1話 大地の愛でし子

3

 侵入経路はすでに決めていた。
 渡された屋敷の見取り図は、その外観からおそらく正確なものだのだと判断できた。おかげで仕事が楽に進みそうだった。
 見上げたそこは、大層立派な屋敷だった。悪辣なこともしなければ、これほどの財力を手に入れることはできないだろう。
 風が吹くと、冷たい空気が彼の服の隙間に入り込もうとする。走って火照った身体には、この早春の冷たさが心地よい。皮肉にも、頭が冴え身体に羽根は生えたように軽かった。嫌だ嫌だと言いながら、身体はすっかりこれに慣れている。
 ラァスは見取り図と照らし合わせ、ハインツァーの寝室を見やった。獲物がわざわざ自分の寝室で寝ているはずはないのだが、どうもそこに人のいる気配があった。大きないびきが聞こえるのだ。
 あまりの下品ないびきに、ラァスは顔を顰める。
 さすがに命を狙われながらも、こんなに大いびきをかいて寝る人間というものは珍しい。毎日の慣れからだろうか。毎日のように呪いをかけていたというから、それも理解出来なくもない。それよりも、そこまでできる財力のある女の方が謎は大きい。気になるが、依頼人の詮索はラァスのすべきことではない。
 しなければいけないのは、考えることだ。
「……身代わりかな?」
 口にしてラァスは違和感を覚えた。身代わりにしてもおかしい。
 庭に散らばる数多くの闇の一つに潜み聞き耳を立てていたが、きりがないので行動に出ることにした。
 二階に上がるために、金具のついたロープを投げる。バルコニーの手すりに上手く絡みついた。ほんのわかな音が発せられたが、小さな、鼠の足音程度の音である。
 ラァスはロープを軽く引っ張ると、ものの数秒でバルコニーまで登ってしまう。華奢に見えるが、体つきは本当に華奢なのだが、それでも見た目とは裏腹に魔力のおかげで強腕の持ち主なのだ。しかも、彼の瞳は世間一般では金の聖眼とも呼ばれる、黄金色の瞳である。金は大地を象徴する色で、大地は生命を育む力強さを象徴する。つまり、この力は瞳の恩恵なのだと、ギルド内にいる数少ない魔道士に聞いた。
 魔法などという、妖しい技術に頼るつもりはないが、この力には感謝している。組み倒されても、あっさりと巨体を持ち上げられるのだ。
「っと」
 バルコニーの上にはい上がり、カーテンの閉められた部屋の中の気配を探る。規則正しい寝息。確かに寝ている。
 ラァスは窓ガラスを切って、小さな穴を空けて鍵を外す。中の気配が代わらないことを確認し、そっと窓を開けた。
 寝ているのは、ラァスでも見覚えのある男。中年と呼ぶにはまだ若々しさがあるが、若者と言うには歳を取りすぎている、二枚目の男。
 今や豪快ないびきをかいて普段の紳士ぶりなど嘘のようだが、確かにメイナード=ハインツァーその人であった。
 高価な身代わり人形の存在で、安心して眠っているようだが、そんなもの、二度殺せばいいだけの話しである。これならば、クライアントの願い通りに拷問も出きそうだ。
「いい気なものだね」
 これから殺されると言うのに。
 それを意識すると、手が震えた。まるで初めて直接手を下すときの感覚だ。心は冷めていたはずなのに、ここに来てその心が震えた。
 よく知らない、高価な香水を販売している男。そして、多くの女性をゴミ同然に扱ってきた男。女性を連れて金のかかる遊びばかりしていた男。
 ラァスは細い紐を取り出す。手足を縛るにも使うが、舌をそれで縫いつけるように縛り、止血をほどこした後、舌を切ってやることもある。舌を噛みきって死ぬのは、その出血や舌が邪魔で呼吸ができなくなるのだ。つまり、自分の血と舌が気管を塞いでの窒息死。それを理解していれば、簡単に死ぬことはない。
 首を絞めてやるのもいいだろう。この男がいれば、被害者が増えるのは間違いないのだ。躊躇うことはないはずだ。
