6話 井戸の主

 

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 裏庭を歩いていた。正面の庭や中庭ほど手入れされていない、ほとんど自然に繁殖するに任せたままの庭だ。少し日当たりの悪い場所だが、こんな場所でも植物はすくすくと育つ。
 アミュは他の綺麗な庭も好きだが、ここにいると落ち着いた。
「おじさん、こんにちは」
「こんにちは」
 仮面をつけている中年紳士は、唇を笑みにして返事をくれた。
 彼はいつも木の根っこのところに腰を下ろしている。彼は物知りで、話しをするのはとても楽しい。
 名をエオン・ブリューナスというらしいが、最近ではジェームスと呼ばれているらしい。
「アミュ。今日も来てくれたんだな」
 仮面の下の緑の瞳は、優しく笑っていた。
「うん。お勉強が終わったから。でも、わたしあんまり字が読めないから、ここで本を読むの。ハウルおにいさんがいると、教えてくれるけどはずかしくって」
「はは。彼は言い方がきついからな」
 唯一気の許せる血縁者である従兄は、優しいが、少し口が悪い。傷つけるつもりはないようだが、ぐさりとくる発言をする。ラァスは言葉も態度も何もかも優しいが、優しすぎて何でも言われるがままに甘えてしまいそうになる。
 だから、アミュは一人でなんでもできるようになるのだと心に決めた。そうすればみんなとも一緒に理解し合って話が出来るはずだ。
「おじさんはとても難しい本が読める?」
「ああ、家庭教師がいたからね」
 どこか寂しそうに言う。
 触れてはいけないことだったのだろうかと、不安に思う。
「アミュちゃんは、字を誰に習ったんだい?」
「お友達の男の子。わたしに優しくしてくれる唯一の人だったけど、死んじゃった。わたしなんかを庇ったから。村で一番お金持ちの家の子だったのに」
 自分に関わらなければ、きっと素晴らしい商人になっていただろう。彼は優しすぎたのだ。
「その男の子はアミュが好きだったんだね。だったら、そんな顔をしていたら、きっとその子も悲しむよ」
「そう……かな?」
「ああ。私も悲しい。私も君が好きだから」
「わたしもおじさん大好き」
 アミュは屈託なく笑い、いつものように草の絨毯に腰を下ろした。
 わずかに露を含んでいて冷たいが、それが心地よかった。


 アミュはずいぶんと本を読めるようになっていた。まだ難しい本は無理だが、簡単な小説なら読める。ヴェノムに出会う前は絵本程度だったのに、この進歩は大きい。
「アミュは物覚えがいいね」
「本当に?」
「ああ」
 アミュは頬を赤らめてはにかみ、俯いて顔を隠す。
「おじさんが教えてくれたから」
「ではまたおいで。おじさんは難しい本でも読めるから、まだ当分は教えてあげられそうだ」
「ありがとう」
 アミュは微笑み、立ち上がる。
 そろそろヴェノムが夕食の支度を始める時間だ。手伝えと言われたわけではないが、居候で弟子の身の上であり、家主で師である彼女だけを働かせるわけにはいかない。
「それじゃあ、おじさんさようなら。また明日」
「さようなら。お休み」
 ブリューナスは微笑んで、手を振った。それにアミュは手を振り返す。
 アミュが背を向け歩き出すと、彼はいつもいくなっている。神出鬼没のおじさんだ。見た目は少し恐いが、親切で紳士的で大好き。
「ねえねえ君」
 突然、知らない声がした。少年の声に聞こえた。しかしハウルやラァスの声とは明らかに違った。
 思わずきょろきょろとしていると、
「こっち。井戸」
 井戸の上にあるポンプを見るが、いつもと変わらぬ様子だ。時々ハウルがここで野菜を洗うのに使っているもので、何の変哲もないもののはずだ。
「違う違う。こっち」
 呼ばれるがままに声のする方へ足を向けた。
 城の横手にまでくると、声はここら辺からすると確信できた。
 最低限の手入れしかされていないそこは、とても暗く、寂しい場所だった。城の塀も近く、圧迫感がある。
 井戸を探すと、すぐに見つけられた。
 ただ、板で塞がれてゴミが上にたまっていたので、少しだけ見つけるのが遅れた。
「外して」
 井戸の中から声が聞こえた。
「うん」
 疑いもせずに彼女は重石をのけて蓋を外す。悪い感じはしないし、ブリューナスも何も言わない。危険なことがあるのなら、ヴェノムの注意を受けているだろう。
 それにアミュは、昔から悪意などを感じ取る事が出来た。この向こうに悪意はない。
 板を外すと、
「ありがとう」
 と、井戸の中から声がした。
「どうしてそんなところにいるの?」
 アミュは井戸へと話しかけた。
「いろいろとあってね。ちぃとさがってな」
 言われたとおり三歩ほど後退する。
「じゃん」
 と言って、井戸から声の主が飛び出てきた。
 やはり初めて会う男の子だ。彼はにやりと笑い、井戸のふちにどかっと座った。アミュはぺこりと頭を下げた。
「はじめまして。アミュっていいます」
「これはこれは丁寧に。俺はマースってんだ」
 年の頃はアミュと同じほどだろう。薄青の髪をした男の子だ。
「出してくれてありがとな」
「どうしてこんなところにいたの?」
「お嬢ちゃん。アミュに会いたかったからさ」
「どうして?」
「自分と遠すぎるから、かな?」
 アミュは首をかしげた。何がそんなに遠いのだろうか。
「わたし、あんまり頭よくないからよくわからない」
「うんうん。頭がよくても分からないと思うから。
 アミュ。明日は俺とも遊んでくれよ」
「うんいいよ。でもわたしでいいの? わたしあんまり遊んだことないから、何していいか分からないの」
 唯一の友達は、身体が強くなかったので、普通の遊びはしなかった。
「じゃあ、どんな遊びが出来る?」
「うーんとね。言葉遊びとか、あや取りとか。あと、チェス」
「なら、十分だ。
 そうそう。俺と遊ぶことはヴェノムには言うなよ?」
「どうして?」
 ヴェノムに言ってはいけないような遊びではないはずだが、なぜだろうか。
「ヴェノムとはいつも喧嘩してるから。だからこの入り口も封じられたんだ」
「そっか。うん、じゃあ、内緒にしておくね」
「絶対だぞ?」
 アミュが頷くと、マースは後ろに倒れる。
 ぱしゃんと音がして、それから音と気配はなくなった。
 不思議な男の子だ。彼は何者なのだろうか。


