リーンハルトのイライラ記録2
7
ガートルードはきょとんとした間抜けな表情も綺麗だ。美人はどんな表情も似合う。着飾らせた彼女は、ため息が漏れるほど美しい。さすがは女王専属のメイド達の仕事だ。いつもは感じられない艶まで生まれ、ますます惚れ直した。
そんな彼女を連れ歩くだけで、リーンハルトは幸せで浮かれてにやけてしまいそうになる。
「綺麗なお庭ですね。ここはどちらですか?」
窓を開いて庭を見つめるガートルードの機嫌はいい。着飾らせたときの機嫌の悪さは、庭の美しさで帳消しになったようだ。この応接室には彼女が書いたバラの絵も飾られている。それも彼女の警戒心を解いた。
「あら、リーン、あなた何の説明もせずにこんな所に連れてきたの?」
窓の外から声がかかる。
帽子をかぶり、手折った庭の花を抱える女がこちらに向かってくる。部屋の中へと入り、空いた花瓶に呪文を唱えて水を注いて丁寧に花を飾る。
「失礼いたしました。高名な方が来るとは知らず……事前に用意すべきことですのに」
「いえ。綺麗なお花ですね」
「腕のいい庭師を雇っていますの。ねえリーン」
リーンハルトは無言で頷く。
ガートルードは再び女を見つめる。そしてまたリーンハルトに視線を戻す。
「初めまして、ガートルード様。わたくしのことはエリーゼ──いえ、ぜひお義姉様と呼んでちょうだい」
「え?」
リーンハルトはため息をつく。そろそろ言わなければならないだろう。ここがどこか、何をしに来たのか。
「これは私の姉だ」
「はぁ」
「今日はお前を父に紹介しに来た」
彼女はぽかんと口を開いたまま固まった。イレーネよりは歯並びが悪い。さすがに、すべてが完璧に整っていたら人間であることを疑ってしまいそうなので、これはこれでよい。
「父……ええ!? いやですっ!」
彼女は身分の高い人間を恐れている。手袋の下にある奴隷としての刻印を気にしているのだ。身に付いたその意識は、容易に変えられるものではない。彼女が一番慕っているはずのマディアスにですら、一線を引いてそれを越えようとはしない。遠慮ばかりが目立つ。
「今から来る」
ガートルードの顔から血の気が引く。
リーンハルトの父は厳しい事で有名だ。彼女も知っているはずである。リーンハルトがプロポーズしたため、親切心から誰かが吹き込んでいるだろう。未婚の女性を始終監視しているわけにもいかない。彼女の不名誉につながる噂など立てられては、マディアスに殺される。
「か、帰りますっ」
「今更遅い。別に紹介するだけだ」
「だって怖そうです!」
父は二人の結婚の一番の問題だ。父は厳しいが、差別主義者ではない。が、身分相応の感覚の持ち主だ。高名であろうと一般市民以下との結婚など反対して当然である。素直に認める親の方がどうにかしている。息子が女にたぶらかされたと思うのが普通だ。
「我慢しろ」
ガートルードは涙目になって立ち上がり、リーンハルトはその腕を捕らえて放さない。逃がすわけにはいかないのだ。
「リーン、いらっしゃるわ」
リーンハルトはガートルードの涙をぬぐい、顔を整える。それが終わった瞬間、部屋のドアが開いた。
「ひっ」
化け物でも入ってきたかのように驚くガートルード。そんな表情も美しい。そんな彼女を見て父が目を見開く。
愛人としてなら好きにしろと言われている。
この美貌を見れば、少しは態度も軟化するのではないかと思いイレーネの支援を得て徹底的に着飾らせたのだが、少しは目論見が上手くいったのであろうか。
「女王陛下……」
父は思わぬ言葉を口にした。
確かに、記憶の中のにある先代女王陛下に少しは似ている。いやむしろ、似るようにし向けられている。よく見れば、彼女が身につけている装身具は先代の女王陛下が身につけていた物だ。
「お久し振りですお父様。こちらは画家のガートルード」
父は何も口にせず、じっと彼女を見つめている。
「あれ」
ガートルードは涙を引っ込め首をかしげた。そしてもう一度エリーゼを見て、父へと視線を戻す。
