2話 城の主

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 春の陽気は心地よく、淡い緑が萌え時折花が顔を出す草原を作り出している。草花の香りは都会の淀んだ空気と違い、思い切り吸い込むだけで気分が晴れる。草原は柔らかそうで、ラァスは後ろに倒れ込む。それは暖かに向かえてくれるかと思いきや、冷たい朝露の洗礼を受けた。濡れた草が目の前でアーチを作り、光を浴びてゆらゆらと輝きラァスの顔へと落ちて額や頬を濡らす。
 背中が濡れて、土の匂いが鼻につく。それは不快な記憶を思い起こすかと思えば、意外に気分はこの空気のように澄んでいた。泥は幼いころの嫌な頃を思い出すのだが、今は不思議と穏やかだ。
 目を伏せると何かを感じるようで、その正体が分からない。掴めそうで掴めない。
「ラァス、何してるんだ? 暇なら手伝え」
 人が悩んでいる時、無粋な声をかけたのはハウル。いつもなら光を受けて輝く彼は、ツバの大きな麦藁帽子に隠されていつもよりも控えめに見えた。
「何してたの?」
「畑の手入れ」
「好きだねぇ」
 彼は稀に見る美少年だが、趣味がなんと野菜作りである。初めは必要だからしているのだと思っていたが、毎朝清々しい泥だらけ笑顔で帰ってこられると、彼の野菜への愛情の深さが嫌でも伝わってきた。畑はこの草原よりも城から離れたところにあり、ここはその通り道となる。元々は何か植物を植えていたらしいが、人手がないために放置されているらしい。
「お前は何をしてるんだ?」
「聞こえないかなって」
「何が?」
「大地の声って奴」
 ラァスの魔力は高いのだが、それをほとんど無駄に使っていると言われた。ここまで魔力を自分で自覚しないのは珍しいらしい。ヴェノムに自然に触れればなんとなく精霊を感じられるようになるのでは、と言われラァスなりの自然との触れ合いをしているのだが、それらしきものは感じない。
「なんで僕はダメなんだろう。本当に師匠が言うみたいな才能があるのかなぁ」
 ラァスは起き上がり、あぐらをかいて緑の絨毯を見つめる。
「あるだろ。おまえの回り精霊いるし、その目だし、今まで見えないのが不思議なんだよ。これだけ恵まれてるのに感じなくなるなんて、都会の闇ってのは俺が思っている以上に恐ろしいのかもな」
 ハウルは帽子を脱いでラァスの隣に座る。頭を振るだけで、帽子で乱れていた銀の髪がサラサラと落ちた。
「都会育ちが原因なの?」
「それはないだろ。都会暮らしの魔道師なんていくらでもいる」
「じゃあ、何が原因なんだろう」
 ラァスは自分自身を情けなく思いながら、これから花咲かずにずっとこのままだったらと考えると、気分がどんより重くなる。
 昔からストレスには強い方だったが、根本には善意があるストレスには弱かった。ヴェノムに焦りがないため落ち着いているが、未だに学ぶのは文字の読み書きばかりである。
 読み書きが出来なければ魔道書も読めないのは分かっているが、魔道入門のような本ではなく、子供向けの教材と向き合うのは空しい。
「こいつらに、心を閉ざしてるんだろうな」
 精霊達に心を閉ざすも何も、認識していなかった相手にどうやって心を閉ざすのだろうか。
「まあ、その内に感じるだろ。魔力もほとんどない素人でも、魔道師の側にいると感じるようになってくるもんだ。一週間にも満たない間に、何か変われる奴なんていねぇから安心しろ」
「……そだね」
 焦りは禁物だ。焦ればいい結果は出ないというのは、どの世界でも共通して言えることだ。息を吸い込み、大きく吐く。これだけで気持ちは切り替わる。
「みんなお前のことを心配してる可愛いヤツらだ。気付いてやれるようになるといいな」
 ラァスは地面を見つめ、地面を指で触れた。
 誰かに好かれていると思うと、少し嬉しかった。


 勉強は好きだ。覚えるのは楽しく、分かるようになっていくのがもっと楽しい。勉強が親によって強制されている裕福層の子供は勉強が嫌いらしいが、贅沢な話だ。
 土台がしっかりすれば、あとは自分で学ぶことも出来る。分からなければ聞くことも出来る。そういう環境があるだけで、幸せだと思わなければならない。
 ここは城の図書室だ。ラァスが知る図書館よりも広く、天井までいっぱいの本がある。この城の構造上、このような部屋が収まることはないはずだ。ラァスは疑問に師に思い尋ねると、空間をどうこう言う理解を超えた解説がなされ、今すぐに分かることを放棄した。もっと知識を得てから、もう一度その理屈を聞いてみたい。その時は、きっと感動するのだろう。