 翌日から、一時間ブリューナスとお話したりお勉強したりして、一時間マースと遊んだ。
 二人は旧知の仲らしかった。だが、会えないのだそうだ。なぜかと聞くと、大人の事情があるのだという。
「強いて言うなら、罰だな」
「罰?」
「そう。私達には悪い癖があってね。それで多くの人を傷つけた。だが私は反省するつもりもないし、改めるつもりもない。どうしてもやめられない事というのが、世の中にはあるんだよ」
「うん。わかる! わたしね、やめなさいって言われるけど、使えるものがあると拾っちゃうの。もったいないんだもの」
 ブリューナスは微笑んで、アミュの頭を撫でる。
「君は本当に私の理想の子供だね」
「おじさん、おねーさんと同じで子供好きなの?」
「ああ、大好きさ。君みたいな純真な子と、ラァスみたいな生意気な子がね」
 ──じゃあ、明日はラァスも呼んであげよう。
 アミュは無垢な心でそう思う。

「俺がここから出てくる理由?」
 マースは首をかしげた。
「うん」
「アミュは約束どおり来てくれるから、特別に教えてあげるぅ」
「ほんとう?」
 アミュは無邪気に喜んだ。
「俺はここから少し離れた湖に住んでるんだ。この井戸に水脈で繋がってるから、ここから出る。向こうのポンプは、入り口が狭いだろぉ?」
「そっか。だからここから出てくるんだ。世の中には、いろいろなヒトがいるのね」
「秘密だよ。ここを知られたら、他の奴らも来て、邪眼の魔女に嫌われるから」
「うん」
 アミュは真剣に頷いた。
 確かに大勢出てこられてはヴェノムが困る。ヴェノムが困るのは嫌だから、絶対に口にしないと心に誓った。
「じゃあ、今度は何をして遊ぼうか?」

