大地の愛でし子
2
踏みつけた瞬間は靴の裏に感触があった。しかしそれはラァスの踏みつけに負け、その存在を消した。
「なんで叫びながら人の手を踏むの!?」
声は地面の下から発せられた。ラァスは慌てて後退し、近づいてきたヴァルナの背に隠れる。長身の彼はラァスを完全に隠してしまうので、顔だけ少し覗かせた。今現在、悪霊でも出てきた時ここが一番安全である。この魔道師にひっついていれば、彼と同じ結界の中にいるようなものだ。
「ちょっとカリムを脅かしただけなのに、どうしてラァスの方が過剰反応するんだか」
再び手が地面から姿を見せ、どんどん伸び、肘が出て、二本目の手も出てくる。やがて白い布に覆われた頭が出て、顔が出た。金髪金眼で小さな子供の姿をした地の精霊のようなものだった。ラァスと類似点のあるこの子供を、知っている。人ではない。精霊でもない。
「流砂様じゃないですか。どうしたの?」
彼は神という名の種族である。
三級神以上の神の子は神となる。彼は一級神である地神の息子であり、四級神だ。名を流砂。これは本名ではないようだが、皆はそう呼んでいる。
ラァスはそう認識し、しかしそれは顔には出さずに安堵の色だけを見せた。
「どうしたのって、心配とかないの?」
「あ、ごめんごめん。ほら、ゾンビでも出てきたのかと」
「そんなものがこんなところに出てくるはずないだろ。地精ならわんさかいるけど」
「だって、昔地面から出てくる斧持った怪人に追われたことがあるから、この手の系統はとくに苦手で……。ああ、恐かった」
ラァスはヴァルナの背中に隠れて震えてみせる。ヴァルナは一瞬振り返り呆れ顔をしたが、何も言わずに前を向く。彼はラァスが本当に死人嫌いであることは知っている。
「あ、突然壁から生えてくると、つい浄化呪文とか攻撃呪文とか唱える癖があるから、僕の前ではしないでね。浄化呪文ならいいんだけど、火とか出してたら危ないし」
「どんな生活をしていたらそんな癖が……」
「んまあそんなことはどうでもいいし。でも流砂様はその人と知り合いなの?」
流砂はカリムを見上げた。カリムはその視線を受けて顔をそらす。微妙な沈黙。
「うん。僕のオモチャ」
「わぁ、素敵な関係」
「でしょお」
カリムはラァスに対して疑いの目を向けた。流砂と同類だと思ったのだろうか。よほどの目に遭わされているのだろう。可哀想に。
「んで本題だけどいいかな」
流砂の問いにラァスはヴァルナの背から出て頷いた。
「これは元々はサギュ様の考えなんだけどね、まあだいたい地神様達も賛成していることだから」
サギュとは時の女神の名だ。本当はもう少し長いらしいが、人には発音できないらしくサギュとして名が通っている。ヴァルナの仕える運命の世界の監視者である。
ラァスが神官となる原因となった女神だ。ラァスは地神に仕えるが、厳密的にはサギュのものという約束だった。
「このことはカリム達の将来に関係あるから聞いて欲しい」
カリム達は突然の流砂の言葉に動揺した。ラァスには、おおかたの予想がついているが、彼らにとっては未知の領域である。理解できるか、覚悟ができるか。
「アイオーンって知ってる? みんな魔道は囓ってるから、知ってる人もいると思うけど」
「あれだろう。異界から来る者」
「そう。異界人のこと。異界とこの世界ではあり方が大きく違うんだ。詳しい原因とかはわからないけど、異界人はこちらに来ると狂う。いや、こちらの空気とあちらの空気が混じると、どうも人も動物も魔物も狂うみたいなんだ」
流砂の口調はまるでただの動物の生態について語っているだけのようだった。聞いた騎士達はそれぞれがそれぞれの緊張の色を帯びる。
「そういった狂った異界人をアイオーンと総称し、影響を受けたこちら側の生物をエレボスと総称する」