 今はヴェノムが初日に用意してくれた、子供向けに書かれたという魔道書を開いた。初日は難しいと感じだが、一週間もしっかりと勉強すると、暗殺者として育てられはじめた幼い頃に最低限の教育を受けていたことを思い出した。成長してからは暗号の読み方や、言葉で話すことが重要になり忘れていたのだが、人は思っていたよりも昔のことを覚えているらしい。そうして知識を得てから読もうとすると、確かに専門用語も書かれておらず、その言葉自体から学んでいくという、思ったより丁寧な「教科書」だった。魔道師は子供の内から才能を見いだされて学ぶ者が多く、こういう子供向けの教材があってもおかしくはない。
「どこまで読みましたか?」
 ヴェノムは魔道書を開くラァスに問う。
「まだ一章まで。やっぱり少し難しいから、先に進まずに何度も読み返していたんで……」
「それでいいんです。理解することが大切です。予習して、何か分からないことはありましたか?」
「うん」
「それを含めて、簡単に魔道について説明しましょう」
 ヴェノムは魔道書を開き、ラァスのために音読していく。読み間違えて意味が分からなかった箇所も、彼女のおかげで理解できた。もちろん、本を読んでもらったからと言って理解できることではない。知識がまったくなかったラァスにでも、なんとなく理解できるようになったというだけだ。
 基本中の基本である、魔道理念について書かれた一章を一通り読むと、彼女は本を閉じてラァスに向かって。
「魔法とは発動させるまでの理屈だけなら簡単です。
 魔法式と呼ばれる立体魔法陣を展開し、それを餌に精霊を呼び込み力を使うのが基本です。他にも色々と方法はあるのですが、それは今は考えなくてもよろしい」
 ラァスはこくと頷いた。教科書の言葉よりもさらに分かりやすかった。
「魔道とは、世界の理(ことわり)に触れることです。この世界そのものを理解することに繋がり、世界で最も原始的で崇高な学問であり、有益で物騒な技術でもあります。
 大切なのは力と同じで、どう使うかです」
 ラァスは無言で頷いた。彼女が言いたいのは、感覚に頼り、結果は使い手に左右される技術だから、心せよということだ。
「おごりは時に破滅を招きます。気をつけなさい」
「うん、分かった」
 慢心は自滅への道だ、生きたければどんな時でも周囲に気をつけていろと、幼い頃から教えられてきた。だから彼女の言葉は身に染み入る。
「話は変わりますが、ラァスはどんな将来を希望しますか?」
「将来?」
 ラァスは考え、昔から夢見ていたことを素直に口にする。
「お金持ちになって、可愛い奥さんと可愛い家で可愛い物に囲まれて可愛い生き物を飼うの」
 ヴェノムはラァスの頭を無言で撫ではじめた。将来の夢を語ったのに、馬鹿にされた気分である。
 それを見ていたハウルは、自分が読んでいた本を閉じて言う。
「じゃなくてさ……魔道師としてって意味だろ」
「だって、僕は魔道師のことをほとんど知らないもん。知っているのはいつも補助魔法をかけてくれたおばあちゃんだけだよ」
「なるほど」
 知らないモノには明確な希望が思い浮かばない。ハウルもヴェノムも、ラァスが想像していたのと違って、日常的に魔法を使っているわけでもない。ハウルは畑仕事を自分で行うし、ヴェノムは野菜の皮むきもじぶんでする。こういうことは使い魔などにさせるのだと思っていたのに、裏切られてばかりいた。魔法とはそれほど便利な物でもないし、他人を使役して仕事をさせるのは怠け者のすることだという。
「じゃあ、魔道師の生態について分かりやすい本がある」
 ハウルは立ち上がり、跳躍したかと思うと空気が激しく乱され、空を飛んで高い位置にある本を手に取った。
「ああいうことが出来るようになるの?」
「あれはハウルだからこそですね。彼の使うのは風です。あなたは地。属性が対極に位置するので、無理でしょう」
「属性?」
 本に書かれていたが、まだ詳しく書かれたページを読んでいない。彼が読んだのは基礎の基礎のみである。
「地風火水。地と風が対であり、火と水が対です。地の属性の者は火と水の相性は悪くないですが、風とは相性が悪くなります。火の属性の者は地と風の相性は悪くないですが、水とは相性が悪くなります。この図ですね」
 ラァスはヴェノムが指し示した図を眺め、ふむと頷いた。
 地がてっぺんにあり、風が下にある。菱形になるように、その間の両脇に水と火が書かれている。それらの対になっている属性の相性が悪いらしい。
「ラァスはどう足掻いても完璧に地の属性です。今まで出会った中でも、これほどの偏った方はいませんでした。反する風の属性の魔法は向いていません。かと言って、重力操作はとても難しい術です。空を飛ぶのは遠いでしょうね」
