暗闇のゆりかご
夕時の静かな喧噪を感じながら、彼は人が戻ってきている宿舎を歩く。
ガートルードが住んでいるのは、花咲く庭が一望できる二階の特別広い部屋。身分には相応しくないが、誰も文句を言ったことがない。その場所の景色が良いからこそ、与えられているのだと知っているからだ。
だから働く者達も音を立てぬよう動き、しかし近い夕餉のために動き回るので声を潜めて騒いでいる。
この時間はガートルードも部屋でくつろいで、食堂が空いたころに食事をする。だからいつもは間違いなく部屋か庭にいるのだが、彼女の姿はない。
確かに約束していたわけではないから、いなくとも問題ないのだが、日も暮れたこの時間、彼女がどこへ行くのか、想像すると少しばかり怖くなる。
また暗い場所で絵を描いていなければいいがと思いながら、リーンハルトはマディアスの部屋へと足を向ける。
その途中、イレーネが侍女だけを連れて廊下を歩いて向かってくるのを見つけた。
城内とはいえ護衛もなしに歩き回るのは女王としては間違っているのだが、彼女は護衛などいらぬほどの、魔具、魔動機、魔石を身につけている。
歩く姿勢から生まれる優美さは、生まれ育った環境で身に付いたものではなく、血の滲むような努力により身につけたものだ。女王としての威厳も、女性としての気品も、少女としての可憐さも、知性も、何もかも、十二歳からたたき込まれたことだ。普通の少女が同じ教育を受けても、上っ面の威厳や気品は身につけられても、知性までは難しい。
父が夢中だったという彼女の祖母の血を、彼女は容姿以外で色濃く受け継いでいる。
それに比べて今彼が探している少女は、同じ血筋だが向上心というものがない。ただひたすら一つの事だけを見ている。
「イレーネ様、いかがなさいました。そろそろ夕餉の時間では」
「リーンハルト聞いてくださる?
マディアスったら、ガーティを一人で無人の屋敷に泊まりに行かせたのよ。無人の屋敷としか言わないの。あなたは何も聞いていない?」
「聞いていませんが……無人」
リーンハルトは少し考え、彼女にゆかりがある無人の屋敷が存在するのを思い出す。
「彼女が育った屋敷では。彼女を飼っていた貴族の」
「今は無人なの?」
「確かそのはずです。荒廃していると聞いています」
「場所は分かりますか?」
「はい。彼女を見つけたとき、私も同行していましたから。彼女はマディアス様しか見ていませんでしたが」
彼女は暗い半地下室にいた。
客間隣の半分地面を掘って作られた部屋。のぞき穴が多数有り、彼女の主はそののぞき穴付近に座って絵を描くふりをした。彼女は数あるのぞき穴からその先を見て描いた。
始めて彼女を見たとき、彼女は死んだように冷たい床の上で眠っていた。
手はぼろぼろで、魔石に血が混じらないように血を止めるために呪札を腕に巻いていた。血が止まっては魔石を潰し、血が出ている間は札を巻いて絵を描いている。
そんな生活を送っていた。
痩せてぼろぼろの少女は、どれだけ薄汚れていても美しく、リーンハルトを魅了した。
その場の、彼女の荒廃的な雰囲気に飲まれ圧倒された。
死んだような目が、マディアスを見て生き返った瞬間、胸がざわめき、鳥肌が立った。
彼女に一目惚れした瞬間は、今も色あせず鮮烈に──おそらく美化されて彼の中にある。
「でも、なぜそんなところに?」
「さあ。あの女の考えることは分かりません」
イレーネは肩をすくめて侍女へと顔を向けた。
「馬車の手配をお願い」
「かしこまりました」
少女は一礼すると命に代えても仕え守るべき主から離れていく。
「行くのですか」
「あなたは行くのでしょう。だったら行きます。そんな無人の場所で、殿方と二人きりになると分かって捨てておけません」
信用されていないものだ。イレーネが退屈だと思っていて、リーンハルトが一緒なら護衛も必要ないと考えているのもあるだろう。護衛に邪魔されては、せっかくの退屈しのぎが台無しだとも思っているだろう。
