅えもしないでくつろぐ少女を眺め、これからどうするか考える。
「おい女、喉が渇いたぞ」
 外人だと分かっていても無性に腹が立ってしまう。
「お嬢ちゃん、誰に日本語習ったのよ」
「そんなもの習った覚えはない」
 通じているのかいないのか。
 とりあえず慶子は言いたいことも我慢して、少女のためにキッチンへと向かう。慶子がいたのはリビングで、対面キッチンと続いている。冷蔵庫を開けて作り置きのウーロン茶を取り出し、グラスに……。
「あんた、何飲んでるの!?」
 慶子はウーロン茶を置いてその子に駆け寄った。
 こともあろうに、彼女は慶子の飲みかけていた日本酒を飲んでいた。いつもは違うもの飲むのだがなのだが、今日は月が綺麗だったから日本酒を飲んでいたのだ。知り合いにもらった、とても高い酒だ。
「変な味だな」
「あのね、そのお酒はけっこう来るから、そんな風に飲んだら……」
「これが酒というものか。へぇ。変な味だ」
「そうじゃなくてねぇ」
「うむ。気に入った。今日からここを住処とてやる。ありがたく思え」
 これは言葉の問題ではない。こういう性格なのだ。慶子は悟って口を開く。
「あのねぇ」
「お前は見た目はいまいちだが、女だから許してやる」
(お願い誰かあたしを助けて)
 ひょっとしたら、もう酔っぱらっているのかもしれない。慶子はできるだけ自然に笑いながら声をかける。
「あのねぇ、お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんじゃない」
「はいはい。じゃあ何ちゃんって言うの?」
「人に名を尋ねるのに名乗らないとはなんて女だ。人間というのは本当に礼儀のなっていない生き物だな」
 どちらがと思うものの、相手は彼女よりも年下の馬鹿外人である。我慢我慢我慢。
「はいはい。あたしゃ慶子よ。ケ・イ・コ」
「私はフィオ」
 フィオは慶子へと指を突きつけるようにして言った。
「言っておくが、私は女ではないぞ」
「その胸は詰め物か」
「違う。どちらでもない。両性具有体だ」
 妄想かとも一瞬考えたが、染色体は男だと言いたいのかもしれない。しかし、ごく稀に本当にそういうのがあるらしい。
 しかもそういう者は、美形が多いという。
「……可哀想に」
 なでなでなでと、励ますように頭を撫でる。
 頭がおかしくて、身体もおかしくて、ついでに性格もおかしくて。顔以外いいところはないではないか。
「ところで、その羽重いでしょ。外したら?」
「外せるわけがないだろう」
「何言って……」
 慶子は絶句した。背後に回ってみてみれば、その羽は背中から直接生えていた。
「…………えと」
 慶子は考えた。
 きっとどこぞの変な組織に改造されたか、培養されたかしたのだろうと。それで逃げ出して追われているのだ。ひょっとしたら商品だったのかもしれない。つかまればこの子は不幸になってしまう。慶子の知らない世界の闇が今ここに、目の前にある。
「……か、可哀想に」
 だからこんなにわがままで世間知らずなのだ。
 慶子は哀れな天使を抱きしめた。
「……別にそこまで邪魔ではなないぞ。しまえるから安心しろ」
「あ、そーなの? じゃあしまっときなさい。その方が目立たないしね」
 理屈は分からないが、羽は確かに消えていた。背中にほんの少しアザのようなものがある。これなら、人として生活するのに支障はない。
「安心しなさい。あんたのことは守ってあげるから」
 現実離れしている気はするが、世の中不思議なこともあるものだ。自分の理解できないことだって世の中にはある。
(ああ、でも秘密組織か……)
「父さんに助けを求めるかな」
「父?」
「ええ。ちょっとでなく変だけど、変なことには強い人だから」
「だめだ。人に知らせるのは許さん」
 フィオは愛くるしい顔を歪めて言った。