「一度、絵をお描きしたでしょうか」
「まあ、覚えていてくださったの!」
エリーゼが感激したように手を合わせて喜んだ。
「嬉しいわ! ええ、あなたがまだ表に出ていない頃、わたくしの肖像画を描いていただきました。あの絵のおかげでわたくし今の夫との縁談がまとまりましたのよ」
姉は彼女の絵を気に入り、この屋敷にも二枚、嫁ぎ先には三枚の絵が飾られている。
「ああ、やはりそうですか。どこかで見た印象があったから。お父上は変わらずお若くいらっしゃるから、すぐに思い出しました」
絵のこととなると彼女の記憶力は異常なほどにいい。描かされていたのだとしても、彼女はそれを忘れない。
「お父様、何をほうけていらっしゃるの。お客様にお茶の手配もまだじゃないですか。何をしているの。はやくお茶をお持ちして」
どうせ雌狐をもてなす必要はないとでも言っていたのだろう。
しかし姉の言葉に使用人達が動き、暖かい茶と甘い砂糖菓子が用意された。
この調子なら、父親の方はどうにかなりそうだ。
彼は先代女王の信奉者であり、その血筋を色濃く感じるこの少女を無碍にすることなど出来ないだろう。
8
美女を連れ歩くのは小気味よい。
女王陛下主催の舞踏会で、絶世の美女を連れて親しげに女王陛下と話をすれば、皆が羨望のまなざしを向けてくる。
「ガーティはそのドレスがよく似合うわ。私には華やかすぎて似合わなかったの」
イレーネはガートルードが借りた金色のドレスに負けぬほど目を引く、深紅のドレスを身にまとっている。彼女の抜群のスタイルが際だつ、華やかなドレスだ。目元が強調された化粧はいつもの穏やかさを打ち消し、ドレスに劣らぬ華やかさを与えている。しかし、ガートルードの着ているドレスに合うメイクではない。この派手な色のドレスだからこそ違和感がないのだ。
「このドレス、着ていて目映いです」
「でしょう。それで顔が目立つの。けばけばしいメイクは似合わない可愛らしいラインのドレスで、わたくしには難しかったの。そのドレスも美女に着られてきっと喜んでいるわ」
二人の体格はかなり近いため、下着で補正するだけでそのまま着られてしまうらしい。さすがにイレーネほどふくよかな胸をしていないため、最低限の詰め物を胸にしているらしいが。
「リーン、お父様とはどう?」
「父は問題ありません。おそらく、いざというときも本人を目の前にしたら反対はしないでしょう。問題は祖父です」
父は腑抜けだ。反対していても、本人の笑顔を目の前にすると態度が急変する。母はそれに対して怒りをあらわにしていたが、先代女王に似たガートルードにはそれをぶつけられない。彼女も先王の熱狂的な支持者であった。似たもの夫婦だ。
「厳粛な方でしたね」
「はい。私が地道に説得するしかないのですが」
「頑張って。結婚できなかったらガーティが可哀想だわ。マディアスが仮にも認めるなんて、滅多にないことだもの」
周囲がお膳立てしたイレーネの見合いは、ほぼマディアスがぶち壊している。あの顔とあの頭脳とあの威圧感。凡人が前にしてはすくみ上がり、その大切な愛娘にも等しい女性の元に婿など誰も来ない。
まずは度胸があることが一番大切だ。次は実力。
リーンハルトは幼少時からのことなので慣れているが、大人になってからの初対面では泣くわけにもいかないので厳しいたろう。
「リーン、せっかくだから踊ってきたらいかが?」
「踊れませんよ。これが。動くこととは縁がなさ過ぎるので」
運動は散歩だけという女だ。踊ろうなどとは思うはずもないから、踊ったこともない。音楽はただ耳に入れて楽しんでいるだけで、基礎も知らない。踊れるはずがない。
「あら、そういえば。
今度踊り方も教えないと。リーンのお嫁さんになるなら、全部叩き込まないといけませんね。迂闊でした」
「え、踊りですか? 私は嫌です」
今まで黙って酒を飲んでいたガートルードが初めて口を開いた。
「ダメよガーティ。リーンのお嫁さんにならなくても覚えないと。