いらないところがマディアスに似てしまい、リーンハルトは嘆息する。
暗闇の心地よさを忘れていた。
今住まう部屋の窓の外にはいつも明かりがあった。眠りを妨げるほどではないが、外を歩けるように、侵入者の姿を目視できるように、魔動機によるわずかな明かりが常にあった。
だから暗闇を忘れていた。
ここは月の光も星の光も差し込まない、暗幕で作る夜陰とは比べものにならない闇が支配している。明かりさえ消せば完全な闇に包まれる。
感覚が鈍っている。昔は暗くても歩けたのに、今は光に慣れすぎて闇を歩く感覚を忘れた。足が何かを踏んで転び、そのまま倒れて横たわっている。
ほこりのつもった冷たい床。
その冷たさが懐かしく心地よい。
眠くなる。
今の時期はまだいいが、真冬の寒さに負けてそのまま寝てしまい死んだ者もいた。逃げられぬように鍵をかけられ、出口に家具を置かれ、どこからも逃げる事の出来ぬよう、最低限の食料と水を与えられた。寒さを凌ぐのも最低限のものだけで、良くできれば待遇を良くしてもらい、出来なければ食料すら与えられないこともある。
肌寒さがそれを思い出させる。
冷たいならば冷たい方がいい。
冷えた身体で暖かい湯に入ると、どれだけ自分が凍えていたか思い出す。
元に戻るのが怖くなる。
自覚は必要だ。
彼女のいるべきはこんな暗い場所。寒い場所。
マディアスの作る闇裾の影に潜むようにしていることはできるが、明るい所は場違いだ。
忘れていたわけではない。
闇に焦がれるのは道理だが、光に焦がれるのは不遜だ。覚えている。自覚している。ふさわしくない。うぬぼれてはいけない。欺瞞してはいけない。どれほど綺麗に着飾っても、見る目のある者の目は誤魔化せない。
腕を伸ばし、ランプに触れる。魔石の力で光るもので、ガートルードがここから持ち出した画材以外の唯一の物。落として壊れたのか、光はつくがろうそくほどの力もなかった。そのわずかな光だが、闇に慣れた彼女にはまぶしいほどで、見たい物がよく見えた。
いつも側にあった薄闇に紛れる腐敗の世界。
これが当たり前であった自分は、表にいていい存在ではない。
分かっているが、光はまぶしくて、焼け落ちそうな熱を持って自分をすくい上げようとする。
それに甘んじて、言われるがままに上等の絹を羽織り、甘い蜜を吸うように贅沢を覚える。
目を伏せた。
いい機会だ。
しばらくこうしていればいい。
ここは冷たいが慣れてしまえば心地よい。暖かみの中にある深みの方が、彼女にとっては恐ろしい。
だから忘れてはいけない。
ここがふさわしい。
あの時は昼間だった。しかし今はもう夜も更けている。夕飯もそこそこにかり出された御者をねぎらい、食事として途中買った品々を暖めてやる。彼らは馬車の中ですませた。
凍えるといけないので暖かい馬車の中で待つように言うと、二人は屋敷の中に踏み入る。
暗いため、荒んだ廃屋というような印象はない。ただ庭の手入れをしていないだけで、景観というのはずいぶんと損なわれるのだと感じた。昼間に見たら、もっと悪い印象を受けただろう。
彼女と出会った場所のせいか、印象は暗く美しいというものになっている。踏み入ったときのあの感覚は忘れない。
「ガーティは本当にここにいるのでしょうか」
「屋敷にいると言ったなら、間違いなく」
「なぜこんな場所に来たがったのでしょう。いい思い出などなさそうなのに」
ここは彼女にとって大好きな絵を描き続けられた場所だ。煩わしいこともなく、無心にひたすら描いていた。
彼女にとっては理想だったのかもしれない。
玄関に施錠はされておらず、床を見ると真新しい足跡があった。大きさからして、女の足跡だ。間違いなくここには女が来ている。もしくはいた。
ガートルードと考えて間違いない。当時に不満が無いことは、今を見ればよく分かる。おそらく今の自由のある生活の方が彼女にとっては不満なのだ。あまりにも違いすぎて。
足跡をたどっていこうと思ったが、玄関ホールからは絨毯が敷かれていて、足跡が分からない。その上彼女はうろついてたらしくて、床の部分も足跡が乱れている。
