ガートルード

1

 彼の作り出すそれを、その行程を、その形を、すべてを、彼女は一枚の紙に描き留める。
 この作業は好きでもないが、嫌いでもない。
 大きな痛みはないし、精神的な苦痛もない。失敗をしなければ罰を受けることもないし、罰といってもせいぜい口頭での苦情、最悪で減給される程度である。最近はそれもない。
 あまりにも簡単な作業だが、しくじったからと殴られることもないのだから贅沢は言えない。彼女はただの便利な道具である事が望まれる存在だ。出しゃばらず、言われたことだけをすればいい。彼女を拾った男は、口喧しいだけで言われた事も出来ない人間を嫌っているのは知っているから、この仕事では、ただ言われたことを言われた通りにやる。
 彼女のこの仕事に独創性は必要ない。確実性が最も重要だ。これがどう役に立つのかは分からないが、それを考える必要もない。命令を忠実にこなす道具であればいい。
 気遣いも必要ない、そういう仕事なのだから。
「終わりました」
 写し終えた終えたそれを手渡すと、男は実物と見比べて確認し、しっと手を振った。
 大半の研究者は彼女の事など気にもしないが、この男の場合は道具として使うのすら厭わしいと思っているようで、汚物を見るかのような嫌悪に満ちた目で見てくる。
 即座に離れると彼は再び作業を始めた。
 それでも彼が彼女を呼ぶ理由は、仕事に関して妥協をしない姿勢の表れなのだろう。位の高い貴族らしく、それに見合う気位の高さが表れている。
 だから彼女に苦痛はない。
 彼は淡々と仕事をこなし、スケッチを始めるように言い、終わりを告げると確認する。
 それだけが二人の言葉のやりとりだとしても、それに苦痛はない。
 仕事を選ぶ権利も、仕事内容を選ぶ権利も、仕事を頼まれる相手を選ぶ権利も彼女には無い。生きていることをただ許され、描くことを許されているだけだ。
 彼女は自分が描いたスケッチを見る。
 精密で面白みの無いスケッチだ。真実をそのまま移した、写真のような絵だ。しかし写真とは違い、強調されている部分もある。写真ですめばいいのだが、彼女がスケッチしている魔動機は写真では細かな部分が映らないため、手書きで行う必要がある。設計図のようなもので、予定を立てるための物ではなく、後に残すための物だ。
 書き上がった物には彼らが言葉を加えて解説を書く。昔はこの作業も全て魔道士自身が行っていたそうだが、絵心がある魔道士ばかりではないので、魔道士が画家を雇うことは珍しくもない。特に魔動機を作る場合は、見たままを描ける技術がいる。売り物にするだけなら多少の手抜きでも問題ないが、彼がしているのは国のための研究なのだ。
 彼女にはまったく理解できないため、ただひたすらに見えている大切な部分を漏らさず描かなければならない。人である以上は失敗もするので彼がスケッチを突き返してくるまではとても緊張する。
 そのやりとりをあと二度ほどして、彼女は用済みとなり、陰気な研究室から解放された。
 手は痛むが、問題ない。
 この手は動く限り、描くことが出来る。
 それだけで彼女にとっては過ぎたる幸福だった。絵を描ければそれでいい。
 それだけが生きる意味で、生きる価値なのだから。


 彼女の仕事場となるのは、どこも陰気な研究室だ。
 この部屋はその中でも飛び抜けている。窓はつぶされてこそいないものの、年に一度だけに行われる大がかりな掃除の時にしか暗幕が開かれることはない。
 この部屋の主は吸血鬼であり、日光が天敵であるからだ。もちろん日光に当たったところで滅びはしないが、痛みがあるという。
 彼女は彼等以外の吸血鬼を知らないので、それが普通なのかは分からない。物語の中の吸血鬼が苦手な物は大概苦手だが、それで滅びてしまうほど弱点の多い存在では無い。
「出来ました」
 事務的に主である、青年の姿をした吸血鬼に告げた。吸血鬼の全てが物語の中のように美しいわけではないらしいが、彼は夜な夜な美女を襲うに相応しい美しい青年の姿をしている。元々はモルヴァル王家の血を引く貴族であったそうだが、今ではこうして国を影から支配している。
 数百年、数千年とも言われているが、この国の公然の秘密である青年が正確にどれほど国のために存在するのか、誰も知らない。
