渚の竜

前編


 フィロはくんと鼻を鳴らして走り出した。
「早く早く!」
 潮の香りというものに彼は耐えきれなかったようだ。
 彼は地妖だが、泳ぐことが好きだった。本能的にそこが好きな場所なのだと感じているに違いない。
「フィロ、急がなくても海は逃げたりしないよ?」
「でもさ、早く見たい」
 ローシェルはくすくすと笑うと、イーシェラを振り返り手を差し出した。イーシェラがその手を取ると、軽々と抱きかかえられ、ふわりと宙に浮いた。
「あわてん坊なフィロはばつとして走りなさい」
 ローシェルが言うと、少年の姿をしていたフィロは獣へと戻る。
「飛ぶのかお前! 卑怯な奴!」
「悔しかったら追い抜いてみなよ」
「くっそ。オイラが男だから差別する気だな!? 全力で走ってやる!」
 地狼の全力疾走。地狼とは下手な妖馬よりも足の速い生物だ。ローシェルは風を操り障害物のない空を行くにもかかわらず、フィロはそれから離れずついてきた。
 空を行くと、海がよく見えた。
 緑がかった青。砂浜に岩場。寄せては返すのが噂に聞く海の波だろう。白い泡がとても綺麗だ。潮の香りとやらも心地よい。
 しかしなんと広大なことか。どこまでも海だ。向こうが見えない。その広大さは、イーシェラを驚かせるには十分だった。
「…………」
「気に入った?」
「ええ、すごい」
 しばしイーシェラは海に見入った。緑かがった白の混じる美しい青。鳥が飛んでは水面に飛び込み、獲物を捕らえては舞い上がる。
 なんて綺麗な場所なのだろうか。
「あそこに屋敷が見えるだろう?」
 ローシェルの視線を追うと、赤い屋根の屋敷が見えた。海に臨み、海を一望できる贅沢で素晴らしい屋敷だった。
「素敵なお屋敷ね」
「僕の母の別荘なんだ」
「ローシェルのうちは裕福なのね」
 彼の育ちの良さや、この別荘を見る限り、かなりの資産家の息子であることはイーシェラにも理解できた。
「裕福という次元の問題ではない……かな? 本人が望めば、いくらでも貢いでくれる人たちがいるからね」
「まあ。そんなに美しい方なの? ローシェルは母親似なのね」
「いいや。僕は父親似かな」
「素敵なお父様なのね」
「いやぁ……できれば血のつながりを取り消したいぐらいには、ろくでもない父親かな」
「そうなの?」
「うん……。ちょっと、浮気性でね。ああはなるまいと心に決めているんだけど……。あ、イーシェは気にする必要はないよ。僕が守るから」
 彼は微笑み、周囲を共に空駆ける精霊達魅了する。それを向けられるイーシェラは、少なからず嫉妬された。彼は風からとても愛されているのだ。
「イーシェ、まずは屋敷に荷物を置いてこようね。焦っても海は逃げないから」
「ええ。あそこには誰かいるの?」
「いないよ。親切な精霊や妖魔が泥棒が入らないように気をつけてくれているけどね」
「人望がある方なのね」
「そうだね。人望はあるかな」
 ローシェルはくすくすと喉を鳴らし、そして走るフィロに声をかけた。
「フィロ、海の前に僕の別荘に行くけど、来る?」
「えぇ!? 先に海だろ!?」
「荷物あるだろ。それに、準備もいる」
「準備?」
「僕はこの恰好では海に入れないだろ?」
 ローシェルは剣を持ち、マントを羽織り、特殊な織り方をされた燃えにくい服を身につけている。これでわざわざ水の中に入るとしたら、正気を疑うところだ。
「ちぇ。まあいいけど。オイラは年長者だしな」
「はは。ありがとう、お兄さん」
 イーシェラは二人のやりとりについ笑った。
 人の街も楽しかったが、自然の中も楽しい。綺麗な水が彼女を呼んでいる。
 ほんの少し待てば、あの中を泳ぎ回ることができる。
 はやる心をなだめることが、なかなか大変であった。


 屋敷に到着すると、玄関の鍵が開いていることに気づきローシェルは顔をしかめた。
「母さんが来てるのかな?」
 しかし日焼けが嫌だと冬にしか来ない女性だ。日差しの強いこの時期には、よほどのことがない限りは来ないだろう
 ローシェルが屋敷に入ると、掃除された形跡のある玄関ホールが目に入った。絵画の額縁にほんの少しほこりが積もっていたりと、やや詰めが甘い。
(お弟子さんかなぁ?)
