7話 空の王の血を引く者

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 ヴェノムは趣味の園芸をしていた。麦わら帽子をかぶり、野良着を着て、軍手をはめ雑草達と格闘している。唯一、彼女がポリシーとも思えるほど着続けてきた『黒』でない服装。端から見ると、農家のおばさんのようにも見える。
 夏が過ぎようとしている今、雑草のみではなく徐々に増えていく落ち葉に悩まされることになる。同時に、収穫の時期であり、年で一番美味い物が食べられる時期であった。ヴェノムのキノコ料理は絶品で、秋が来る度に夜を楽しみに待ったものだ。
「そうだ。キノコを取りに行こう」
 そんなハウルの唐突な台詞に、一緒に書庫で各々好きな本を読んでいた兄弟弟子達は、何を言い出すのかといった目を向けた。
「……キノコって、どこに?」
「裏の山に」
 しばし沈黙が落ちる。
「…………それって、安全性の問題ない?」
 ラァスは前に一度、安全な道から一歩外に出て危うく死にかけたのを思い出したらしく、心の底から嫌そうだった。
 確かに道から外れたとたん、ごく一部の意地の悪い魔物は好んで人間を補食しようとする。
 道を通る人間には手を出してはいけないと、ヴェノムが呪いに近い規則を作った。その代わり、森に入った人間は食らってもかまわない、と。魔物達は意識することなくそれを忠実に守っている。
 中には可愛い奴もいるのだが、普通の人間に理解しろと言っても無理だろう。この森に入ってハウルが襲われないのは、魔物達がこの森に通い詰める風神の気配をよく知っているためだ。
 母親の方にも特殊な血が混じっているらしいが、祖父には会ったこともなく、生死どころか名前すら知らないのでよく知らない。興味ない。ヴェノムの数多くいた恋人だかなんだかの一人というだけだ。少なくとも父が自分の娘に手を出したというわけではないようで、家族関係はこれ以上破壊されることはとりあえずない。
 ヴェノムは万が一自分の血を引いていても気に入ったのなら間違いなく手を出すだろうと確信しているらしいが、さすがに母、メビウスの生んだ娘に手を出せば離婚は間違いないので、女の子が生まれても大丈夫だと思われる。
 娘が昔の愛人だった男に嫁いだことよりも、可愛い娘を自分の知る中で最も最悪な男に奪われたことにヴェノムは嘆いていた。だから、最近ウェイゼルとヴェノムは折り合いが悪いらしい。昔は首を折られるのは数年に一度だったらしい。
 初めにやったときは、本気で殺意があったのだろうな、などと考える今日この頃。
「山の方は、食糧確保のために入れるようにしてあるから安心しろって。春にも時々山菜摘みに行ったんだけどな」
「…………そういえば、時々いなかったよね」
「ああ。春は飢えた大熊とか出るから」
 ラァスは沈黙する。
 普通の動物も十分に危険なのだ、この世の中は。
「まあ、ラァスも術が上手くなったし。美味しい夕飯のために、キノコ狩りに行かないか? 天然物は美味いんだぞ」
「ハウルおにいさんは、本当に食べるのが好きね」
「ああ、好きだな。もともと俺がヴェノムのとこに入り浸るようになったのも、食事に関して実家で不自由していたからだし」
「…………………………そういえばなんで?」
「…………………………神様でお金持ちなのに」
 見事に、絞り出すような調子まで合わせて二人は尋ねてくる。
 神の息子が食事に不自由していたなどと、想像もしていなかったのだろう。
「だって、あいつら物食べないもん。親父は趣味でグルメやってるけど、それだって気が向いたとき美味しい店に行って食べるのであって、連れてってはくれたけど、そんなの待ってたら飢えるし。人間は一日一食はいるだろ?」
 悲しい天界事情だった。
「……たしか、風神の居住は、ウェイゼアにある、天空城なんだよね?」
「ああ」
 天空城。名の通り、空に浮かぶ巨岩の上に建つ城。ある意味この世の物ではないので、普通では飛んでこられたとしても永遠に近寄ることも出来ないし、いざ足を踏み入れると下から見るのでは想像もつかないほど広い庭もある。ヴェノムはそこに生えている珍しい植物が好きで、ウェイゼルと顔を合わせることもかまわず昔はよく観賞しに行っていた。
