リーンハルトのイライラ記録
1 
 リーンハルトはある日人気のない庭園でガートルードが騎士と話しているのを目撃した。
 あの特定の人物以外の他人に興味のないガートルードが、ただの騎士と。
 そこそこ程度のハンサムな騎士と。
 顔と生まれと能力には自信のあるリーンハルトが口説いても迷惑だと言い切るあのガートルードが。
 リーンハルトは線が細い。体型維持のためにそこそこ運動はしているが、専門職の人間に体格でかなうはずもない。あれは身体を鍛えて給金をもらっているような職である。財力と魔動機の力によって比較的平和なこの国では、腕力や筋力より、頭の中身と見栄えが大切だ。つまりあの男に劣るのは筋肉ぐらいだと言い切れる。その上、実戦では負ける気はない。たかが騎士に、魔道士が負けるはずもない。リーンハルトはマディアスが認めるほどの魔力と、それを使いこなす才能に恵まれている。剣の扱いも身分に相応しいものだ。完璧主義の一族のため、出来ぬ事などないと言えるほどのスパルタ教育を受けている。
 だから彼の方が強く賢い。完璧だ。顔もいいし浮気もしないし欠点などない。望む物は全て与えるつもりだし、大切にするつもりだ。
 なのになぜあの女は、夢見る乙女のような似合いもしない目であの男を見つめるのか。マッチョが好きなのか。だとしたら不健康そうな容姿一直線の運動もしないマディアスに目を奪われるはずもないしきっと違う。
 ならば何がと睨み付ける。
 よく見ればあの男、生意気にも芦毛の馬に乗っている。ああいう馬は身体が弱い場合が多い。女性の気を引くことしか考えていないのだろう。そんなミーハー目当ての顔だけ男と、あの女は楽しげに会話をしている。
 この前に連れていってやった美術館では、終始無言だったくせにだ。
 しかしあれは芸術に魅入っていただけなのだ。一日中夢心地な彼女の顔を見ているしかない彼は少しつまらなかった。呆けた彼女も綺麗だったので、それでも一日はあっという間だったが。
「モデルを引き受けてくれて嬉しいです」
 微笑むガートルードは、そう言って頭を下げた。
 モデル。彼女は画家だ。気に入った人物にモデルぐらい頼むこともあるだろう。
 しかし彼女が人物画を描くとき、彼女なりのこだわりを持って「美しい人」のみを描いているはずだ。リーンハルトには一度も絵を描かせてくれなどと言ったことがないのに、あんな女受けだけでスタイルを決めていそうな男を美しいなどと、許すまじ。
「あの、移動をお願いできますか?」
「いいよ。どこに行きたい?」
「いえ、ここでいいんですが、お馬さんから降りていただけると書きやすいです」
 騎士は馬から下りて、労うように撫でる。
「いい子で待っていてくれるかい、シルバー」
 安直な名前に、ますます腹が立ってきた。それにもかかわらず、ガートルードは馬へと微笑み撫でる。
「シルバーですか。いい名前ですね。とっても綺麗です。
 騎士様、しばらくかかりますから、どうぞ木陰で休んでいてください」
「へ?」
 戸惑う騎士。
 リーンハルトはようやく気付く。
 彼女はどうやらあの馬を気に入っただけのようだ。彼女は風景画の次に、動物を書くのが好きだから。
 そうと分かるとざまあみろと内心で高笑い、安心して仕事場に戻った。