 ラァスは深呼吸して、周囲を見回す。成金丸出しの悪趣味な部屋だった。趣味の悪い身代わり人形は、ハインツァーの枕元にあった。
「……こんなのがねぇ」
 気を紛らわすための、小さな独り言。
 それよりも先に、ハインツァーを縛らなければならない。紐を手にし、鋭利なナイフを構えた。
 ここがここでないような、自分が自分から離れて上から見ているような、不思議な感覚に襲われる。夢の中、自分自身を見ているような、奇妙な感覚。
 冷ややかに彼は両手の間で紐をピンと張らせた。
「こんなものでも、かけられた技は本物ですから……その方に下手なことをすると、痛い目に合いますよ」
 ここに来てぼぅとする頭に、水をかけるような言葉が彼の耳に入る。
 ラァスははっとして振り返ろうとした。気配はまったくなかった。
 それなのに──この声は彼の背後から聞こえた。
 振り返らなければならなかったのに、ラァスは身動きがとれなかった。
 感じるのは、悪意も殺意もない、透明な……恐ろしく感情の感じられない気配。それが、突然背後に現れたのだ。
「な…………」
「まさか……人間が来るとは思いませんでしたが」
 首に、細い……本当に細く繊細な指が巻き付いた。
 声からして、女。
 ラァスは左手で右腕の手甲に仕込んだ刃を出し、背後へと斬りつける。手応えはなく、いつの間にか喉に巻き付いていた指の感触が消えていた。
「ちっ」
 舌打ちする音が聞こえると同時に、ラァスは腰から抜いた短剣を前に出す。高価な魔石で飾られた、実用的な短剣が、目の前で火花を散らせた。ラァスに剣を阻まれたその人物は、すっと身を引き再び前に出る。横から薙ぐ一撃を左手の手甲ではじき、右手の仕込み刃を喉に向けて突きつける。首を貫く寸前、相手はわずかに横に移動し、紙一重で刃を避け、剣を首の横まで瞬時に持って来て、横に追おうとするラァスの手を止めた。
 相手は背の高い男だ。どこに潜んでいたかは知らないが、かなりの手練れである。騒がないところを見ると、このまま撃退する自信があるのだろう。
 ラァスは距離を取り、持っていた瓶を取り出し床に叩き付けた。ラァスは覆面に触れて、しっかりと押さえつける。
「毒か」
 少年の声が聞こえた。気付いたのはなかなか。しかし、遅い。すぐに人を呼ばなかったのがあだとなった。この毒では簡単に死にはしないが、身体は動かなくなる。その間に殺せば問題ない。
「ちぃ」
 少年と思わしき男は大きく腕を振った。その瞬間、がん、と音を立ててラァスが進入した窓が開き、強烈な風が吹き込み、こもるはずであった毒を散らす。
「ったく、危ないことしやがって」
 少年がこちらに手を伸ばすと、ラァスが割った瓶の中に入っていた液体が全て乾いて吹き飛んだ。
「魔道士っ」
 魔道士の存在。
 忘れていたわけではない。魔道士がこんなに上手く気配を消せて、これほどの剣技を持っているなど、想像もしていなかったのだ。
 ラァスは舌打ちし、別な武器を取り出そうとした。そのラァスの腕を背後から軽く触れ、そして喉の頸動脈に触れる手があった。
「あら……子供」
 仕事を始めてから、背後に忍び寄られながら気づかないなど、今日まで一度もなかった。
「…………」
「脅えなくてもいいですよ。君をどうこうするつもりはありませんから。こういう職業は、本人が望んでなるものではありませんしね」
 首から、肩へと手が移る。ほんの少しだけ安堵したのは、やはり職業柄。
「君はどこの手の子ですか?」
 耳元へ、囁く吐息は暖かく、今の気持ちを代弁するかのように白かった。それでいて、この声は頭が痺れそうなほど冷たく魅力的だった。気が付くと、ラァスは女の方を向かされていた。
 逆光で顔は見えないが、均整の取れたプロポーションの女だということは分かった。魅惑的な香りがした。
「君は、どこの子ですか?」
「…………」