「あの女、何をうろうろしている」
「懐かしいのかも知れませんね」
イレーネは置物の壺に触れ、呟いた。
「これ、本物ではないですか?」
「おそらくそうでしょう」
有名な老舗メーカーの品だ。放置されていれば偽物だと思われるだろうが、本物だ。偽物を飾っていては、芸術家としての名折れである。
「よく盗まれませんね」
「マディアス様のお力ではないでしょうか。ひょっとしたら、ガーティのためにそのまま維持していたのかも知れません。薄汚れている以外は、元のままです。泥棒や浮浪者が窓を割って入り込んだ様子もありません」
どうしても入りたくないと思わせるような印象を与えることは可能だ。
そうやってガートルードの世界を守っていたのかも知れない。
彼女は美しいものには羨望を向けるが、荒廃したものの中にいると安らいだような顔をする。乱雑な部屋の中、床の上で横たわる彼女はとても綺麗だったが、出会った頃を思い出して胸が痛んだ。
「どうせなら管理させればいいものを」
「彼女が望まないでしょう」
自分のために他人が動くことを恐れる。彼の家に連れてきても、コートを預かろうとする執事に対して恐れるように首を横に振るのだ。
対価を払おうが、誰かに何かをされるのを恐れている。
彼女が唯一誰かに気兼ねなく頼るのが、食事と洗濯──モデルを頼むときに限る。
食事は食堂で食べて、洗濯はその場で対価を払って行う。洗濯婦の収入のほとんどはそのチップで成り立ち、彼女が仕事を頼むことで彼女たちの生活が成り立つと知っている。モデルとして彼女が好む色街の女というのは、金をもらえるなら喜んで服も脱ぐのを知っている。
これでもずいぶんと他人を受け入れられるようになったのだ。
あともう少しだけでいい。もう少しだけ他人を受け入れるようになれば、彼女も楽しく生きられるだろうに、これ以上は慣れる気配も誰かとなれ合う気配もない。
リーンハルトのことも、彼が干渉しない限りは見向きもしない。時折、無性に自分のしていることがむなしくなる。
それでも好きだから、追いかけてしまう。追いかけすぎて、脅えさせてしまう。
男女の距離とは難しい。
「センスはいいわ。手入れしていれば、素敵な屋敷でしょうに」
イレーネはほこりが積もったリビングに足を踏み入れ呟く。高いヒールのブーツを履いているので、ドレスが汚れる心配はないが、彼女をこのような場所に連れてきたこと自体を少し後悔している。
「足跡は戻っていますね」
「リーンハルト、よく見えますね」
「暗いところは慣れているので。おかげで明るいところの方が苦手になりました。
幼い頃は人間はこういう生活をしていると吸血鬼になってしまうのかと思いましたよ」
「まあ、リーンハルトでもそんな可愛げのある子供時代があったのね。何もかも理解していますって、可愛げのない子供だと思っていたわ」
イレーネが鈴を転がしたような声で笑い、リーンハルトはため息をつく。
生意気だと言われ続けた子供だったが、現実的だとしても子供は子供だ。変なことも考える。確か真実を知ったときは、吸血鬼すべてを尊敬した。まさか死ぬまで血を吸われ、血を分けられると吸血鬼になるとは思ってもいなかった。彼は民間伝承やおとぎ話や娯楽本を読まないで、今思えば子供のくせにそんな高等な物を読むなと言いたくなる本を読んでいた。イレーネの言うようにもかわいげのない子供であったことは間違いない。
「ガートルードも懐かしんでいたのかしら」
「それはありません。彼女は自分の部屋からほとんど出たことがなかったそうです。出るときも他の部屋など見ていなかったから、ふらふらと道に迷って観察しているのでしょう」
「じゃあ、今はお部屋にいるのかしら?」
「その可能性はあります」
「リーンハルトはそこをご存じ?」
「はい」
今もそこに向かうような道の途中、他の部屋に誰かが入った形跡があればのぞいていただけだ。
