渚の竜
後編
海の中を進むと、数人の人魚とすれ違う。彼らはこちらを見てひそひそ話をした。中にはローシェルに熱い視線を向ける人魚もいる。
「見られてっぞ」
「だろうね。海の中は楽しいけど、ずっと住んでる彼らにとっては退屈な場所だから、外から来る者が珍しいんだよ」
フィロはふぅーんと相槌を打ち、人魚達に手を振る。その様子が可愛くて、イーシェラはくすと笑った。ローシェルは人魚達ではなくイーシェラを見て、笑う。彼はなぜいつも彼女を見て笑うのだろうか。時折、彼女は自分が何かおかしなことをしているのではないかと不安になる。人から見たら笑ってしまうような癖があるのかもしれない。傍目から見て明らかに変なら、ローシェルも何か言ってくれるだろうから、大したことではないのだろうが。
「大人の姿って、いいよな」
「気になる女の子でもいた? 君も男の子だね」
「それだけである程度認められるだろ。おいらいつも子供だからなめられるし、女達は可愛いねぇって言うんだぞ」
「それは僕も同じだったよ」
「あっという間に終わっただろ。オイラはまだ続くぞ」
「いいじゃないかな。僕も子供の頃に戻りたいよ」
「そーかぁ?」
「ああ。大人の利点なんて限られてくるしね」
「そーかぁ?」
「そうだよ。イーシェラは子供だから、いっそ僕も子供だったらと」
「はは。そりゃ悶々としなくてもいいもんな」
二人の話はよくわからない。男同士だから気が合うのだろう。イーシェラは疎外感を覚え、じっと二人を見る。
「イーシェラ様は地上を旅していらっしゃるのですよね」
セルスはしょぼくれる彼女を見て声をかけてくれた。
「人間の街は、どんな風なのですか? 人間の視点から見た街の話は聞いた事はありますが、近い種族の方に聞いた事はないので、ぜひ感想を聞かせてください」
彼はキラキラと輝く瞳を彼女に向ける。彼は陸に対して憧れがあるのだろう。あまりにも水の中に慣れてしまうと、危険な陸地にあこがれるてしまう水妖が時々いるらしい。そんな水妖が陸に行くと、慣れないのでひからびてしまう事もあるそうだ。水妖は普通の生物よりも多くの水分摂取を必要とする。それはイーシェラにも言えるが、彼女は竜なので一日二日で死ぬような事はない。もしもの時は自分で作り出せる。だが、人魚はどうなのだろうか。乾けば二足歩行のできる足を持つが、本質は魚に近い気がする。
「別にあまり差はないと思うけど思うけど」
「いいんです。聞かせてください。人間の口から聞くと、彼らにとっては当たり前すぎるせいか、あまりにも漠然とした内容にしかならならないんです。人間の街はどのようなものですか?」
イーシェラは考えた。彼女が見た人間の街。その時自分が思った事。
「土の家を作り、地は固められ、時に石を地に敷き詰めるの。むき出しの地面は舗装して、家を造る土は水を混ぜて形作られ、最後に焼かれてるの。それはもろい石のようになっていて、好きな形にできるからとても便利なの。安価で組み立てやすくて、普通では壊れないけど、道具を使えば壊す時も簡単でしょ。そうそう、お皿とかもそうやって土から作るのよ」
「へぇ」
陶磁器を使用する妖魔というのは極端に少ない。だいたいは自然にあるものを利用する。手を加えるとしても、ナイフなどで加工して使う。手の込んだ者を作る時は、魔具などの利用価値の高いものだけだ。
陶磁器とはすぐに割れるくせに高価で価値と言えばせいぜい見目がよい事という、そんな贅沢なものを作り商売をするのは、人間だけだろう。
「道で変なものを売っているし、虫の巣のような何人もの人が住める大きな建物が立ち並ぶの」
「虫の巣のようなですか?」
