ガートルード
2
「苦痛というのは、心じゃなくて、言葉の通りだったのね……」
イレーネはマディアスを見つめ、ため息をつく。
もちろん描きたくない物を描くのは不快だ。書けなくはないが、楽しくもない。昔はそうでもなかったが、今は楽しくないと、質が下がるような気がした。そういう意味では昔の方が何でもよく描けた。しかし今は、描きたい物を描くとき、昔では表現できなかった何かがあるような気がするのだ。
「イレーネ。用がないなら戻れ」
「絵の具を持ってきたんです。ねえリーンハル……」
彼は手ぶらだった。何かを持っている姿勢で固まり、真っ直ぐにガートルードを見つめている。
その足元に、見慣れた箱が転がっていた。
道具箱だ。
魔石を砕いて、入れてあった。
「……」
マディアスの手と唇が離れたので、恐る恐る箱に近付き、そっと開けてみた。
「あ……」
美しい色に交ざり、美しい銀がこぼれていた。貴重な魔石を砕いた、マディアスの髪のために用意した物だ。混じったのは三色分だが、薄い色に濃い色が混じってはどうしようもない。
美しい白が汚された。
雪のごとき白に、血のような赤と鮮やかな深緑が混じっている。
頭が空っぽになり、世界がぐるぐると回った。何か不快なものが胸に込み上げ、視界が歪む。
手を痛めて、マディアスに迷惑をかけてまで作った、彼女が評価される全てが消えた。
こうも混じっては、どんな色になるか想像もつかない。マディアスの美を表現できない。この色は運命の色なのに。
「な……泣くな」
リーンハルトの弱々しい声。
「お、落ち着け」
声が遠い。
泣いているらしい。
よく分からない。
こんなのは初めてで、どうしていいのか分からない。
「頼むから」
肩に触れられた。リーンハルトに初めて触れられた。あれほど嫌悪していたガートルードに触れた。
「どけ、リーン。邪魔だ」
マディアスはリーンハルトを押しのけ、箱の前にしゃがみ込む。
始末をしてここから立ち去るべきだろうに、しかし身体はなぜか動かなかった。
「この程度か」
マディアスが手をかざすと、魔石が輝きふわりと浮いた。美しい色が浮き上がりその向こう側にいるマディアスを飾るようであった。
その様は奇跡と思う程にガートルードの心を動かした。
マディアスが輝いている。
なんて素晴らしい姿だろうか。なんて絵になる人なのだろうか。
「魔石に関して、僕に出来ないことはない」
イレーネが差し出したい薬品を入れる小皿に、浮いた魔石が種類ごとに別れて行く。
血に穢れた白が、元に戻った。
「ああっ、さすがはマディアス様」
どのようにかして魔石に力を加え、その性質の微妙な差を利用して移動させた。魔石を知り尽くす彼だから出来ること。
「気持ちは切り替わったな」
「はい」
「では、お前の仕事をするといい」
赤の似合う至高の白は、ガートルードの頭を撫でてから立ち上がった。
心の底から、自分が彼の僕であることを自覚した。
ここでこうしていることが、彼女にとっては至福である。
涙を拭い、魔石を大切にしまうと、ガートルードは椅子に座りもう一度美しい主を観察する。
部屋は暗い。
それで構わない。
見えるし、描ける。そうやって描いてきた。身を潜めて、あの男の代わりに。
だから今でも暗い場所で描く。暗くないと人物は描けない。光は対象の側にあればいい。それがいっそう人物を引き立てる。
本を読む姿の、なんと美しいことか。
脳裏に焼き付いた先ほどの美しさ。ほんの一瞬の出来事で、彼女の中の主の印象が少し変わった。
鮮烈さは彼女を浸食する。
普通の絵の具を絵筆に取り、夢心地で主を描く。
「楽しみです」
背後から覗き込むイレーネが呟いた。
「リーンハルトも見てみなさい。あなたは彼女の作品など見たことはないでしょう」
部屋の隅で控えていたリーンハルトはイレーネに手招きされ、渋々といった様子でガートルードの背後に回った。完成とはほど遠いほとんど下絵のままのキャンパスを見て、何が楽しいのか分からない。