 母は身寄りのない子供を拾っては、魔術を教える無類の子供好きだ。子供の作業なら、これも仕方のないことである。
「かあさーん? いるぅ?」
 ローシェルが呼びかけるが、子供の声すらしない。
「子供……海かな」
 海水浴をしたいという子供のために来たという可能性もある。ローシェルはそう考えて、リビングに向かった。
 比較的大きな屋敷だと言えるだろう。常に人が住んでいるわけではないので、飾り気はない。カーテンもかなりの年代物だ。
 リビングにつくと、やはり人の住む気配がした。
「立派な部屋ね」
「ああ。調度品は古いものばかりだけど、とてもいい品だよ。ただずっとあるだけだけど、いつの間にかアンティークになっていたみたいだね」
 だから値段も高いだろうが、それは問題ではない。
 ローシェルが荷物を置くと、人の作った家具などに興味のないフィロは、せかすように一声鳴く。
 ローシェルははいはいと言って隣の部屋へ行き、濡れてもいい服装に着替た。それからすぐに玄関に向かった。しっぽを振ってついてくる彼は、狼と言うよりも無邪気な子犬であった。
 イーシェラは落ち着いたもので、フィロを暖かく見守っている。
「気分は息子を初めて海に連れてくる父親ってところかな」
「何言ってんだ。年下のくせに」
「年上だったら、もう少し大人になろうね」
「オイラはまだ子供なんでい」
 成長の遅い種族というのは複雑なものだ。心は大人に近いのに、身体は子供で能力も子供。人は子供のうちから大きくなってしまうこともある。動物など大人になるのはそれこそ彼らにとっては星の流れ落ちるのと同じほど、瞬く間なのかもなのかもしれない。
「おう?」
 突然しっぽを振って歩いていたフィロが足を止めた。
 ローシェルは前を見ると、見知らぬ男性が立っていることに気づいた。
 見知らぬ、中年から老人になろうとしている年代の男性だった。その右肩には銛を、左手には大きな魚を下げていた。身体はとても元気なようだ。
「……ど……どなた様で?」
 子供ならともかく、なぜ老人がいるのだろうか。泥棒などであれば、住み着くことは不可能と言っていい屋敷である。ほぼ確実に母の許可を得てここにいるのだ。
「ひょっとすると、ローシェル様でいらっしゃいますか?」
「え? 誰?」
「初めまして。私の事はヨハンとお呼びください。あなたの母君から、この屋敷の管理を任されたものです」
 彼は生真面目に言うと、背筋を伸ばしたまま一礼した。
「母さんがあなたを雇ったんですか?」
「正確には、住まわせて頂いている代わりに、管理をしています」
「そーなんだ」
 ローシェルのことを知っているなら、それは本当なのだろう。顔を見て母の血縁者だと見抜く事は、母の関係者の証明となる。父は男性の前には滅多なことでは姿を現さない。母と親しい間柄でない限りは。
 ヨハンは自分を見つめるイーシェラとフィロを見て、頬をわずかにゆるめた。
「可愛らしいお嬢さんと犬ですね」
「犬違う! オイラは狼!」
「…………話す犬ですか。珍しい。おっと、狼でしたね」
 フィロは不服そうにヨハンを見上げた。しかし次第にその視線は美味しそうな魚へと移る。
「海の魚か。面白いな。変な色で変な顔だ」
「本当に」
 二人は目を輝かせてそれを見つめる。その様子にヨハンは驚き、しかしすぐに目尻にしわを作る。
 子供と動物は人の心を和ませるものだ。
「ええと、ヨハンさん? 僕らはこれから海に行ってくるよ。女王にも挨拶しようと思うし」
「では、夕飯はいかがいたしましょうか」
 彼は事務的な口調で言う。どうやらお堅い性格のようだ。
「じゃあ、お願いします」
「かしこまりました。では、後夕飯の時間までにはお戻りください」
「はい。それじゃあ、あとはよろしくお願いします」
 ローシェルは礼をして、二人を連れて屋敷を出た。
 夕食の準備をお願いしたのは、そうしないとこの野生生活の長い二人が、海の中で食事をしかねない。
「フィロは潜れる?」
 ローシェルは足下をそわそわしながら歩いているフィロに問う。
「ん、まあ多少なら」
「一時間は?」