「ええ。人間は几帳面だから、綺麗に四角い、真っ直ぐの建物よ。アパートって行って、そこにいくつものきっちりと区切られた部屋の群れがあって、何人もの人がその部屋の群れごとを借りて住んでいるの。それを貸し出す事も商売なの」
「へぇ」
彼は先ほどからへぇとばかり言っている。退屈なのかと思ったが、どうやら本当に驚いているようだ。
「あの感覚は、口では説明できないわ」
「そうですか。是非一度行ってみたいものです」
「一人ではやめておいた方がいいわ。慣れた人間と一緒でないと、ひどい目に遭うかも知れないし」
「そうですね。それに母の目があり、行けそうにもありませんが」
彼は寂しげに目を細めた。一日ぐらい連れていってやれればいいのだが、彼の家庭の事情もあるので安易にすすめる事はできない。
「あ、イーシェラ様、あちらをご覧ください」
セルスが指さす方を見て、イーシェラは目をこらす。ゆらりと景色が揺れたのは、これが水中だからだろうか。それとも──
「あれが私たちの城です」
ある一点を過ぎた時、彼女の目に何かが映る。揺れる建造物があった。それの背は低く、わずかに輝き、わずかに揺らぎ、すべらかな印象を受けた。その建造物は城というイメージには当てはまらない。むしろ要塞に見えた。よく言えば宮殿だろう。
「面白いのね」
「ええ。中はもっと面白いと思いますよ。来る人はだいたい驚きます」
外観から中の様子を想像する。それはらちがあかないが、しばらくの間楽しめた。どこからでも入れそうだが、結界が張られていて石が積み上げられたアーチをくぐって正面門から中へとはいる。
「ローシェル様、ようこそ」
門番がローシェルへと微笑みを向けた。ローシェルは本当に知り合いが多い。少しうらやましい。
中は思ったよりも普通だった。魚が泳ぎ回っている光景を想像していたのだが、いるのは妖魔ばかりだった。
「すごい。魚がいない」
「人の家の中に、虫も獣もいないでしょう。それと同じですよ」
「そうなの?」
この城というよりも、宮殿というほうがしっくりくる建物は、天井はあるが大した外壁はなく、結界がなければどこからでも入れるという見た目は開けた構造なだけに、関係者以外入れないというのは不思議だった。中は人間の居住のようなしっかりとした壁はなく、淡いヴェールのようなもので仕切られていた。それは天井から下がっていて、触れると奇妙な感触だ。生き物の皮膜のような、奇妙な感触。つつくと伸びて、ある程度伸びると力を込めても伸びないどころか裂けない。壁材に触れると、つるつるとして想像通りすべらかである。
「すごく綺麗ね」
水の中の印象が崩れない。ドーム型になっていたので、奥へ行くほど迷路のような印象を受けた。
そして不思議なことにこんなに薄いにもかかわらず音が遮られ、近いところにいた妖魔の声も壁を隔てた時のように聞こえづらかった。
「うっへぇ。へんなとこ」
「はは。フィロにはこういう場所は合わないかな」
「なんつーか、こう……ひっかきたくなるんだよ」
イーシェラも同感だった。ひっかきたい。切り裂きたい。この膜で遊びたい。そんな子供心が鎌首をもたげる。他人の家なので我慢するが、これが自然の者なら二人で遊んでいるところだ。危ない。
「けっこうそういう方がみえるんですよね。地上の方はこういうのを見るとつつきたくなるんでしょうか」
ひょっとしたら、生き物にはそういう心理があるのかもしれない。
イーシェラとフィロは誘惑に耐えながら奥へ奥へと進む。すれ違う妖魔は様々で、人魚はともかく、魚人と呼ぶべき鱗だらけのの妖魔には驚いた。その中にも二種類いて、人に近い姿をした鱗の美しい魚人と、ごつごつとした鬼のような顔をした魚人がいる。前者はイーシェラが半分本性を現した時の姿に似ていた。竜になるのはエネルギー消費が激しいためにかえって疲れるが、人の姿はあまりにも気を抜くと鱗が出てしまう時がある。気を抜いた時、一番楽な姿の時に似ていた。他には竜にも似た子犬ほどの小さな妖魔や魚型の妖魔など様々な種がいた。