「そっか。まあ、僕は高いところ好きじゃないし。それ以外はどんな事が覚えられるの?」
 ラァスはヴェノムやハウルが使用する魔法を思い出す。
 かまどに燃料も火種もなく火を生み出し、雨の日に室内で洗濯物をからっと乾かすための風を起こす魔法等、どれも生活レベルばかりである。
「そうですね。地の属性なら、力が一時的に高まる魔法。物体を一時的に軽くする魔法。土を柔らかくする魔法とか」
 ラァスは一番目に関しては、本能でやってのけている。他二つは、何というか──
「地味でない?」
「低レベルの地属性魔法は地味だからなぁ」
 派手さで二番の、大気を操る術を得意とするハウルは言う。一番はもちろん火に決まっている。赤目のヴェノムは火属性だ。
「地は元々難しい属性ですからね」
「そーなの?」
 初耳だ。不公平を感じる。
 彼は目立つのは嫌いではない。むしろ、好きだと言ってもいい。せっかく堅気になったのだから、派手なこともしてみたいと少なからず思っていた。
「そうです。地というのは、四属性の中で一番物質的に硬いですから。干渉するには力が要ります」
「……そーいうものなのかなぁ?」
 むしろ、他の属性には形がない。かろうじて水は凍れば形が定まるし触れられるが、地よりは遙かに自由だ。その理屈で言えば、地だけが異様に扱いにくい事となる。
「ええ。ですが、極めれば四属性最強です」
「そうなの!?」
 一番地味な地が、一番強いとはなかなか魅力的だ。一番難しいのであれば、そうでなければやっていられない。ラァスの機嫌は一気に上昇した。
 いつか嫌味ハウルの鼻を明かしてやるのだ。
「極めればどんなことができるの?」
「地震を起こせます」
「…………」
「規模も魔力が伴えば自由自在です。国一つ滅ぼせます」
「…………」
「火山の噴火も可能です」
「…………いやぁ、そんな周囲に多大な迷惑しかかけないことしか出来ないのかなぁ?」
 さすがに人間無差別大量破壊兵器にはなりたいとは思わない。
 ヴェノムは指をやや厚めの唇に当てて考える。視線が下を向き、しばらくして再びラァスを捉える。
「そうですね。大地を液状化させる事も出来ます」
「…………」
「土の鎧を身に纏えます」
「ふーん」
 それが便利なのかどうかは分からないが、他人に迷惑はかけないだけよくなっている気がした。
「獲物を地面に引きずり込んで捉えることも出来ます。そのまま圧死も。
地を使役して串刺しも可能です」
「それはいい」
 ヴェノムは無表情に、しかし満足そうに頷いた。
 実用的になればなるほど、術の規模やレベルが下がっているのは、気にしない。
「基本的に地属性は補助魔法が中心です。体術の優れた貴方には相性がいいでしょう」
「結局はそうなるのかぁ……」
 持っているスキルを上手く生かす。どこの業種もそれは変わらないようだ。
「何を言います。世の中の聖人聖女の多くは地属性です。その理由は、世間一般的に白魔法と呼ばれるものの多くが地属性だからです」
「そんなものになりたくないし」
「なれとは言っていませんよ。しかし、人を助ける役に立ちます」
 言われて、ラァスの唇が笑みになる。人を助ける魔法が向いているなど、思ってもいなかった。
 自分の力が好きになれそうだ。
「魔法はどうやって使うの?」
「魔法は呪文のみによっても発動させることが出来ます。ですが、それだけだと長い呪文を延々唱えなければならなくなります。魔法式を使用すれば、ほんの一瞬です」
「魔法式?」
「呪文の代わりに組み立てる、立体魔法陣のことです」
 ヴェノムは指を前に突き出し、小さく息をする。
 彼女の指先に、黒っぽいもやのようなものと、その上で輝く光を見た。その黒いもやは帯。光は文字。しかし、全体を見ると光の帯に見える。
「これで補助をして、呪文を短縮させます。上手く出来るようになれば、呪文なしでも術を発動できるようになります。ただし、それには呪文を唱えてお願いするだけとは違い、その呪文の構造、属性配分。その魔法についてきっちりと理解していなければなりません」
 ヴェノムはその指を振る。すると、ラァスの目の前に、小さな光が生まれ、消える。
「こんなの……出せるの?」
 今までの経験上、変な帯も光も出せる事の方が異常だった。そんなものが簡単に出せるなら、世の中もっと魔道師は多くなる。
「コツを知れば簡単です。
 では、昼食の後に練習しましょう。それまで、基本をしっかり覚えなさい。分からないことは、ハウルに聞けばよろしい」
「うん」
 ラァスは笑顔のままで頷いた。
 精霊は見えないのは気にかかるが、それでも進めるのだと思うと嬉しくてたまらない。


 魔道師の内では、これを開眼の儀式と呼ぶらしい。
