7話 空の王の血を引く者
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ハウルは、くすりと笑った。
懐かしい。
今となっては過ぎ去った想い出だが、当時は本当に悩んでいた。あの視線に。出来損ないの自分を蔑む視線。
今では立派に魔法を使いこなしている。ウェイゼルから受け継いだ神としての力は、自ら封印している。あまりにも人間離れしているから。今はまだ不十分な体術を鍛えることに力を注いでいる。苦手なところを補強してより完璧を目指すのが、ハウルの場合の教育方針だった。人によっては長所を徹底的に伸ばすのだが、ハウルは神の血を引き万能なので、全てにおいて徹底的に仕込まれ、彼自身ももそれを望んでいた。
今では、この力はあいつらと並ぶほどには強くなっている。ヴェノムには及ばないが。大切なのは力の使い方、選択の仕方なので、人間として無為に流されるだけの精霊達とは段違いの経験を積んでいるヴェノムは強い。
彼女はそれほどの力を持つからこそ、側近達ですら彼女に敬意を示しているのだ。
「……神様の息子も大変なんだね。やっぱり、人間なんかの血を引いてるのが嫌なのかな?」
「そうだろうな。あいつらにとってヴェノムだけが特別なだけなんだ。それに、当時の俺は何もできなかったから」
ハウルは苦笑した。あれから結局一度は実家に帰ったがいろいろあって自力で家出をしてきた。そしてヴェノムに泣きついたら、今度はずっといてもいいと言ってくれた。ここは思ったよりも居心地が良かったし、ヴェノムと一緒にいる方が楽しいし気楽だ。よく思い起こしてみれば、彼女の心配りが行き届いていた。一人にして欲しいときはそれを感じ取って、おやつを作って待っていてくれたし、泣くことも許してくれた。
メビウスもあれだけ何でもできる女であれば、誰にも文句を言われなかっただろう。ヴェノムの場合はその分感情表現が欠落してしまっているという大きすぎる欠点があるのだが、慣れてしまえば愛嬌すら感じる。
「俺はヴェノムに会ってなかったら、とっくにグレてたかもしれないな」
「……確かにねぇ」
「絶対に嫌かも……」
二人は同情に満ちた視線を向けた。
二人も辛い目にあってきているのだが、それとこれはまた別の方向の辛さだ。
「でも、ヴェノムがそれでもやっぱり親父と仲がいいからさ。今は目に入れても痛くないほど可愛がってた娘取られて冷戦続いてるみたいだけど、俺が生まれてからはそれもまだマシになってきたみたいだし。じゃなかったら、俺もっと虐められてたかも」
できれば縁を切ってしまいたいものだが、ウェイゼルの方はヴェノムとの縁は何があろうとも切るつもりはない。だからどうしても、父親と縁を切ることができないのだ。ハウルがヴェノムの側にいるから。
それに男としても父親としても最低の男だが、それでもいい思い出もある。それを思い出すと、まあ許してやるかと思うのだ。
「…………あれ。ハウルおにいさん。あそこに誰かいる」
アミュは、窓の外を指差して言う。
そこでは、野良着姿のヴェノムに敬礼する後ろ姿が二つ。青い髪──風の精の印。
「……親父のとこの誰かだな。誰だろ?」
ハウルは窓から飛び出した。好奇心からか二人もついてくる。
「っれ?」
ハウルは思わず足を止めた。跪いていた二人が振り返った。
変わらない美しい容姿。個性のあまりない精霊達の中で、珍しく個性を顔に出している、稀少な者達。
一人は温厚で絶えず微笑みを浮かべて、それでいてしっかりしていそうな美女。もう一人は堅苦しさを絵に描いたような詰め襟でも着せたくなる軍人タイプ。
「………ウィア……ウォーレス」
「ええっ?」
背後で、子供達の驚く声。
噂をしていると噂の当人の出現率が格段と上がるというが、こんな遠い場所にまでそれは有効だったとは……。
噂をすれば影がさす。素晴らしい名言だ
──って、違う。
「どうして二人が?」
同じヴェノムの信奉者と言えども、仲の良い二人ではない。お互いに考え方がまったく違うのだ。ただヴェノムの幸福のみを願う女と、ヴェノムの最良を望む男。
「ウェイゼル様のお使いですわ」
それは分かっている。メビウスの使いでウォーレスが来るはずがないから。
「…………で、なんでこんな奇妙な組み合わせなんだ?」
「奇妙……ですか」
ウィアは苦笑した。
「どちらが行くか争って、結局二人で来ることになったそうです。私も少し驚きました」
相変わらずほっかむりをしているヴェノム。ウォーレスは、どうやらヴェノムのその姿を快く思っていないらしく、ちらちらとそれを見ていた。
「…………とりあえず、どんな用件かは知らないけど、客が来たんだから着替えたらどうだ?」