「できるわけないだろ。オイラは魚じゃなくてただの地狼でい」
「じゃあ、人魚達の秘薬をわけてもらおうか」
「人魚の秘薬?」
 フィロは好奇心丸出しで返した。
「水中でも呼吸ができるように。魔術でも可能だけど、魔力への耐性が高い地狼の君に対して、付属魔法をかけ続けるのは難しいからね。それにあれは意識のない微力な精霊をいくつかまとうような魔法だから、あんまり使いたくないんだ、僕は」
「つまり、水の中で息ができるんだな?」
「そういうことだね。でも、い……狼の姿だと潜りにくいから、人の姿になった方がいいよ。君の服もちゃんと持ってきたから。もちろん、犬かきも可愛いと思うよ」
「犬犬言うなよ。オイラは傷つきやすいお年頃なんだぞ」
「はは。僕よりも生きている時間は長いっていうのは、君の言葉だよ」
「オイラは繊細なんでい」
 ローシェルは彼がすねる姿がおかしくて笑った。しかしフィロは、海を見るなりすぐに気を取り直してローシェルに言う。
「貸して」
「はいはい」
 渡すと彼はそれをくわえて走っていく。イーシェラという女性の存在を気にしているのだ。彼も彼が言うとおり、年頃の男の子である。
「さて、イーシェラ。僕らは人魚達のところに行こうか」
「ええ」
 彼女は嬉しそうに微笑んだ。彼女の笑顔を見て、ローシェルは浮かれた。彼自身、年頃という点では、彼女たちと変わらない。


 海。
 彼女の中には、知識としてのみ存在していた。
 証言その1。波があり、その上浮きやすいから遊んで楽しい。
 証言その2。塩分があり、獲物に適度な味が付いてとても美味しい。
 証言その3。砂浜でお城を作ってるのが一番。
 等々、今まで出会った人間や妖魔から聞いていた。自分を育ててくれたセウルが言うには、イーシェラも一度は海に行った事があるらしいが、幼すぎた彼女はそのことについての記憶はない。
 だから、それを目の前にして、彼女は時も忘れて見入っていた。
 ローシェルは砂浜ではなく、岩場までイーシェラを連れてきた。彼は海面ぎりぎりの岩の上に立ち、イーシェラに手を差し出した。
「おいで」
 彼女はローシェルの手を取り、足を海に入れる。手をつけてその水を口に含むと、本当に塩の味がした。
「入ってもいい?」
「どうぞお姫様」
 イーシェラは水中用に呼吸方を切り替え、海へと飛び込んだ。イーシェラはその広い世界に驚きのあまり、瞬きもせずにそれを見つめた。
 自らの回りに生まれたばかりの細かな泡が浮かび上がりながら消えていく様は、湖や川とは少し違うような気すらした。
「どお?」
 イーシェラはゆっくりと周囲を見回す。
 湖や川とは全く違う顔を持つ、とても美しいところ。
 下を見れば見た事もない生物や、みたこともない奇妙だけれど美しい石のようなものがある。恐ろしいほどの暗い闇を抱えながら、所々に色鮮やかな顔を見せる。上を見れば、水面には白い泡が生まれては消える。
「すてき」
「それは良かった」
 ローシェルが言うと同時だろうか。頭上に影ができた。
 見上げると、人間の姿をした上半身裸のフィロがこちらへと潜ってきた。
「やあフィロ」
「ぐが……ぐぼぼ」
 ローシェルに話しかけられ反射的に口を開いたフィロは、慌てて水面へと浮上する。ローシェルはそれを追い、フィロを岩場まで連れていく。
 イーシェラも水面に顔を出そうとした時、奇妙な魚が近づいてくる事に気づいた。
 とても大きな魚だ。しかし、あまり魚らしくない。どんどん近づいてきて、イーシェラの脇を通り過ぎる。
 イーシェラは慌ててその魚へと向き直ると、それは目の前に来ていた。
「…………つるつる」
 触れるとつるつるしていた。背中に大きなとんがりがあり、曲線の美しいフォーム。つぶらな目には愛嬌があり、可愛いと思った。同時に。
「美味しいのかしら?」
「食べる!?」
 少年の声が響いた。この魚の声だろうかと想っていると、その陰にいたそれが顔を出す。
 黄金色の髪を一つに結ぶ、少年人魚だ。顔立ちは少女のようだったが、おそらく少年だろう。
「食べてはいけないの?」
「シィシルは私の友達ですから、食べないでいただきたく存じます」