 確かに先に調べる必要があるだろう。まずは話を聞くことにした。
「で、あんたはどんな所につかまっていたの?」
「天界だ」
 とんでもない名前の地域もしくは建物である。
「妖精界と魔界の中間点にあってな、絶対正義の元に統治されている腐った界だ」
「…………」
(あー……意味わかんないし……)
 どんな教育を受けてきたのやら。
 そういう設定を吹き込まれているのかも知れない。洗脳というやつだ。
「私は統治者の候補として育てられた。自由のない、誰よりも清らかな生活をしなくてはならない最低の立場だった」
「……へぇ」
「私はその事を不満に思いながらも、皆よく仕えてくれるから仕方なく清らかな生活を送ってきた。
 だが、私は知ったんだ。あいつら、人には清らかに穢れなくとか求めながら、自分らは美味いモノを食べて、気持ちいい事をしているって」
 つまり、自分は綺麗な生活をしているにもかかわらず、回りがしていないから嫌になったと。それで逃げてきたと。
「ええと……どうしてそんなことを知ったの?」
 背景は想像もつかないが、構図だけでもつかまなければならない。
「知らない男が私の部屋に入ってきて、私が騙されているって教えてくれたんだ。赤い目をした黒い翼の男だった気がする」
 純粋そのものの顔で思い出そうと首を左右に曲げる。
(黒い翼って……あの……それって……)
 凝った設定である。
「でな、私はいつも果物や野菜ばかり食べていたが、本当は皆動物や魚の肉も食べていると聞いたんだ」
 彼女の汚れというのは、害のない実に可愛らしい汚れであった。
「……食べたいの?」
 彼女の心理は理解不能なのだが、とりあえず肉を食べたいということだけは理解して聞いてみる。
「あるのか!?」
「えと、このおつまみの裂きイカはどう? イカよ。ビーフジャーキー……牛の肉もあるわよ」
「うむ。食べてやる」
 慶子は裂きイカを差し出し、キッチンへ向かいワゴンの中からビーフジャーキーを取り出し、封を切り……。
「フィオ様っ」
 突然外から男の声が響いた。裂きイカを夢中で噛んでいたフィオはそれを喉に詰まらせむせる。
「フィオ様、こちらでございますか!?」
 突然窓が開いて男が土足で部屋に上がった。
「ああっ」
「フィオ様!?」
 フィオに駆け寄ろうとする男に、慶子はカウンターを飛び越えて全力で駆け、全力で
「人んチに土足で上がりこんでんじゃねぇぇぇえっ!」
 慶子の捨て身の蹴りは男の腹に直撃し、男は庭へと倒れ落ちる。着地に少し失敗したが、痛む身体にはかまわず足跡のある部分を見る。
「ああ、よかった、フローリングだけですんだ」
 最近、もうすぐ寒くなるだろうと、カーペットを毛足の長いものに替えたばかりなのだ。
 慶子は台拭きで土を落としてから、喉にイカをつまらせて青ざめているフィオの背を叩く。
「大丈夫?」
 慶子はフィオの口に手を入れ、詰まっているイカを引きずり出す。
「っ……はぁはぁ」
 フィオは肩で息をして頷いた。
「す、すまない」
 慶子はイカを使われていない灰皿に捨てて、そこで自分が蹴り倒した男を思い出した。庭に落ちていた気がする。頭を打って死んでいなければいいが、きっと正当防衛になるだろう。
「フィオ様ご無事でっ……貴様」
 男は勝手にわめき、顔色を悪くしたフィオを目にして慶子をにらみつけた。
「貴様、フィオ様に何をした」
「あんたが突然来るから驚いて喉に詰まらせたんでしょ」
 慶子はバットを手に立ち上がる。
「そうだそうだ。お前帰れ」
「そんなフィオ様……わ、私は誘拐されたフィオ様を救出しに…………」
「私は誘拐されたんじゃない。家出したんだ」
 慶子はフィオを振り返り、そして男を見た。
(こいつも羽あるし)
 未知の高知能生物? それとも宇宙人?