「…………お金持ちなんじゃないの?」
「確かに無駄に宝はある。金銀財宝に関して言えば、不自由なく暮らせると思う。けど問題は、料理人だな」
「師匠の娘さん……メビウスさんだっけ? どうしてるの?」
「母さんは、すっげぇ味音痴で、料理が破壊的に下手なんだ」
「……………………師匠の娘が?」
「ああ。だから俺、普段は果物とか野菜とかばっかり自分で取って食べてた。
 だから俺、ヴェノムに初めてメシを食わせてもらったとき、心から感動したんだ。
 天空城でまともな飯が食える日が来るなんてってさ」
 だから、今ではおばあちゃんっ子と呼ばれてしまうほど、ヴェノムに懐いている。子供が懐く理由など、遊んでくれるか食べさせてくれるかのどちらかだ。
「……なんか、この小説とかよりそっちの方が気になるんだけど。っていうか、神様って何なんだって感じ」
「うん、気になる」
 ラァスは読みかけの本を閉じてハウルを見た。
「聞きたいな、ハウルの小さい頃のこと。あと天空城のこととか」
「………いいけどな」
 ハウルは小さく息をついた。
 あれは、五年前のこと。


 珍しく、肉を手に入れた。
「頂き物のハムいりますか?」
 父のその問いに、迷わずハウルは肯いた。彼は珍しく上機嫌だ。母──メビウスとなにかあったらしい。
 ろくでもない父親だが、やはり妻のことを深く愛しているらしい。そうでなければ祖母にメビウスを強制帰郷させられてしまうそうだ。
 当時ハウルはとても冷めた子供だった。
 周りには大人ばかりだったし、初恋の人もいつの間にか父親の愛人の一人だったりしたものだから、なおさらだ。
 大人の汚さを知っている。
 ついでに言えばその汚い大人を神と崇める人間の醜さも知っている。
 無意味に生きて何が楽しいのだろう? ウェイゼルのように勝手気ままに生きるつもりもない。少なくとも反面教師が近くにいるもので、彼のモットーは『常識』のみだった。
 道徳的に生きようとまでは思わないものの、ある程度の常識の範囲で通用するような生き方をしよう。
 いつか美人で性格のいい料理もできる貞淑な恋人を得て、白い家で暮らしたいものだ、などと思っていた(後日、「夢がない」だのと、元は白い城に住む、綺麗で性格の微妙な来る者はあまり拒まずの祖母に言われることになる)。
「たまには動物性タンパク質もとらなければいけないよ」
「んじゃあ、池で魚養殖していいか?」
「汚れるから却下」
「……じゃあ、どうしろと?」
 前に養鶏していいかと問うたときにも却下されている。
 近くを通りかかる鳥を撃ち落としたりしてはいるが、鳥限定で招き入れているとはいえこんなところに近づく鳥も滅多にいるものではないし、たまには違う肉も食べたい。
 だから、ハムはありがたくいただく。
「そのうち娘ができたら、毎日でも美味しい物を運んできてあげようじゃないか。それまでの辛抱です」
「……あんたにとって、人の価値は、実の子であろうとも男女によって天と地ほどに違うんだな」
 だが実際には男女に関わらず、ハウルは破格の扱いだった。自分の子とはいえ、ちゃんとたまには面倒を見て、食事に連れていって、こうして親子らしくはないとはいえ会話する。そんなことは今までにはなかったらしい。いつも不平一つもらさずに、出来た子供を引き取ってくれる子供好きな女がいたから。
 祖母なのだが。
「また男だったらどうするつもりだ?」
「メビウス似なら、男の子だろうが溺愛してあげましょう。もちろん、ハウルも可愛いですよ。僕にそっくりですし。いい男に育つことは間違いなし、ですね」
 この時はまだこう言っていた。
「俺、母さん似が良かったなぁ」
 遠い視線を明後日の方角に向け、ハウルは溜め息をつく。
「そうなの?」
 唐突に割り込んできたのは、少女の声。
 どう見ても十代半ばの少女がいた。栗色の髪に澄んだ海のような緑の瞳。少し冷たい雰囲気の、一目見たら忘れられないほどの美貌の少女。