 分かっているのは、彼が誰より愛国歌で、何よりも国と王家の存亡の事を考えていることだ。
 彼女が彼に拾われたのはもう二年も前の事になる。その時から彼女はこうして描き続けている。
 黒い手袋をしっかりとはめ直し、チェックが終わると後ろに下がる。特殊なインクをペンに含ませ、再び描けと言われる時まで待つ。
 主は魔動機をいじり、先ほど書いた絵に字を書き込む。
 細い指が動く様を見るのは好ましかった。この美しい男性を見ているのはとても好ましい。何枚も何枚も、彼の姿を紙に描いた。動く者を描きたいなどと渇望するように心から思ったのは、彼と彼の大切な人だけだった。
 薄暗い部屋の中で、淡く揺れる光に照らされ、怪しく輝く誰よりも美しい男の姿を見ているだけで幸せだ。目に焼き付けて、目を伏せても思い浮かぶほど刻み込む。
「この状態のこの部分を描いてくれ。先ほどと似ているように見えるが、ずいぶんと違う意味合いになるから気をつけてな」
「はい」
 見れば分かる。意味は分からないが、確かに先ほどとは大きく異なる。頭は足りないかもしれないが、見た物をしばらく鮮明に記憶する力には優れているらしく、それが絵を描くのを助け同時に邪魔もしている。
 才能があると言われても、自分が描く絵にはあまり満足できていない。現実が彼女のイメージの邪魔をする。
 しかし今求められているのは現実そのもの。イメージなど必要ない。
「ガーティ」
「はい」
「それを描いたらもう休め。疲れただろう」
「はい」
「これは薬だ。どうせ部屋に戻ったら自分の絵を描くんだろ。仕事も趣味も絵なのはいいが、腕を壊すようなことはないよう気をつるように」
「はい。ありがとうございます」
 彼女はそれを受け取り一礼した。主からこうして気遣われることには少し慣れたため、最近では気後れすることなくそれを受け取れるようになった。けっして仕事の支障にならないようにしているのだが、彼にとってこの手袋を着け続けていることは気になるようだ。
「無理はしておりません」
「趣味に全てを捧げられるのは素晴らしい事だ。生きている内にそれほどのモノを見つけられる人間はそれほど多くない。
 もし描きたい題材が見つかれば言うといい。お前の絵は元より評価が高い。描きたい題材があれば、むしろすぐに言え。
 お前のような画家は、死してさらに評価が高まる。生きている内に描けるだけ描いておくといい」
「はい」
 この主は、描きたいときに描けと言ってくれる。それだけで十分すぎるほど過ぎた待遇だった。材料も手を尽くして用意してくれる。中途半端な彼女の絵のために。
 彼女は目の前の仕事を描き終えて渡すと、退室しようとしてドアに向かい、そのドアが軽く打ち鳴らされて足を止めた。
「イレーネか」
「はい」
 彼女は慌てて道を空けて控えた。跪き、姿が極力見えぬように気配を殺す。闇にひっそりとうずくまり、赤銅の瞳を光へと向ける。
 少女が部屋に入り、優美に微笑んだ。
 出会ってから、一向に年を取らない、少女のような女性。
 彼女が心から描きたいと思った初めての人間、聖女イレーネ。この国の女王。
 遠くから眺めているだけで幸せだった。盗み見て何枚もスケッチを描いた。一枚だけだが、正式なものとして描いたこともある。
 こうして近くで見上げることが出来るだけで幸せだった。彼女は内から輝く聖女の名に相応しい女性だ。
「どうしたイレーネ。血は昨日吸ったぞ」
 そう言われたとたん、彼女の目が細くなる。
「血を吸われるのは好きではありませんのに、なぜわたくしが自ら血を吸われに来なければならないのです?」
 艶やかな唇が、冷たく鋭い言葉を放つ。雪のような白い肌に色をともすバラ色の頬は、絵本で読んだ妖精のようだ。彼女の肌の美しさは、夢の中をさ迷っている気分にさせてくれる。
「辞書を貸して欲しいので来ました。血は……あら、ガートルードではないですか。どうしてそんなところに?」
 イレーネはこちらに気付き、闇に潜む彼女を見て首をかしげた。気付かせてしまったことが申し訳なく、ぐずな己を呪っても呪い足りない。彼女のような貴き人に、自分のような底辺を生きる者を意識させるなど、マディアスにも申し訳ない。