「それもそうですね。実に充実した時間でしたけれど」
除草剤を使えと言ったのだが、次に何か植えるときに悪い影響があると、彼女は断固手作業にこだわっている。ハウルとしては、除草剤か魔法でも使ってちゃっちゃと終わらせればいいのにと思っている。ヴェノムの植物に対する愛は、子供に対する愛にも匹敵するのだ。その甲斐あって、今も立派なバラのアーチが不気味に見える城を、美しくすら見せていた。花が咲く時期は、それはもう美しい。
「で、どんな用件なんだ? 側近の二人が来るなんて珍しい」
「ただ、果物を届けに来ただけです」
よく見ればウォーレスが持つと違和感しかないバスケットを手にしていた。
「十年に一度、ほんの少しだけ実る稀少な果物です」
「ブルーオーブ。青き至宝と呼ばれている、最も美味と言われている果物ですわ」
そう言えば昔とても美味しい果物を食べさせてもらった記憶があった。貴重なものだと言って、一つだけ。リンゴ程度の大きさで、甘みと酸味が絶妙で。とても綺麗な青だった。
「おお、あれか」
美食家のヴェノムのために、エノのことで機嫌を直してもらうための貢ぎ物だろう。
「十年に一度の私の楽しみです。今年は、量が多いようですね」
ほら、やっぱり。
綺麗に皮を剥かれたブルーオーブ──中身は白い──が、人数分の皿に盛られて各自の前に置かれた。なぜかウィアとウォーレスの前にもそれがある。当人達は遠慮すると言ったのだが、心の広いヴェノムは皆で食べた方がおいしいと言って彼らにも与えた。食物を必要とはしないが、それでも味覚はある。これは純粋に味を楽しむために食べるので、参加するべきだと彼女は言う。
「いただきます」
ヴェノムは待ちきれないとばかりに、さくりと一切れにフォークを突き刺す。
ハウルもそれに習い、一口囓る。
絶妙だった。
「美味しい」
「本当だ。すっごく甘いね。酸味があって、美味しい」
ラァスとアミュは目をとろんとさせた。ハウルは一噛み一噛み、十分すぎるほど味わって食べる。
「ほら、二人も食べなさい」
「は、はい」
まだ迷っていた二人はヴェノムの善意に答えるためにそれを口にした。少し驚いたような表情をして、ウォーレスすら微笑んだ。
「確かに、美味い」
「ヴェノム様のお心遣い、心より感謝いたします」
「堅苦しいですよ。ここに来たときぐらい力を抜きなさい。私達は上司でも部下でもない、対等の友人なのですから」
「はっ」
ハウルにとってその時間は充実した時間だった。
この世で一番の楽しみは食べることというのは、容姿や力以外で唯一ウェイゼルから受け継いだ特徴だった。ヴェノムに似たのかもしれないが。元々二人の趣味が似ているので、どちらとも言えない。
「ウェイゼル様はどうなさっていますか? 以前来たときは、反省の色も見当たりませんでしたが」
「反省しているご様子でした。メビウス様にも伝わってしまったので」
奴は妻に叱られなければ反省しないのだろうか?
「付け加えるのならば、ガディス様も同様に」
「そう。多少は懲りて下さったのならば救われます。もっとも当分許して差し上げる気はありませんが。特に、ガディス様は」
「ウェイゼル様は当分したらお許しになられるのですか?」
ウォーレスが問う。
「最善を尽くそうとしなかったとはいえ、仕方のないことだったとも言えますから」
アミュは不満げだった。
「あの厚顔不遜な親父たちが反省するなんて、ありえるのか?」
アミュも頷く。
神は長く生きすぎているためにとても頑固で、反省など滅多にしない。
「おねえさんに嫌われて、すねてるだけじゃないの?」
彼女はこと父親に関してだけは、紛うことなき敵意を言葉に含ませる。
難しい年頃だ、などと自分を棚に上げて考えた。
「エノのこと、気にしてるの?」
ラァスが問うた。
「この娘ですか。ガディス様のご息女は」
少し不満げに言う彼。ヴェノムに似た印象を覚えるため彼には不快なようだ。
「アミュです。可愛いでしょう?」
「ヴェノム様に似ていると聞いておりましたが、ヴェノム様の方が比べ物にならないほどお美しい」
ウォーレスは何の遠慮もなくそれを言った。
基本的にヴェノムの周囲の人間には好意的だが、彼女を不利に立たせる者なら、例え娘だろうが容赦はない男だ。なまじヴェノムに似ているから、苛立つのだろう。
紛い物。
その程度のことは思っているはずだ。
アミュは唇を噛んで頷く。
本人はそれをかなり気にしているはずだ。最近は食事もしっかりと取るようになり、ずいぶんと綺麗になったものだが、やはりまだ細すぎる感じがする。
しかし、将来はもっと美しくもなる。分かっていて、この男は言う。