 慶子は必死に一番嫌な考えを無視した。人工生物や未発見の高知能の生物や宇宙人ぐらいまでなら許容範囲である。しかし、オカルトとなると彼女の許容範囲ではない。
 それでも聞かなければならないだろう。巻き込まれているのだから。
「あんた達……結局何?」
「……フィオ様、この女性は?」
「私の女だ」
 もう何も言うまい。そう思い小さく息をつく。
「まさか貴様、フィオ様を汚し……」
「てないしてないって」
 慶子は迷わず否定する。理解してくれるのではないかと思ったのだが、真面目そうな彼には通じなかった。
「これからするんだ」
「しないしない」
 アホなガキの言葉に、慶子はもうとにかく否定する。
「なぜ!? 私は美しいから、どんな女でも喜ぶと聞いたぞ。『しゅちにくりん』とやら夢見ててここまで来たのだ」
「意味わかって使ってるの!?」
「ええと、『酒を飲んで女をはべらせる』んだろう? 酒は好きだし、男よりも女の方がいい。選ばれたんだ感謝しろ」
 慶子は大きくため息をついた。受け売りそのままで全く理解していないだろう内容に、安堵しながらも諭してやる。
「女性の半分ぐらいはひょっとしたら喜ぶだろうけどね、全部じゃないわよ。あたしはどちらかと言うと年上の方が……って、何も泣かなくても。ね、ね? ほら、これあげるから」
 うるうるし始めた青い瞳を見て、慌てて床に転がっていたビーフジャーキーの袋から一つ取り出すと、フィオはそれを口に含む。
「それは……」
 乱入してきた男が呟いた。
「ただの肉よ」
「に……肉!? なんて事をっ」
「だまれこのデカブツ」
 慶子はその男を睨み上げる。天使の姿とは思えない容姿の男だった。そう、例えるならばスポーツマン。縦に大きく、歩けば絶対に鴨居に頭をぶつけるだろう。腕など慶子の太股よりも太いだろう。つまりマッチョである。顔は渋めで、少しいいかもしれないと一瞬慶子の心は揺らぐ。しかし、肉も食べさせてもらえなかったほど束縛された子供を、無理矢理連れ戻そうという男である。断固阻止せねばならない。
「慶子、もっと」
 おねだりするフィオに、慶子は袋ごとそれを渡した。
「美味しかったの?」
 彼は無言で頷いてまた噛み始める。
「見てみなさい。こんなことでこんなに喜んでる。あんた達、この子を束縛してどうするつもり!?」
「そのお方は将来我々の統治者になるお方だ。フィオ様。今ならまだ間に合います。天界へ帰り、清めを」
「嫌だ」
 フィオは駄々っ子のようにばたばたと手足を使って拒否をした。ひょっとしたら、思っているよりも幼いのかも知れない。
「……ねぇ、そこのでかいの。一つ聞いていい?」
「でか…………はい」
「あんた達、どこから来たの?」
 これも本当は知りたくないが、ここまで巻き込まれて知らないでは後味も悪い。
「天界です」
「どこそれ」
「そうですね。分かりやすく言えば、異世界です」
「…………」
「界交がなくなってからかなりの時が流れました。私達の界でも人間界というものはおとぎ話の世界だと思われているぐらいですからね。貴方の困惑は理解できます」
 慶子が頭を抱えるのを見てその男は靴を脱いで部屋へと上がった。慶子は警戒しつつもそれを迎える。金属バットは持ったまま。
「貴方から見れば、フィオ様は束縛されているでしょう。しかし、フィオ様は私たちにとってはかけがえのない大切なお方なのです」
「そんなことはない。他にも候補はいる」
「何をおっしゃるのですか! フィオ様は統治者の第一候補ではございませんか」
 慶子は頭を抱えながら、その現実を整理する。