「仕事でいるのですから、そこまで畏まる必要はありません。掃除はされているからそれほど汚くも無いけれど、服が汚れてしまいますよ」
 こういうとき、どうしていいのか分からなくなる。教養もないので彼女のように高貴な女性にどうやって話しかけていいのか分からない。話しかけてくる身分の高い人間がいないので、もう短くはない期間ここで働いているのに、まったく慣れないでいる。
「ほっておけ。困っているぞ」
「……はい」
 ガートルードから目を反らし、しばらく目を伏せてから顔を上げたイレーネは、マディアスから目的の辞書を受け取った。その際にちらと机を見て、動きを止める。
「相変わらずなんて精巧な絵なのかしら」
 イレーネはスケッチを見て感嘆する。唯一の取り柄を彼女のような女性に褒められるのは、無上の喜びだった。
「こいつは瞬間的な記憶力がよくて何かと便利だよ。書物も絵として記憶しているらしく、一瞬で覚えてしまう。次の日には忘れるが。
 お前とは逆だね」
「まあ。わたくしだって記憶力が低いわけではないわ」
「比べものにならない」
 それはそうだけれどと腕を組んで非難の目を向けるイレーネ。口論の原因となったことで、ガートルードはさらに縮こまる。
「そうだ、ガートルード」
 イレーネは突然より身を低くしたガートルードに声を掛けた。名を覚えられているだけで重圧があるというのに、二度も名を呼ばれるなど心臓が止まるかと思った。しかも相手は親愛なるこの国の母、女王陛下だ。
「最近は作品を描いていますか?」
「はい。庭の絵を。女王陛下のバラ園でございます。私の記憶で描いたので、今の姿ではありませんが」
 あのバラ園が好きでもう何枚も描いている。その絵を欲しいという婦人がいるらしく、マディアスが売ってしまうので、手元には残らないから、飽きずに定期的に描いているのだ。
「まあ、見てみたいわ。今夜は遅いから、明朝見に行ってもいいかしら」
 ガートルードは目を丸くし、何と答えていいのか分からず一言だけで返した。
「御意のままに」


 翌朝、イレーネは本当に来た。朝早くとも、いつもと変わらず優美に微笑む彼女は、とても綺麗だった。顔形ではなく、立ち振る舞いなどの雰囲気がとても綺麗なのだ。
 着替えていたからよかったものの、寝ていたらと思うとぞっとした。部屋も今日は片付いている。調子が悪かったので、昨日は絵の具を出さず、下絵だけを描いて寝たからだ。イレーネが来ると分かっていたから、弱っていては申し訳がないと無理をしなかった。
「まあ、ガートルードのお部屋は思った以上に広いのね」
「宮廷画家の端くれとはいえ、ご主人様には過分な援助を頂いております」
 下っ端なので一日のほとんどは魔道士達に使われているだけだが、時間があれば自分の絵も描く。元々ガートルードの絵は高い評価を受けていたらしい。彼女の名ではなく別の男の名で売られていたが、世間はそれが代作であることを知っている。そのため自由となった彼女は才能を買われて絵を描く環境は与えられた。画材も惜しみなく与えられ、使い切れないような給金ももらっている。一番の収入は、描いた絵を売ることだ。その資金を使い、次の絵の材料を手に入れる。
 彼女の画法は特殊で、一枚の絵を完成させるのにかなりの時間と金と労力が掛かる。
 絵を描くのはそれほど時間は掛からない。どちらかというと、絵の具を作るのに時間が掛かるのだ。
「素敵」
 イレーネは部屋を見回して手を合わせた。部屋には未完成の絵が多くある。理想の絵の具が見つからず、完成させることが出来ない絵だ。
 完成しているのは、昨夜話した薔薇の絵である。
 イレーネが愛するバラ園の絵だ。
 それを彼女が目にすると、ほうとため息をついて魅入った。
 彼女の反応は、それが当たり前なのだ。
 うぬぼれではなく、そういう風に作っているからこそ、彼女の絵は評価されている。人の心を魅了する、それが彼女の絵の特徴。油絵だろうが、水彩画だろうが、彼女の絵には魔力がある。
「魔石を混ぜると、こうなるのね。まるで写真のように精巧なのに、現実とは思えない美しさだわ。よく見ると所々キラキラしているわね」
 秘密を明かせばとても簡単だ。
 世間でも魔石を砕くことはある。さらに顔料とするほど細かく粉砕するには、コツがいる。
