1話 大地の愛でし子

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 手を引かれ、夜の闇を歩いていた。絹のように滑らかな、闇の中で光るような白い手の平。
 仮面を被った見知らぬ美女が、ラァスの手を引いて歩いている。その報告は、すぐにフォボスのところまで届けられるだろうと、ラァスは予測していた。皆はさぞ困惑しているだろう。
 顔が利くからと言って、この魔女はその顔を信じて疑っている様子もなかった。
 実際に道案内もしていないのに、彼女は先導して歩いている。ハウルは時折欠伸をして目をこすりながら黙ってついてきた。
 そしてラァスは覆面を外している。
 嫌でも目立つ一行だ。
 夜の闇を照らす小さな魔力の明かりを引き連れて歩いていれば、誰かが発見しない方が組織としてどうにかしている。
 やがて、どう見ても場末の酒場にしか見えない場所にまでやって来た。
 ここの地下が彼の組織の本部になっている。フォボスはよく二階で飲んでいるのだが、すでに地下に引きこもっている頃だ。
「……こんなとこが?」
「ええ」
「……ヴェノムって、本気で得体が知れないな。どうして魔女が暗殺結社の本部なんて知ってるんだ?」
 それはラァスが一番問いたい疑問であった。しかしラァスは道中一言も口をきけずにいた。
「大人にはいろいろとあるのですよ」
 言って、ヴェノムは迷うことなく酒場へと足を踏み入れた。
 そこには、待ちかまえていたように、フォボスがカウンター席に座っていた。長い足を組み、無表情でこちらを見ている。
「ラァス。何だ? その女は」
 問われて、ラァス自身が答えを持っていないので押し黙る。
「私の名はヴェノム。フォボス君……ですね。立派になって」
「見えてないくせに、社交辞令を言うなよ」
 こんな場所でもハウルはヴェノムの脇腹を肘でつついて言う。
「……お前、誰だ?」
 フォボスは眉根を寄せて、ラァスを睨んだ。慌ててラァスは首を横に振る。
「違うよ。この魔女のお姉さんは教えてないけど、ここを知ってたんだよ」
「覚えていませんか……。まあ、二十年も前の話しですからね」
「にじゅ……」
 どう見ても二十代前半の女性が、二十年前……。分かるはずがない。
「お父上は?」
「死んだよ」
「……まあ。いつ?」
「去年」
「そうでしたか……。それならば、もう少し早く来ればよかったですね。なぜ私が来るたびに代替わりしているんでしょうか」
 彼女はほんの少し首を傾げた。その全てに表情が無く、本当にそう思っているのか疑問である。
「……いったい、そいつはなんなんだ?」
 飲んでいた、仲間達はいつでも襲いかかれる体勢を取っていた。魔女と知っているので、皆は黙って話を聞いている。そうでなければとっくに襲いかかっているだろう。
「歳をお召しになった方なら分かるのでしょうが……」
 ここにいるのは、比較的年若い者達ばかりだ。ヴェノムは周囲を見回し、自分を知る者がいないか探す。そのとき、
「貴女様はっ」
 突然あがった声は、奥に続くドアからやって来た初老の男が発したものだった。先代の補佐を務めていたジェフといい、現在でもナンバー2である。
「これはこれは、ヴェノム様。よくぞおみえに」
 ヴェノムはその姿を確認し、仮面を外した。
 皆はどよめき、逃げ腰になる。
 生まれて始めてみる忌み眼、邪眼を見れば誰だってそうなる。
「おや、覚えて下さっている方がいましたか」
「……あっ」
 フォボスも邪眼を食い入るように見つめた後、思い当たるものがあったのか、立ち上がってヴェノムを指差した。
「その目……」
「思い出しましたか」
「すごく可愛い女の子を連れてきたオバさんとおな……」
 最後まで言うことなく、フォボスはヴェノムに椅子を投げつけられてひっくり返った。
 見えなかった。手をつないでいるので、片手で行ったことになる。ラァスはドギマギしながらヴェノムの手を離し、足をすって彼女から離れる。
 本当に何者だろうか。
「怒るな、ババアのくせに」
「お黙りなさい。まったく、確かにうちの子は皆可愛いですが……。
 子供相手には印象が強いのには自信があったのに……」
 自信を持つようなことではないが、確かにそうだ。こんな女の人を見れば、普通夢に出てきて恐ろしい思いをするだろう。
「前にも弟子をここに連れてきたのか?」
「ええ。先代……いえ、先々代に会いに。亡くなっていましたが」
 ──うわ……頭混乱してきた……。
 彼女は二十代前半に見える。しわもなければ、肌も美しい。最も美しく華やいでいる時期だろう。
「………おねえさんって……」
 何者?