「あ、でも、それぞれ狂い方にも程度があって、時々狂っていない子もいるよ」
ラァスは彼らのために、決して邪悪なわけではないことをアピールする。彼らも被害者なのだから。
「狂っていようがいまいが、あちらの存在はこちらの世界を破壊する。世界にとっては体内にタチの悪い病原菌を取り込んだようなもので、排除しない限りは待つのは世界と生命の死。まず精霊達が死ぬから、神以外の絶滅は避けられないことだよ」
流砂はラァスの弁解を無視して、彼らの危険性について語る。それは悲しい事だが、真実らしい。
「でも、その毒を無効化する場所があるんだから」
「程度にもよるよ。そこまで移動する手段が、普通はないしね。そりゃあ地神様レベルになれば封じる事もできる。でもそれにしたって軽度のレベルでの話だよ。その地にすべてを封じる事はできても、そのまま移動させる事はできない。すべてを封印するほど、地神様の力は多用してはいけない。あの方は地の化身であって、下手をすると大地震を呼ぶからね。いつもはたまった力を小出しにされるようにしているけど、押さえがなくなれば未曾有の危機だよ」
それはつまり、地神を消耗させれば何が起こるか分からないということだろうか。アイオーンよりも先に、神が生物を死滅させていては意味がない。
「僕もアイオーンは見た事ないけど、ほとんどの場合は消滅させるしかないよ。そのことに関しては、ヴァルナの方が詳しいだろうから、それはあとで彼に聞いてね」
難しい事は丸投げにし、流砂はさらにすすめた。ヴァルナも彼に口答えするつもりはないらしく、後で男達に質問される事を考えため息をつく。
「アイオーンなんて、人間に手の負える相手じゃないから、君たちには一切期待していないよ。ヴァルナレベルなら使えるけど、ラァスも今のレベルなら使えない。君たちに期待するのは、アイオーンの相手じゃなくて、狂ったこちら側の生物だよ。
アイオーンが来るには、世界のゆがみが穴になって、そこに生き物が巻き込まれてこちらに来る。でも穴に生き物が巻き込まれる事はごく稀なんだ。多くの場合、その空気だけが来て、それを吸った生物に影響が出る。空気自体は悪くないけど、向こう側のものには何かがあるんだろうね。それは空気中にあればすぐに消えてしまうけど、生物に取り憑いていたらそけは劇的に変化する。こちらの側の生物は世界に影響を与えるような変化はないから、ただたくさんの犠牲者が出るだけですむけど、それですませているわけにもいかないよね?
で、君たちには、それの対応をしてもらいたいんだ」
使えないレベルと言われ、ラァスは己の小ささを自覚する。人間の身で使えるレベルにあるヴァルナが例外なのだが、それでもそれを目指すぐらいでないといけない。
「でもでも、どうして僕をここに?」
「ラァスもまだまだだから、いっしょに訓練しなさいってこと。基本的にはヴァルナとラナとファーリアとリオの四人が先生ね」
ラァスはここにはいない剣士達を思い起こす。騎士達も皆知っているらしく、ざわめいた。
「しかしどうして私たちが?」
「魔法と体術ができることが第一条件なんだ。だったら、魔法騎士団が一番可能性あるでしょ。諜報部の連中でも使えそうだけど、それはさすがにヤバイし」
流砂の言葉にラァスは納得する。魔物狩りに向いているのは魔法戦士だ。魔法だけでは接近戦に持ち込まれれば危ないし、接近戦だけでは対応できない魔物は多い。実力が追いつくかは別として、魔法騎士団は最も魔物狩りに向いていると言っていい。
「団長はぎっくり腰で養生中ですよ。団長抜けば平均年齢も一番低いですし」
カリムはおずおずと言う。
「若い方が鍛えがいがあっていいよ。団長は座って激とばしてればいいし」