2

 この女、ガートルードはとにかく鈍い。人と関わらないため他人の心の機微を理解できないのだ。
 そして一般常識がない。
 けっして馬鹿ではない。字も教えればすぐに覚えたし、難しい会話にもすぐに理解し、ついていけるようになる。
 しかし、圧倒的に一般常識が欠けている。
 現在、彼女を誘って年に一度の収穫祭に来ている。たまにはこうして下々の生活を思い出させてやろうと思ったのに、彼女は下々の生活も知らなかった。
「こっちの方が大きいのに、なぜ同じような素材でもこっちのお金の方が価値があるんですか?」
 買い物という概念は持ち合わせていたが、買い物をしたことがなかった。
 しかも貨幣価値を知らなかった。
「お前はどこの深窓の令嬢だ。言ってみろ。ええ。拾われてから何をしていた。金は持っているはずだろう。お前は自分の絵がどれほどで売買されているか知っているか? 分かるか、この金貨百枚はするものもある。ちなみにこの金貨を使って買い物をしようとすると、普通の露店じゃとにかく嫌な顔をされ、釣り銭がない場合も多い。まさか金貨しか見たことがありませんとか生意気なことを言うんじゃないだろうな」
 片手に十リズ銅貨を持ち、片手で十万リズ金貨を目の前に突きつけてやる。この国の二番目高い貨幣だ。一番高い貨幣は使い勝手が悪いために持ち歩くのも馬鹿らしく、小切手を使う者がほとんどである。だから箪笥預金以外ではほぼ見ない貨幣だ。
 当たり前なのだが、人の世で生活をしている者としての常識である。
「な、なんでそんな淡々と言うんですか。恐いです」
「あきれ果てているんだ」
「お金は全部マディアス様が管理してくださっています。魔石を手に入れるのもマディアス様にお願いしているので、手にしたことはないんです」
 あの過保護な男のことだ。金持ちだと分かるといらぬ虫が寄ってくると思ったに違いない。だったら金銭の価値ぐらい教えろと思ったものの、まさか本人に文句は言えない。絵を描く事意外に興味を持てない彼女には何の罪もない。天才とは、そういう欠落した部分を持つ物だ。
「まあまあにぃちゃん。貴族のお嬢様なんてそんなもんだろ」
「貴族ではない。職人だ」
 声をかけてきた店主に真実を言い放つ。
「だいたい、貴族が貨幣の最小単位を知らないと思ったら間違いだ。まともな教育を受けていれば、自分で財布を持たなくとも、常識として知っている。お前は社会人のくせに引きこもりすぎだ」
「申し訳ありません。必要な物は城にあるものですから……」
「だいたい、他人に管理させて、自分で自分の資産を知らないというのは言語道断だ。マディアス様の許可を貰い、今度いっしょに銀行にいくぞ。そして自分を見直せ」
「は、はい。ところで、祭りには社会勉強に来たのでしょうか」
「デートに決まっている!」
「…………」
 確かに、普通デートで連れを怒鳴りつけることはない。ただ、あまりにもこの女が無知すぎるのが悪いのだ。
 しつこいが、彼女は馬鹿ではない。しかし世の中に対して無頓着すぎる。何かあれば金など簡単に出してしまうだろう。自分には必要がないと思っているのだ。騙したければ騙せばいいというこの姿勢は許せない。
 女としての自覚の前に、まずは一般常識を身につけさせるのが先決だと悟り、買い物の仕方から教えることにした。
 第一号は、このお節介な主人がいる、焼き菓子を売る露店だ。そしてイレーネ達への土産を買い、一人で買い物が出来るように、そして物の価値を理解することが目標である。