 彼女が幼い頃、当たり前のようにしていたこれの秘密は、あの男が死んで彼女が表に出るまでは誰も解明できなかったそうだ。そのために心を虜にする不思議な絵として、あの男と、実際に絵を描いていた奇跡の手を持つ少女として、ガートルードの名はそれなりに有名らしい。
 その名が通ったのもガートルードの腕ではなく、絵の具の力だ。しかし世間ではその絵の具を作り出せないため、未だにこの絵は彼女だけが独占して描いている。
 彼女がネタを明かしても、真似できる者はいないだろう。手間が掛かりすぎるし、ガートルードが少しだけ特殊な魔力の使い方を出来るらしい。
 だからガートルードの腕であるように言われている。
「ガートルード、これだけの物が描けるのだから、マディアスや魔道士達に付き合う必要はないのですよ。あなたは今やこの国を代表する素晴らしい芸術家ですもの」
「今でもわたくしには過ぎた待遇にございます。それに、多くの作品を描くのは苦痛です」
「そう。でも、この絵を描くのは苦痛だった?」
「いいえ。現実を描いた後でしたので、どう飾るのか考えるのがとても楽しい作業でした」
 この絵は角度によってきらきらと輝く。絵の具のせいではなく、本物の魔石の固まりを埋め込んであるからだ。宝石のように輝くそれらは、本物の朝露のように輝き、おそらく人の視線を奪うことになるだろう。
 精密さと、この埋め込まれた石は、彼女の作品の目に見えて分かる特徴だ。最近の本にはそう書いてあるらしい。字があまり読めないので、マディアスに聞いた話だ。
「とても素敵よ。庭師に見せたらきっと喜ぶわ」
「身に余るお言葉、光栄にございます」
「これをわたくしのサロンに飾ってもいいかしら」
「もちろんでございます」
 これほど多くの言葉を発するのは、どれほどぶりだろうか。出来るだけ高貴な人物の目に止まらぬようにしていたのに、ひょんなことからこんな目にあっている。
 もちろん不快ではない。
 彼女のことは好ましく思っている。姿を描きたいほど好ましい。しかし手の届く人物ではない。命令がなければ彼女を描くことは出来ない。
「嬉しいわ。今飾ってある絵はあまり好みではなかったの」
 そう言いながら、彼女は部屋を見て回る。そしてテーブルの上にあるスケッチブックに手を伸ばした。
「そ、それはっ」
 止めたいが、止められない。今止めようと思うと、触れなければならなかった。しかしこの汚らしい手で、彼女には触れられない。手袋越しでもとうてい出来ない。だから彼女はそれを阻まれることなく開いた。
 恥ずかしくて、その不遜なそれを破り捨てたい気持ちだった。
 それはマディアスとイレーネを描いたスケッチブックだ。目にした光景を思い出し、その場をそのまま再現した。
 色はつけない。つけられなかった。これ以上姿を盗む行為ははばかられた。
「本当に生きているみたいね」
 怒りを露わにすることもなく、不快を表すこともなく、イレーネは楽しげにスケッチを眺めた。
 穴があったら入りたいとはまさにこのことである。
「そうだガートルード。マディアスの絵を描いてはどう? わたくしの絵は描いて貰ったけれど、マディアスは描いていないでしょう」
「ご主人様の絵でございますか」
「そうよ。だって彼は写真に写すと半分透けるんですもの。
 気が乗らないかしら?」
「いいえ。ご主人様を描いているのはとても楽しい時間です。気が進まないなどと恐れ多い事はございません」
 描けるのなら描いてみたい。あの、この世の者とは思えない、美しく透けるように透明な、雪のように白い主は。彼女にとってはこの世の全てである。何よりも、今は彼に似合う魔石があるのだ。ずっと大切にとっていた、魔石の中でも高価な力を持つもので、おいそれと使うことは出来なかった。
 手元に彼を表現できそうな材料が全てあるのだ。妥協する必要がない、理想の。最高の材料が。
 だから描いてみたいとは思っている。
「ですが、ご主人様はそれを望まれないでしょう」
「なぜ?」
「無い物を一から描く場合はともかく、私はある物を想像して全てを描くことが出来ません。まずは形だけでも整えなければ描けないのです。しかしそれには研究を中断して、わずかながらも時間を割いていただかなければならなくなります」