 つまりこいつらは本当の天使で、この人を女呼ばわりする女男はそこで一番偉い天使になる一番の候補と。単純そうなフィオだけなら色々と他のことも考えられたが、この真面目で意志の強そうな男の口から説明されると、否定する気持ちも薄れてくる。
「フィオ、どうしてそんなに嫌なの?」
「自由なんてないのだぞ。私は何も知らずに育てられ、いつかお飾りの統治者になる。そんな人生真っ平だ」
 慶子は頷いた。
 どこまでが彼女の知っている知識と合致するのかは分からないが、フィオの気持ちだけは分かった。程度は違えど、良くある話しだ。
「こんなに嫌がってんだしさぁ。可哀想じゃない」
「貴方には関係ない」
「あるって、十分!」
 人のつまみを食べ散らかしている。高い酒も奪われた。
「お前は話しのわかる奴だな」
 こりずにイカを食べながら言うフィオ。彼女──彼は今とても生き生きとしていた。それを見て男は沈黙する。
「フィオ様がこんなに下品に……」
「生まれつきじゃないの?」
「違いますっ! 本当についこの前まではとても立派な……」
 俗世を知って、人生の階段を転がり落ちていったというわけだ。
 慶子はため息をつきフィオの隣に座った。
「美味しい?」
「ああ。こんなの食べたことない」
「そう」
 少女のような笑顔で言われると、このまま帰してはいけないと思う。しかし、彼はとても重要な立場にいるらしく。
「フィオ」
「ん?」
「自分の星……じゃなくて世界……にぃは、帰りたくないの?」
 世界という言葉を発するのに大変苦労した。しかし彼らの言葉に合わせるのが一番だろう。なぜ日本語なのかは不明であるが。
「ああ。私が完璧な両性具有体だからって、物心つかない私を親元から引き離して……ええと、そう、『せんのう』して『かんきん』した奴らだぞ」
「……って吹き込まれたんだね、黒い翼のヤツに」
 フィオは頷く。それに男は青ざめた。
「く、黒い翼!? フィオ様は魔界の者に誑かされたのですか!?」
「たぶらかされてなどおらぬ。ちゃんとこの目で確かめた。こっそりと抜け出して町に出れば、聞いていた町とはまったく違うものだった。道端には汚らわしい浮浪者がいたり、人を殺して金品を奪い者がいたり、女が裸で男達の前で踊る店があったり」
 慶子は本格的な頭痛を覚えた。
(また極端から極端へ……っていうか、天使の世界にそんなものがあるのはあたしもショックだけど)
 クリスチャンということになっている慶子は密かに傷つき、痛いほどフィオの気持ちを理解した。清らかでなければならない物が、実は自分たちと大差ないというその事実。敬虔なクリスチャンが知ったら、半狂乱になるかも知れない。
 しかし事実は事実である。彼が自分のしている事を馬鹿らしく思い逃げ出した気持ちも分かる。
「それに統治者になったら、側仕えの者としか触れ合ったり、話したりできなくなる。
 ディノとだって話すことも出来なくなる」
「……フィオ様」
 ディノとは話しの流れからするとこのマッチョ男のことだろう。彼は胸を押さえ切なげに眉根を寄せる。麗しい主従関係だ。
「私だって、知らない者と話したり触れ合ったりしたいんだっ!」
 フィオは目に涙を浮かべながら喚き散らした。ディノは顔を曇らせる。
「ほら、いい子だから泣かないの」
「だって……」
 慶子はソファの上に置いてあったティッシュを何枚か取り、フィオの目を拭い鼻をかんでやる。
「だいたい、どうやってディノさんはここに?」
「え、それはこれで」
 ディノは小さな黒い物体を取り出した。
「はい」
 慶子はディノから小さな受信機らしきものを奪い取り、床に捨てて金属バットで叩き潰した。意外と脆く、助かった。