「屋敷にあります」
「あら、意外ですね」
「まだあの男が生きていた頃に姉が描かせた絵です。それで縁談がうまくいき、姉が気に入りました」
知らない。リーンハルトの姉というのが、誰のことか分からない。
少しでも早く少しでも多く描くように言われ、対象などただの静物と変わらぬありきたりの物として認識していたので、あの頃のことはあまり記憶がないのだ。画家として、その頃の絵が勝っていたり劣っているかというと、そうでもない。あの頃は今と違って、手は我が儘を言わずに何でも描いていた。
「その時から、魔石が使われていることは分かっていました」
絵の具に魔石は使うが、全て魔石ではなく混ぜ物だ。あの頃はとくに薄かった。だからこそ誰も気付かず、しかしわずかに放たれる魔力で心をゆるませられていた。その心のゆるみに付け入るのがガートルードの絵。
誰かが気付いていたという話は聞いたことがない。
「ガーティ、お前を一番初めに見つけたのはリーンハルトだ。僕はリーンハルトに可能かどうか聞かれて、初めてお前の存在を知った」
ガートルードは驚いて振り返る。リーンハルトは視線をそらし、いつものように不機嫌な顔をしている。
「…………そうですか」
だとすれば、彼には感謝しなければならない。ここでこうしていることは、とても幸せだ。
「そうですかだけか?」
リーンハルトがガートルードに言葉を向けた。
「…………なぜ」
「お前は、考えないのか?」
「…………ええと……今日はよく話しますね」
彼が仕事に関係ないことで話しかけてくるのは本当に珍しい。だから少し驚いている。しかもそれが権力と血筋の頂点である女王の前で。
「知っているだろう。私が王族の血を引いていることを」
彼の言葉は、いつもよりも感情がこもり、冷静さに欠いていた。
「知っています」
ガートルードはそれだけ答えると、再び絵筆を動かした。
望むのはこうして絵を描くことだけ。
それ以外は望まない。
「お前は馬鹿なのか」
「奴隷に学などありません。教えられるのも、一つに特化しています。絵のこと以外知りません」
奴隷の刻印は右手の甲にある。染まってしまって分かりにくいが、手袋を着けるのはそれを隠す意味もあった。物心ついたときには既にあり、マディアスに手を取られたときに顔を顰められ、初めてその刻印を邪魔だと思った。
だからマディアスのために隠している。
奴隷は奴隷に過ぎないが、マディアスが不快と思うなら隠すだけだ。それ以上の意味はない。隠そうとも忘れようともしているわけではない。
「なぜ自分が魔石を操れるのか、考えたことはないのか?」
「操るなど出来ません。潰しているだけです」
少しコツがあるだけで、手を潰す覚悟があれば他人にも出来るだろう。
「魔石を変質させることなく加工することが、どれだけのことか分かっているのか? 装飾品にするためにカットする場合は、イレーネ様が作られた属性無しの魔石で行うんだ。それでも色が多少は変化する。だが、お前はその多少の変化すら起こさない。
分かるか。お前がしていることがどれほど特殊なのか」
目を伏せ、首を振る。
過去は消えない。刻印も消えない。先は変わらない。
「わたくしは、初耳です」
イレーネは自分の作った魔石で魔石をカットしているのを知らなかったのだろうか。ガートルードは仕事上魔石のことなら少しは知っているが、作り手はその後を気にする必要ないのは事実であり、知らなくても仕方がない。
「気付かない方が悪い。それに確定ではない」
マディアスが足を組み替えながら言う。
「わたくしは専門家ではありません。
リーンハルトの言うとおりなら、なぜ公表しないのですか」
ガートルードの手が止まる。目を伏せる。
椅子の足が床を滑る音が聞こえた。目を開けると、マディアスが立ち上がっていた。