売れっ子の画家なんですもの。パーティに呼ばれることもありますから。その時に恥をかくのはわたくしですもの」
「ううぅ」
イレーネの言葉には逆らえないガートルードは、低く唸って口を閉じる。彼女に言うことを聞かせるには、イレーネに頼むのが一番だ。マディアスでもいいが、彼は簡単に望みを叶えてはくれない。
「リーン、今日はわたくしと踊ってくださる?」
「喜んで」
「脅えて誰も誘ってくださらないの。婚約者がいる貴方が、婚約者の目の前で踊るのなら、角は立たないでしょう」
悪魔憑きの女王ともなると大変だ。
リーンハルトが戻ってくる数曲の間に、ガートルードは解放されたとばかりに酒を飲み、つまみを食べて、ついにはご婦人にサインをねだられると男が付け入る隙もないほど熱心にイラストを描いていた。
彼女らしいし、男の方が諦めていってくれるので問題はないが、踊っている者達を見向きもしないというのは、問題だ。
9
酒の味を覚えたのはいつだっただろうか。
真面目一辺倒だった彼の人生は、この男の手によって塗り替えられた。
それでも真面目だと言われるが、価値観は大きく変わり、変な方向に引きずり込まれた。
酒を覚えさせられたのは、たしかイレーネが見つかって数日後、存分に血を飲んだためにかなり上機嫌に祝杯と称して夜の街に引っ張り出された時だ。当時住み込みを始めて半年目の初々しい少年だった。
「リーン様、婚約なさったって聞きましたけど、本当なんですか?」
酌をしている少女が尋ねてくる。
確かこの店だった。初めて酒を飲んだのは。
何もかもが懐かしい。ガートルードに出会う前、無難な初恋を忘れ去り、普通の女に興味を持っていた頃だ。
「正式な婚約はまだだ」
「振られたっていうのが本当なんですか?」
普通は言わないようなことをこの女は言う。まだ新人なので許されるが、口が災いを呼ぶタイプだ。長くはないだろう。
「振られていない」
「まだ振られていないだけだろう」
マディアスがいらぬ事を言う。
「…………今日はディナーの予約を取っていたんですよ」
「呼ばれてほいほいと来るお前が悪い」
「来ないと不機嫌になるでしょう。とくにガーティと一緒にいると邪魔を寄越されますから、それぐらいならキャンセルした方がよほどいいと思いませんか」
「僕の可愛いガーティとデートさせてやっているだけありがたいと思え」
「手をつないで歩いているだけで邪魔をしてくるような方が何を言っているのやら」
「何のことだか」
「明らかに何らかの力で作られた非生物が足を掴んできたりしましたがねぇ。
そういう事が出来る方は、この国には三人しかいませんので、誰がしたかは明白ですよ」
「他の二人がやったんじゃないのか」
「あの二人は買収済みです。少なくとも、青少年の健全なデートを邪魔するほど無粋ではありません」
「…………」
幼い頃から遊びは教えるくせに、女だけは阻まれた。血が不味くなるという理由だけで、女性との付き合いを邪魔され続け、現在進行形でそれは続いている。何が悲しくて女は紹介されるのに、手を出そうとすると叱られなければならないのか。
おかげで血は美味いらしく、彼の下僕達とは良好な関係である。男であるリーンハルトは、毎月血を流す運命にある女性と違って血は多少出した方が健康的だ。
「再度確認しますが、本当にガーティが受けてくれたら結婚を許してくれるのですか?」
「そのつもりだが、その時にならないと分からない」
言い切った。それでは身内を説得するよりも、この男に妨害されない方が難しいのではないだろうか。
これではいけない。幸せは掴めない。この機を逃せば、本当に結婚を許してもらえるかどうかも危うい。
リーンハルトはある意味あの二人の乙女の次に大切に育てられている秘蔵っ子だ。彼が惚れたのがガートルードでなければ、あんな知性のない女などお前には釣り合わない! と邪魔をされるのだ。
恐ろしい。何が悲しくて吸血鬼のために身体を綺麗に保たねばならないのか。おかげで皆がリーンハルトが童貞があることを知っている。