「あ……あああっ」
 ディノが青ざめて叫ぶ。
「ほら、これでこの人さえどうにかすれば、追っ手をまけるわよ」
「本当に?」
「どうせ発信機かなんかつけられてるんでしょ」
 フィオは自分の身体を見回した。
「そんなんじゃありません! あれは帰りの門の鍵っ」
「門?」
「ああ。ちょうどここの庭の木の辺りに門があったんだ。門の位地はすぐに変わるからもうすぐ消えるだろうがな」
 純粋な目をしてフィオが言う。つまり、出た目の前にここがあったということらしい。そう思うと、変な男のいる場所にでていたらと思うと、突然背中が寒くなる。
 しかし、現実は女の慶子の元に出た。彼は実に幸運の持ち主だ。
「よかったわねぇ、帰れなくなったって」
「本当か?」
「まっ、しばらくここにいなさいな。それで俗世がいやだと思ったら何とかして帰ればいいし。何も知らないお飾りの統治者なんかに、誰だってなりたくないしね」
 フィオは微笑む。
 そうしていると普通に可愛い。慶子はタンスにしまってある小さくなった服を思い出す。似合いそうな服がいくつもある。妹が出来たと思えばいい。一人暮らしにも飽きていたところだ。経済的には余裕もある。
「そんな……」
 ディノはどう見てもただのつぶれた黒い箱の前に座り込み、未練たらしくそれをいじっていた。
「あんたもいていいから」
「そういう問題じゃありません」
「んじゃ出てく?」
「そういうわけにはいきません。フィオ様をお守りするのが私の役目です」
 慶子はふっと鼻で笑う。
「なあなあ。なら、しよう」
 突然わけの分からない事を言い出すフィオ。
「何を?」
「ええと、せ……せ……なんて言ってたっけ? とにかく気持ちいいことがあるって」
 ディノの顔色がさらに悪くなった。当然であろう。慶子としても、そういうのは勘弁である。
「気持ちいいこと……そうねぇ。じゃあ、お風呂に入れば」
「風呂? そんなのいつも入ってる」
「ふふん。うちのはちょっと違うのよ。ジェットバスよ」
「ジェット……?」
「そう空気を噴出してね背中に当てたり足の裏に当てたりすると気持ちいいのよ」
「……する」
「そう。ならお風呂場に行こうねぇ。あ、ディノさんは適当に食べて飲んでいいよ」
 その後、フィオが一人で何かをした事がない事を知るのだが、それはそれ。人間やれば出来るものである。恥じては教えてやればいい。
 ちなみに、フィオは本当に下にもちゃんとついていた。少しだけショックだった。


 翌日。
 慶子は久々に早起きして朝食を作った。
 広い家なので二人にはバラバラの部屋を与えた。
 とは言っても、ベッドがある部屋は現在海外に出張中の父とこれまた海外に遠征中の兄の部屋だけなので、二人をそれぞれそこに押し入れた。
 しばらくすると、どすどすという大きな足音が聞こえた。
「おお、慶子殿。おはようございます」
「おはよう。父さんのベッド、平気だった? 呪われなかった? 変な仕掛けなかった?」
「そんなベッドに人を寝かせたのですか!?」
「いや、父さんのベッドだから、ひょっとしたらと思って……。まあ、睡眠の場所に変な仕掛けはしないだろうから平気だって。掃除したときも変なことはなかったし。寝たことがなかったから不安だっただけで」
 慶子は笑ってトーストにマヨネーズを塗りつけサンドイッチを作る。
 しばらくすると、今度は軽い足音が聞こえた。
「慶子っ」
 慶子のネグリジェを着たフィオがリビングのドアを開けて入ってきた。少し大きめなのだが、それがかえって可愛かった。
「おはよう」
「慶子、これなんだ?」
 と見せたのは、男女が裸で絡み合う姿の描かれた漫画の表紙。
