10 風神の日常
彼は退屈をしていた。
腹が目立ってきた妻を遊び相手にするわけにもいかない。かと言って、部下達は基本的に堅苦しく、遊び相手にはならない。
だからこそ、兄弟達のところによく遊びに行くが、今はそんな気分でもない。奴らはからかって楽しくはあるが、こう、癒されるものはない。
──うーむ。クリスのところは楽しいけど……今問題あるからなぁ。
「何をたくらんでいるの?」
妻のメビウスが問うた。
ウォーキングから帰ってきたらしい。適度な運動は必要だと言って、周囲がひやひやと見守る中、彼女は普通に生活をしている。
人間、しかも赤ん坊となるととても脆い。彼らにとって、壊れ物のようなものである。できれば動かず、じっとしていて欲しいのだが、動かないとお腹の子にも障ると言われれば、ただ付かず離れず見守るしかない。主の子を守るため、万が一を考え誰かが見守ってくれているようだ。
「いえ、何をして遊ぼうかと」
「これで遊んでいなさい」
彼女が渡したのは、弟のガディスが祝いにくれたデンデン太鼓なる玩具。
「………行ってきます」
「それを持って?」
「ヴェノムに使い方を聞いてきます」
「ただ振るだけじゃないの?」
そうだが。
「いえ、きっと何か素晴らしい使い道があるに違いありません」
「…………そうかしら?」
「ええ。ついでにもうすぐ兄になる息子も見てきます。メビウスの里帰りの話もしなければ」
「そうね。迷惑掛けちゃダメよ」
「当然ですよ」
言って、彼、ウェイゼルは姿を消した。
ラァスはため息をついた。
「…………始めは師匠一人だったのにね、女の人」
「いつ間にやら、女の方が多くなるとは……」
同時にため息。
現在ここ、図書室にいるのは二人だけ。いや、実質的にもう一人いたりするが、それはカウントしない。残る三人は、ヴェノムの部屋で特別授業中。世間一般で、性教育と呼ばれるものである。
「まあ、俺らが聞いてどうするって感じだからいいけどな」
父親のせいで、彼は耳年魔の少年だった。ラァスは、大人の世界にいたのだから、自然と知識は身についた。
「……何も追い出さなくってもいいのに」
「本当だな」
「そんなに寂しいのかい?」
これは幻聴。聞こえない。
「あーあ、花がないよね」
「色気無いな」
「色気があるの師匠だけだけど」
「二人ともまだ十二歳だもんなぁ」
「十二歳にもなって初めて性教育受けるってのもねぇ。アミュは特殊な環境にいたから仕方ないけど」
「メディアだって、カオスが近寄る男どもを一掃していた感じだぜ」
「性教育?」
机の下から突然ハウルの父が現れた。
「な………」
「何者?」
「オヤジ」
ハウルは頭を抱えた。
今までも突然現れる人だったが、こんなところから出て驚かせなくてもいいだろうに。
──さすがハウルの父。
ハウルは確実にこの人の性格も受け継いでいる。しかし、これほどひどくはないだろう。ハウルは極端に子供じみた悪戯をすることは、あまりない。
「…………ハウル君の父君?」
「風神様だよ。カロンは知らないの?」
「おや、ようやく私を見てくれたな」
彼は微笑む。
神の出現など、どうでもいいようだ。
「賢者か」
ウェイゼルはカロンを眺める。
面白くなさそうな表情だ。
「ご安心を。私は男性にしか興味はありません」
「ならば問題ない」
ライバルにならなければいいようだ。
──ってか、嫁さんの母親狙うんだもんなぁ、この人。
常識が無いと言うか、無茶というか。
「で、性教育とは?」
「アミュとメディアに教えてるんだよ」
──え? 白状していいの?
ハウルは二人の身の危険は考えていないのだろうか?