リーンハルトは記憶を頼りに、彼女が床の上で眠っていた隠し部屋を探す。この屋敷にはそういう部屋がいくつもあって、隠された狭い通路でつながっている。キャンパスを出し入れするので大きめの出入り口をもつ部屋もあるが、ほとんどの通路は横に狭い。肥満体型では移動できないため不便だろう。運動もしないガートルードが痩せていたのは、太らないように食事制限されていたためだ。その分栄養価の高いものを食べていたらしく、薄味で野菜とタンパク質中心の生活だったらしい。とくに頻繁に血を流すので、栄養に気をつけて最低限で大切に生かされていた。大切に大切に、高い札や薬を用意して、大切に、あの才能を生かしていた。
「確かここです」
用途不明の部屋に入り、カーペットをめくり上げて取っ手を引くと地下への階段が現れた。カーペットの周辺のほこりが飛んでいるので、間違いなく使われている。
イレーネは素敵と言って一人で先に行ってしまう。彼女はあれで少年のように好奇心と冒険心が旺盛な女性である。
少し階段を下りただけで部屋に出る。リーンハルトが背を伸ばして立つと頭を打つほどの天井で、部屋の真ん中だけ他よりも高い天井になっている。隣にある客間をのぞき込むための部屋だ。
「ガーティはどこかしら?」
「モグラのように地下をはいずり回っているかも知れません」
右手にある通路は高い天井だが、左手にある通路はイレーネでもかなり腰をかがめなければ通れない。
右手の通路を見ると、足跡があったので、少しだけ安堵して進む。
「彼女の部屋は確かここです」
中をのぞくが、床にはいない。
では別の場所だろうかと先に進もうとしたとき、部屋に入ったイレーネが悲鳴を上げた。
慌てて駆け付けると、危うく落ちそうになって足を止めた。
部屋の奥にかなり大きな段差があった。どんな構造だと思いながら下に光を向けると、すみの方に階段があり、そこにガートルードが転がっていた。
なぜこの女は床で眠るのが好きなのだろうか。
そう思いながら絵が積まれるその空間の、かろうじて何もない場所に飛び降り、彼女が抱える絵に気づく。
少年が床で眠っている絵。
いや、少年が息絶えている絵だ。
「ここ、収納なのかしら? 閉まるようになっているわ」
絵を隠しておくには見つかりにくい、いい場所だ。
床の上、無造作に重ねられている絵を一枚取り、リーンハルトは顔をしかめる。
また子供の死体の絵。しかも男がそれを処分しようと首にひもをかけて引きずっている。
今の絵と比べればずいぶんと稚拙だが、漂う雰囲気はリアルすぎて笑えない。
「まあ、ガーティはこんな絵も」
イレーネも顔をしかめる。
彼女はほとんど見た物を描く画家だ。自分の趣味に合うように勝手に装身具などを描き加えることはあるのだが、すべてが空想の絵は描いたことがない。
「奴隷ってこんなにひどい扱いを受けるんですか?」
「まさか。奴隷といっても借金等で代々所有権を誰かが持っているだけの一般市民です。返す当てもないために労働力とするのは禁止されていませんが、雇い主には管理責任があるため、殺したり虐待すれば罪に問われます。
だからガーティの手にあるような印を入れるのは本来禁止されているんです。つまり、そういう場所だったということですよ」
こういう世界があるからこそ、彼女は華やかな世界を受け入れないのだろうか。
死の香りが付きまとうマディアスを崇拝するのだろうか。
この物言わぬ絵が、彼女の闇の深さを語っている。リーンハルトの知らない世界が、彼女との距離を彼に教える。
「ガーティ」
眠る冷たい彼女を揺り動かす。気を失ったにしては自然な形で絵を抱えているので、眠っている。
「ガーティ」
再び声をかけると彼女は目を開く。
「……リーンハル」
途中で言葉を切り、ぎゅっと目をつぶる。
「どうした。そんなに私の迎えが不服か」
彼女は首を横に振る。いつもならそうだと言いそうなのだが、今日はずいぶんとしおらしい。
「リーンハルト、ガーティの足、腫れてませんか?」