 ディノがそれを奪い取り、慶子の側まで来ると眼前にそれを突きつけた。
「何ですかこれはっ」
「いや……まさかそんなもの隠してあるとは……」
「何なのだ、それは。何かいけないことなのか?」
 幸いにも、この世間知らずのお子様は理解していなかった。慶子はそれを迷うことなくゴミ箱に捨ててフィオの肩に手を置いた。
「中身は見た?」
「少しだけだが。どうしてこの絵は裸で抱き合っているんだ?」
(セーフっ)
 大して見ていないか、想像もつかないか、とにかくまったく理解していない。
「これはただの芸術だから」
 その言葉にディノが何か言いたそうに口を動かしたがすぐにやめる。
「そうなのか」
「でもいいものじゃないわね。こういう事をする人達は、ろくな育ちをしていないやつらね。こんなことはしていけませんって悪い見本ね。あたしはしないし、フィオもしちゃだめだからね」
「でも、どうしてそんなことするんだ?」
「ええと……」
 言葉につまるとフィオは唐突に慶子に抱きついた。
「うん、やっぱり女の方がいい。男は硬くてディノ以外は嫌いだ。その女はどうしてわざわざ男に抱きついているんだ?」
「……えと、きっと抱きつかれてるのよ。どうでもいいけど胸触るな」
「どうしてだ?」
「女性の胸に触るのはいけないことなの。あんたも半分男なら、絶対にしちゃだめだからね。抱きつくのも」
「どうしてだ?」
「しちゃいけないの。そういう事をしている人を見ても知らない振りをしなくちゃだめだからね。じゃないとフィオまで恥ずかしい人に見られるから。無理矢理されてたら人を呼ぶべきだけど。フィオも知らない変な人に抱きつかれたら恐いでしょ?」
「分かった……」
 フィオはしゅんとする。
(人肌が恋しいのかな)
 それもそうだろう。ディノはフィオの側にいるが、決して触れようとしない。
「じゃあ、どれぐらいまでならいいんだ?」
「ベタベタ触らなければいいよ」
 フィオは素直にそれを信じ、慶子のわき腹をつかむ。
「……あ、やっぱり手とかにしよう。女の人の腹は触っちゃダメ」
「なぜだ? 肉があるからつかみやす」
「いいからっ」
 慶子はフィオの肩をつかみ脅迫する勢いで彼を黙らせる。
「……慶子……怖い」
「女はねぇ、肉つままれれば怒るの。全員あんたみたく細くないの。苦労してるの。わかった!?」
 フィオはこくこくと頷いた。分かればいいのだ、分かれば。
「ほら、朝ごはんすぐ出来るからテレビでも見てなさい」
「昨日のあれか。見る」
 基本的には素直でいい子なのだ。
 朝の子供番組を発見し、フィオは一緒に踊り出していた。体は十分大人に近付きつつあるのに、中身は子供なのだ。幼いからこそ何にでも興味を持つ。わがままでいて素直。
「……先が思いやられる」
「だから帰そうとしたのではないですかっ」
「それは可哀想でしょ。さすがにまったくの禁欲生活は辛いよ。ああ、でもそのうち教えてやらんとねとかも思うんだけど、その時やらせろとか言われても困るから、やっぱり誤魔化し続けるか……」
「……もういいです」
「あ、その前にこれ運んでタダ飯食らい」
「……はいはい」
 慶子は皿を運ぶディノを見てくすりと笑う。
(ああ、夕飯何にしてやるかな)
 肉にしよう。やはりステーキがいいだろうか? 焼肉、すき焼きという手もある。
 時間はあるのだ。本人に選ばせればいい。
 ちょうど妹が欲しかったところなので、教育しなおせばかなりいい妹に育つに違いない。
 それが大変なのだろうが。

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