「正直、問題児の巣窟ですよ? 団長もそのせいでぎっくり腰になったんですし。子供のまま大人になったような連中で」
「素敵だよ、問題児」
「率直に言うと、それになぜもっと実力のある人たちのところじゃないんですかってことなんですけど」
「僕が地神様にカリムを推しといたからに決まってるじゃない。もうイヤねぇ」
流砂の軽い告白に、カリムはめまいを覚えたのかバランスを崩す。しかし踏みとどまり、その瞬間爆発した。
「何を考えてるんですかっ!? 勝手に推さないでくださいっ!」
流砂は耳をふさいで目をつぶる。
「だいたい、どうやったら私たちで納得されられるんですかっ!?」
「むぅ。僕がそうと言えばそうなの」
「その性格で、そんなに信用あるんですか?」
「怒るよ?」
流砂とカリムのやりとりに、ラァスは違和感を覚えた。
「え、カリムさんって、ひょっとして流砂様の事知らない?」
地神が自分の息子の話を信じるのは当然だ。それを知っていれば、カリムの発言はあり得ない。
「それは言わなくていいの! 余計な事いうと、君が引っ越してから真っ先に飾ったものを関係者全員に吹聴して回るよ!」
「な、なんでそんなに怒るの? っていうか、覗いてたの?」
ラァスが一番に飾ったのはただの写真だ。好きな人と、大切な人たちの写真。
「君の趣味の事とか」
「言わないから、そんなにかっかしないでよ。大したことでもないし」
「……そうだね」
カリムは首をかしげた。追求しないのは、心得ているからか、痛い目にあい続けているからか。
「まあ、ホントのこというと他の人たちは対人間に追われることになると思うからなんだけどね。お隣のカーラントが代替わりして大変でしょ? 戦争でも仕掛けてきそうな人だから、経験のある人たちはそっちに回される。魔物狩りは、単純な経験よりも、順応性がもっとも大切なんだよ。君たちは魔物相手にしたことはあるしね」
「しかしですねぇ」
「僕ら神族のわがままでもらえるのは君たち程度だったってこ・と。魔法騎士団って、一応はエリートだしわがままは言えないんだよね。神官戦士の育成もあるから、これでも僕らは忙しいし、これぐらいでいいかなって結論。びしびしいくから気合い入れてね。色々な先生を用意しておくから」
普通の魔物とは違う。どうせ魔物退治に精通した者などいないのだから、若い連中を選んだのだろう。流砂のお気に入りのカリムも、ヴァルナよりも少し上、二十代半ばにしか見えない。他の者も同じほどか年下だ。
「あとラァス、様づけはやめてね。地神様が直接選んだ君に、様付けされるいわれはないから」
つまりは、彼はどうしても身分を隠したいらしい。なら無理をして様付けするよりも、普通に精霊に接するようにするのが望ましいようだ。本人がいいというなら、失礼はないだろう。
「地神様に選ばれたって、彼は一体何者なんですか? あなたとはずいぶんと親しげですが」
カリムはラァスに対して視線を向けた。その瞳は複雑な何かを語っていた。
「紹介してなかったね。彼はラァス=ロウム。見ての通り金の聖眼。シーロウの後継者の見習い神官だよ」
その言葉に、皆固まった。次の瞬間に、皆は彼に向かい平伏した。
「え!?」
「大神官様の後継者とも知らず、数々のご無礼、誠に申し訳ございませんでした」
「まことに不行き届きの段、お詫びの言葉もございませんっ」
「ご寛容のほど、伏してお願い申し上げますっ」
口々に謝罪の言葉を述べ始めラァスは戸惑い後ずさる。突然のこの変貌、何が起こったのだろうか。
「どうかお許しをっ」
「いや、別にいいんだけど」
「ああ、なんと慈悲深い」
「さすがは大神官様」
「この人達変になった!」
ラァスはヴァルナに訴えた。彼はくすくすとおかしげに笑う。彼はこの変化をどうとも思わないのだろうか?