 風の気まぐれさを持つ神の、心を捕らえた人の少女。
 少女の時から、その成長を止められた女性。
 メビウス。
 ハウルの実母だ。
「私は、その顔好きよ」
「そりゃあそうでしょう」
「顔だけは、文句なく」
 冷笑一つに撃沈され、ウェイゼルは背を丸めていじけた。子供のような態度を見てメビウスは苦笑し、ハウルの横に座った。
 柔らかな、良い香りの草の上。
 ハウルは食べかけのリンゴと、ハムを膝の上に置いていた。
 メビウスは笑みを浮かべてハウルの頭を撫でた。
「ハウルには苦労をかけるわね」
「子供扱いするなよ。それを言うんならこの変態に言えよ。この変態に」
「……………ハウルは、大人ね」
 彼女はしみじみと言う。
 確かに、どこぞの大人よりはしっかりしているという自信はある。とくにここにいる変態と母に比べると。
 十二歳以上、二十歳歳以下がベスト、などという男だ。変態以外の何者でもない。だからメビウスを、自分の一番好みの時代で時を止めているのだ。
「そうそう。ウェイ、母さんが来るって」
「ヴェノムが?」
「ええ。大きくなったハウルを見に」
 ハウルは眉根を寄せた。
 母の母。
 記憶にはないが、噂には聞いている。伝説的な魔女らしい。子供のキモを食らっている、などという怖い噂もあったが、基本的に人の良いメビウスを育てた女なら、まず間違いなく気立てはいいはずだ。子供好きだと言うし。
 ウェイゼルが評価する祖母は『とにかくものすごい美人』『好みはあれど記憶する美女の中で、五本の指に入る』だそうだ。きっと、メビウスは母親似なのだろう。
 ──ばあちゃんか……。
 やはり、味音痴で料理が下手なのだろうか?
 それを考えると、やはり顔よりも、料理の腕の方が大切だな、と思うった。


 正直なところハウルはヴェノムを初めて見たとき、
「誰? これ」
 などと思い、ひょっとしたら口にしていたかもしれない。
 髪の色も違う。おまけに目の色など血の色。思わず逃げ出したくなるような、ものすごく怖い美人だ。確かに壮絶なほど美人だが、怖いものは怖い。
 雪の女王とか、吸血鬼とか、そういった類の美貌だ。
 それに比べ、メビウスは猫のような雰囲気の美女だ。無表情なところのみ似ていないこともないが、少なくともメビウスはよく笑う。相手は限定されるが。ふだんもつんとした雰囲気を出しているだけで、これほどではない。
「ああ、ハウル。大きくなりましたね」
 台詞に関しては文句などないのだが、それをお面のように変わらぬ表情と、棒読みのような感情のこもらない声でされても、本当にそう思っているかは怪しい。
「ヴェノムです。覚えていないでしょうが」
「…………」
「ハウル。挨拶しなさい」
「…………こんにちは」
「こんにちは」
 やはり変わらず感情が表れない。
「本当に久しぶりね、母様。ちっとも遊びに来てくれないんだもの」
「最近まで手の掛かる子供達がいたものですから。今は、全員外に行ってしまいました。一人であそこにいると寂しいので、頻繁に来ようと思います」
「……確かに、一人であんなトコ住んでたら怖いような気がするけど。とにかく嬉しいわ」
 怖いような所に住んでいるこの美女。
 思い浮かんだのは、古びた洋館やら、古城やら。
 実はそれが正解だとは、その時夢にも思っていなかった。
「ハウル、ケーキを焼いてきましたが、甘い物は好きですか?」
 淡々と言う彼女の台詞に、ハウルは反射的に肯いた。それからはっと我に返る。
 はたしてそのケーキとやらが本当に人の食べられる物であるのか。
「……そういえば、ハウルは普段何を食べているのですか?」
 疑いの視線を理解してかしないでか、ヴェノムはメビウスに問うた。
「ハウルはものすごく偏食家なの。私が作っても、果物と野菜しか食べないし」
 それは間違いだ。肉も魚も卵も大好きだ。ただ、それらの食材を手に入れると、メビウスが真っ先に全部台無しにしてくれるのである。ただ塩をかけて焼いただけでも美味しいのに。
「…………ウェイゼル様」
「何を食べていようとも、立派に育っていますよ」