この悪夢を振り払うためにも、早く結婚しなくてはならない。
10
9の続き
「毎夜のように女性の元に通う方にデートすら邪魔をされていると思うと、我慢強い私もさすがに憎しみが湧くんですよ」
リーンハルトは紛れもない本音を口にした。尊敬もしているが、憎んでもいる。日々、憎しみが増大していく。
「まだ若いくせに短気な男だな」
飢えた人間の前に据え膳を置いておきながら、剣を構えて食べるなと言うような事をしている自覚はあるのだろうか。
「原因はマディアス様の存在のみなので、私の人格に問題ありません。マディアス様はそのような風だから、イレーネ様に反抗されるんですよ」
「…………」
彼は少し気にしているのか、黙って酒をちびりと飲む。店で一番高い酒のはずだ。
本当は生娘の血の方いいのだろうが、彼が生娘の血ばかりを狙っていては社会問題になるだろう。だからこうして金さえ払えば問題なく食べてしまえる女性のいる店に来て、酒を飲んで舌を誤魔化した後に食う。彼女たちも心得ているので、吸血鬼に狙われる美女の気持ちを堪能しているらしい。
そんな彼女たちは、今は王室内部の話に好奇心を隠しきれない様子でリーンハルトを見つめている。
「あまり束縛していると、そのうちどこの馬の骨とも分からない男と子でもこさえて舌を出されますよ」
この男は言ってやらないと理解できないだろう。女達も味方をしてくれそうな話題だ。
「マディアス様は、本当にイレーネ様が大切なんですねぇ」
まるで頑固父親のような彼に、彼女たちは笑う。
「束縛しているつもりはない。王族にしては自由を満喫している方だろう」
「…………自覚無いんですか?」
「束縛などしていない」
「前、他国の王子と話していたら邪魔をしに行ってこいと無理矢理行かせられたのですが」
「あんな金と地位だけが目当てと顔に書いてあるような男にイレーネをやれるか。だいたい、お前を見て逃げ帰るような男は問題外だ!」
「婚約している私を虫除けにするのはもうやめてください」
「お前は面食いすぎてイレーネには興味ないからな」
「それで束縛していないつもりで?」
「ただ選別してやっているだけだろう」
女達も諦めた様子で明後日の方角を見た。重症過ぎてもう何も言えないようである。マディアスは夜な夜な若い娘の寝室に忍び込む意味とその影響など、とうに忘れていそうだ。
「何もしないと弟子が誓っているのにデートするたびに監視する方が、束縛している自覚がないと? 最悪ですよそれ」
「男など信用できるか」
「他人ならともかく、私ぐらい信用したらどうですか。私だって幸せな結婚をしたので、無茶はしませんよ。性格を把握している弟子でこれなら、赤の他人の場合どうするつもりですか」
「酒の席で不愉快な話をするな。不味くなる」
「私の将来が掛かっている話ですよ。せめて邪魔をしないで下さい。かなりいいところまで追い込んでいるんですから。邪魔さえされなければ、この調子で押し切れます」
まるで狩りをしているような言い方になってしまったが、気分はまさに狩りである。
「時折、いっそ僕が食べてしまおうかという気になる」
マディアスの言葉に、リーンハルトは寒気を覚えた。この男なら本気でやりかねない。とくに女王でないガートルードは、彼が何をしても問題ない立場だ。
「そんなことをしたらイレーネ様に一生口をきいてもらえず、勝手にマディアス様が嫌いそうなタイプの男と結婚してしますね。間違いありません」
「それがあるから実行できない。困ったものだ」
リーンハルトは心の底から、イレーネの存在に感謝した。彼女がいなければと思うとぞっとする。
いてくれてありがとう、などと不遜なことを思ってしまうほど、リーンハルトは師によって追いつめられていた。
彼がもう少しだけ、吸血鬼になったときに捨てた常識を思い出してくれたらよいのだが、長く生きすぎ化石のように固まってしまった彼の非常識を、いまさらどうにかするのは不可能だと、リーンハルトは知っていた。