3

「ナンバーは510の29。名はガートルード」
 金庫の番号と名前を名乗り、ガートルードの腕にある腕輪を見せる。
「お嬢様お手をこの板に置いてください」
 カートルードは不思議そうに見つめながら銀の板に手を置いた。
「本人確認完了しました。本日はどのようなご用件でございますか」
「財産の確認をしたい。ためるばかりだったから、いくらあるのか把握できなくなった」
「お待ち下さい」
 受付の女は板を水にひたし、薬液を入れて差し出した。
「このようになっております」
 差し出された数値を見て、少しげんなりとした。
 年数から考えると、リーンハルトよりもガートルードの方がよく稼いでいることになる。しかし以前から描き上げていた作品を含めてのことなので金額は少ないとも言えた。その分で魔石を買っているのだろう。彼女の絵は人気があるのだ。とくに彼女が好んで描くバラの絵は高値で売買されている。バラが浮き出て見えて、本物のバラ園がそこにあるようだと評判らしい。
「金庫もあるのか。こちらの中身を見てみたい」
 貨幣ではなく、宝石や金属による貯蓄をあのマディアスがするというのもなかなか考えにくいので、他の吸血鬼二人の仕業だろう。
「ご案内いたします」
 受付嬢が鈴を鳴らすと、男がやってきて一礼する。預けてある金額からして、彼女は上客と言うことになるだろう。本人はまったく自覚無いだろうが。
 リーンハルトはガートルードの手を引いて歩く。できればまともなエスコートをしたいのだが、彼女相手では難しい。しかもまだここについてよく理解していないようなので、彼女の耳元で囁いた。
「いいか、この腕輪が鍵なのは分かったな。口座を作るときに手形を取ったはずだ。それと照合してから、ああやって用件を伝える。金を引き下ろすには必要な物だから、絶対に無くすな。よく通えば手続きもパスできるが、どうせ必要がないと来ないだろう」
「はい」
 本当に、一生来ないかも知れない。
「金庫というのは何ですか」
「貸金庫も知らないのか……。価値の高い物を厳重に預かって貰う場所のことだ。金庫の広さは金額によって違う。だいたい毎月けっこうな額が掛かるから、必要があるかどうか……」
 案内の男が足を止め、番号を確認して一礼して去っていく。
「開けろ。登録してある者でないと開けられないようになっている」
 ガートルードが取っ手を握ると、軽々とドアが開いた。そして、中に入って固まった。
 リーンハルトは思わず頭を抱え、マディアスの考えを推し量る。
「か……家具ですよね。家具なんて保管しておく物ですか? 高そうには違いありませんが」
 そう、高価だ。王族クラスが持つような、とにかく高価で普通では金があっても手に入らない家具ばかりが、貸し金庫内に一歩しか立ち入れないほどぎっしり詰まっていた。
「おそらくだが……花嫁道具のつもりなのだろう」
「え?」
「娘が嫁に行くとき、こういった高価な花嫁道具を持たせる習慣があるんだが……マディアス様はお前を王族クラスへと嫁に出す気だったんだろうか」
 普通はここまでしない。これだけ揃えるのは大変だっただろう。リーンハルトには無理だ。一つ二つならともかく、一式をこのメーカーの同じシリーズで揃えるなど、出来ない。
 どこまでも養い子には甘い上司と、その愛をガートルード以上に受けている女王陛下の将来がとても心配になった。きっとイレーネは、これ以上だ。

