4話  ある日

 


 ある日。
 朝起きてダイニングに出向くと皆の中に交じり、『オヤヂ』がいた。
「うげっ」
 つい内心の思いを口にするハウル。
 ラァスは引きつり気味の顔でこちらを見た。彼は首を折っても死なないこの存在が、幽霊ほどではないが苦手らしい。
「父親と顔を合わせて『うげ』とは何だい」
 見た目だけは爽やかに微笑むウェイゼル。ハウルとほとんど同じ色の髪が、朝の日を浴びてキラキラと輝いている。
「しばらく出入り禁止じゃねーのか?」
「それはガディスです。僕は何も言われていませんよ。ねぇ」
 と彼はヴェノムを見るが、彼女は頷きもせずに赤い瞳で彼を睨む。
「屁理屈ですね」
 などと言いつつも、ヴェノムは奴の前に朝食など出した。
「そんな奴に食わすなよ。食い物なんて食べる必要もない体のくせに」
「食べさせないと何をしでかすか分かったものではありません」
 それはそうなのだが、腹が立つ。
 この男には、何度煮え湯を飲まされたことか。いい思い出より圧倒的に悪い思い出の方が多い。振り返れば、なんと辛い思い出の多いことか。実の父親との思い出なのにだ。
「わかっていますし、反省もしています。しかしここに来たには理由もありますよ」
「理由?」
 ハウルとヴェノムは同時に問う。彼の理由などヴェノムに会いたかったからとか、ヴェノムで遊びたかったからとか、ヴェノムと他愛も無いおしゃべりがしたかったからとか、いつもそんな理由である。
「メビウスからのお使いですよ。
 ほら、もうすぐメビウスに二人目が生まれるでしょう?」
「ええ」
「前回の時にヴェノムに散々叱られたのを気にしてか、名前の候補を挙げました。男の子の場合と女の子の場合の二つを決めて欲しいそうです」
「なんだ、反省してたのか、このデタラメ夫婦は」
 それにしてもヴェノムに叱られるからという理由であることが、ハウルには生まれてくる子の身が心配になる。
「あぁ、今度こそ娘がいいですね。メビウスに似た可愛い女の子。もう生意気な息子はいりません」
 うっとりとした様子で、娘を思い描く馬鹿。
 この男の場合、言うことなすこと怪しい。
「……思うにこいつら夫婦に育てさせると危なねぇと思うぞ」
「女の子なら問題ありませんよ。問題は男の子の場合です」
 自分の時がとにかくひどく、育児放棄もいいところだった。だからこそ家出してヴェノムの城まで逃げてきた。ここに来た当初は、食事の美味しさに毎日こっそり涙したものだった。人間って毎日いい物を食べているのだな、と。
「思い出したくもないっ」
 弟をあんな目に合わせるならば、何としてでも親権を奪い取らねばならない。
 そんな息子の思いを、ウェイゼルは笑顔で踏みにじるように言った。
「だって自分に似た息子なんて珍しくもなくもないじゃないですか。メビウス似の可愛い息子なら、毎日美味しいもの食べさせてやるのですがねぇ」
 ひどい父親もいたものだ。
 ヴェノムは呆れて小さくため息をつき、自らも席につく。
「で、その候補とは?」
 ウェイゼルは、笑顔で『それ』を取り出した。
「……………」
 昔ハウルの名前を決定さした『箱』と、普通のノート。
「女の子の名前は厳選されたリストを用意しました」
「男は使い回しか……」
「せっかくメビウスが書いたのですから、また使わないともったいないじゃないですか」
 ひどい事を平然と言うのだ。この男は。これにはさすがのヴェノムも堪忍袋の緒が切れた。
「帰りなさい」
 低く、そしてきっぱりと言い放つ。彼に対してこれほどまで強く出られる人間は、世の中広しといえども彼女ぐらいだ。
「わかりましたよ。でも朝食を食べてからですよ。ヴェノムの手料理は久しぶりだなぁ。
 そうだ。女の子なら、ヴェノムに料理を習わせてあげよう。容姿以外は僕に似るといいなぁ」
 勝手に一人で盛り上がり、朝食を食べていく。ヴェノムはナイフを握り、言う。
「いいから、帰りなさい。本当に反省しているのなら」
 ヴェノムの瞳が怪しく輝く。
 投げる気だ。絶対にあのナイフを投げる気だった。
「ああ………はい」
 これ以上粘ると自分まで出入り禁止されるのを悟ってか、今度は素直に立ち上がり名残惜しそうに立ち去る。
「台風が去ったな」
「台風と竜巻が同時にやってきたようなものです」
 ヴェノムは忌々しげにウェイゼルを罵る。
 彼女を本当に機嫌を損ねさせられるのは、世の中広しといえども、きっと二人しかいないだろう。