「そう。じゃあ食べないわ。ところであなた誰?」
「私はセルスと申します。あなたこそどちら様でしょうか? 高位の水妖族とお見受けしますが」
 彼は生真面目な様子で言った。イーシェラをなんだと思っているのだろうか。彼女には地位も名誉も何もない。
「私はただの水竜よ」
「水竜!」
 彼は目を見開いて声を上げた。
 素直な反応に、イーシェラはローシェルこそが少し変わっているのだと再確認した。彼はイーシェラの正体すら見破っていたのだから。
「水竜ですか。水竜のお客人など久々の事です。嘆きの海の者一同、あなたのことを歓迎します」
 人の良い笑みを浮かべ彼は言う。歓迎すると言われたのは初めてで、イーシェラはほんの少し嬉しかった。
「あなたはお一人ですか?」
「いいえ。連れが……あ、来た」
 潜ってきたローシェルを見て、イーシェラは彼を指さした。セルスはその彼の姿を見てまた驚く。
「ローシェル様!」
「やぁ。君は確か、セシルだったかな?」
「セルスです」
「ああ、セルス。久しぶりだね。母君はご健勝で?」
「はい。変わらず」
 ローシェルは小さくいため息をついた。彼の母君が変わらないことの何が問題なのだろうか。
「ローシェル様のお連れ様だったのですね」
「ああ。海を見せてあげようかと思って。ずっと山の中で育ったんだ」
「そうですか」
 そこでローシェルは、思い出したように頭上を見た。
「そうだ。あの薬もらえないかな? 上に地狼の男の子がいるんだ。上で遊んでるだけでも満足そうだけど、一人にするとすねるからね」
 彼は泳ぐのは好きだが、かといって勝手にしていろというと、泳ぐのをやめて戻ってくる。元々群れを作る種族だ。しかも、現在は仲間とはぐれている。ひょっとしたら、寂しいと思うのかも知れない。
 寂しいと思うのに種族も年齢も関係ない。ただ耐えられない孤独を胸に抱えていのは、誰にでも言える事だ。
 彼の孤独は、群れから離れる事だろう。平気だと自分では言っているが、それは彼の性格から来る強がりだ。
「地狼が一人で、ですか?」
「群れから離れたんだ」
「可哀想に。まだ小さい子のように見受けられますが」
「僕よりも年上だけどね」
「あなたと比べるのは、酷というものではないでしょうか。
 私は薬を取ってきます。しばしお待ちください」
 彼は言うと、シィシルと共に海の奥へ奥へと進んでいった。魚の後ろ姿は、とても愛らしい。二人が並んで泳いでいると、泳ぎ方が似ているのでまるで兄弟のようだ。
「あの魚は何かしら?」
「イルカだよ。魚類じゃなくてほ乳類」
「魚じゃないの? 美味しいのかしら?」
「さ……さあ。クジラは食べた事あるけど、イルカはないから」
「クジラというのは美味しいの?」
「美味しいけど、大きいよ。大人の竜ほどはないけど、小さなイーシェラじゃあ食べきれないよ」
「そう。残念ね」
 食べた事のないものを食べるのは、彼女の唯一の趣味といってもいいだろう。どうせ食べるなら、同じものばかりではもったいない。まんべんなく食べるべきである。ただし、食べきれる獲物に限定される。残すのは、死した者に対する冒涜だ。
「フィロのところに行こうか」
「ええ」
 彼は今、楽しげに水をかいている。人の姿になっても、犬かきをしている姿がとても可愛いと思った。


 犬かきをしていたフィロは、セルスの持ってきた水妖の秘薬を口に含んだ。
 イーシェラはそれを固唾を飲んで見守る。
 セルスは彼女のその姿に見入っている事に気づき、気恥ずかしくなった。
 美しい女性だが、水竜となると自分とはかけ離れている。もちろん、竜との友情を築く者も、つれ合いになることもあるが、やはり竜という存在が少ないので例も少ない。
 もちろん、そのような大それた事は考えないが、彼女の美しさにはあこがれてしまう。
 フィロは水中に潜り、しばらくじたばたする。人の姿で泳ぐ事になれていないのだろう。
「うわぁ、苦しくない。どうなってんだ?」
「さあ」
「でも、浮いちまうぞ。どうすればいいんだ!?」
 フィロは浮いてしまう身体を必死に水中に留めようとしばらくもがくと自然にその場にとどまるようになった。彼はその現象に不思議そうに自身の体を見回した。