「すみません。もっと早くに気づくべきでした。自分で育てたいと言うから、てっきウェイゼル様が責任を持って食べさせているとばかり」
 ヴェノムはハウルに謝罪した。つまり、彼女はメビウスの料理の腕を知っているらしい。
「…………そのケーキは、まともなのか?」
「ええ。誓って。ウェイゼル様もお食べになります」
 それはつまり、一流の料理店で出してもいいほどの味ということだ。
 もっと早く気づいて欲しかった。
「ほんと、不思議よね。見た目は変わらないのに。ウェイは私の料理よりも母さんの料理の方が好きだし」
 見た目だけはそこまで悪くないのだが、一口で気が遠くなるような料理。いくら愛があっても、食べ続けられるはずもない。とくにあの味にうるさいウェイゼルなら。
「……見た目とかよりももっと根本的な問題があるのですが。まあ……私には年季がありますから」
 言葉に迷いながらもそう言った。娘に本当のことを告げる気はないらしい。
「とにかく、ケーキを食べましょう。今夜は私が腕によりをかけて夕食を作りましょうか。ハウル、嫌いな物は?」
「ない」
 この世で、一番不味い物を知っているから。


 ハウルは菜園の横を走り抜けた。
「ハウル様、ご機嫌ですね」
 途中で庭師の役割をしているウェイゼルの部下に声をかけられた。青い髪の透明な雰囲気の美女だ。
 青は空の象徴。
 勘違いが多いのだが、水の象徴する色は緑であり、青ではない。
「ウィア」
「ヴェノム様にお会いしたんですよね」
「ああ。ケーキがすごく美味かった」
 思い出すだけで、幸せになる。
 あれで親子なのだから、母はなぜ母親に似なかったのかと運命を呪う。
「見た目は怖いけれど、いい方でしょう?」
「ああ」
 ウィアは微笑んだ。
「私、あの方が大好きなんですよ。契約もしているんです。自ら望んで」
「へぇ」
 契約は精霊の自由を束縛する。だから自由を好む風の精霊は、契約を最も嫌悪していた。そんな風の精霊の、しかも上位の風精が自ら契約を持ちかけるなど、婚姻を結ぶに等しい信頼関係と愛情がなければ行えないものだ。
「そんなに好きなのか?」
 少し驚いた。彼女が、そんな風に思う相手がいるなど信じられなかった。少し悲しくもある。大好きな彼女が他の誰かをもっと大好きなのだ。
「ええ。もちろんハウル様も同じぐらい好きですよ」
 彼女なりの思いやりなのだろう。ハウルはそれでも安堵した。気を使われている。それだけで十分だ。
「じゃあ、行って来いよ。美味しい果物持ってさ」
「そうですね。ハウル様はルートの所へ?」
「ああ。んじゃな」
 ハウルは真っ直ぐ指を伸ばした手をあげて、再び走り出した。
 唯一無二の親友の所へ。
 親友であり、弟でもある。可愛い奴だ。
「ルート」
 のんびりとひなたぼっこをする白銀の体躯を発見し、ハウルは走り寄って思い切り飛び乗った。座っていても人間の大人ぐらいはある、幼体の白竜。軽いハウルが飛び乗っても、もはやビクともしないほど大きくなった。それでもまだまだ幼い子供である。
「やー、ハウル。どうしたの? 嬉しそうだね」
「あのな、俺のばーちゃんが来たんだ」
「ああ、ちょっと見たよ。綺麗で怖い人」
「うん。見た目怖いけど、すっごくケーキが美味くて、けっこう優しいんだ」
「…………それは意外だ」
 ルートもメビウスの料理の味のすさまじさは知っている。もっと小さな頃、メビウス手製の餌を食べさせられて以来、ルートはメビウスが苦手になった。
「笑わないけどその分頭撫でたりして表現してるんだ。その辺は、さすが母さんの母さんって感じだな」
「グレードアップしてる感じだね」
「ああ、そんな感じ」
 言ってハウルは溜め息をついた。ルートにもたれてうんと背を伸ばす。九歳の子供がするにはあまりにも歳よりくさい。
「大人はいいよなぁ」
「そう?」
「早く大人になりたい」
 それだけが、望み。早く、早く……。
 切望する。それだけを、強く。
 大人になって、一人で地上に降りれるようになって、それで……。
 その時、気配が現れた。
「おや、ハウル様」
 あまり、聞きたくない部類の声。
「このようなところで、何をなさっているのですか?」