「海って、川や湖とは比べものにならないぐらい色々な生き物がいるのね」
「そうです。とくにここは妖魔が多いですね。深淵の魔女……ローシェル様の母君が人の手が入らぬよう管理してくださっているので、人間が滅多に来ないのでとても平和なんですよ」
人間はよくも悪くも世界を動かす。それにしても、人間がいなければ平和というのは、彼らの穏やかな性質をよく現している。人間がいなくても、争いは起きる。
「さあ、こちらです」
カーテンのような幾重にも重なる皮膜をくぐり、そのホールへと足を踏み入れた。謁見の間というのだろうか。広い空間に、たくさんの妖魔がいて、中央には玉座がある。そこに続く絨毯のようなものは、時々波打っている。その絨毯のようなものを追うと、玉座が再び見えた。そこには一人の女性が腰掛けていた。
──ああ……似てる。
顔立ちがセルスに似ている。セルスは母親似のようだ。
「よくいらっしゃいました、ローシェル様」
「お久しぶりです、クイーン」
「魔女殿はご健勝ですか」
「おかげさまで」
「今日は可愛いお嬢さんをお連れですね。水竜とは珍しい」
イーシェラは水中なので、気を抜いた姿。半竜の姿をとっている。それでも一目で見抜くなど、かなりの経験があるのだろう。
「水竜のイーシェラと、地狼のフィロです。今回はイーシェラに一度海を見せたいと思っておじゃましました。彼女も水妖ですから、クイーンと面識があれば助けになることもあるかと思いまして」
「そうですか。ご両親はどちらの方ですか」
「いませんよ。始祖です」
「まあ……それは素晴らしい。では、いつまででもいるとよろしい。ここには何人か始祖もいます。陸に慣れているのなら、魔女殿の手の者がすぐ側にもいますし、悪い環境ではないでしょう」
思いもしていなかった提案に、イーシェラは目を丸くする。
ここに住む。
想像して、素晴らしいものだろうと思った。しかし、今ほどの鮮明な色はない。見知らぬ場所へ行く時の、あの高揚感はない。
そこは絵の中のようだ。美しいが、もの寂しい。
「ありがとう。でも私は色々なところに行きたいから」
「なぜ? 人と出会う事もあるでしょうに」
「人との交流は楽しいから」
「なぜ? 人などわたくし達の事など家畜以下だと思っているというのに」
「そんなことはないわ。中にはひどい人もいるけど、私を育ててくれた人間はよくしてくれたわ。それにローシェルも人間よ」
「ローシェル様が人間? あなたは知らないのですか? この方は風神の血を引く方です。故にこの方もまた神です」
イーシェラは我が耳を疑った。
神、というのは何だろう。神という存在は知っているが、神とは何だろう。
「神!? こいつが!?」
フィロが大声を出した。神。この世界の創造主が作り出した子供達。他の生物よりも遙かに優れた種。母なる創造主に最も近い存在。
「そうなの?」
「ん……まあ」
案外、大したことがないものらしい。
「でも、完全にというわけではないよ」
「そうなの?」
「ああ。大したことはないよ。父親がろくでなしなだけだから」
彼は風に好かれている。彼の嫌う父親とは、風神の事だったのだ。
「母さんは人間だよ」
「そうなの?」
「ああ。魔女だ」
「セウルと同じね」
「そうだね」
ローシェルはイーシェラの頭を撫でた。セウルや大きくなったヨウルは、よくこうした。彼もこうする。
「クイーン、僕らはもう少し色々なところに回るつもりです。残念ながら、彼女は置いていけない」