ハウルは立ち上がろうとした。その前に、ヴェノムが言った。
「この子は栄養が足りなくて今は少し発育が遅いだけです。それとも別に何か不満でも?」
ウォーレスは沈黙する。ヴェノムは次にほんの少し柔らかい口調で言う。ほんの少し。彼女をよく知っていなければ分からないほど、ほんの少し。
「あなたは何を言いたいのですか?」
「もともとあの村は、地の精たちの好意で成り立っていたと言えます」
あの村というのは、アミュの住んでいた村のことだろう。
「あの村……知っていたのですか?」
彼は首を左右に振る。しかし、続けた。
「かつては供物を捧げ敬意を称していたようですが、時が立つにつれその恩も忘れて祠を破壊した。それでも見捨てなかった彼らはとても情け深かったと言えます。
そして同じ光の属性にあるアミュに好意を持った。そうしたアミュを村の者達は迫害した。だから彼らは村を見捨てました。
後は想像がつくでしょう。村はすさみ行動力のある若者はすぐに村を出て、収穫が減りそしてまた若者が減り。そしていつか資材なき者は飢えに苦しみ、死んでいたかもしれません。少なくとも幸せな幕切れなど存在しなかったことは言えます。それが、ほんの少し早く訪れただけです。
アイオーンが村人達を殺したのは、村人達の干渉あってのこと。村が荒れれば瘴気が充満します。少し心に邪気を含んでいましたし、濃い瘴気に中てられアイオーンも簡単に動かされてしまったようです」
彼は言う。
──…………こいつ、まさか……。
「それは、事実に基づく話しなのですか?」
ヴェノムの問い。
「ええ。あれから一度、あの地に宿る地精に詳しいことを聞いてきました」
ハウルは目眩を覚えた。
──なんで、こいつはっ
「……まさか、それを知らせに?」
少しずれているが。
「その娘とアイオーンが悩んでいることで、貴方が気にしていると聞き及びましたもので」
つまりは、村人を全滅させたこと気にしているエノと、そのきっかけを作ってしまったアミュのために、わざわざ彼が調べたのだ。
ずれてはいるが。
「なんでそんな大切なこともっと早く言ってやらないんだよ?」
特にエノだ。
彼女は人を殺したことを気に病んでいる。飢えと憎しみにより判断力と良心が鈍っていたとはいえ、多くの人を殺してしまった。夢にまで見ているらしい。ホクトがそのことで、ヴェノムに助言を求めてくるほど。
「そのうち言うつもりでした。しかしそれで自分のせいではなかったのだと、すべては他が悪かったのだと、そう思うようなら、言わない方がいいと思い判断をしかねていました」
確かに罪がないわけではない。人を殺すことは、それだけのものを背負わなければならない。
その者がどんなに人間のクズのような輩であっても、誰かにとっては親であったり、恋人であったりする。
どんな人間にでも、一人ぐらいはその人間を必要とする、大切だと思っている者がいるのだ。それを理解しなければならない。
「………」
「じゃあ、わたしがいたから……?」
「違う」
アミュの不安も、ウォーレンは否定する。
「お前が生まれていなくとも、いつかこうなっていたはずだ」
ヴェノムは立ち上がり、座るアミュを後ろからそっと抱きしめた。自分の子にするように、頬をなで、こめかみにキスをした。
「過去の可能性を考えていれば、恐くて前に進めなくなります。おやめなさい」
「……はい」
「いい子です」
ヴェノムはアミュから身を離す。
「エノにも知らせてやらなければなりませんね。多少の気休めにはなるでしょう」
気休め程度でしかないのには変わりはないが、ないよりはマシだろう。
「余った皮で明日はお菓子を作りましょう」
強引な話題のすり替えをして、ヴェノムは片付けを始めた。それを当然のように手伝う精霊の二人。
「風のひとって、変なところで不器用な人多いんだね」
ラァスの呟きは案外当てはまるもので、ハウルは否定しなかった。
「あの二人、一晩ぐらい泊まっていきそうだな」
「かもね」
「おねえさんが引き止めると思うの」
ウォーレスも最近はハウルにあからさまな嫌味を言わなくなった。つまり多少は認め始めてくれているのだろう。
この城に来て、本当によかったと思っている。ヴェノムがいて、本当によかったと思っている。
「キノコ狩りは明後日にするか」
「そーだねぇ。この果物だけで、もう幸せ」
「うん。美味しかった」
最高級品のブルーオーブもいいが、やはり庶民の味も捨てがたい。美味しいキノコのチーズ焼きなど、頬の落ちそうな美味は、そう遠くない。
「俺な、今すごく幸せなんだわ」
母には悪いが、ここはとても居心地がよい。
もうしばらく、ここにいる。
少なくとも、誰からも認められるようになるまでは──。