「リーンハルト。気持ちは分かるが、無理を通すなと言っている。その子はそれを望んでいないし、確かな証拠もない。だったら意志の尊重が大切だ」
「しかし……」
「それはお前の都合だ。承諾も覚悟もなくガーティを巻き込むな」
リーンハルトはうつむいた。
マディアスに任せればいい事は考えないようにしている。考えるのはどう描くかだけでいい。全てはマディアスに任せればいい。
マディアスの冷たい手がガートルードの肩に置かれる。
心地よい、石床を思い出す冷たい手。
「覚悟……」
リーンハルトが何の覚悟をするのか分からない。考える必要はない。マディアスが言わない事を考えても仕方がない。
「覚悟なら……」
「あるのか。お前に」
マディアスはガートルードの首筋を撫でながら、冷ややかな笑みをリーンハルトに向けた。ガートルードはその冷たさに身を委ねる。底冷えするような冷たさが、舞い散る雪花を思い出す。
「覚悟は……あります」
リーンハルトは顔を強張らせて、いつもの目をガートルードに向けていた。
彼の目は、なぜかとても恐かった。いつもと同じような表情なのに、恐いと思った。だから彼女は彼から目をそらし、絵筆を動かす。
マディアスを見なくとも頭の中にある。
見なくとも分かる。鮮烈な白。しかし感じるのは闇。
「覚悟があるのはいいが、先ほど言ったとおり、ガーティの意に沿わなければ問題外だ。一番にガーティの意志を尊重するなら、僕はこの事に関してだけは口を出すつもりはない。お前が全てやれるなら、好きにしろ」
ガートルードは恐怖した。彼女の意志が一番だと言われても恐かった。リーンハルトが何を好きにするのか分からない。大がかりな仕事があるとしても、今は画家としての仕事を優先させたい。
今が幸せだ。
だから嫌だ。
「ガーティ」
「嫌です」
マディアスの呼びかけに即答する。
「話はまだ何もしていない」
「嫌です。私は私の絵を描ければいいんです。それ以外は必要ありません。
それ以外はいりません」
マディアスはそれ以上をあきらめ、代わりにリーンハルトが言う。
「お前はもっと外を見ろ!」
「見ました。これがいいんです」
マディアスの配下のエヴァリーンに連れられて、色々な場所を見た。絵を描くには、もっと色々な場所を知った方がいいと言われて、色々な場所に行った。しかし分不相応な場所ばかりで、楽しくなどなかった。集まる人の目が怖かった。気のせいだと思っても、怖かった。
「楽しかった場所は一カ所もないのか」
マディアスをちらと見て悩んだ。彼がわざわざ手配してくれたことを、まったく楽しくなかったとは思ってはいない。怖かったが、魅了されたときもあった。
「……オペラは好きです」
綺麗だった。視覚的効果もあるが、音があれほど心に響くというのは知らなかった。
「なら連れて行ってやる」
「なぜリーンハルト様がそのようなことを気にするんですか?」
リーンハルトは押し黙る。腕を上げさせるために絵を見ろというなら理解できるが、オペラは彼には関係ない。
もう一度マディアスを見ると、くつくつと楽しげに笑っていた。
「リーン、覚悟があったんじゃないのか? その程度なら出て行け。僕にとって、ガーティはイレーネと同じほど可愛いんだ。可愛い子に意固地になる男はいらない」
彼の言葉で頭の中が真っ白になる。
今、誰と比べられたのか考えるだけで恐ろしかった。
イレーネの次に血が美味しいとは言われていた。可愛いというのはどういう意味だろう。
「分かりました。覚悟を見せます」
リーンハルトはマディアスへと頭を垂れ、ガートルードを睨み付けた。
「首を洗って待っていろ!」
そう言って、彼は部屋を出て行った。
彼が何を要求しようとしているのか想像もつかず、マディアスも教えてくれず、恐ろしくて身を震わせた。
部屋を出て廊下を歩いていると今まで感じたことのない類の視線を向けられていた。
一人ではない。複数。
誰かとすれ違う度に見られている。