「そうですか。あなたと共にいるのなら、反対する理由などありません。ただ、人間達が彼女に悪さをしようとしないかが心配です」
「平気ですよ。人間っていっても、ピンからキリまであります。竜だからと差別する者ばかりではないし、利用しようとする者ばかりでもないですよ。あなたが思うほど、世の中は冷たくはない」
彼女は目を伏せ、唇を歪める。
「確かにそうです。信頼に値する者がいれば、信じていても裏切る者がいる」
彼女はイーシェラ達の少し前の床を指し示す。
「イーシェラ殿。一つだけ聞いて欲しい。
前の王、私の母はそこで死にました。魔女殿の弟子であった男に食い殺された」
「…………」
「不死を得るために」
「どういう意味? あなた達を食べて不死になるというのはデタラメでしょう。一時的に肉体の再生能力は上がるけど、不死にはならないわ。寿命が数十年延びる程度でしょ? 魔道師なら、知らないはずがないわ」
ならば、食らう意味などない。一時しのぎでしかない上、人魚達を敵に回す。人魚達は水のあるところ、どこまでも追うらしい。復讐の方法を探している時、水精に聞いた。
「禁術を使う際の緩和剤として利用されました。私たちの肝には、あなたのおっしゃる通り、肉体の再生能力を高める力があります。
完全なる不死を得る変わりに、身体が朽ちる禁術を使う際、あの男は母を食らいその副作用を制しました。それ以来、魔女殿は身内以外はここに連れぬようになりました」
それでも、ローシェルの母は信じているのだ。
「その人は?」
「死なぬ強き者に復讐などできません。無駄に血を流すより、放して永遠の孤独を与えると結論づけました」
彼女は言うと、ふと天井を見た。
よく見れば、ここは天井が最も高い。ここが中央なのだろうか。
「私の妹は言う事を聞かずにあの男の元へと行き、情が移ったと聞きます」
「情が移った?」
「分かりません。なぜ母を食い殺した男の子など生めるのか」
イーシェラは驚いた。それはわからない。セウルを殺した男のことは、今でも憎く許せない。哀れな姿を見ても、許す気にはならなかった。
もしも今目の前にいたとして、許せるか。子など産むか。
冗談ではない。
「世の中、本当に何があるか分からないのね」
「イーシェラ殿は愉快なことをおっしゃる」
「?」
彼女がなぜそういったのかは、分からない。だが、彼女はとても悲しそうだった。
──私は、心の醜い女ね。
どうしたら、そこまで許せるのだろうか。
わからない。
「イーシェラ、そろそろ行こうか」
それでも、かまわない。いつかローシェルが教えてくれるかも知れない。
「ええ。おじゃましました」
「よい旅を」
女王は軽く手を振り見送る。
寂しそうな女王様。
ローシェルに合う前の自分は、比べものにならないほどひどかったのだろう。
夕食は美味しかった。ヨハンの料理の腕はまだまだだが、素朴な味に仕上がっていて、ヨウルの作ってくれた料理を思い出した。魚も美味しかった。生のまま食べるにしても、手が汚れないように一口サイズに切ってしまう人間に、より繊細な一面を感じた。やはり人間は細かい事が好きだ。
夕食を食べた後、イーシェラはなんとなく屋敷の外に出て、絶え間なく波打つ海を眺めた。波打ち際に立つと、海の音、色、匂い、どれもが水面の中とは違う美しさを持っている。
昼間の海もいいが夜の海も好きだ。月明かりのおかげで、美しい海がよく見える。
心地よい。
しばらくそうしていると、背後から近づいてくる砂を踏む音を耳にした。
「イーシェ」
「何、ローシェル」
イーシェラは振り返り彼の元へと歩いた。彼は砂が乾いている場所に腰を下ろし手招きする。イーシェラも彼にならい腰を下ろした。
今は月の光を浴びて大人の姿をしているが、それでも彼との身長差は縮まった気がしない。