 ウェイゼルが本当に帰ったことを確かめると、ハウルが代表して箱を開けた。
 へたくそな字で、「ハンス」と殴り書きのような名前が書かれていた。
「うわっ、きたな。しかもありきたりな……。本気でやる気ないし」
 ラァスは思わず呟いた。彼自身もも左利きの癖字なので、お世辞にも綺麗な字とはいえないが、ここまでではない。もちろん右手でもたいていのことは出来るのだが、やはり慣れた左で行う方がしっくりする。
「いや、母さん、ただ字が下手なんだ」
「………へぇ……」
 ラァスはハウルの綺麗な字を思い出す。
 ──親子でこれだけの差……。
 逆なら分かるが、息子の方が達筆というのは珍しい。
「なんか、かわったお名前」
 アミュが取った紙には、おそらく「タロ」と書かれていた。他の紙を見ても、変な名前が多かった。大陸外によくあるような名前も多い。
「メビウスは、人と少しずれているところがありますからね」
 ヴェノムは取り出して目を通した紙を箱に戻す。
「ハウル。実はけっこういい方の名前だったんじゃないかな?」
「ちょっとそう思う。まさか中身がこんなだとは………」
 ハウルはやや青ざめて言った。下手をすれば彼の名前はタロであったのだ。青ざめるのも当然。
 ラァスは次にノートの方を手に取った。汚い字の変な名前と、綺麗な字の綺麗な名前が入り混じっている。夫婦で考えた証だろう。
 ──すごいかも、この夫婦……。
「さすがに娘となると気合が違いますね。ウェイゼル様の」
 ヴェノムもそれを覗き込み言う。
「ハウルは女の子に生まれてた方が幸せだったんだね、きっと」
「すごぉく、可愛がってもらえたと思うの」
 ラァスとアミュは、間違えば幸せな幼少時代を過ごしていただろう彼を見て言う。少なくとも二人は幸福とはいえない時を過ごした。ハウルとは違い他の選択肢などなかった。
「かも………なぁ」
 切なげにハウルはノートから目を逸らす。二分の一の確率を外した彼だが、彼であったからこその今の出会いがあった。そう思うと、ざまあみろと思えた。
「とりあえず、この紙とノートは捨てて」
 迷わずノートを丸めるヴェノムを見て、ラァスは思わず口にした。
「捨てるんだ」
「それ以外にどうしろと? また使い回されますよ。ウェイゼル様の方はともかく、メビウスのつけようとする名前は例外なく却下です」
 言われてみれば、もっともである。犠牲者は少ない方がいい。
 ラァスは一瞬で箱とノートが燃やされるのを見て、世の中は切ないな、などと思った。
「結局、どうやって名前決めるんだ?」
「もう、決めています。こんなこともあろうかと、吉凶をすでに占いました」
 さすがはヴェノム。
 この夫婦をまったく信じていないようだ。
「んで、どんな名前にするんだ?」
「ヒースです」
「お前がつけると、何で男名まで花の名前なんだ?」
 両方とも同じ花をさす言葉だ。荒野に咲く、美しい花である。
 植物好きの彼女らしい名付け方だ。
「女の子の場合は?」
「ヒースです」
 ヒースは男名である。
「…………いいけど……別に」
「気に入りませんか?」
「オヤジにつけさせるよりはマシかな。母さんは元より論外だけど」
 父親がつける名前よりも、ヴェノムがつける男名の方がいいというのも、いろいろと問題だ。
「女の子はヘザーとかにしたらどうなのかな?」
 ラァスは提案してみた。ヒースとヘザーよく似た植物だ。詳しく語ればきりがないので省くが、混合されがちで、ヒースはヘザーと呼ばれることもある。この場で大切な決定的な違いは、ヘザーが女名であることだった。
「吉凶を占った結果です。女の子に男名をつけると、悪い男が寄らないといいますし」
 ヴェノムは頑固だった。
 綺麗な名前である上、この生まれてくる子供とは赤の他人である。文句は言えない。
 ウェイゼルの出した案と、大差ないものではあるが。
「とりあえず、知らせを送りましょうか。クロフ」
 ヴェノムは使役する精霊の名を呼ぶ。
「ここに」
 現れたのは、少しだけ黒ずんだ銀髪の青年。外見的特長はウェイゼルに近いが、顔つきはヴェノムに近かった。無表情と言う意味で、だ。
 人と区別がつかぬほど、己をしっかりと実体化している。最高位の風の精霊である証明だ。本に書いてあった。その本には、もう一つ注目すべきことが書いてあった。
 高位の精霊は滅多に出会うことは出来ない。その理由は、彼らは強き者に従うからである。彼らは彼らの王に使えている。彼らは……。
 ──……まさか……ね。
 ラァスの中で、最近何度も沸き起こる、嫌な考えが蘇る。
 いい加減、消化しなくては身体に悪いと思いながら、ずっと聞けなかった考え。
 今日こそ、聞くときだとラァスは思った。