「ちょ」
「大丈夫だって。オヤジはロリコンだけど、分別は付いてる」
「分別付いてたら、ハウルはいないと思うけど」
「そういう意味じゃなくて、女にもなっていないようなお子様は、さすがに手を出さないんだそうだ」
二通りの解釈の仕方があるが、以前のハウルはカオスと同類扱いをしていたことから考えると、第二成長期の問題なのだろう。
「さて、行きましょう」
「へ? どこへ?」
「覗きに行くに決まっている!」
うそつき。
ラァスは目でハウルに訴える。
「オヤジ……あんなガキ二人が性教育受けている様見て、どうすんだよ」
「なんか、こう、来るものがあるじゃないですか」
「何が?」
「女の子だけの特別授業。淫猥な響きがたまりません」
「ねぇよ」
その様子を見て、カロンですら呆然としていた。
「言っては悪いが、認識以上だ」
「俺はそんな趣味無いからな。断じて、名誉に誓って」
ハウルは必死に弁解する。
「もちろんだ。君をそんな風には見ていない。母君が、よほどしっかりとした方だったのだろうな」
カロンは感心した様子で腕を組んだ。
──なんか、ウェイゼル様の前だと、こいつすらまともに見えるような……。
「さあ、いきますよ。覗きは男のロマンです!」
「いやだね」
「同じく」
「興味ない」
「行かないと、ひどい目に合いますよ」
言う彼の雰囲気は、異様だった。
三人の身が強張った。
寒気がした。息が出来ない。冷や汗をかき、喉が渇く。
神に本気で睨まれることが、こうも恐ろしいことだとは知らなかった。ハウルなど比ではない。神というものの恐ろしさを知るのはいいが、何もこんなくだらないことで知らしめれなくてもよかっただろうにと、運命の女神を呪った。
渋々、三人は彼の後に続く。
もちろん怖かったからだ。
奴は呆れるほど楽しげにそのやや高めの窓を見上げる。
一階にあるのだが、ウェイゼルの頭の少し上の辺りに窓があり、なかなか中の様子が見えない。遠くからでは、遮光剤の塗られた窓は光を反射させてしまい、中が見にくい。
当然接近しなければならない。
「なんで俺たちが……」
「嫌だなぁ」
「しかし、さすがに逆らうのは……」
「悔しいよなぁ」
「ふざけた人だけど、実力は本物なんだね」
「人とは、脆弱な生物だな」
三人は少し離れた所で固まって愚痴を言い合っていた。その三人に、再びウェイゼルの視線が向く。見られるだけで分かる。
──くそ、後で母さんに連絡入れて……だめだ。妊婦を興奮させてどうする。
それを理解しているからこそ、彼は人を巻き込んでいるのだ。
「なんてタチの悪い父親だ……」
「もしも見つかりそうになったら、どうしよう……」
「カロンを前に出しておけば問題ないだろ」
「ああ。確かに女の子に興味ない人だから、怪しまれないよね」
「……いや、私もさすがに覗きに参加するのは……」
変態のくせに、意気地の無い。
仕方なく三人で、それでもやや離れてその様子を見ていた。覗きはしない。
ウェイゼルは窓枠に手を掛け──
「っち」
腰を抜かして倒れる。
──うわ、始めて見た。
父親が尻餅をつく姿。
いい物を見てしまった。
「ほう」
カロンは怪盗時に取り付けていたモノクルを取り出し、装着する。
「素晴らしい」
「何?」
「対精霊用の結界だ」
「精霊用の結界で、オヤジを弾けるのか?」
「術者がヴェノム殿だからだ。アレンジも加えられている」
彼はその結界とやらを熱心に眺めながら言う。
「そんなもの見えるの?」
「ああ。これは特殊なレンズで作っているからね。趣味や酔狂でつけているわけではない」
「じゃあ、なんで普通の眼鏡にしないの?」
「材料が稀少だからだ。それに……かけてみれば分かる」
ラァスはモノクルを受け取り、城をレンズ越しに見る。
「うわ………」
「理由が分かってくれたかい?」
ラァスはハウルにもモノクルを渡す。少し興奮しながらそれをかけると、片目だけ景色が変わる。
そこら中に仕掛けられた呪式が見えた。
見えるのだ。はっきりと。