涙が出てきそうだった。
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とてもいい雰囲気だ。
姉とその未来の義妹が並んで菓子を作っている。器用なガートルードは菓子のデコレーションを驚くほど繊細にきっちりと施し、職人顔負けの器用さで姉を驚かせた。手先の器用さは彼女の容姿以外の数少ない美点だ。もちろん欠点も見方によっては美点であるが、度も過ぎればいらだちも募る。
しかし今日はいい日だ。ガートルードが、リーンハルトに食べさせるために菓子を作っている。ただの味見役だということは頭から振り払う。
「ちょっと、リーン、お父様、さっきから何をこそこそのぞき見していらっしゃるの?」
リーンハルトは振り返り、いつの間にか父がいることに気づき驚いた。彼は確か友人と昼間から博打に興じていたはずだ。
「いつお戻りに」
「彼女が来るなら来るとなぜ言わない。知っていればあんな連中の誘いなど断って出迎えたものを」
「抜けてきたんですか」
「未来の娘をもてなさず遊んでいるほど非常識ではないのだよ」
「ついに娘とまで」
つい最近まであれほど反対していたのに、顔を見る度にのめり込んでいく。あまりにガートルードに夢中で、温厚な母が青筋を立てるほどだ。表だって反対まではしていないものの、快くは感じていないだろう。父のせいで母を敵には回したくないのだが、その点は姉に任せている。彼女なら上手く丸め込むだろう。彼女はガートルードを自分の義妹にしたくて仕方がないのだ。
「お邪魔しています」
鼻の頭にクリームをつけたガートルードが頭を下げる。見た目はしっかりしている印象を受ける彼女だが、時折こういった年相応の可愛らしさを見せる。頭が痛くなるような無知さと違い、これは胸が熱くなる。
「いらっしゃい、ガーティ。鼻の頭にクリームが付いているよ」
父はハンカチを取り出し、彼女の日焼け止めしか塗られていない鼻の頭をぬぐう。日焼け止めはイレーネの命令による物だ。芸術家たるもの、見た目の清潔感も大切だと説得した。綺麗な物を描く人間が、汚らしい姿をしていたら世の中の美しい物が好きな奥方達が倒れてしまうと。
「あ、ありがとうございます」
「いやいや。何を作っているんだい?」
「エリーゼさんにケーキの作り方を教わっていました」
「さすがは芸術家。エリーゼが作るよりも見栄えがいい」
「デコレーションだけは何度かしたことがあるので」
リーンハルトは顔をしかめた。それは初耳だ。しかもデコレーションだけというのがおかしい。
「どこでそんなことを?」
「城のパティシエに、ケーキのデザインの相談をされて」
リーンハルトは記憶をたどり、一人のパティシエを思い出す。
「お前、たぶんその菓子、何かの賞をとってるぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。味はいいけど見た目に華がないのに、あるときから華やかな菓子を作るようになって独立したからな。たぶんあいつだ。それは今も続いてるのか?」
「いえ、三つほどデザインしただけです」
「ならそれからは実力なんだろうが……」
見た風景をアレンジして書くだけでなく、デザインも出来るのだと少し意外に感じた。
「最近はイレーネ様に服やアクセサリーのデザイン画を書くように言われているんです。私のような素人には難しいと申し上げているんですが……。
機会があればリーンハルト様からも何かおっしゃっていただけると助かります」
イレーネが無償でそんなことをさせるはずがない。気に入らなければそんなことはさせないし、気に入ったのなら相応の報酬を払うだろう。
彼女はリーンハルトの悩みを知っているはずだ。
「言っておこう」
ガートルードにデザインをする能力まであって、イレーネがそれに目をつけたというのならとても危険だ。