4

 カラクリ時計が時刻を告げる。昼間だけ賑やかに動く時計で、魔石で動いているためにゼンマイを巻く必要がない。百年前の代物で、人形の動きが滑らかで技術の高さを買っている。
 ここはリーンハルトの実家。城ではただの魔道士の一人に過ぎないが、ここに来れば次期跡取りだ。そうなった時は、毎日ここに帰ってこなければならなくなるが、ガートルードをこの家に入れるのは好ましくない。彼女に好意的になるだろう人間は、彼女に胸像を描いてもらった姉ぐらいだ。
 デートの予定があったのだが、親に呼ばれ泣く泣く予定を潰して実家に戻っている。ガートルードと約束するのは苦労がいる。言葉で押し続けて、渋々うんと言わせるのだ。
 いざ来てみると、大切な客が来るから着替えろと、正装ではないものの気合いの入ったスーツに着替えさせられた。
 こうなると、用件は一つしかないだろう。
 待つことしばし、父が人を二人連れてやって来た。
 父の友人で通る男性と、その娘。
 問題は娘の方だ。
 気合いが入っている。ちら、とこちらを見て可憐に微笑み恥ずかしげに目をそらす。
 世間では、彼女は大層な美人と評価を受けているだろう。しかし絶世の美女の名を欲しいままにしていた、世界三大妖女と呼ばれた内の一人である先代女王似て、それに遜色劣らないガートルードを見慣れている彼の心は動かない。
 そして中身のインパクトに関しては現女王のイレーネの方が上だ。演技力含めて。
 つまり彼女は美しいが、それだけである。心は全く動かない。
「リーンこちらは私の友人のマックスと、お嬢さんのマクダレナ嬢だ。昔はよく遊んだのを覚えているか?」
「いえまったく。遊んでいたら勉強をしろと追い立てたのは父さんですよ」
 胡散臭いまでの笑みを顔に貼り付け父を牽制する。ガートルードのことがあるから我慢していれば、この親はどこまでもつけあがる。
 悪いが、子供の頃に無邪気に遊んだ記憶がない。この親が遊ぶ暇があれば勉強させたからだ。おかげでマディアスに気に入られることになったが、十歳までは遊び方を一切知らなかった。知っているのはマディアスに教えられた大人の遊びばかりである。
「そうか。小さな頃だったからな」
 それにどう見ても彼女の方が年上だ。どうせおしめがとれない時期の話をしているのだろう。
「しかしあの時のお嬢さんが、これほど美しくなるとは思わなかったよ」
「私の自慢の娘だからな。リーン君もずいぶんといい男になったじゃないか。娘が恥ずかしがって顔を上げてくれないよ」
 くだらない。なんてくだらないんだろう。
「この子は昔からリーン君の前に出ると上がってしまってね」
「光栄だな、おい」
 どこまでも見え透いたくだらない茶番をさっさと終わらせよう。
「マクダレナさん、すばらしい耳飾りですね」
「え、はい。これは最近独立したのデザイナーに、私だけのために作らせたものですの」
「へえ、素敵ですね。実に持ち主の特徴をよく捉えている。そのデザイナーの名を教えていただけますか」
「リーン様も装身具がお好きなのですか?」
 確かに色々と身につけているが、護身用の魔石ばかりで、好きでも何でもない。
「いえ、私の恋人は美意識の高い芸術家で、生半可なものでは気に入ってくれないんですよ。同じような気質の職人に作らせれば、きっと彼女も気に入ってくれるのではないかと思いまして」
「ま……まあ、芸術家ですの」」
「ああ、そこに飾ってあるバラの絵は、私の愛しい人が描いた物です」
 ガートルードとしての初期の頃の作品だ。代筆をしていたときよりは価値が下がり、一番買い得であったときの絵である。マディアスとイレーネのせいであっという間に元の値を取り戻し、それを越えてしまったが。
「まあ……本当に素敵な絵。きっと……繊細な方のでしょうね」
「本当に美しい物を好み、美しい物を作る、美しい人です。マディアス様のお気に入りで、許しを得るのに三年もかかりました。
 ああ、すみません。長く待ったので、最近浮ついてつい彼女を自慢してしまうんですよ。私にはもったいない、先代女王陛下に並ぶとも劣らないほどの美女ですから」
 これだけ言えばこの女では太刀打ちでないことは皆に伝わっただろう。
 よほどのうぬぼれ屋でもない限り、あれだけのろけて相手を褒めておけば、容姿と家柄以外に取り柄のない女ならもう言葉も出ないはずだ。
 父も反省しただろう。次にこんな事があったら、もっとのろけてやる。
「ところで、デザイナーの名前の話でしたね。ぜひ教えていただきたい」
 彼女へのプレゼントに困っているのは本当で、珍しいデザインのため人を選ぶだろうそれが、彼女の顔立ちにとてもよく似合っているのは本当の話だ。
 これだけの腕の持ち主なら、きっと職人である彼女は気に入る。
 以前に贈った頑固者で有名な職人が作ったガラス細工は、いたく気に入っていたのだ。