ハウルですら、ぼんやりとしか見えなかったというのに。その上、自然に溢れている存在するかしないかの境目に位置するような精霊の姿も見える。
「うわ……こんなの両目にしてたら、絶対に前がよく見えねぇな」
「だから、モノクルにしたんだ」
納得してしまった。
すごいが、そこいらにいる精霊がすべて目に見えていては、どれが肉体でどれが精神体なのか分からなくなるだろう。街中など恐ろしくて歩けない。
「へぇ。あんな呪式なのかぁ。いいな、これ」
「残念ながら、それは一つしかないからあげられないな。材料さえ揃えてくれれば作るが」
「材料って?」
「まずは水竜の喉辺りの鱗」
「それって、逆鱗って言わないのか?」
「そうとも言う」
竜というのは殺すのですら苦労するのだが、
「それに水竜は保護指定種族じゃねぇか」
その理由から、殺さずに鱗を取らなければならない。どこにいるとも知れぬ水底深く眠る竜の鱗を、生かしたまま奪うなどほぼ不可能。
「うちの宝物庫にあったんだ。この程度で驚いていては、これは作れないぞ」
「やっぱいいわ……」
こんなことに命を懸けるのも馬鹿らしい。
「ハウル、そこで何をしているの?」
突然、メディアの声がかかった。窓を見ると、三人がこちらを見ていた。
「え?」
気づけば、ウェイゼルはいなかった。
──げげっ。
モノクルに夢中になっている間に、奴は罪を擦り付けて逃げたのだ。
「いや、面白い呪式が見えたものだから。そうか。ここで授業をしていたとは。面白い対精霊の結界だな」
さすがは賢者。気の利いたフォローだ。
「あら、お見えになるのですか?」
「このモノクル、ただたんに趣味なんだと思ってたけど、そういう機能があるんだって」
「面白いぜ」
三人はそのモノクルを見る。
アミュは好奇心に目を輝かせていた。
「二人とも、後で試してみるかい?」
「面白そうね」
「うん」
この男、子供好きを自称するだけあり、実際に子供の扱いが上手いのだ。
「ところで、今ウェイゼル様の気配がしたような」
「気のせいだろ」
「そうそう」
「ハウル君ではないのか?」
「……それもそうですね」
ヴェノムは納得してくれたらしく、
「ここにはあまり近付かない方が身のためですよ。危険ですから」
言って、ヴェノムは窓を閉めた。
「やはり、覗きと言えば天井裏!」
彼は小声で力説した。
確かに、天井裏は便利ではある。厳密に言えば天井裏ではないが、大きな屋敷や城なら、たいていこれがある。空気の循環のため、もしくは脱出のための隠し通路だ。
偶然、問題の部屋の天井にその通路が存在していた。
通路と言っても、四つん這いにならなければならないが。
「なぜ盗みに入ったわけでもないのに、こんなところを……」
ウェイゼルの手によって、一瞬でほこりが一掃されたので、不潔だと言うことはないが。益にもならないこの行いは、彼にとっては不愉快だった。
後ろの二人もそう思うらしく、時折愚痴を漏らしている。
「このロマンを理解できないとは……」
「なんで覗くんだ? 覗くほどのことでもないだろ?」
「女湯覗きたいとか言うならまだしも、授業風景なんて……」
「女湯には興味ありません。女子校を覗いてみたいとはおもいますが」
カロンには理解しがたかった。しようとも思わない。
同性しか愛せないという以外は、妙な性癖は持ち合わせていないつもりだ。
「……大変だね、ハウル」
「穴があったら入りたい……」
「気を落とすことはない。身内というのは選べないものだ。
私の弟にも、邪魔者は皆殺しにするようなのが一人いる。有能な私は、何度暗殺者に狙われたか……」
兄が王位を継ぐようだが、そろそろ暗殺されてもおかしくはないだろう。
彼も有能だが、所詮は普通の人間である。
「ここか」
ウェイゼルは動きを止めた。
彼がつつくと、床──天井の壁材に小さな穴があいた。
便利な力だ。
「さてと……」
彼は覗く。それからしばし──
「何をしているのですか?」
ヴェノムの声と供に、
ごっ!