「あら平気よ。マディアスだって、自分の姿をはっきり見たいと思うに違いないもの。鏡を見てもぼやけて顔の汚れが分からないぐらいだから、何百年ぶりの……何千年かしら。それぐらい自分の姿をはっきり見ていないから、懐かしさも覚えると思うの」
 イレーネは少女の顔を輝かせ、スケッチブックを置いて彼女に近づいた。
「だめかしら?」
「女王陛下とご主人様がお望みならば」
「まあ嬉しい」
 イレーネは花が咲くように笑いながら、ガートルードの手を握る。
「っ」
 突然のことに痺れたような痛みが走り、思わず手を引きうずくまる。イレーネが混乱して膝をついて顔を覗き込んでくる。
「どうしました? 手に怪我をしているんですか?」
「お気になさらず。職業病です」
 言葉すら発するのが辛い一瞬を抜け、なんとかそれだけは返した。心優しいイレーネは、眉を寄せてそっと手をかざす。
 不思議なことにただそれだけで、あれほどの痛みがすっと引いていった。
 マディアスが時折してくれる、治癒の術に似た感覚だ。
「そんな……腱鞘炎でそんなことにはならないでしょう。手袋を外して見せてください」
「問題ありません。ご主人様に薬を頂きました」
「そうなの? ちゃんと治療をしなければダメよ。くれぐれも無理はしないでね。治るまで仕事は休むといいわ。貴方のような芸術家が、誰彼構わず使われることはないのよ。マディアスは芸術に興味がないから、あなたの価値をちゃんと理解していないの。値段だけではないのに」
 今度はっきりと言わなければと呟く彼女の様子を見て、ガートルードは首を横に振る。
 とんでもない話だ。
 道楽貴族の画家とは違うのだ。平民ですらない彼女に求められるのは、可能な限り描き続けることだ。しかし彼女に、多くの絵は描けない。
「私の……私の絵だけを描き続けるのは、苦痛です。無為に変哲もない物を描くのなら、ご主人様のお役に立ちたいと思います」
「まあ、なんて主人思いなの」
「ご主人様は私を拾ってくださいました。あの方が私にとって全てです」
 だからこそ、描き続ける。絵も、写実も。
「そう。ガートルードはマディアスが好きなの?」
「好……き?」
 言われてガートルードは戸惑った。彼は見ていると描きたくなる。恩を感じている。しかし好きというのはよく分からない。
「私は無学なのでそういうことはよく分かりませんが、きっとそうなのだと思います」
 小耳に挟んだことはあるが、自分とは縁遠い言葉であるため少しの戸惑いを覚えたが、きっとそうなのだと感じた。辛いか、辛くはないか、好ましいか、好ましくないか。そのどれかしか知らない彼女にとって、彼女の言う『好き』はあまり理解できない。
「もう、可愛い」
 イレーネはガートルードを抱きしめ、頬をすり寄せる。この城に来てからは毎日身体を拭いているので不潔と言うことはないが、イレーネのように毎日風呂に入っているわけではなく清潔とも言えない。
「御身が穢れます」
「何を言うの。頭の固い女官のようなことは気にすることないの」
 イレーネは少し怒った様子で言う。そしてカートルードの頬に手を当てた。驚いたが、木炭やインクはついていないはずだ。
「わたくしはあなたの絵が好きよ。あなたがあの庭を書いてくれて嬉しいの。わたくしの大好きな庭が、あなたの心を引いたのが嬉しいの。あの絵のようにあなたが綺麗で嬉しいの」
 イレーネの言いたいことが理解できずぼうっと立っていると、彼女の顔が近づき、顔が頬に接触した。
 きょとんとしていると、突然部屋のドアが乱暴に開け放たれる。
 イレーネと二人、何事かとドアを見ると、魔道士が一人立っていた。名をリーンハルト。昨日マディアスの前にガートルードを使った、彼女を一番嫌う魔道士だ。
 彼は仕事の関係で彼女の部屋まで押しかけてくることが今までも稀にあったため、彼が来ることは問題ない。マディアスが良い魔石をガートルードに回してしまうため、粉末にされる前に取り戻しに来る事も多いから。
「まあリーンハルト。女性の部屋にノックも無しで入ってくるなんて失礼でしょう」
 リーンハルトは呆然と立ちすくみ、イレーネとガートルードを交互に見る。何度も何度も。
 徹底的に叱られるだろうと思い、ガートルードはイレーネからわずかに距離を置いた。彼の言葉は的を射ているので苦手だった。案の定、彼は血相を変えて口を開いた。