部屋を出たとき鏡を見たが、おかしな所はなかった。手袋もしている。髪もといた。毎日濡れ布で身を清めているし、週に数回は湯も使っているから臭いということはないはずだ。そのはずだが、気になって自分の匂いを嗅いでみる。特殊な素材を使ったわけでもなく、匂う物を食べてもいない。いつもと変わらないはず。
「ガートルード!」
三日ぶりに聞く、罵声に近い声で呼ばれ、反射的に足が前に進んだ。
「なぜ逃げるっ」
逃げなければならない。逃げなければ、きっと恐ろしい目に合う。世界を壊される。
しかし運動などほとんどしない女の足で逃げ切れるはずもなく、すぐに腕を掴まれた。
「逃げるなっ!」
「いたいっ」
痛みを訴えた瞬間、拘束が解けた。恐る恐る見上げると、目の前に小箱を突き出された。天鵞絨の、本当に小さな箱。
リーンハルトはそれを恐い顔で押しつけてくる。
「な……なんですか」
「受け取れ」
恐る恐る手にして中を見て、首をかしげた。
指輪が入っている。
「これをスケッチすればよろしいですか」
「スケッチの必要など無い。お前が受け取ればそれでいい」
指輪を観察する。
石は魔石ではない、普通の宝石だ。宝石の価値はまったく分からないが、土台の金属が高価なことは分かる。安い物ではないだろう。呪いの指輪なのかもしれない。
人が集まっている。こちらを指さしている。
「なぜこんなものを私に……」
「こっちは全部捨てる覚悟でやっている」
「わ、私は仕事があるので」
「いいから聞け。お前の身元は出さないし、周りに何も言わせない。ようやくマディアス様の許可も下りた」
「何のことですか」
一歩下がると、彼は一歩前に出た。
恐ろしくて身体は震え、涙が出てきそうになる。
恐くて恐くてたまらない。
「結婚しろ」
ガートルードは指輪の入った箱をそっと床に置き、耳を塞いで逃げた。
人垣をかき分けて走る。どこに向かって走っているのかも分からない。
わけが分からない。
どうしてあんなことを言われるのか、分からない。
分かりたくもない。
だから彼女は無心で走る。
何も考えなくていいよう、何も恐いことがないように。
蹲っていることにも、泣いていることにも、しばらく気付かずじっとしていた。
庭の片隅。
バラの中に埋もれていた。
固く閉じた蕾ばかりで、花咲くのはもう少し先。花咲いたときの美しさは、魂が震えるほどだ。
現実を忘れられる夢心地の一時は、現れた男の足により脆くも崩された。
薬品がついたのか一部変色した皮の靴が視線の先に現れた。恐る恐る見上げると、リーンハルトが彼女の前に膝をついてしゃがみ込む。
「泣きながら逃げるほど嫌なのか」
後退しようにも、背後にあるのは茨である。髪が絡まり下がるどころか逃げることすら困難になったことに気付く。無理をして、バラを傷つけたくない。
「な……なんで……突然結婚なんて」
結婚など、考えたこともなかった。する必要がないのだ。自分の身の程を理解していれば、その価値も、意味もない事は理解できる。むしろしない方がいいはずだ。
消えた方がいい血だ。
「そっちそこなぜこんな所に座っている。居場所は分かっているのに探すのに苦労した」
隅の方の目立たない場所だ。目立たないからこそ安心できた。これほど早く見つかる場所ではない。
本気で探していたのだろう。ただでさえ不機嫌な彼を刺激してしまったのだろうか。
「マディアス様のご命令ですか」
「馬鹿なことを言うな。命令どころか反対されていた」
それはそうだろう。彼はマディアスにとってお気に入りの弟子のようなものだ。賢く、魔道士としての才能も豊かで、王族の血も引いているため魔石とも相性がいい。イレーネの婿にはこういう男がいいと言っていた。彼はマディアスのような空の上の人。
こんな刻印がある女とは、本来口もきかないような人物だ。
「わ……私が、王族の血を引いているかも知れないからですか」
「なんだ。ちゃんと分かっていたのか」