 無言のラァスを見て、彼女は肩をすくめた。
 背後に、小さな明かりが生まれた。ラァスは闇に慣れすぎた目が痛くて、反射的に目を硬く閉じた。
「子供には、相変わらず甘いな」
 声変わりする前の、少年独特の高い声。
「もちろん」
 目を開けると、女の姿が見えた。
 綺麗な女の人だった。黒髪に──不気味な赤い瞳。
 邪眼だ。
 血色の瞳は邪眼と呼ばれ、殺したいと念じて一瞥するだけで、その視線を受けた者は皆死ぬという、呪われた瞳。
「…………っ」
 ラァスは赤い瞳に射抜かれ、身動きが取れずすくみ上がる。死と隣り合わせにあって、これほど死というものを身近に感じたことはなかった。
「まあ、金の聖眼。半世紀ぶりに見ます」
 顎を手に捕らえられた。そして、赤いのに氷のように冷ややかな瞳が、ラァスの瞳を捕らえた。
 敵わない。
 この女だけは、けっして、けっして人の身で手を出していけない領分なのだ。
 内に眠る魔力が、そう本能に呼びかけていた。
「脅えてるだろ。ただでさえ怖いんだから…………あれ?」
 静かに言った少年は、ラァスを見て首を傾げた。
 ラァスも彼を見て驚いた。
 銀の髪、青の瞳。
 忘れるはずもない。昼間に見た、目を見張る美貌の少年。
 その少年の手が、硬直しているラァスの覆面をはぎ取った。絶対に抵抗しなければならないところだったのに。
「まあ、なんて可愛い」
「……あっ、やっぱり昼間の」
「?」
 邪眼の女は表情を変えずに少年を見た。
「あんたがぶつかった子だよ」
「ああ」
 女──ヴェノムは手を打った。仮面の下に隠されていたのは、この炎のような色をした、氷のような冷たい瞳。だから盲人の振りをしていたのだ。その瞳が、じっとラァスを見つめていた。
「しかし、意外だな」
 ハウルはラァスをまじまじと眺めながら呟いた。
 同時に、ラァスもハウルを眺める。
 帯刀しているが強そうには見えない。魔道士なのだからおそらく儀式用のものだろう。ヴェノムにいたっては、杖すら持っていない。
 その視線があれば、こちらが手を伸ばす前に殺せるという油断だろう。
 だが、手はある。
 考えるよりも前に喉を掻ききってやればいい。このままでは魔術によって誑かされ、自白してしまうだろう。そうなれば、どのみち仲間達に殺される。もしくは、指輪に仕込んだ毒を自ら飲み込むか。
 どのみち死しか待ってはいない。
 ならば、少ない可能性をかけて、やるしかない。
 相手は魔女。
「お前、本当に………」
 ヴェノムがハウルに視線を向けた。
 瞬間、ラァスはヴェノムの喉に掴みかかった。
「っ」
 目に見えぬほどの速さ。
 赤い瞳が輝く前に──
 ラァスは気が付けば、ベッドの上に組み敷かれていた。
 ベッドにいたハインツァーは、きぃきぃと鳴きだし、一瞬にして醜い化け物へと変化して、部屋の中を飛び回り穴の開いた窓から飛び出していった。
 そして今、ラァスの顔を覗き込む赤い瞳は、目と鼻の先。
「…………な」
「駄目ですよ。子供がおいたをしては……」
 ひょいと、横からハウルがナイフを奪った。
「君のところの頭目は、ひょっとしてフロウツですか?」
「な……」
「素直ですね」
 彼女はやはり、にこりともしない。その笑わない美貌を歪めることなく、淡々とそれを口にした。
「貴方は赤き月の子ですね」
 ──終わった……。
 魔女だからといって、体術が苦手だという理由はないが……相手が悪かった。
 たとえヴェノムに魔術や邪眼がなかったとしても、太刀打ち出来そうにもなかった。それに、フロウツ、フォボス=フロウツというのは、通り名ではなく、彼らの頭目の本名である。まず間違いなく、責任をとらされる。
 未来はどんよりと曇っている。晴れない空に、霧に覆われた道。瞳を閉じれば太陽も月明かりも見えない。
 どうせ、仕事に嫌気がさしていたのだ。
 未練など、ない。