「そういえばローシェル、あなた背が高くなった?」
「そうかな? まあこれでもまだ成長期だからね」
「ローシェルっていくつ?」
「十八歳だよ」
「若いのね。私よりもしっかりしているのに」
彼はくすくすと笑い、イーシェラの方に腕を回した。彼はイーシェラが大人の姿の時は、こうする事が多い。子供の時は手をつなぐのだが、体格が違うと触れやすい方法も変わるのだろうか。
「僕はそんなにしっかりしていないよ。ある程度の経験とか力があるから、落ち着いて見えるらしいけどね」
「そうかしら」
「あとは性格とか物腰とかのせいでしかないよ。色々と思い悩む事も、先走る事もあるし。我慢できない事もある」
彼のように優れた存在でも、そのような事があるのだ。彼のすべては行動に自信が溢れているように見える。しかし彼でも悩みながら行動しているのだろうか。
「焦る事もある」
「何か焦る事があるの?」
「君を見ていると、ね」
イーシェラは首をかしげた。彼を焦られるほど、彼女は突拍子もない事をしているのだろうか。確かに、彼はイーシェラが魚や動物を生のままかじりつく事を気にしているが、そのせいなのだろうか。それほどの事とは思っていなかった。
「イーシェラ、僕の事をどう思っている?」
「どうって、大好きよ」
彼はふいに顔を背け、手で覆う。
「ローシェル?」
「イーシェ……」
彼は再びイーシェラへと顔を向けた。彼は何を言おうとしているのだろうか。
彼が彼女の顔を覗き込んでくる。その目はなぜだか恐い。
「私の事、嫌になった?」
「違うよ」
「じゃあ」
「好きだよ」
あいた手で髪をすき、頬に触れた。
「じゃあ、何? 私、そんなに変?」
「いいや。そんなことないよ」
では他に何があるだろう。
「可愛いな、イーシェは」
「ローシェ?」
「イーシェラ、僕の事好き?」
「ええ、好きよ」
「どれくらい?」
「どれくらいって?」
「僕は君が一番好きだよ」
「私も好きよ。一番好き」
ローシェルは肩に置いた手を腰に回し、イーシェラを抱き寄せた。彼の鼓動が伝わってくる。熱い血潮が彼の生を感じさせる。
「君がもう少し大人になってからって考えてたのに」
「私が大人になってから……何が?」
「君がもう少し経験して、他の選択肢を見つける可能性がなくなったぐらいの時に」
「何?」
「イーシェ、僕は完全な神ではないって言ったよね」
「ええ」
完全かそうでないか。彼女にその基準は分からない。彼は人間に見えるから。
「僕には二つの道がある。一つは父親の血を受け入れて、普通では死なない身体になること。二つ目は母の血を受け入れ、老いも病もない身体になる事」
「……ローシェルは……どちらがいいの?」
「どうして欲しい?」
「ローシェルの事だから、私が口を挟む事ではないわ。長く生きるのは、辛い事の方が多いから」
たくさんの死を見る。別れがある。もしもローシェルが死んだら、そう思うと──
「イーシェはどちらが嬉しい?」
「嬉しい……というのはないわ。でも、死んで欲しくない」
「どうして?」
「好きな人には死んで欲しくないでしょ。一人になるのはもういや」
諦められると思っていた。先があるから。生き物は子孫を残して自らを残す。それがあるからと思っていた。しかし失ってみれば、諦める事などできなくて、恐慌に陥った。安定のために復讐を誓った。復讐では気は晴れなかったが、ある程度の安定は得た。
「イーシェラ、僕と一緒にいてくれる?」
「ええ。どうしてそんなこというの?」
「ずっと一緒?」
「そうだと嬉しい。でも、そう思うのは私のわがままだから」
「僕も一緒にいたいよ。イーシェラと」