「はぁ? 裏庭!?」
 ラァスは驚いたように声を荒げる。
「うん」
 勉強が終わり自由な時間になり、アミュはラァスを誘ってみた。
「だめだよ、あそこは危険な場所だから」
「どうして?」
「どうしてって……とにかく」
 ラァスはアミュの肩に手を置き、必死になって訴える。
「ハウルも何か言ってよ!」
「いいじゃん。行ってやれば」
 ラァスは突然しゃがみこむ。
「あんな目にあって……」
「俺別に害受けてねぇし。今まで何度も裏庭には行ったけど、追いかけられたのはあれが初めてだぞ?」
「でも……」
 ハウルはふっと笑う。残念そうに首を横に振り、アミュの肩に手を置いた。
「アミュ、ごめんな。こいつはゆ……ぐえっ」
 ラァスは突然ハウルの首を絞める。
「いや、苦しいって」
「動脈を締められても平気だなんて、ほんとムカツクっ!
 ものの数秒で一瞬気を失うはずだよ!?」
「いや、体質だし。お前、本気で落とすつもりでやってるのか?」
「くっ……やっぱり蛙の子は蛙か……」
「あいつと一緒にすんなよ。いくら何でも、首折られれば死ぬぞ、俺は。試したことねぇけど」
「じゃあ、まさかアミュも!?」
 アミュは首をかしげた。
 首を折られたことなどないから分からない。ただ傷の治りは少し早い。
「さぁなぁ。アミュの場合、酸素がなかったら普通に落ちると思うけど。でも、多分火傷しないぞ」
「そっか。その程度ならまあ、いいか」
 何がいいのか分からないが、ラァスが笑っているのだからいいことなのだろう。
「んで、裏庭に行ってどうするんだ?」
 ハウルが問うてきた。彼はついてきてくれるようだ。
「一緒に遊ぶの」
「よし。たまには裏庭探検でもするか。面白そうだし」
 ハウルは目を細めてラァスを見た。
「裏切り者」
「知らないのか? 風の気質」
「………自由を愛する面白がり屋」
 ハウルは満足そうに頷いた。


 裏庭につくと、ラァスは明らかに怯えて周囲を見回した。
 ──面白い奴。
 正直、そう思う。
 そのくせ、アミュの頼みは断れないのだ。
「んで、アミュ。ここで何して遊ぶんだ? 宝探しか?」
 以前、殺人鬼の使っていた斧も埋まっていた。それもののアイテムなら、まだ埋まっているかもしれない。
「あれ? 今日はいない……どうしたのかな?」
 アミュは首を傾げる。
 ──いない?
 何が?
「いつも、あの木のところに……」
 振り返ったアミュは、顔をほころばせた。
 その理由を理解する。ラァスの背後に、立つ男を見て。
 ラァスの顔が引きつった。
「やあ、よくきたね、ラァス。ああ、お前はなんて美しいのだろう?」
 男、ジェームスはラァスの細い首に手を掛ける。
「お前の中身、すべてが見てみたい」
「ぎゃあああ」
 全力で逃げ出すラァス。
「くく……ふはははははははっ」
 心底楽しげに、ジェームスはラァスを追った。釘を刺されているので殺しはしないだろう。むしろ純粋に、あの反応を楽しんでいる。
 ──こないだのカマ野郎といい、ラァスって男にモテんだよなぁ……。
 さすがにその点に関しては哀れに思うが、美貌に日々磨きをかけているあの男も悪い。
 そのうちラァスがまたこけて、見たことのある体勢に持ち込まれていた。
「鬼ごっこ?」
 アミュが問う。
「んだなぁ。にしても壮絶な鬼ごっこだな」
「楽しそうね」
 ジェームスの言葉の意味を理解していないのか、アミュは無邪気に微笑んだ。
 ハウルには、はらわた引きずり出して見てみたいと言っている様にしか聞こえなかったが、彼女には別の意味として聞こえたのだろう。
「楽しそうだな。ジェームスだけが」
 そうこう言う内に、ジェームスは立ち上がりラァスの首根っこをつかんで持ってくる。気を失ったらしい。
「まったく今までになくいい反応をしてくれる少年だ」
「だなぁ」
「君はつまらないね。一度で慣れてしまった」
「アミュは?」
 怯えた様子もない。
「彼女は好きだよ。純粋な意味でね。私の素顔を見てまず痛くないのかと心配する子はいない」
「ああ、そうなんだ」
 彼にとってラァスとは真逆の存在なのだろう。
「怯えて逃げ惑う子も好きだよ」
「そりゃあんたが死人だからだよ。生きてたら怯えもしないって。あと変態賢者は別の意味で恐いみたいだけど」
「面白い子だ」
 と、手を離すジェームス。
 ラァスがどさりと落ちる。
「ぐあっ」
 ラァスは意識を取り戻し、頭を振る。
「なにが………うわわわわ」
 慌てて人の背後に隠れるラァス。
「安心しろ。からかわれてるだけだ」
「安心できると思う!?」
「…………んまぁ、気にするな」
 ラァスは怯えと敵意に満ちた視線をジェームスに向ける。
「おじさん。楽しかった?」
「ああ。ありがとう」
 ジェームスはアミュの頭を撫でる。
「こらぁ! 穢れた手でアミュに触るなぁぁぁあ」
 怒鳴るはいいが、逃げ腰では格好悪い。
「人のことを言えるのかい?」
「悪霊なんかに触って体調でも悪くなったらどうするんだよ!」
「ああ。問題ないよ。障りを与える相手はちゃんと選べる。そこらの低級な奴らと一緒にしないでもらいたい」
 彼はアンデットとしては、かなり上級だ。なにせ、昼間に活動しているのだから。
「君には、直接手を下したいしね」
「う………今に見てろよ! 絶対に永遠の眠りにつかせてやる!」
「くくくく。ならば今のうちに手を打たねばな」
 言って。
「くるなぁぁぁあ」
 再び追いかけっこが始まった。