「か、可能性の一つとして。でも、そんな血筋の者が奴隷として売られていたはずがありません」
物心ついたときには一人で奴隷だった。それ以外の記憶はない。
「イレーネ様の母君の前に失踪している王族がいる」
「え……」
「マディアス様に嫁に行くのを反対されて、勝手に嫁に行ったはいいが途中で賊に襲われたらしい。
まあ、だからイレーネ様やお前の相手には、極力口を出さないつもりらしいが」
ついこの前、マディアスによってイレーネの縁談は叩きつぶされていた。ガートルードの目から見ても不釣り合いな男だったため当然だと思っていたが、もしもイレーネの意思を尊重するなら手を出してはいけない。
「あの方は過保護で他人をなかなか認めない。しかしマディアス様にとって、私はギリギリ許容範囲のようだ。お前はマディアス様のためにも、私と結婚すればいい」
マディアスのため。
リーンハルトにとっては、ガートルードが失踪した王女の血筋の者と噂が流れれば、それが真実でなくともいいのだろう。今まで以上にマディアスと近づくことが出来る。この国の貴族にとってそれが一番の出世の近道なのだから
マディアスもそれを望んでいるのだろうか。
「……ま、マディアス様は、私の意思を尊重しろとおっしゃいました。私は結婚なんてしたくありません」
リーンハルトはなんだか恐い。結婚とはずっと一緒にいるということだ。彼と仕事以外で一緒にいるなど考えた事もない。
「……とにかく、一緒に来い」
「どこにですか」
「言っただろう。オペラに連れて行ってやる。ドレスも用意した」
必死に首を横に振って抵抗した。ドレスなど着たくない。連れていって貰ったときはスーツだった。ドレスなど着たこともないし、着たくない。
しかし彼は彼女の腕を引き、無理矢理立たせようとする。
「い、痛い、髪が」
バラの垣根の中にいたせいで、茨に髪が絡まった。それに気付いた彼は、手を放し茨に伸ばす。ガートルードの癖のある髪は複雑に絡み、なかなか取れないようだ。
逃げるに逃げられないし、連れて行くに連れて行けない。
間の抜けた沈黙の中、居たたまれなくなりナイフを取り出した。
ナイフを後頭部近くまで持っていくが、リーンハルトが邪魔で切れない。
「貸せ、蔦を切ってやる」
「だめです。バラを傷つけないでください」
「……髪を切るつもりだったのか。ずぼらも大概にしろ。マディアス様に言われてせっかく伸ばした髪だろう」
「私の髪よりも、薔薇の方が大切です」
「馬鹿か、お前は。
せっかく綺麗に伸びたのに、マディアス様が嘆くぞ」
「薔薇の方が綺麗ですから」
リーンハルトはナイフを奪い取り、黙り込んでため息をついた。ナイフは一つだけだ。これでは髪が切れない。薔薇を切らぬように睨み付け、彼が諦めるのを待つ。
「そこで何をしているんだい」
リーンハルトで見えないが、かけられた声は庭師の老人だ。美しい庭を造る素晴らしい人。優しいおじいさん。
「ミハエルか。
薔薇にこの馬鹿が絡まった」
「おやおや。まるで薔薇の妖精のようだね」
「そんな色気があるものか」
「待ってなさい。とってあげよう」
老人が手を伸ばして髪に触れる。ミハエルという名を初めて知った。絵を描くときによくしてもらったのに、名前も知らなかった自分の受け身さを自覚した。
「綺麗な髪が痛んでしまうね」
彼はハサミを使って……
「ば、薔薇を!?」
「薔薇は切っても大丈夫だよ。切る場所は選ぶし、どうせ切らないといけないからね。ほら、立ってごらん」
手を引かれて立ち上がると、ミハエルが背後に回って枝を取ってくれた。
「泣いていたのか。どうかした?」
ミハエルはマディアスとは違った意味で好きだ。彼が側にいるとき、用が無くても落ち着くのだ。マディアスと合うときは、何か用がないと落ち着いていられない。
落ち着く。
「……何でもありません」
「本当に? 何か辛いことがあったんじゃないのかい?」
「大……丈夫です」