「……実はオイラ気を水を飲んで失って、沈んでる最中とか?」
「大丈夫よ。ちゃんと起きてるわ」
 フィロはイーシェラに触れられると、現実だと認めた。
「変な感じ。まあいいや。サンキュ」
 フィロは生意気な口調で言った。どこか気取った水の者に比べて、あか抜けた笑顔が魅力的だった。
「素晴らしい薬ね。貴重なものでしょうに、ありがとう」
 水の者でも、陸で暮らすイーシェラは、上品だが気取らず、自然な笑顔がとても素敵だった。
 セルスは彼女に見つめられ、熱に浮かされたように思考できなくなった。
「セルス」
「はい、何でしょう」
 ローシェルが後ろからセルスの襟首を引っ張った。
 彼は服を着ている。水の抵抗が少ない特殊な生地で、水に住まう人型に近い妖魔の多くがこれを身につけている。人魚が裸でいるというのは、迷信の中か、主に人間を好んで食べる一部の女性水妖が行っているだけだろう。
「イーシェラに色目使ったら、僕は容赦しないから、その点は一生涯忘れないで欲しいな」
 ローシェルの目は本気だった。セルスは本能的に恐怖し、反射的に頷いた。しかし、疑問もわいてくる。
「…………ローシェル様、相手はまだ幼い竜ですが」
 人として生きる彼には、向かい相手ではないだろうか。例え不老を得ていたとしても、彼は外見通りの年齢で、人の、しかも若者の感覚を持ったままだ。
「大丈夫。将来は絶世の美女になるからね」
「将来……何年後になるかはご存じで?」
「短くても三十年だろうなぁ。まあ、長い人生、それぐらいは我慢するよ」
「…………恐ろしく気が長いですね。私から見ても三十年は短くはないのですよ」
「そうだね。まあ、それまで一緒にぶらぶらとするよ。楽しい時間は、あっという間に過ぎるからね」
 セルスは彼に言い聞かせるのを諦めた。彼の人生であり、そして彼の決めた事だ。一介の人魚ごときが口を出せる問題ではない。
「それよりも、女王のところに挨拶しにいこうと思ってるんだけど、連れていってくれるかな?」
「はい、もちろんです。ローシェル様のことは一目見れば誰も止める事などあり得ないのですが」
 彼はいい意味で父親似だった。主に容姿と能力のみに限定される遺伝だ。性格的なものでは、ほとんど遺伝を感じない。
「女王って、どんな方?」
「セルスの母君だよ。この辺りの海の女王様だ。とても美しい方だが、人をあまり好いていない」
「なぜ?」
 彼はしばらく言いよどんだ。しかし、イーシェラの額を撫でて、続けた。
「目の前で母君を人間に殺されたらしいんだ。人間を好いていないというよりも、一部を除き、人間を嫌っていると言っていいな」
「まあ……でも、どうして人間すべてを?」
「不死ほしさに、食べられてしまったんだよ。人魚の肉は生半可な事では死なない身体をくれるからね」
 人は欲深いといわれている。それは正しいだろう。しかし他の種族に欲がないかといえば、それは嘘だ。人間の方がよほど純粋な場合もある。生まれ育ち、その他多くの事がそれらを決めるのだろう。その種族だからというようなことはない。
 皆寿命が長いから、永遠の命には執着しない。少なくとも、人ほどの執着を見せる事はない。しかし、永遠に未練がない者などはいないだろう。
「……欲深い人間に大切な人を奪われたのね。私と同じね」
「そうだね。でも君は僕といて、人間の里にも行く。だから僕君といる。
 女王は時にとても残酷だけど、とても可哀想な方だ。だから、僕は彼女に人間として会いに行く。少しでも人間を信じてもらいたいからね」
 イーシェラは頷き、進み始めた。
 素敵な女性だと、セルスは思う。
 ローシェルが恐ろしいので、それ以上の感情や態度は封印するが、魅力的だと思う事だけは、どうしても封じられなかった。
 それぐらいは、許してもらえるだろう。
 彼女が成長すればするほど、ローシェルはそれを許していかなければならないのだから。
 

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