「ガートルード!」
 彼の罵声を耳にし、ほんの少しだけひるんだ。彼は昔彼女を飼っていた男に似ている部分がある。だから少し苦手だった。苦手という感情は、彼と出会って強く感じるようになったため、彼の印象はとても強い。
 彼は宮廷魔道師に支給されているらしい薄青のローブをきっちりと乱れなく身につけ、毎日手入れされているのだろう金の巻き毛をしっかりとセットし、背筋を伸ばして凛と立つ姿は誰がどう見ても高貴な身分の者だ。
 そうでなくとも、尊大な態度からその身分が高いことは、無知なガートルードにも分かる。
 そして彼が血統というものに強いこだわりを持つのも分かる。
「申し訳ありません。女王陛下が私の作品をご覧になりたいと、私の部屋まで尋ねてきてくださいました」
「そうでなく!」
 やはり接触していたことが原因なのだろう。女王陛下に触れるなど、貴族でも恐れ多いことだ。
「あら、わたくしはガートルードから魔力をもらっていたのよ。彼女は不思議な魔力が溢れているんですよ。彼女の記憶力はそれが一因だと思います。
 きっと面白い魔石が出来きることでしょう」
 この国の王となる資格は、魔石を作り出せること。魔石を作り出せるのは王族の中でも一握りで、現在はイレーネただ一人だけ。彼女が聖女と呼ばれる所以でもある。
 顔が引っ付いたのは、魔石の材料となる魔力を取られていたのだとようやく気付いた。疲れもないし、立ち眩みもない。血を吸われるのとは違って生活に支障はない。学習したことを記憶した。
 形は覚えられても、言葉や知識を頭に入れるのは苦手だった。長所だけを取り出せば、使い道があるのだろうが、大切な事も忘れてしまいがちになるので情けない。。
「しかし、これは奴隷上がりの絵描きです。陛下が触れては御身が穢れます」
 魔力を吸えば、本当の意味で汚してしまったのかも知れない。綺麗なモノに囲まれて、綺麗なモノを食べて、綺麗なモノを飲んで、綺麗なモノを身につけるイレーネが、汚らしく穢れた存在の持つモノを取り込んだのだ。清水に絵の具を一滴垂らすだけで、水は無惨に穢れてしまう。
「リーンハルト。その差別的な考え方はよくありません。わたくしも平民の血が混じった女王です。奴隷が王の寵を受けるのと、混じり者が王になるの、どちらもさほど違いがあるとは思いません」
 リーンハルトは唇を噛み口をつぐんだ。さすがの彼も女王に口答えなど出来るはずもない。墓穴を掘る前に退散すべきだ。
「だいたい、美しい者に身分など関係ありません。綺麗な絵を書くのこの手は、芸術の神の寵愛すら感じます。数百年もすれば、間違いなく美術史に載る偉大な画家の一人でしょう。あなたはそんな画家を差別して、何か得るものを感じますか?」
「もちろん、画家として彼女を責めているわけではありません。分別の問題です。例え陛下に請われようとも、許されない一線があります。陛下もそれをご自覚下さい」
 頭が固い女官とやらは、きっとこのようなことを言っているのだろう。関わったこともないが、こっそりのぞき見た感じでは物の言い方の雰囲気が似ている。
 しかし彼の言うことは正論だ。イレーネに作品を見せるなら、然るべき準備をしなければならなかった。もちろんそのつもりで、昨夜責任者には声を掛けた。自分から他人に話しかけたのはここに来てから数えるほどしかなかったのでとても緊張したが、無事に話はつけていた。まさか早朝やってくるとは思ってもいなかっただけである。
「もう、みんなお堅いんだから。こういうところばかり年寄りのマディアスが一番頭が柔らかくてどうするのかしら」
 イレーネは不機嫌な声で呟くと、再び笑顔を浮かべてガートルードへと視線を向けた。
「マディアスには話をしておきます。気が向いたら書いてあげてくださいね」
 命令でもなく、ただの願い。そのような曖昧なことを言われ慣れていない彼女は、どう返していいのか分からなかった。だから跪き、頭を垂れる。
「畏まりました」
 これ以外の言葉を、彼女は知らなかった。


 マディアスの部屋をノックするとドアが勝手に開いた。部屋に入り主の姿を探すと、いつもの机に向かっているのでなく、見覚えのない椅子で本を読んでいた。
「来たか」