イーシェラはローシェルの腰に手を回した。生き物の鼓動が好きだ。なぜかとても心地よい。暖かくて心地よい。
「ずっと一緒にいてくれる?」
「ローシェルが迷惑じゃないなら」
彼はくすりと笑う。いつものローシェルかと思ったが、やはりいつもとは違う。
「イーシェラ、君が意味をよく分かってないみたいだから言うけど」
「?」
「愛してるよ」
意味を理解する前に、ローシェルの顔が近づいてきた。
口と口が合わさり、イーシェラはさらに混乱する。
この行為の意味を考え、セウルに教えられたことを思い出す。
唇どうしのキスは恋人のキスだと。
ローシェルの言葉の意味を理解して、イーシェラの頭が白くなる。普段は人とは比べものにならないほどゆったりとしているはずの鼓動が、まるで人間のように速くなる。冷えていた身体が、火のついたように熱くなる。
顔が離れると、ローシェルはイーシェラの髪や頬を撫でる。
「僕じゃいや?」
「え……えと」
「僕の事が嫌なら言ってね」
「そんなこと……び……びっくりした」
「可愛い」
今度は額にキスをされた。
いつもの彼ではない。何が違うのだろう。
「ゆっくり、歩いていこうね」
「……うん」
なぜか彼の顔を直視するのが恥ずかしくて、うつむいた。頬を彼の胸に押しつけると、彼の鼓動もいつもよりも早い事に気づいた。
ローシェルもイーシェラと同じようになっているのだろうか。
イーシェラはローシェルの服──脇腹の辺りをきゅっとつかんでいた。
うつむいて顔を合わせようとしないのが、大きな進歩と言っていいだろう。部屋に戻る時も、一緒に寝るかと聞いたら慌てて首を横に振ったのはさらに大きな進歩だ。
「なにニヤニヤしてんだよ、変態」
「今は機嫌がいいから、何を言われても怒らないよ」
「イーシェは今はあの外観だけど、まだ子供なんだぞ。いかがわしい事すんじゃねぇぞ」
「いかがわしい事なんてしてないよ」
「ハグは立派なセクハラだぞ」
「見てたの……」
「無理矢理変な事してんじゃねぇ」
「変な事?」
「……き、キスしてただろ」
「フィロ、そういう時は何も見ずにそっと立ち去るのが大人だよ」
「オイラは子供でい」
「年下なんだか年上なんだか」
見た目は可愛い子供で、思考も子供じみているところがあるが、それでも経験があり大人じみたところがある。人間の成長をしているローシェルには理解できない。
「フィロも可愛いなぁ。女の子でなくて残念だよ。女の子ならもっとうんと可愛がったのに」
「てめぇにはイーシェがいるんだろ」
「彼女は愛でる対象だから、君とは違うよ」
「ああ、そうかよ」
ローシェルは靴を脱いでベッドに転がる。
軽率だったという思いもあるが、彼女を見ていたら誰かにさらわれるのではないかと不安になった。彼女がローシェルを慕っている事は自覚していたので、それにつけ込んだ。
「思ったより、いい反応だったな」
「い……いい反応?」
「フィロもはやく彼女ができるといいな」
「ほっとけ。オイラはまだ子供だって言ってんだろ!」
少年姿の彼は唇を突き出して抗議する。可愛い十毛ながらからかっていると、ドアをノックする音が部屋に響いた。ヨハンだろうかと思い、室内履きをはいてドアへと向かう。
「なに?」
ドアを開けると、先ほどよりは少しだけ幼くなったイーシェラがいた。年の頃はローシェルよりも少し下ぐらいだろうか。これぐらいの姿が理想だった。
彼女はもじもじと太ももを擦り合わせ、ちらとローシェルを見上げた。
「やっぱり恐いから、一緒に寝てもいい?」
ローシェルの思いは、はたして彼女に届いたのだろうか。
やはり男として見られていないというこの事実に、彼は嘆くことなく彼女を部屋に入れた。
どうせこういうオチだと心のどこかで思っていた己が憎らしかった。