5
 
 少しだけ、ガートルードの趣味が分かってきた。
 彼女の特殊な趣味をすべて理解するなど不可能だが、傾向はある。
 植物、動物、人間含む変な生物を好むような気がするのだ。気がするだけで、けっしてマディアスやイレーネを変わり者だと思っているわけではない。
 そこでたまには趣向を変え、嫁に行った姉が飼っている飛竜を借りて、人里離れた高原へ連れてきたのだ。
 自然に小動物。広がる草原に咲く可憐な白い花は、彼女が描くに相応しい。
 成功だった。大成功だった。
 しかし、成功しすぎた。
「ガートルード」
 呼びかけても返事はない。
「ガーティ、そろそろランチにしないか」
 やはり無視。
 彼女は鉛筆で絵を描いている。
 何枚も、何枚も。
 記憶に焼き付けるように、何枚も。
 彼女の観察力なら見るだけで十分なのだが、彼女なりにあれが楽しいのだろう。
 鉛筆書きでも彼女の絵は心が吸い込まれるような魅力がある。彼女が本気で書いて仕上げた絵は、魔力を持ち言葉の通り人を魅了してしまう。
 妻の絵を描かせた夫が、妻よりもその絵の妻を愛するようになったというのは、最近出来た都市伝説と思われているが、ガートルードが潜んでいたときに作り上げた真実だ。
 生きているうち──まだ若年でありながらに伝説を作り、売れてしまっている彼女は、これからどうなるのだろうか。売れなくなるということはないだろう。彼女の絵は流行廃れに流されにくいご婦人好みの画風だ。ぱっと見の強烈な個性はない代わりに、どんな時代でも国でも通じるだろう。
 どちらに転んでも、死後にはもっと値段が上がるだろう。代表作になりそうな大作を手に入れたら、将来を考えて保管しておくのも手だ。子孫にどれだけ価値のある遺産を残すかが、ある意味その人物を一番高めると言われている。大切にしまってあったのが偽物のがらくたであれば笑い物だ。逆にいい物を多く持っていれば評価が上がる。
 この国はそんなことを気にする者ばかりだ。彼も早死にしてもいいように、それなりの価値のある品は持っているが、それよりもガートルードに肖像画を描いてもらえるようになる方がよほど価値があるような気もした。
 彼女の視線を得るためなら、全てをなげうってしまいそうになる。
「夢中になるのはいいが、食事ぐらいしろ」
 からかう女中達に頭を下げて頼み込み用意させた、彼女の好きな物ばかりを詰め込んだバスケット。
 無駄にしては作った者達にも悪いし、恥を忍んだ意味もなくなる。
「ガーティ、書きながらでもいいから食べろ。食べ物がこの形になるには、無駄にできない労力がかけられている。お前がその一枚の落書きを描くよりもよほど大きな労力だ」
「分かりました」
 ガートルードはバスケットに手を伸ばし、ふとリーンハルトを見上げたかと思うと微笑んだ。
 彼女が初めてリーンハルトに微笑みかけた。
 マディアスにすら滅多に向けぬその表情は、春の日の木漏れ日のように美しい。
「そういえば、お礼がまだでした。とても素敵な場所に連れてきてくださってありがとうございます」
「お前が喜ぶのなら、どこにでも連れて行く」
 いくらでも絵を描けばいい。彼女が喜ぶ姿を見ることが彼の喜びだ。愛しているという言葉が通じなくとも、今はそれでいい。
 彼女は愛情を知らない。それをすぐに分かれとは言えない。
「次は、海にでも行くか?」
「はい」
 彼女がそうと望んで一緒にどこかに行く。そして絵を描く彼女を眺める。
 色気はないが、悪くない。誰に何と言われようとも。
「帰ったら、たくさん描きます」
「そうか。たくさん描く……たくさん?」
 彼女のたくさんとは、どれだけだろう。
 どけだけの時間とどれだけの労力を注ぐのだろう。
 問題なのは時間と枚数だ。
 かかりっきりになればリーンハルトとのデートが減る。しかもまた魔石をつぶして手を傷つける。そうするとマディアスのセクハラまがいの治療が始まる。
「ま、また別のいい場所に連れて行ってやるから、ほどほどにしておけ」
 切実に、リーンハルトはそれを祈った。