聞いてくれるかどうかは分からないが、言わなければならない。
これ以上稼がせるなと。
12
「これでよろしいですか」
仕事場で、こればかりは以前と変わらぬ調子の会話が続く。
部下も同僚もいるこのような場所で痴話など出来るはずもなく、色気もない仕事だけの関係がある。全て終えるとガートルードは一礼して部屋を出て行こうとする。ふと思い立ち、一言だけならと手を伸ばした。
「待て」
「はい」
「時間を忘れるな」
「分かりました」
もちろんデートの時間だ。仕事が終わったら食事に行く。
「なぁ、リーン」
同僚の友人が声をかけてくる。
「何だ」
「前から聞こうと思ってたんだけどさぁ、彼女のどこが好きなんだ」
何を突然言い出すのだろうか。
「あの顔と身体があれば、誰が好きになっても不思議はないと思うが。なぜそのようなことを?」
「いやだって、絶対に恋人との会話じゃないぞ。仕事中にしてもひどすぎる」
「いつもと同じ調子だが」
「マジでデートもその調子?」
「そうだ」
同僚達が仕事の手を止めてこちらを見る。
「ありえねぇよ。俺が彼女だったら、本当に愛されているか疑問に思うぞ」
「そうか? プレゼントは欠かさないが。デートコースもあれの好みに合わせている」
「そうじゃなくて、女が好きそうな……もう少し優しい態度とか、甘い言葉とか。
誰もお前が彼女を好きだって気づかなかったぐらい態度に出てないのに、デート中もそれはやばいだろ」
「あれにそういうのは必要ない。むしろ怯えて部屋に引きこもるようになる」
普通に口説くのを試さなかったわけではない。最後には泣き出して、あまりにも怯えるのでエヴァリーンにお持ち帰りされた。
「いきなり態度が豹変したらそりゃあ怖いわな」
「段階が必要なのか……」
確かにいきなり花束を渡して愛していると言ったら逃げられたが、花束を押しつけて枯れるまで部屋に飾っておけと言ったら素直にそうしていた。
愛情を知らぬ女が、いきなり愛情を押しつけられても戸惑うのだろう。いまだにイレーネの愛情にまで怯えて、彼女とまともに顔を合わせようとしない。
「段階か……マディアス様に見張られていなければ」
「見張られてるのか」
「当たり前だ。あの方は自分の気に入った血の確保のためなら、その人間の権利をことごとく奪う」
「ひょっとして、お前が誰とも付き合わなかったのって、それが原因か」
「そうだ。下手に女と付き合おうとしたら、相手が翌日一家離散などということになることもあるらしい。先人の忠告を無視するにはリスクが高い」
もう年老いたかつての被害者が言っていた。
さすがにとりあえず付き合ってみるかという簡単な気持ちで他人を破滅はさせられない。
「……お前、意外と大変だったんだな。ずっと馬鹿女を見下してるんだと思ってた」
「ガートルードは馬鹿では無いと思うが、学はほぼないぞ。絵のことに関しては恐ろしいほどの記憶力で、好きな画家のタッチまで全て覚えているらしいが」
「…………自分に必要な物はあの調子で覚えてるのか」
「一芸に秀ですぎて、こちらとしては恐ろしい」
今度、個展を開くらしい。
新作と城にある絵と彼女の絵を買いあさるご婦人達の好意によって、古い作品も集められるらしい。
彼女の育ちは話題性があり、暇なご婦人達の同情という殻を被った姦しさを引き出すのだ。その上、最近はリーンハルトとの婚約騒動。
噂好きの奥方は、彼女を取り囲みたくて仕方がないのである。
おかげで、デートをしていても誰かに見張られているような気持ちになってくるのだ。
どうにかして欲しい。
13
リーンハルトがガートルードのために部屋に画材を運んでやったときのことだった。
「久しぶりだね、白バラの乙女にクチナシの君」
この城でも時々年若い女性の前に現れることで有名な、知り合いのどの吸血鬼よりも処女と年齢にこだわる変態吸血鬼、ヒューム・ヴィランドが突然部屋に乱入して、ポーズをつけて立った。マディアスは雪を欺く白き闇で、彼は闇の貴公子だの黒幻だのと名乗っている。何でも互いにつけ合ったらしい。ストレスが溜まりそうなほど言いたいことはあるのだが、まさか本人達にそれをぶつけられるはずもなく、突っ込むことを諦めて生きている。