 魔法式の構造展開というのは、口で教わって簡単にできるものではない。基本だけで数年かかってしまうほど、自力で掴むのは難しい。そこて編み出された技術が今まさに行おうというこれである。
 誰かの呪式展開を、直接感じることの出来る儀式であり、これが編み出されてから魔道師というのは特別な職業ではなくなったのだ。
 ヴェノムとラァスは向かい合い魔法陣の上に座っていた。ラァスの額に、ヴェノムの細い人差し指が置かれている。赤いマニキュアのみで飾られた、ラァスの好きな細い指だ。
「緊張することはありません。簡単なものです。まずは一番簡単な、光を生み出す式」
 先ほどヴェノムがやったものだ。
 式の構造は理解した。四属性ではなく、珍しい光属性の術。光を生むのは、太陽神──そして至高である母神に通じる属性にもかかわらず、最も初級の術だった。昼食を食べる前に、ハウルに理論に関しては徹底的に叩き込まれた。
「目を閉じて」
 閉じる。
「息を吸って」
 深呼吸。
「感じて」
 感じてと言われても、何を感じればいいのかは分からない。とりあえず何が来ても驚かないように、見逃さないように、耳を澄まして身構える。
「いきます」
 何かが産毛を撫でるように通り過ぎていくような感じがした。静電気がたまったときのように、髪や体毛が浮き上がる感じがした。あとはわけも分からぬ生まれて初めての感覚に思わず目を開けると、二人の周囲には光の帯が取り巻いていた。
 次の瞬間、それが一気にヴェノムの指先、ラァスの額に集まり、はじけた。
「この感覚です」
 ヴェノムは二人の間に生まれた光を、ラァスの額にあった指で示す。これが、光を作り出すという感覚。
「やってみなさい」
 いきなりやってみろと言われると、不安になる。しかし、感覚はまだ残っている。今やらなければ忘れてしまうだろう。
 目を伏せて。ヴェノムの指が置かれていた眉間に集中して。構成を頭の中で組み立て、それを維持。そして、あの感覚。
 何ともいえない、解き放つ感覚。
「上出来です」
 ラァスは目を開けた。
 かなり雑ではあるが、光の帯が出来ていた。どれ程雑かというと、幼児が落書きした円のように太さがバラバラで蛇行した汚い線のような円だ。光の文字も足の指で書いたように汚い。
 ヴェノムの芸術的な帯状の足元にも及ばない駄作である。
「さあ、解き放ちなさい」
「……はい」
 思わず気を抜くと、汚い円はさらに崩れる。それを立て直そうとするとまた崩れたので、とりあえず解き放ってみた。
「光よ」
 視界が、真っ白になった。
「うわ!?」
 ラァスはまぶしさのあまり目を閉じる。目を開けると強烈な光は止んでいたが、目が眩んで何も見えない。
 しばらくすると視力が回復して徐々に周囲が見え始める。
 ラァスはぺろりと舌を出し、てへへと笑ってみた。
「失敗しちゃった」
 出来るだけ可愛い声で言ってみる。
「大胆な失敗だな。これだけの魔力で変な術を暴走したら、大惨事だぞ」
 ハウルは肩をすくめて言う。言葉に嫌みがあるが、顔は笑っていた。
 ラァスは小さく息を吐いた。
 暴走という言葉に、彼は内心落ち込んだ。
 ──確かにこれじゃあ、攻撃魔法なんて初めから習わせてもらえるはずないよな。
 今ので身に染みた。遊び感覚ではないがそれでも願望はあった。しかし今はその願望を抱くのもまだ早い。一番簡単な術を、これだけ丁寧に教えられてまともに出来ないのだ。
「安心なさい。一度でそこまでできるというのは、筋がいい証拠です」
 ヴェノムは本気で言っているのか判断しかねる無表情で言った。
 本当に筋がいいのかは、わからない。
「あとは精霊達を身近に感じることが出来るようになれば、自然と安定します。今朝のように自然に触れるのはよい方法です。続けなさい」
「はい、師匠」
 あれが効果的とは、てっきり笑われているのだと思っていたラァスは意外に思う。どこまで本気か分からないが、彼女が夕飯の準備に取りかかったら城の外を散歩して木や石に触れてみようと思った。ラァスは土はともかく、石は好きだった。宝石でも、そこらに転がっている石でも、時々だが彼を虜にしてしまう石があるのだ。
 それからしばらくの間だ、魔法陣を作る練習を何度もした。
 初めの一回ほど暴走することもなかったが、あれほど『まとも』な魔法式は作れなかった。二度目からは、それほどひどい出来だったのだ。幼児が目隠しして書いた落書きのようで、見るに堪えない様がラァスを寄り落ち込ませた。
 やはり人に必要なのは、地道な努力しかないようだ。

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