 湖のほとり。昼寝には絶好の場所。
「どうでもいいだろ」
「ヴェノム様が来ていらっしゃるというのに」
 ヴェノムに対しての敬意のようなものが感じられた。人間に対して。
 意外だった。
「ウォーレスでも、ばーちゃんのことは認めてるんだな」
 メビウスのことは、よく思っていないというのに。
「ええ。あの方に関しては。元はといえば、あの方が今のメビウス様の場所におられた。自分に劣るような娘にそれを譲った、心の広い方ですよ。あの方は、幼少時から今のような強さを持っておられたのに。
 私はあの方こそ、我が主の正妻に相応しいと思っていました。ずっと彼女が妻なのだと思っていました」
 本当に珍しく、雄弁なウォーレスを意外に思う。彼もまたヴェノムの信奉者なのだろうか。だからメビウスのことを快く思っていないのだろうか
 確かに自分よりもヴェノムが産んだウェイゼルの子の方が、優れていることは認める。人の世の中でも、勇者として称えられている。そんなすごい腹違いの兄達に、それを産み落とした祖母。
「…………親父が浮気性なんだから、誰だって長くつき合ってれば嫌になるんじゃないのか?」
 むしろ、メビウスの忍耐力の方が意外なのだ。なぜ別れないのかと、実の子が思うのだから。
「それよりもウォーレスこそこんなところに何の用なんだ?」
「ただ通りすがっただけです。それでは失礼します」
 形だけの礼を取り、ウォーレスは去っていった。
 やはり、好かない男だ。だが、気持ちも分からなくもない。
 自分はこんなに、情けないから。
「気にするな」
「……ああ、分かってる」
 友の慰めに、ハウルは微笑んで答えた。
 予定通り、昼寝をしよう。そうして、気分をすっきりさせれば、こんな思いはすぐに誤魔化せるから。いままでそうしてきたように。


「……………」
 目が、潤んでいるのが自分でも自覚できた。
 生まれて初めて、自分の家で、まともな、いや、絶品の料理を食べた。
「………ハウル。そうですか。よく理解できます、その気持ち」
 頷きながらウェイゼルは優雅に料理を平らげていく。普通の四人分にしては、倍以上あるようにも見えるのだが、彼がいればあっと言う間に平らげてくれるだろう。彼の胃袋は無限大だ。本当の意味で底なしなので、なくなるか飽きるまで食べる。
「………なんか、ハウルが子供らしくするなんて珍しいわね」
「こんな父親がいれば、大人にならざるを得ないのですよ」
 ヴェノムが視線を斜め上に向けて言う。
「そうね。思えばハウルも可哀想ね……」
「遊び人の父親など、いない方がマシだと皆言いますし」
「確かに、私も母親の手一つで育ったし」
「……二人とも」
 ウェイゼルはさすがに食事の手を止めて、懇願の眼差しを向けた。
 ハウルは美味しい料理を、腹にすべて詰め込まんと食べていた。
 ──ああ、美味しいっていいな……。
 冷めぬ感動を噛みしめる。この人間が出入りせぬ城でまともな料理が食べられる日が来るとは思わず、さっさと大人になって世間に出てようやくまともな食事を味わえると思っていたのだ。
 ──マジで母さんが、母親似だったらよかったのに……。
 容姿はともかく、この料理の腕だけでも。いや、それこそを切に望んでいた。ウェイゼルもメビウスが父親似だろうが母親似だろうがどちらでもかまわなかっただろう。ヴェノムの容姿もそうとう気に入っているようだ。何より、美女は探せばどこにでもいる。本当に気に入ったのは、中身なのだ。中身がメビウスだから。
「しかし、ハウルはヴェノムのことが気に入ったようですね」
「うん。好き」
 祖母に笑顔を向けた。料理の上手い人間は好きだ。それが祖母となれば好かない理由の方がない。見た目は怖いが中身は優しいようだし。メビウスの母親なのだから、好きで当然だ。
「…………ああ、似たような顔でも、こうも違うものですね。なんて穢れない笑み」
「僕のことですか?」
「他いろいろと。やはり、子供は可愛いものですね」
 ほう、と溜め息をつき、絞りたての夏みかんのジュースを飲んだ。彼女はなぜか酒を飲まない。城の中の管理をしているメイドのような役柄の女が、いつもそうしているらしく今一番美味しい果実を絞ってきたのだ。