太股までスカートがめくれ上がっているため見ないようにしていた足を見る。言われてみれば確かに腫れている。触れると熱を持っていて、ガートルードが悲鳴を上げた。
階段を下りようとして足を滑らせ足を折って動けず転がり、なんとなく絵を抱えながら助けが来るまで眠っていた、ということだろうか。
「お前は……」
「すみません」
「イレーネ様、申し訳ありませんが医者と担架の手配を。私は彼女をもう少しマシな位置まで移動させます」
「分かりました」
イレーネのかかとが床を打ち、遠ざかっていく。
骨が折れている場合、下手な治癒術を使うのは危険だ。検査をしてから、術で自然治癒を高めて治す。基本的に魔法を使わない治療と同じだ。リーンハルトは髪を結っている飾りひもを外し、それで自分の持っている短剣をさやに固定する。絵の間に挟んであった布を引き裂き、添え木代わりに短剣をくくりつける。長さや形的にちょうど良い。
「申し訳ありません」
「今日は抵抗しないんだな」
「自分で何とかしたかったのですが、暗いし足が動かないので、一晩たったらマディアス様かリーンハルト様の迎えが来るかと思っていたので」
「まったく」
もう少し嬉しそうにするとか、そういう可愛げのある態度を、こういう時だけでもいいからとればいいのだが、それが出来る女だったらリーンハルトもこのような苦労はしない。
リーンハルトはマディアスの次にでも期待されて、かなり嬉しいというのに、本当に申し訳なさそうだ。甘えたり泣いたりすればいいのだが、それもない。
彼女のこの性格はもう仕方がない。ここで生きてきた年数よりも、光の下で生きた年数の方が短いのだ。彼女の性格を変えるほど、心の傷を癒すほど、時は流れていない。
「こんな所にいて、もしも知らない男が来たらどうする」
「来ません」
「分からないだろう。私たちは普通に入れたから、魔術の効果を薄まっているかも知れない。過信するな」
「……はい」
ガートルードは腕の中の絵を見つめて頷いた。
彼女はすっかりほこりまみれだ。あの時イレーネと廊下で出会っていなかったら、リーンハルトはおそらくここには来ていないだろう。マディアスにはぐらかされていた。
このようなところに一晩中一人にさせなくてよかった。ここへの未練が増してしまうところだった。
「その絵を置け。まずはお前を上げる」
「あの、まだ選んでいないので」
「何を」
「今度の個展に出す絵」
リーンハルトは彼女の澄んだ瞳を見つめる。冗談を言うような女ではないし、いつもふざけているのかと思うほど真面目だ。
「それは、世に出せないからここに置いていったじゃないのか?」
「ここに来る前の絵とか、ここに来てから気晴らしで描いた絵ですから。その中でも商品にもならないような絵がしまってあったんです。ご主人様は描くなと言わないし、捨てろともいいませんでしたけど、売れないから見つからないようにしておけって」
彼女の元主も、彼女の描く物に魅せられていた。だからこそ、やめろと言えなかったのだろう。止めて、彼女のすべての才能が止まるのも恐れただろうし、このような陰惨な光景であっても、彼女の絵は素晴らしい物だから、止められなかったのだろう。
リーンハルトはため息をついた。
そんな元主の気持ちなど知らずに、感傷に浸りにでも来たのかと思えば、個展とは。それほど楽しみにしていたとは思わなかった。
「この絵を出すのか?」
「知り合いの画家のパトロンをしている方が私の個展の関係者にいて、彼から昔の絵の事を知ったらしいんです。市場に出たことがないから処分したのかと聞かれて、まだあるって言ったらぜひ見たいと」
「その画家は、ここにいたときの知り合いか?」
彼と言ったからには男だろう。あまり面白くない。
「はい。ここに売られてからしばらくは一緒に絵を描いていました。途中から部屋を離されてほとんど合うこともなかったのですが、彼は私ではとても思いつかないような空想を描くのが好きな方でした。
ご主人様が摘発された後、彼もよい方に拾われたそうです」