「あのさ、聞こうと思って聞きそびれてたんだけど、いいかな?」
 ラァスはちらとハウルとアミュを見てから、おずおずと問う。
 場所をダイニングから図書室に移り、これからお勉強というときだった。
 ハウルは持っていた魔道書を閉じ、続きを促す。
「クロフって、一番高位の精霊だよね?」
「ええ」
「…………ウェイゼルとか、ガディスとか………クリス……クリスフィアだとか、神様の名前だよね。四大元素を司る」
 自信なさげに声を絞り出す。
 答えるのはヴェノム。
「ええ」
「………………ええ……って」
「あれが当人です」
 その内容は幼い彼には衝撃が大きかったらしく、しばらく壁に頭を押しつけてブツブツと言う。
「ってことは、やっぱりハウルとアミュは……ハウルとアミュは……」
 ハウルは苦笑した。
 彼がそんなことで悩んでいたとは思いもよらなかった。というか、話してなかったっけ? などと思うほど、彼にとっては当たり前のことだった。
「そ……そんな!? 魔物の類だと思ってたのにっ!」
 アミュが目を見開いて叫んだ。
 ──いやあの……まあ、仕方ないけど。
 アミュにも詳しい話をした覚えがなかった。父親のことなど、話されても嫌がると思ってあえて話題にしなかったのだ。
「……じゃあ、ハウルおにいさんのお母さんは、神様のところに嫁いだのね」
 アミュは幻想的とも言える内容に、顔を顰めてうんうんと唸った。現実とのギャップについていけないらしい。
「……でも、あの人師匠にも気がありそうな感じだったけど。奥さんいるのに、息子の目の前で浮気?」
「あの方は昔も今もたいへん多情な方です。私も昔はあの方にお仕えしていた時期もありました。
 ……子供にはまだ早い話でしたね」
 ラァスは呆れ顔になる。アミュは理解していないようだったが。
「しかしそれでもやはり、昔を思えばずいぶんと手数が減ったと思います。
 今は私の娘が彼に嫁いでいって、それなりに落ち着いたのでしょう」
 ごん、と大きな音がした。
 ラァスが机に頭を打ち付けて硬直していた。
「…………娘!? 誰が!?」
「俺の母さんが」
 ハウルは悩める彼に答えを投げた。
「じゃあ……それはつまり……」
 ラァスはヴェノムとハウルを見比べた。
 そう言えば、これも言っていなかったような気がする。
「ラァスも知らなかったっけ? どうりであんなこと言うはずだよな。
 前から言ってただろ、ババアババアって」
「それって、実は……言葉通りだったって?」
 彼は頭を抱えた。かなりショックを受けた様子だった。
「意外と精神的に弱いよなぁ、お前」
「普通ショック受けるよ!」
 ラァスは性格によらず繊細な精神を持っているらしい。彼の動揺が伝わってきてなかなか楽しい。
「ハウルおにいさんは、おばあちゃんっ子だったんだ」
 アミュが笑いながら嬉しそうに言う。
 余計なお世話だ。
「仕方ねぇだろ。唯一まともな身内なんだから。世間一般ではまともとは言わないかもしれないけどな」
「でも、うらやましい」
 彼女には直径の身内は一人しかいない。しかも四兄弟最悪の男。
「これは喜ぶべきなのでしょうか? 肯定されてしまったことを悲しむべきなのでしょうか?」
「知るか」
 ボケた老人はほっといて、とても大切なことを思い出してしまった。
「そうだ、アミュ。一つだけ言っとくな」
「うん」
「俺達の父親は一級神だ」
 信じられないことだが、四大元素の神達は六人しかいない一級神である。残るは二人は太陽神と死神。そんなモノたちと並ぶ存在なのだ。
「そういった、ある程度の神の実子っていうのは、実は神位が与えられる」
「は?」
 アミュとラァスが同時に、口をあんぐりと開いた。
「一級神が親だと、四級神の位だ」
「な………」
 ラァスは言葉につまり、アミュは茫然自失の体となる。
「…………………よ……四級神って……どれぐらい偉いの?」
「別に。愛の女神とかどこぞの大きな川の神とかと同じぐらい」
 ラァスは身を引き、アミュは完全に呆けていた。
「そ、そんなすごい神様と同じ位!?」
 愛の女神と言えば人気のある神だ。だから位が高いと思われがちだと聞いたことがある。
「本当に偉くなってくるのは三級神からだ。そいつらは母神が直々に作ったやつらだから。下の位の神を作り上げるのもそいつら。べつに四級神は大したことねぇ。自覚することなく死んでいくやつ多いしな。うちのオヤジが無節操だから」
「そんなシステムがあったとは………」
「だから俺も、風を操るのは手足を動かすのと同じレベルで使える。アミュの場合、そういう風にしているやつが周囲にいなかったから出来ないのか、母親の血の方が濃いからできないのか、どっちかだろ」
 アミュは自分自身を眺める。
「神様…………」
「信仰心薄れるだろ? 俺やあいつら見ると。まあ、クリス伯父さんや、バーミア叔母さんは神様らしいことしてるから安心しろよ」
「…………」
 アミュは未だに自分自身を眺めている。
 納得してくれるとは思っていないが。


 ラァスは最近、日記を書いている。
 今日の内容はこうだ。
『エライことが判明した一日。
 神様って、大したことないんだなぁ、と思った。
 それ以外はいたって平凡な日常だった。ちょっとアミュの様子がおかしかったけど。
 でも少しだけすっきりした一日だった』
 以上。

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