大丈夫だ。結婚なんてしないし、ドレスも着ない。絵を描くだけ。それが幸せで願い。
「人の決死のプロポーズを、辛いこと扱いか……」
少なくとも、迷惑だ。
リーンハルトは今までガートルードを睨むか命令するかどちらかだった。褒められた事もなければ、好意を示された事もない。
何のつもりか分からないが、いきなりこんな事を言われても迷惑の一言だ。
そもそも、彼と彼女の結婚観は大きく違うのではないかと考えた。
「結婚とは、政略的な意味合いでない場合、好き合っている者同士がするものでしょう。なぜ突然結婚なんですか」
リーンハルトは唇を噛んでうつむいた。
誰かに強制されているにしても、彼ならよほどの事がない限り抵抗するように見える。彼女にはそれを曲げてまで政略的な結婚をするほどの価値はない。
きっと彼が本当に強く望めば、イレーネとでも結婚できる。二人の仲も悪くないし、そうすればいいのだ。
「ははっ、確かにその様子じゃあ性急に過ぎます。あなたの態度は愛しい女の子に対するものじゃあないから、彼女も戸惑うんですよ」
ミハエルの言葉に戦慄する。
愛しい女の子。
あり得ない。
「ガーティちゃんは美人だから気持ちは分からないでもないけど、そんなに焦ることはないでしょう。
ほら、立てるかい」
ミハエルの手を借りて立ち上がる。髪は引っかかることなく、振り返ってバラを見ても変わった所は分からない。
「ガーティちゃんも、あんまりつれなくしては彼が可哀想だよ。よく話し合ってみるといい。無愛想だが、誠実ないい男じゃないか」
「……でも、恐いです」
「言われてみれば目つきが鋭いねぇ。でもマディアス様の方がよほど恐いと思うよ」
「マディアス様は恐くないです。優しいです」
目つきも鋭くないし、笑うととても優しい顔立ちをしている。食事をするときは少し恐いが、本能をむき出してとても綺麗だ。
リーンハルトとは違う。
彼に視線を向けると、頭をかきむしったかと思うと彼女の腕を掴んだ。
「ああ、もういい! 行くぞっ」
「ええ!?」
「もう席は予約してある。お前がエヴァリーン様に連れられて見たメンバーが多く揃っている。気に入ったんだろう。値段も倍率も高い特等席だ。来ないつもりなら無駄になる」
想像して、ぞっとした。普通席でも高価なはずだ。特等席ともなれば、どれだけ値が張るか。
「わ、私なんか連れて行かなくてもっ。しかもそんな高い席」
「いいか。この私がプロポーズしたんだ。他に誰と行く? 女は論外。男なんて連れていったら笑い物。口説く相手をどこに連れていくかは、家柄で変わるんだ。中途半端な事などしない。黙ってついてこい。オペラを見て食事をするだけだ。それ以上はしないから大人しく来い」
肩を抱かれて連行されるガートルードに、ミハエルが笑いながら手を振った。
「ガーティちゃん、楽しんでおいで。リーンハルト様も次からはもう少し素直に誘った方がいいですよ」
その日、生まれて初めて小さな家ぐらい買えそうな値段の衣装一式を身につけた。その身につけたドレスや装身具の全てがプレゼントだという。
どうしてもリーンハルトの事が分からない。
理解できる日が来るのか、理解したらどうなるのか、先の見えない闇の中に叩き込まれたようで、恐ろしかった。
こんな恐怖は、マディアスと初めて会った時以来だ。
世界が壊れる恐怖。知らない世界に触れ、それがいいのかどうか分からない恐怖。
不安で、夜も眠れぬほどに恐ろしい。
暗い部屋の中、水鏡を覗き込む彼を見て彼女は肩をすくめた。
あのリーンハルトがガートルードにプロポーズをし振られて追いかけっこをしている、という話を耳にしたもので来てみれば、案の定この過保護な男は様子をのぞき見していた。
「マディアス、悪趣味ですよ」
「好きにしろとは言ったものの、あれも男だ。何か間違いがあっては遅い。手を握るまでは許したが、婚前交渉は許さない」
「せめてキスまでいいんじゃなくて?