 っていうか──何歳?
「歳食ってないように見えるが……ジェフ。この女何者だ?」
「若。またそのような口を……。失礼ですよ。
 このお方は、深淵の魔女ヴェノム様。賢者様です」
「賢者……だと?」
 物静かで凛として、そして異様なまでの存在感。見た目こそ若いが、それも全ては彼女の実力の賜だろう。老化を止めるような術を使えるなら、賢者と呼ばれるに相応しい魔女だ。
「はい。そして伝説とまで言われた高名な暗殺者、『赤月』その人ですよ」
 赤月。
 知っている。
 この商売の中では、最も有名な暗殺者の一人だ。この、『赤き月』という結社の名前も、その暗殺者の名を元にしている。
 この女性が元暗殺者だという事実は、あの体術を見せられれば納得も行くが、それ以上に──。
「……って」
 フォボスもそのことが気になり声を上げようとした。しかしジェンは構わず続ける。
「そう。この方こそ、赤き月名誉会長であらせられるのです」
 ラァスはそんな者がいたなど知らなかった。
「いや……そうじゃなくて……」
「いつから私はそんなものに?」
 本人も知らなかったらしい。本人が知らないのであれば、ラァスが知らなくて当然だ。
 それよりもと、逆算する。
 このギルドが出来たのは少なくとも百年以上前。
「百歳越えて……」
 ラァスは眩暈を覚え、壁により掛かる。
 百年前の美貌そのまま……。
「この『赤き月の子』は『ナイブ』から枝分かれした伝統ある組織。ヴェノム様にはその象徴として、時折いらしていただいているのですよ」
「…………ヴェノム。あんた、昔何やってたんだ? 俺は母さんにも親父にも、ヴェノムは宮廷魔道士だったって聞いたけど……」
「だから、暗殺業を。あの頃は国が荒れていて、殺す対象が多くて……。
 国も落ち着いて、暗殺者としての能力よりも魔術師としての才能が目立ってきたので、宮廷魔道士として籍を置くようになりました。賢者をいつまでも裏に置いておく訳にもいきませんから」
 賢者とは人々に認められてそう呼ばれるのではないのだろうか。彼女のいい方では、宮廷魔道師になる前から賢者であったようないい方である。世の中のシステムは、ラァスにはよく分からない。
「意味わかんねぇよ」
 ハウルは頭を抱えて座り込んだ。
 確かに、顔が利くと言っていたが、まさかこのような利き方がするとは……。
「ところで、なぜヴェノム様がラァスを連れて?」
「いえ、知り合いの紹介で来た仕事が、ハインツァーさんの護衛でしたので」
「…………それは……」
「安心なさい。私が後始末がします」
「後始末?」
「あなた方の名を傷つけるようなことはありません。明日になれば、依頼主の方からキャンセルが来るでしょう」
「そうですか。ならばすべてヴェノム様にお任せいたします」
 ジェフの言葉に、皆は驚いたが、伝説の人の手前誰もそのことを追求しない。
「それよりも、今日はお願いがあってきたのですが」
「なんなりとお申し付け下さいませ」
「この少年をいただきたくて」
「……ラァスを?」
 あまりの唐突さに、求められたラァス本人も驚いた。
「埋もれさせるには、あまりにも惜しい才能ですから、弟子として迎えたいと思います。あらゆる知識と技術を伝授するために。
 幸い、本人もそれを望んでいます」
 望んだ覚えはない。が、じわじわと、奇妙な感覚に襲われた。胸の奥が、締め付けられるように、それでいて暖かく。興奮しているように……身体が疼く。
 魔女が弟子に欲しいと言った。教育と言った。学のない、容姿以外に取り柄などない彼を。
 この感覚が喜びであると気づいたのは、だいぶ後のことであったが、先ほどからの目眩が余計にひどくなったことは実感した。
「……そうですか。フォボス様。どうなされますかな?」
「…………」
 フォボスが目を細め、ヴェノムを睨んだ。
「ラァスには、あらゆる教育を施したいと思います。もしも、殺す生活から抜けられないのであれば、役に立つ知識ばかりです。全ては本人次第ですが」
 そのような環境下で育った本人が言う。
 もしも魔術を習おうとしたら、莫大な入学金をはらって私塾に行くか、大きな魔道機関のスカウトを受けるか、個人に弟子入りするぐらいしか、ラァスのような身分の低い者が魔術の教育を受ける機会はない。そんな金はないし、声をかける相手は選ぶ。残るは個人に拾われるだけだ。
 しかし、今や個人で営業する腕の立つ魔道士など、よほど山奥にこもっている隠者ぐらいだろう。そんな個人経営をしている魔女が目の前にいて、誘ってくれている。