 ラァスは指を口元に運ぶ。指輪に隠された硬い球。これを噛み潰せば、一瞬で死ぬ事が出来る。
「ぼうや、おいたはいけないと言っています」
 邪眼が、緋色に美しく輝く。まるで紅玉のような美しさに、ラァスは目を奪われた。そして、魅入られた瞬間から、金縛りにあったように動けなくなった。指先まで金縛りにあったように動けない。
 ヴェノムは指でラァスの口をこじ開け、かみ砕かれる寸前だった毒を取り出した。
「何だ? それ」
「本来なら、食べ物に混入させてる毒です。最近では、自害するために使われるようですが」
 かみ砕くか、飲み込んで胃液で溶かすかしなければ、口に含んでいても安全な容器に入っている。小さな黒い球体で、気づかれてもゴミか何かとして処理されてしまうのだ。
 利点は、食べ物そのものが毒に侵されることはないし、他の何かに毒物が付着することもないので、原因がつかみにくいのである。病死とされるケースも多い。
「物騒だな」
「まったく、子供が死に急ぐものではありません」
 こつんと、拳にした指の、第二関節で額を軽く叩かれた。
 ──なんで……。
 頭の中がぐちゃぐちゃになる。恐ろしいと思った相手に、なぜかまっとうな言葉をかけられる。
「…………ひょっとして、怖かったんですか?」
 ほんの少しだけ悲しげに言って、彼女は身を離しテーブルの上に置かれていた仮面を身につけた。
 赤い瞳を隠した彼女は、これで安心とばかりにラァスへと向き直る。
「大丈夫か? こう見えて、子供好きだから、何もされないからな」
 ハウルは剣を鞘に収め、優しく微笑んで言う。
 第一印象で、クールな少年だと思っていたが、その笑顔はまるでやんちゃ坊主のようであった。見た目で人を判断してはならないと言われ続けていたが、ラァスは彼の笑顔に少し驚いた。
「帰って、もう手を引いた方が無難だって伝えろ。邪眼の魔女だって言えば、伝わるから」
 その言葉で、ラァスはこれから先の現実を思い出す。
「…………なんで」
 ハウルは言葉の続きを持つようにラァスを見た。
「ようやく……踏ん切りがついたのに……」
 また戻らねばならない。
 先のことを考えると、いっそここで死にたかった。皆、裏切り者だと疑うのだろう。そんなことを言って、信じてもらえるはずがない。抜けたいと言っていた、直後にこれなのだ。
 それぐらいなら、仕事の途中で死にたい。
 疑われるぐらいなら。
「……もう……やだ」
 なぜ、彼らはこんな時に優しくするのか。見ず知らずの、悪行に手を染めている小僧を。
 最後の最後に──なぜ……。
「え……ちょ……」
 ハウルは泣き出したラァスの前でわたわた身動ぎとし、ヴェノムに助けを求めるように視線を送る。
「泣いていてはわかりませんよ。お姉さんが聞いてあげますから、話してごらんなさい」
 やさしく、頭を撫でられた。温かい手。何度も何度も、子供をあやすように、何度も、優しく。
 忘れていた、暖かい感覚。こんな風に撫でてくれたのは──
「母さん……」
 幼い頃に、やせ細った白い手で──
「誰がお姉さんだよ、ババアのくせに」
「だまりなさい」
 ヴェノムはハウルに何かをぶつけてから、ラァスをベッドに座らせ、自分も隣りに座り、安心させるように肩を抱いた。
 暖かい。
 女の人に抱かれて、こんな気持ちに今までならなかったのは、相手にあるのが醜い欲望だったからだろう。だが、この人は違う。まだ若いのに、母親のような行動を取る。
 ──なんで……。
 裏を持たずにただ力になれるからと、言われたのは初めてだった。
 仲間達ですら仕事上の関係だから声をかけてくれる。無能だったら、気にもかけてくれなかっただろう。
「…………ただ、抜けたいと思ってただけだよ」

 

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