それよりも腑に落ちない事があるのだけどいいかしら」
マディアスが顔を上げる。水鏡の中では、馬車の中で脅える可憐なガートルードと、ふんぞり返りながらちらちらと隣を盗み見るリーンハルト。
ガートルードは美人だ。イレーネよりもはるかに、あの美しかった祖母に似ている、本当に綺麗な少女だ。着飾らせるとその美しさが際立った。リーンハルトが惚れ込むのも無理はない。美しい姿で美しい絵を描く、美に愛された少女。
「リーンハルトはいつから彼女を?」
「一目惚れだそうだ」
彼の性格から考えると意外としか言いようがない。
「リーンがあれを見つけたのは言っただろう。あれも芸術が好きな男だから、本当の作者に会うのを楽しみにしていたんだ。
その割には態度がつんけんしていると思っていたら恋愛相談を受けた。あの自分の事は自分で何でもする男が、恋の悩みだ。腹を抱えて笑ったのは何年ぶりだったか」
「まあ、それは本当に愉快ですね」
「あれは今でも自覚していないが、緊張しすぎて睨み付け、ガーティが何に興味を持っているか分からないから、何と言葉をかけていいのか分からなかったらしい。芸術家に下手を言って軽んじられるのを恐れて」
「まあ、悪循環」
うっかり足を踏み入れてしまった泥沼のようだ。底なし沼も落ち着いていれば脱出はできるはずなのだが、はまってしまうと人は混乱してただがむしゃらにもがいて死んでしまう。
「しかしあのリーンの態度は、ある意味男除けになっていた」
「なぜです? 皆は彼の好意を知っていたんですか?」
だとしたら、イレーネはとんだ間抜けである。あの日まで気づきもしなかったのだ。
「誰から見てもあれは毛嫌いしている相手に対する態度だ。この奴隷娘がというあれが、彼女に交際を申し込んだらリーンハルトに目をつけられるという雰囲気になっていたらしい」
彼は地位も名誉も上司の覚えもいい。彼に目をつけられるようなことがあれば出世出来ないと思われても仕方がない。
そして彼女はマディアスにまでも気に入られている。イレーネに群がる男達が、どんな目に合うか彼らはよく知っている。
二重の意味で、手が出ない。
「その上ガーティ本人も声をかけにくい雰囲気だろう。生きていくのに必要な常識こそ彼女にないから、話をしていても掴みにくい。美しい物にしか興味がない高嶺の花のように目に映るんだ」
水鏡の中、馬車から出てオペラハウスに入る二人。容姿だけなら釣り合いのある二人は目立つようで、周囲の視線を集めている。今日一日で城中に知れ渡ったこの噂を知る者も、知らぬ者もつい彼女たちを見る。
「ガーティには幸せになって欲しいわね。わたくしに一番近い身内だもの」
魔石こそ作れないが、おそらく彼女の親類の誰よりも王に近い力を持っている。それほど今の王家には人材がいなかった。おかげでイレーネはこうして生きてここにいる。
知ってしまえばなおさら可愛くて仕方がない。
ひたむきな芸術家肌の彼女のこだわりは見ていて心地よいほどだ。
恋心という物に触れて、彼女の絵がどう変化するのか、楽しみでもあり恐ろしくもある。
彼女が恋をしなくとも、恋の熱さと激しさに触れれば、きっと彼女の絵は変わってしまう。
マディアスに出会って変わったように、良くも悪くも変化するだろう。
人とは、一つの出会いで簡単に変わってしまうものなのだ。