懐かしむように彼女は床に頬を押し当てる。
彼女の口から、愛おしそうに男のことが語られるのが悔しかった。
思い出に浸り目を伏せる彼女は綺麗で、出会った頃よりもずっと美しく、しかしあの頃のままの薄闇に映える退廃的な雰囲気も保っていた。
「ガーティ、お前は昔に戻りたいのか?」
煩わしい世の中を知る前に。
「いいえ。昔は何も感じなかったけど、今は絵を描くのが楽しいです。
マディアス様にお褒めいただくだけで幸せです。
それ以上は望みませんし、戻ろうとも思いません」
言外に結婚は望んでいないと言う彼女が憎らしい。
「でも……私にとって、イレーネ様やリーンハルト様は眩しすぎて、身がすくみます。マディアス様と同じ場所のはずなのに、私には居づらい場所です」
「昔のイレーネ様も似たようなことを言っていた。華やかな場所に立つのに、己にこそ華がないと。美しさを求められ、そればかりは手に入らないと。
お前は生まれ持った華も美しさもある。お前が自覚をすれば、世界は変わる。お前の心は闇の中で安堵しても、お前は光だ。闇には相応しくない」
彼女は傷ついたような顔をする。
普通の娘なら喜ぶだろうに、彼女は震える。
「まだ光の下が恐いのか」
「……はい」
「火のついた暖炉がある部屋に入るのが恐いのか」
「はい」
「春の涼やかな風が恐いのか」
「リーンハルト様は、どうしてそのようなことを知っていらっしゃるんですか」
彼女の脅えてうかがう眼差しを受け、リーンハルトは笑みを浮かべた。馬鹿な──可愛い女だ。
「私はお前をずっと見ている。お前が必要以上に恵まれることを恐れているのも知っている。幸せは一つでいいとでも思っているんだろう。マディアス様のお側にいられるだけでよいと」
これほど思っているのに、これほど見てきたのに、彼女の心は霞がかって掴めない。これほど近いのに、物陰からやきもきして見つめていたときと、さして変わらない。
「リーンハルト様のような何でも出来る方には、何でも分かってしまうですね」
彼女の後ろ向き加減を知っていれば、容易に想像がつく。
彼女に自覚はなくとも、死んでしまった者達に悪いとでも思っているのだろう。
本当に馬鹿で可愛い女。
「幸せは、いくらあってもいいものだ。お前の幸せはマディアス様の意志でもある」
「よくわかりません」
「分からなくていい。ただ望め」
憎らしいほど愛おしい。外観の美しさ以上に、その在りようが恋しい。
彼女の顔にかかる髪を払い、顔を寄せる。
目を開いたままの彼女の瞼を手で覆い、淡い色の唇に重ねる。何も知らぬ、香しい息を吐く熱い唇。
その熱さに違和感を持った。
顔を離すと手袋を外し、額に、頬に触れる。再び顔を寄せて今度は額を合わせる。
「リーンハルト様の手、冷たくて気持ちいい」
理由はいろいろと考えられるが、彼女は熱を持っていた。
リーンハルトはため息をついて、痛みを訴える彼女を抱き上げた。
さすがに、口説く気にも、責める気にもならない。
しばらくすると、彼女はリーンハルトの腕の中で、子供のように眠ってしまった。その寝顔が、ため息が出るほど綺麗だった。
数日後、リーンハルトの指示のもと、ガートルードの封印されていた扱いを受けているらしい昔の絵が城に運び込まれた。
骨折して自然治癒に任せているため不自由な生活を送っているガートルードは、それを見てヘタクソだと顔を顰めるのだが、話を聞けば記憶のない小さな頃からの絵もあり、それすらもリーンハルトが戯れに描いた絵よりははるかに上手いという、幼少時から恐ろしい才能を見せていた。小さな頃に描いたのだと思われる絵の中に、孤児院のような場所と、花が咲き乱れる朽ちた墓場などがあり、どのような場所で育ったのか伺えた。その絵はおそらく果汁や草など、自然にあるものを自分で採取して色にしていたのだろう。安価なスケッチブックに淡い色合いで拙く、しかしそれを補ってしまう微細にわたる美しく悲しい景色がある。