まあつまり、それほどマディアスと仲の良い、永遠の若さのために自分で吸血鬼になったという友人だ。
「クチナシ?」
「彼の言うことは気にするな」
思いつきで他人を花の名で呼ぶ男である。対象はほぼ処女の女性なのだが、ごくたまに男性も相手にするらしい。
「君たちが婚約したと聞いて、祝いを持ってきた」
差し出されたのは、一冊の本。
装丁とタイトルからして、恋愛小説かそれに近い類だろうか。彼の場合官能小説ということもあるが、幸いガートルードの識字はレベルは絵本程度と低い。もちろん良くはない。難しい本を読めとは言わないが、一般向けの恋愛小説ぐらい読めるようになってもらわないと困る。結婚して同居すれば、それを教えるぐらいの時間は出来るだろう。
「なんですか、これ。私は字があまり……」
とガートルードが本を開いた瞬間、リーンハルトは我を忘れてその本を取り上げ床に投げつけた。
「何です、今のは。絵画の本ですか」
「お前は見るなっ!」
一瞬しか見てないが、男女が絡む絵が見えた。
「何を言うのだ、リーン。初心な君たち二人のために、巷で流行っている手引き書を買ってきてやったというのに」
「余計なお世話です」
「童貞のヘタクソのせいで、私の白バラが苦痛を与えられるのは本意ではない。二人でしっかりと学び、本番に望むといい。苦しむのは女性だけなのだから」
「だからって、何を考えていきなりこんな物を贈るのですかっ」
「だから、流行っているからわざわざ買ってきてやったのだ。対価を払え」
「意味が分かりませんが、私達は日頃から血を採られているので貴方にまで飲ませる血はありません」
「我が友、オカマのファーリアも良くできていると褒めていたぞ」
「オカマの意見など何の参考に?」
二人が言い争っていると、いつの間にかガートルードが捨てた本を拾い上げて中身を見ていた。
「こ、こらっ!」
嫁入り前の若い娘が見るようなものではないし、彼女にはまだそんな知識など必要はない。
「ああ、やっぱり」
「何がやっぱりだ! そんなものっ!」
「この画家、知ってます。ほら、この……」
ガートルードは壁の半分を埋める本棚の中から、美術書を取りだした。
「この教科書の手本になっている絵を書いている画家です。裸婦が好きな方だとは思っていましたが、こんな画集が出ていたんですね」
「乙女よ。これは画集ではなく、ただの春画本だ。好き者親父が趣味で出版した」
「ええと……よく分かりませんが手引き書なんですよね? 最近気になってモデルの交渉している女性がいるんです。引き受けてくれそうなので、せっかくですからこの本を読んで勉きょ……リーン様?」
彼女が抱える本を取り上げ、とりあえず自分の影に作った空間を開き、中に押し込んだ。
「どうしたんですか? リーン様もその画家に興味が?」
「今度もっとまともな本を買ってきてやるから、こういう変人の書いた本に興味を持つな」
「素晴らしい画家です。あまり正当な評価は得ていませんが、私は好きです」
「世の中、作品と作者の人格は結びつかない。お前だってそうだろう。作品ばかりはやたらと品格があるのに、本人は何も知らない小娘だ」
彼女は不服そうに見上げてくる。絵のこととなると、彼女はとても頑固だ。この画家は、画家としての腕は素晴らしいのだろう。腕だけは。
「まあ、お前が裸婦を描くのはいいが、その気になる女というのは誰だ?」
「リーン様とよく行く店で歌っている女性です。この前昼間にうかがって、お願いしてきました」
「お前は趣味のことになると社交性を発揮するな」
「いけませんか?」
「まあ、女なら構わない」
男の裸を描きたいと言いだしたらマディアスが止めてくれるだろう。もしくは自分が脱ぐと言い、ガートルードが恐れ多いと泣いてひた謝ることになる。