 彼は楽しげなその鬼ごっこを見ていた。
 逃げる少年、追うご主人様。
 それを見ていると、昔のことを思い出す。
 ああいう可愛い男の子を、よく一緒にいたぶった。人間腹を割いても死にはしない。そのはらわたを見せ付けてやったり、それを自らの口に入れてやったり。時には彼が食らってやった。そのときの恐怖と絶望の顔が、未だに忘れられない。
 子爵様は自分の顔を見せて恐怖した子供を殺し、そうでない者は生かし、そばに置いた。
 彼もそんな一人だった。むしろ、積極的に手伝った。根本的な部分で似ているからだろう。アミュのような純粋さではなく、同種として、側に置かれた。
 最後はあの井戸に落とされ、蓋をされ。そうして殺されてしまった。
 繋がっていた湖に住み着いていたが、やはり人恋しくもなる。最近はアミュがお気に入り。ご主人様はそれに加えてあの少年が気に入っているようだが。
 その気持ちは理解できた。ああも怯えてくれると、むしろ清清しい。
「何やってるんだ?」
 突然、首根っこをつかまれる。
「あらら。みつかっちまった」
 振り返るとハウルがいた。どうもこの少年は苦手である。だからこそご主人様も相手にしていなかったのだ。
「お前、湖の問題児じゃねぇか」
「お久しぶりです、ハウル様」
「何でここにいるんだ?」
 ここ。城の陰に隠れてこっそりと覗いていた。
 彼が動いた気配も、背後に回られた気配もなかったのだが。
 ──さすがは子供でも神なだけはある。
「マースくん」
 アミュが寄ってきた。
「どうしたの?」
「見つかっちゃったい」
「たい、じゃねぇ。お前はジェームスよかたちが悪いってーのに」
「俺が? 心外だな」
「まったく」
 ハウルは手を離して踵を返す。
「おにいさん、どこに行くの?」
「ババアんとこ」
「だめよ。言いつけたらかわいそう」
「報告は義務。判断はあいつに任せればいいんだ」
 アミュはしゅんとする。
「まだ、チェスしてないのに」
 本当にいい子だ。相手が死人だと理解していても、平等に接する。
 邪眼を有していて、その程度もわからないはずもないから。
「いいんだ。十分楽しかったしな」
 視線をご主人様に向ける。
 ちょうど、再びラァスが転ぶ。
「なんであいつ、あんなに転ぶんだろうな」
 ハウルがラァスの様子を見て首をかしげる。
「ああ。そりゃ草を結って輪にした足を引っ掛ける罠、そこらじゅうにあるからな。あれだけ走ってたら、足を取られるだろ。一番簡単で効果的な罠だぜ」
「…………」
 しばらくその様子を眺めてから、ハウルは屋敷へと戻る。


 アミュは裏庭に向かっていた。
 ラァスも誘ったが、断られたので一人で行く。
「おじさん、こんにちは」
「こんにちは」
 ブリューナスが手を振った。
「今日は本じゃないね」
「チェス板と駒なの」
「ああ。マースと?」
「そう」
 ヴェノムに話をしたら、次の日にこれを用意してくれた。
 とても嬉しかった。
「ところでラァス君は?」
「来たくないって。ハウルおにいさんは、おじさんの過剰な愛情表現が苦手なんだろうって」
「ははは」
 とても楽しそうに見えたのだが。
「じゃあ、行ってあげなさい」
「うん」
 アミュは足元に気をつけて、城の横手の井戸に向かう。
 自業自得の少年が、殺された場所に。
 そうと知って、彼女は向かう。

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