6

 リーンハルトはツバを飲む。
 扉を見つめ、意を決してノックした。
「はい。どなた?」
「リーンハルトです」
「あら、入っていらして」
 恐る恐る部屋に入ると、上等な部屋着を身につけ、お茶を飲むイレーネが微笑んでいた。その両脇には、マディアスの下僕、エヴァリーンとディートリヒ。
「何かしら?」
「先日の話、お受けいたします」
 イレーネはきょとんとして首をかしげた。彼女だけのために作られた香水がほのかに漂っている。ガートルードに見習わせたい女性らしい可愛らしさと品を感じるいい部屋だ。
「まあ、リーンハルトはこういう事には興味がないと思っていたのに」
「……色々と、ありまして」
 イレーネとまともに視線を合わせられない。
 彼女は純粋な気持ちでそれを勧めようとしている。しかしリーンハルトは違う。
「何があったの? 興味のないことには手を出して欲しくないわ」
「興味がないわけではありません。自分の考えた技術をさらに応用し形作られていく行程は、私にとって一番楽しい部分ですから」
「そう? それなら向いていると思うけれど……無茶を言いますけど大変ですか?」
 リーンハルトは少し悩む。
 彼女の考えは現実不可能ではないが、大変だ。地道な大変さだ。
「本当に、仰っていた額が出るのですか?」
「お金に困っているの? ギャンブルに溺れている様子もありませんでしたし、投資にでも失敗でもしたのですか? ガートルードに貢いだところで、たかが知れていますし」
「いえ……その」
「何か高価な物を買う予定でも? それにしても、貴方がお金に困る事なんて考えられないわ」
「金には困っていません」
 デートの度にガートルードへと高価なプレゼントも出来るし、投資も損はしていない。
「ではなぜ?」
 彼女の問いに揶揄はなく、ただただ疑問を投げかけてくる。
「そーだ。なんでだよ。お前みたいなすかした男がそこまで追いつめられるなんて」
「本当に。マディアス様がここにいたら、夢だと思い込むんじゃないかしら?」
 出費は惜しまないが、一切の無駄は出さないのがマディアスの教えだ。リーンハルトは忠実にそれに従ってきた。逆らう勇気もなく、逆らうほど浪費したいとも思わなかった。
「困っていることがあるのなら言って頂戴。参加してくれるのは嬉しいですが、中途半端なことは許しません」
 イレーネの言葉に、リーンハルトはため息をついた。ここで黙っていて、後で知られたら皆に馬鹿にされるのは間違いない。被害は少ない方がいい。
「この前、ガーティの預金残高を見てきました」
「………………」
「最近、異様に張り切って絵を描いています」
 イレーネが立ち上がり、リーンハルトの手を取った。
「リーン、大丈夫よ。わたくしがついています。ええ、一緒に頑張りましょう」
 同情されている。吸血鬼達が笑いもせずに哀れみの目を向けている。
 笑われた方がよかったかも知れないと、少し思った。
「正式に決定したところで、今から参加なさい。さっきマディアスが来たから隠したのだけれど、施設の大まかなデザインを描いていたの。各アトラクションのアイデアもあるわ。
 明日にカロンが来るから、その時までにある程度は現実的なものと、どちらとも言えないもの、そして現実不可能と思われる物に分けたいの。
 あなたのように優れた技術者の手がどうしても必要だったから嬉しいわ」
 吸血鬼達の手によって、どさりとテーブルの上に紙の山が積まれた。
 丸まった大きな紙を広げると、思った通りに可愛らしい施設が描かれていた。
 イレーネが目論む新たな事業、この国に相応しい『魔動遊園地』である。
「ディートリヒは分けた案の整理をお願い。エヴァリーンはリーンハルトにお茶を」
 リーンハルトはもう一度ため息をついて、椅子に腰掛ける。
 大の男が手がけるには可愛らしいという個人的な感情は捨てる。彼が担当するのは内側の技術。大切なのは応用力。
「イレーネ様、お任せ下さい」
 男としての沽券のためならば、不可能とて可能にしてみせる。ガートルードがその真実に気付く前に。
 

 

 

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