 彼は顔を上げずに、冷気が広がるような低く鋭い声で言う。
「お話は着いているのですね。今からでよろしいのでしょうか」
「早く済ませたい。もちろんお前の状態が悪くなければ。
 イレーネが心配していたぞ」
「問題ありません」
「お前の問題ないは問題ありなのだが、いいだろう。気が乗っているなら描け。ポーズはいるのか?」
「自然のままで」
「ではこれを続けよう」
 彼は視線を下ろし、本を読む。字を知らぬ彼女でなくとも読めない難しい本なのだろう。
「ご不快では?」
「イレーネの望みだ。ねだられるのは珍しい。叶えてやるべきだ。不快ではない」
「ならば、わたしの好きに描かせていただきます」
 ガートルードは用意されていたキャンパスの中から、真ん中にある一般的な肖像画のサイズを選ぶ。木炭を手にし、彼の美しい姿を盗む。
 夜の王たる彼はただ在るだけで恐ろしい。冬の雪のような恐ろしく寒々しい真白。それを表現出来るかが問題だ。彼の雰囲気までも盗まなければならない。
 彼女は世間から『影盗み』と呼ばれている。ただしガートルードがではなく、気の狂った前衛の画家の評価だ。マディアスに拾われる前の、暗がりで絵を描かされていた時、のぞき穴から見える世界がすべてだった時、彼女を飼っていた男に捧げられた言葉。
 あまりにも精巧で、影を盗まれているような気分になると、広がったらしい。
 あの頃は欲もなく無心にひたすら書いていた。邪魔な心などなく、ただ書きたいように書いていた。それが出来たため、描く対象も選ばず、痛みも無視してただ描いた。
 あの頃のように影を盗まなければいけない。彼のあまりのも薄い影を表現するのが、イレーネが望んだこと。女王とこの主だけには幻滅されたくない。
 おおまかに描くと、ガートルードは手を止め、立ち上がる。
「楽になさってください」
 始めから楽にしているマディアスは、顔を上げて銀の髪を掻き上げた。
「どうした」
「目に焼き付けましたので、あとは部屋で。ご主人様は研究を続けて下さい」
 マディアスは小さく笑い、手を差し出した。
 ガートルードは彼の元へと寄ると手首を掴まれ引き寄せられた。主の意図を察して自らの手で襟元のボタンを外し、鎖骨の下まであらわにする。
「いい子だ」
 マディアスが耳元で囁き、喉に口付ける。冷たい唇は身体の芯まで駆け抜け、その通り道に熱を持たせる。
 甘い疼きに貫かれ、食われていく。微睡みに似た高揚感に酔い、全て吸い尽くされてもよいとすら思う。
 しかしマディアスは唇を離す。牙が抜け、落胆を覚えた。
「ここで続けろ。イレーネが喜ぶ」
 マディアスがイレーネを喜ばせるためなら何でもすることを知っている。
 利用し合う二人は、ガートルードの知らぬ絆で結ばれている。
 とても強い絆だ。彼女には理解出来ない、親子のようで、夫婦のような関係。
 親のことも記憶にない彼女は、人の関係をあまり理解出来ない。
 彼女は奴隷に感情などいらないと言われて育った。周囲の絵描きもそうだった。
 彼女を元々の主から買った男の一家は代々画家で、才能のある子供を集めては弟子とし、その中の一部をガートルードのように暗がりで飼い、代作させていた。
 彼女たちは世間的には、死んだ事になっていたらしい。子供などすぐに死ぬものであり、所詮は奴隷に過ぎず、気にかける者などいない。運よく今一歩の才能として逃れた者は、また売られていった。突出していなくとも、秀でた物を持つ奴隷は高額で売れるのだ。だから主は奴隷商としても有名だったらしい。ガートルードの事が世間に知れても、誰も驚かなかったと聞く。
 それらを教えてくれたのはマディアスだ。
 ガートルードの世界は、すべてマディアスの手の平の上にある。
「手を出せ」
「はい」
 手袋を外し、我が事ながら呆れるほど汚らしい手を差し出した。
「触れられて悲鳴を上げるほどになるまで放置するな。後で吸い出す身にもなれ」
「申し訳ございません」
 どちらにせよ、彼の大切な時間を奪ってしまうことになる。加減が難しい。
「糧にもなるから私はかまわないから、吸い出しにくくなる前に言うといい」
 彼は彼女の指先を口に含みながら、手首のあたりを撫でてくれた。治癒布で作られた手袋で押さえ付けていた痛みが戻っていたが、それで自然に和らいだ。