 ここは人間たちのように使用人を雇っているわけではない。ウェイゼルの部下。一般的には風精とも呼ばれる者の中でも最高位の力を持つ者達が集まっている。それが城の中の衛生や情景を確保している。最近では、ハウルが野菜の種をまいているので、それも手伝ってくれている。出来が良いのでウェイゼルも反対はしていない。ただし、家畜を飼うことは臭くなるので反対しているが。
「そうだ、ハウル。もし良かったらしばらく私の城に遊びに来ませんか? ここは子供にとっては退屈でしょうから」
 一瞬、耳を疑った。
 つまり、ここを出られる。
 まともな食事確保。
 父親と顔をあわせなくてすむ。
「行く」
 迷うことなく答えた。今さらやっぱりなしといわれても、無理にでもついて行くつもりだった。
「それはいいわね」
「まあしばらくは退屈しないでしょうね。ついでに魔術も習ってくればいいんじゃないですか。さすがに人間の血が混じっていると、人間の魔術も習っておいた方がためになりますし」
 そう言えば、メビウスに聞いていた。
 ヴェノムは魔女で今まで多くの優秀な魔術師を育て上げていると。今も名高い魔道士は、なんらかの形でヴェノムに関わっているて、、彼女自身は緑の賢者の称号を持っている。
 賢者の石に選ばれし、人の魔力を越えた者達。
 世界で最も優れた魔道士の一人である。
 という、知識だけはあるのだが、いざその人物を目の前にすると、実感がわかない。確かに強そうだ。いろいろな意味で。
「………あのさ」
「なんですか?」
「緑の賢者なのに、闇って感じしかしないよな」
「見た目や能力ではなく、知識の問題です。私は園芸が趣味ですし、元来の専門は植物ですよ」
 ハウルは感激した。
 大好きな植物の専門家。
「すげぇ。野菜の品種改良とかするのか?」
 ヴェノムは頷く。
「私は園芸が趣味です。品種改良は知識というよりも大切なので根気ですので、専門ではありません。薔薇とかの花ならいくつも品種改良しましたが、穀物などは数えるほどです」
 薔薇は似合いそうだ。怖さが増すが。
「ハウルも菜園を作っているから、趣味が合うんじゃない?」
「ああ……あの畑。ハウルが作ったのですか。なかなか上手に世話をしていますね」
「そ、そうかな」
 ハウルは照れくさくて頬をかく。精霊たちの中には、ハウルのことを疎ましく思っている者も多いことを、ハウルは幼いながらに感じ取っていた。
 褒めてくれる者は少なく、褒められることに慣れていない。褒めるどころか影で悪く言われることの方が多い。
 ウェイゼルのこともあまり好きではないが、何よりもそういった者達の冷たい視線が痛かった。幼いハウルが、毎日そのストレスに耐えて生活している。好意を持って接してくれる精霊達がいなければ、とっくにどうにかなっていただろう。
「ええ。とても」
 微笑みすら向けてくれない。それでも、好きだなと思う。ウェイゼルが気に入っているのは容姿と魔力だと思っていたが、案外、中身を気に入っているのかも知れない。おもしろい女だ。
「あのさ、ルート……俺の飼ってる白竜も連れてっていい? まだ幼体なんだけど、最近ちょっと飛べるようになったんだ。だけどここ、風が強くて高く飛ぶのは危ないから、飛ぶ練習とかあんまりできなくって」
「ええ、いいですよ。使ってない馬小屋がありますから、そちらの方を整理して寝起きする、というのでいいのなら」
「ありがとう」
 本人は、馬小屋で寝起きすることに不満を漏らすだろうが、頑張って掃除すれば、許してくれるだろう。
 ──ようやく。
 ここを出られる。
 あの視線から解放される。
 それだけでハウルの心は浮かれた。
 何よりも美味しい物が毎日食べられる。
 しばらくとヴェノムは言った。
 しかし、しばらくで帰るつもりは、さらさらなかった。
 世話してくれそうな大人も見つけたし、
 ──家出してやる。
 心の中で、勝手に決意した。

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