 さらに、提案している人物が伝説の人では断りようが、ない。
「……分かった」
 フォボスは、静かに肯いた。
「弟を、よろしく頼む」
「もちろん」
 その言葉が、無性に嬉しかった。


「……字が読めないのか?」
 馬鹿にするのではなく、心底驚いた様子でハウルは問うた。
 勉強するため図書室に来たラァスが、ハウルが持ってきた初歩の魔道書を見て読めないと言って、驚いたのだ。
「簡単なのなら読めるよ。でも、こんな難しい文章、読めるわけないだろ!」
 ラァスはそう言って可愛らしく頬を膨らませた。
 そんな情景を目にしたヴェノムは、本を抱えたまま小さく笑った。二人とも本当に可愛らしい。そのとたん、当の二人はヴェノムを見て互いの肘をつつき合う。
「…………見たか? 今の」
「見た」
 二人は突然、結束を固めてヴェノムをじっと見つめてひそひそと囁き会った。
「なんか、邪悪な企みをしているかのような」
「馬鹿にされてるんじゃないの?」
「人聞きの悪い。少年達の微笑ましい光景に、母親の心境で暖かな微笑みを」
 ヴェノムは二人の無礼な言葉に言葉を返す。
「見えないって」
「うん」
 ──急に仲直りして攻撃するなんて……。
 密かに溜め息をつきながら、ヴェノムは手にしたトレイをテーブルに置く。その上に乗っているのは、焼きたてのレモンパイと、仕入れてきたばかりの最高級茶だ。
 自給自足を心がけ手はいるものの、小麦や嗜好品は町で買ってきている。前回仕事の依頼を受けたのも、恒例の顔出しと、買い出しのためだった。
 ハウルに言えば呆れるだろうから言わない。
「わー、美味しそう。……でも、これ、師匠が焼いたの?」
「ええ、もちろん」
 ラァスの問いにヴェノムは心に笑みを浮かべて頷く。
 おねえさんの方が好きだったのだが、気持ちをはっきりさせるためと、師匠と呼ぶことにしたらしい。先生の方が良かったと思うのだが、呼び捨てよりはましだろう。
 弟子が脅えるようなら仮面を付けて生活するのだが、慣れてしまえば死と隣り合わせに生活していたラァスは、まったく普通に接してくれる。
 よって、この麗しい光景を目にすることができる。見目の良い少年二人、戯れる姿は心ときめく。彼女は心の底から子供が好きだった。
 ヴェノムはパイを切り分け二人に食べさせた。
「美味しいですか?」
「うん。すっごく。師匠って、お料理上手だね」
「メシだけは期待していいぞ。庭いじりと料理が趣味だから」
「へぇ、見た目だけなんだ、別物なのは」
 ──べ……別物。
 さすがにそんなことを言われたことはない。
 見た目と中身が対極的に違うと言われたことはあるが、別物は……。
「そういえば、あれからどうなったんだ?」
 ハウルは引きつった笑顔で話をそらすように言う。
「依頼人の煮えたぎる憎悪を取り除いてさしあげました。今では改心してまっとうに働いています」
 全てを復讐に注ぎ、財産をかなり使い込んでしまっていた。心に開いた穴のため、やるせないむなしさを抱えて生きことになる。だが、いつか本当に愛し合える男性に巡り会えるだろう。
 いつか訪れる幸福な終焉のために、今は辛いだろうが……。
「じゃあ、香水屋のおっさんは?」
「破産するそうです」
「え?」
「社員の技術が勿体ないので、会社の方は私が頂く予定です」
 恨みを買うというのは、実に恐ろしいものだ。ヴェノムが少し動いただけで、恨みを持つ他人に簡単に絡め取られてしまった。おかげでいい買い物をした。
「……おっさん個人は?」
「女性相手の商売で、女性を敵に回した罰でしょうね」
 ハウルとラァスは顔を見合わせた。
 男同士、気が合うところもあるのだろう。年の差も一つだ。
 ──そういえば、ハウルは男友達がいませんでしたからね。
 なおさら、嬉しいのだろう。見た目は可愛らしい恋人同士にも見えるが。
「万事解決しましたから、君たちは修行に打ち込むように。ラァスにはまず、その無駄に垂れ流されている魔力の制御法を教えてあげましょう」
 ラァスは一瞬キョトンとしたから、心の底からの笑みを浮かべて肯いた。
 少なくとも、人を殺すことのない生活だ。
 戸惑いもあるだろうが、心の傷は癒えるだろう。その後は、彼自身の問題だ。
 この生活が、彼にとって幸福を築く礎とならんことを祈る。

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