「お前は気にし過ぎだ。人でない僕に、何を身分など気にする必要がある?」
 指から唇を離し、上目使いに見上げながら彼は言う。
 人でなくとも跪かざるをえない程の高貴な空気をまといながら、それを言っても誰も実行すまい。
 ガートルードは身の程という物を嫌というほど知っている。
「お前は自惚れのないところが美点だが、もう少しだけ自分を大切にしろ。驕るのと顧みないのはまた別だ」
「かしこまりました」
 マディアスは再び指を口に含む。その時、扉が開き、がしゃんと大きな音がした。
 最近、似たような事があった。その時も、彼らが関わっていた。
 イレーネとリーンハルトが、戸口であんぐりと大口を開けている。
「どうした」
「どうしたではありませんっ。信頼していれば、未婚の女性に手を出すなんて見損ないました」
 イレーネは画材をテーブルに置き、マディアスに詰め寄った。
 イレーネはガートルードの画材を持っていた。女王自ら荷物を持つから、マディアスの気苦労が減らないのだ。
「マディア……ガートルード、その手!」
 イレーネはガートルードの手を見て悲鳴を上げた。傷だらけならまだしも、様々な色に染まっていれば誰でも驚くだろう。奴隷としての刻印もあり、実に見苦しい手だと自覚している。
 ガートルードは慣れているが、他人は驚くので治療もかねて手袋をしていた。彼女が持つ中で、最も高価な装飾品が手袋だ。治癒系の力がある魔石を織り込んであるらしい。
「手、どうしたの!?」
「魔石を手で潰しているので、色が移りました。魔石の力で薬が効かなくなってしまうと、いつもご主人様に吸い出していただいています」
 口にしてみると、とんでもない事だと思った。主を使うなど恐ろしい事をする奴隷だ。昔は高価な魔石を惜しみなく使うことが出来なかったのでこれほどひどくなかったが、最近はとくにひどくなった。贅沢になると人は身を滅ぼすことになるのだと、誰かが行っていたがまさにその通りだ。
 他人に頼るではなく、自分で対処する方法を考えなければならない。
「マディアス、こんな事をどうしてエヴァリーンにさせないの!? 相手は女の子よ!」
「これの手にこびりついた魔石はお前に持たせてもいいような上質の物もある。けっこう美味い」
「食欲で女の子にこんな事しないで! 血も吸ったでしょう?」
 服が乱れたままで、いかにもそんな事情の直後である。下賤の血をマディアスが飲んでいることを知られてしまった。
「ガーティの血はイレーネの次に口に合う。お前の身が一つしかないのだから、次に美味い女から貰うのは当然だ」
「もう! 吸うならディートリヒみたいによそに行けばいいのに、気の小さな女の子から吸うなんて何を考えているの。こんなセクハラを受けて、可哀想なガートルード」
 マディアスはふふんと鼻で笑い、ガートルードの指を再び口に含む。
 イレーネはガートルードの手を見て顔をしかめ、口元を手で覆って尋ねた。
「そんなに痛むのですか?」
「それほどではありません」
「どうして素手でなんて危ないことするの? 粉末にするだけなら、道具があります」
「道具で潰すと、すぐに変色してしまいます。どうしても月日が色を予想の出来ない具合に変えてしまうので、誰も手をつけませんでした。予想もつかないくすんだ色は変な作品を作るにはいいですが、魔石の色を出そうと思うと、微力な魔力で手を覆い、ゆっくりと砕くしかありません。
 今それを知っているのは、私とマディアス様だけですし、とても繊細な作業ですから自分でしています。他の方にはなかなかできないそうです」
 魔石を布に使う場合は、ほとんどが暗い色に染められている。明るい色もあるので製法に何か工夫があるのだろうが、あれらは魔石で染めているわけではない。
 だから意に染まぬ色になったのなら、染め直してしまえばよい。
 ガートルードの手も、覆い隠してしまえば分からない。
 今度からは見られて誰かを不快にしないように気をつけなければならない。
 穢れてしまって取り返しのつかないのは、イレーネのような清らかな真っ白い物だけなのだ。

 

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