「本当に君は、自分の立場を理解していないんですね」
「え?」
「この国で大神官というのは、王とも並ぶ発言力があるんですよ」
「え……?」
地位が高いのは当然だ。とくにこの国は地神が直接姿を見せることもあるぐらいだから、神官の地位も高いだろう。こういう国で地位のある神官になるには、神や精霊に好かれていることが条件だ。
それを抜きにしたとしても、普通は自国最大の神殿の大神官候補と知らずにうっかり格闘などしたら、土下座して謝るのも当然だ。
彼は言われた通りまだまだ自覚がないらしい。しかし早々に自覚しろというのも無理だろう。彼は昔から貧しい生活をしていた。その上、神殿の中での自覚と、外での自覚はまた別だ。
「いやぁ、難しい話ばっかりですっかり忘れてた」
「忘れないでください! 本当に自覚ゼロだったんですかっ?」
今度はヴァルナが怒鳴りちらす。この国の男は皆短気なのだろうか。
「だってぇ、舞踏会でちやほやされるのと似た感じだし」
「一体君はどこで何をしていたんですか?」
「えっとヴァルナさん、男もヒミツがないと魅力半減なんだよ」
「君の場合、謎しかないじゃないですか」
「波瀾万丈?」
ヴァルナはため息をつく。彼に比べれば遙かに平凡な上におかしいはずなのだが、自分のことは棚に上げている。
ラァスはヴァルナの事はそのままにしておき、叩頭する騎士達を見てその前に座り込む。
「それ楽しい?」
「いえ、別に楽しいわけでは」
カリムが少し顔を上げてラァスへと答えた。
「儀式的なことでもないんだから、そんな事しなくていいよ。僕はまだ大神官じゃないんだし。今はただの神官見習いでしかないんだよ」
そう言った瞬間、皆一斉に立ち上がる。
「そっか。まだ神官見習いか。びびって損した」
「ちっくしょ、意味もなく冷や汗かいたぜ」
「見習いかよ。だっせ」
ラァスはしゃがみ込み、影に触れる。呪式を展開させて手を影の中に入れて、欲しいものを思い描く。
「態度変わりすぎ」
ラァスは影の中から取りだした愛用の斧を振りかざして言う。
「僕が君たちよりも強いことには変わりないんだけど、それは理解している?」
彼らは小さく身構えるが、やがて皆は斧に視線を集中させた。
「その斧、あの女が使ってた奴と同じ……」
「妹が勝手に持っててってたんだよ。これは僕が師匠にもらったすごいものなの」
ラァスは斧を抱きしめ頬すり寄せた。
「ラァスさんの師匠ですか。さぞすばらしい武道家なんでしょうね」
「いや、魔女。僕は元々魔道師目指して修行してたから。師匠が僕よりも強いことには変わりないけど。
そうしたらある日クリス様に見つかって脅され……お声をかけて頂いたの」
拒否権はないに等しかったのだが、考える時間はくれた。
十分考え、今に至る。アイオーンの事ばかり考えていたので、権力者になる覚悟というのは薄かったらしいが、闘うことに関しては覚悟はできている。
まさか誰かと一緒に育てられるとは思っていなかったが、これもいいだろう。
こちらの方が──暴力沙汰の方が性に合っていると言ったら、皆どんな顔をするだろうか。
この国に来る前までは、魔女の弟子であった。
その前は暗殺者であった。
それを知る者はこの中では流砂だけ。
辛かったが汚れを知らなかった昔を思い出すのも、悪くはない。鍛錬でも練習でもない、訓練は何年ぶりだろうか。
「ラァスは神官のお勉強があるから大変だけど、週に一度ぐらいは顔を出してほしいな。このバカ達に違いを見せるなら、君の方が年下な分効果的だし」
「……はぁい」
字は読み書きできる程度でしかない彼にとって、神殿での勉強はかなり難しそうだ。彼は歴史や文学が苦手科目だった。