そんなものを描いてしまうから、彼女は地下に囚われた。これらの絵は、彼女の才能を売るために描かされたのだろう。孤児院の中にはそのなかの一部の子供を売る場所がある。高値で売れる子供だけを売り、体裁を繕っているのだ。才能を見出したら高く売るために行う最低限の教育──強制は欠かさない。
絵は推測と本人の記憶によって古い順に並べられ、その内のどれを出品するか決める。多いのは、大切に取ってある幼い頃の絵。上達するにつれ、練習とも言えるそれらは減り、最後の方に描いたのはリーンハルトが見つけた時に抱きかかえていたあの手の絵。
どれも魔石は使っていないが、原価が高騰するのですべての絵にそれを使ったわけではないらしい。なにせ魔石を混ぜ始めたのは十にも満たない頃からなのだ。そうそう与えられるわけがない。
偶然手にしてしまったそれを手で砕き、彼女の主は変色していないそれに驚いたそうだ。そしてその魔石が高価だったため、ガートルードは殴られたとしょげていた。
あの男は美しい少年にしか興味がなかったため、痩せていても汚らしくても美しかったガートルードは作業に差し障りがない程度に殴られ、それ以上もされなかった。その意味を、彼女は理解していない。
「当たり障りのない絵というのが私にはよく分からないのですが、どれがいいでしょう。魔石を使っていないから、変な風に魅了されることもありませんし、価値もないのですが」
「お前の絵は魔石がなくても魅了される。暖かいはずのこの部屋にいて、地下室の寒さを思い出す。十分すぎる」
華やかな絵に魔石を混ぜれば気分は高揚するが、こんな絵に魔石を混ぜたら恐ろしくて眠れなくなるのではないだろうか。出来上がったマディアスの絵姿など、冷たく恐ろしく美しく、本物の彼に慣れていなければ魅了され畏怖し、本物の彼にするように跪いてしまう。実際に飾ってからは使用人がそこでよく立ち止まり……最悪の場合は跪いて頭を床にすりつける者が出てきて、目立たない場所に移されたという、冗談のような実話がある。
「お前のしたいようにすればいい。私はそれを支えるだけだ」
彼女はリーンハルトを見上げてくる。星が煌めくような夕空の瞳が美しい。
「リーン様、最近変です。どうしたんですか」
「優しいと言えないのか。けがをした婚約者に気を使うのは当然だ」
「婚約なんて……した覚えはありません」
確かに彼女が認めたことはない。
「いい加減諦めろ。マディアス様を慕っているなら、子を産むのはマディアス様への恩返しだと思え。どうせそう長くは血を吸ってはもらえない」
彼女は首をかしげてリーンハルトを見上げてくる。
「イレーネ様は人より多く血を吸われ続けても年を取らないだけだが、私達凡人はしだいに吸血鬼に近づいてくる。マディアス様はそれを望まないから、血を吸うのは抵抗力の高い若い内だけだ。
私もそろそろ解放されるはずだ。今も昔に比べたらずいぶんと回数が減った」
今は一ヶ月に一度ほど。昔は少量ずつを毎週のように吸われていた。一ヶ月に食われる血の量的には変わらないが、回数が減れば身体の負担も減る。
「お前も頻繁に血を吸われるのはあと数年。それぐらいなら待ってやっていても良いが、イレーネ様が本当にお若い今の内に娘でも生んで差し上げる方が、先を考えるとマディアス様にとっては喜ばしいことだ。マディアス様を気にして操を立てる必要などない」
「リーンハルト様の言うことはよく分かりません」
「……今は分からなくてもいい。お前が二十歳になるまでには籍を入れたいが、それまでは待つから」
並ぶ彼女の歴史を見て、急くことをやめることにした。
しばらく前までは、追い立てて追いつめて、有無を言わさず結婚しようと思っていた。彼女の心を自分に向けるのはそれからでも構わないと。
出来ることなら、愛されたい。しかし彼女の心は動かない。
彼女の心はまだこの頃から動いていない。子供のまま。
だから少しずつ、彼女の心が大人になるのを待とうと決めた。
「早く大人になれ」
人の親になれるほど、マディアスから離れられるほど。