床が、抜けた。
ラァスはとっさに空中でバランスを取り、足から落下することに成功した。膝をやや曲げておき、その体勢で足を着く。しゃがみこむまでに力を殺す。それでも余った力は前のめりに倒れて転がり殺す。
瓦礫の上を転がったので、背中がかなり痛かった。上から降ってくる瓦礫が足に当たり、痛かった。
だが、動ける。今から全力で逃げることも可能だ。
「いてて」
着地に失敗したらしく、ハウルは尻をさする。
カロンにいたっては、頭を打ったらしく蹲っていた。とっさの時の運動能力が一番劣るのは彼だったようだ。
「いやぁ、驚いた」
唯一平然としているのは、もちろんウェイゼル。
「あんた達、何してるの?」
メディアが尻餅をついたハウルを睨んだ。
「いや、親父がついてこないとひどい目にあわせるって」
「こら、ハウル」
父親はあっさりと暴露する息子の耳を引っ張った。
「ウェイゼル様。ハウルにひどいこととは?」
「師匠、怖かったよぉ」
ラァスはヴェノムの元へと避難する。
「一級神に睨まれる恐ろしさを知るなど、なかなか他では体験できないことだった」
カロンも頭に手を当てながら避難してくる。何か術を使って痛みを消しているらしい。
「ウェイゼル様。一体何が楽しくてこのようなことを?」
「ほら、隠されると気になるじゃないですか」
「男性がいると恥ずかしがるといけないから、この子達だけでやっているだけです。別に隠してはいません」
ヴェノムはさらりと言う。
「じゃあ、結界は?」
「あれは昔から張ってあります」
「ええっ? どんな内容を教えているか、かなり期待していたのに……。はぁ。じゃあ、帰ります」
彼は何事も無かったように去ろうとしたが、その髪をヴェノムが引っ張った。
「痛いじゃないですか」
「嘘おっしゃいませ。
それよりも、この天井、直していきなさい。へんな干渉かけるから、重さに耐え切れなくなって抜けたのですから。
もちろん、手作業で」
ヴェノムは冷たく言い放った。
「手作業で? どうして?」
「罰だからです。あと、当然お一人で」
「げげっ」
しかし、ウェイゼルはヴェノムにだけは逆らおうとしなかった。過去に何があったのかは分からないが、二人の中の上下関係と言うのは、本来とは逆転しているように見えた。師のあらゆる意味での強さに、ラァスはただただため息をついた。
「あーあ。ほこりかぶっちゃったわ」
「目が痛い」
「大丈夫? こすっちゃダメよ」
アミュは目を閉じ、メディアがその目を見る。
「お風呂に入りましょうか。ハウル、準備なさい」
ヴェノムは二人の姿を見てハウルに命ずる。
「……はい」
止められなかった責任を感じてか、ハウルは大人しく従った。
「早くしてよね」
「目、洗いたい」
「じゃあ行きましょう。こんなところに長居は無用よ。まったく、親子揃ってろくでもない」
「行こう」
「ええ」
──女って、やっぱり強いよな……。
二人の豪胆さに、ただ呆れるばかりだった。
普通の人間とは、神にそんなことをさせて大丈夫なのだろうかと考えてしまうものなのだからだ。
翌朝。
ダイニングに行くと父が疲れた顔をしてコーヒーを飲んでいた。
ついでにカロンもいる。
「終わったんだ」
「ええ、終わりましたよ。再構築すれば早かったのに」
本当に手作業で行ったらしい。
「ハウル、おはよ」
ラァスが眠そうな顔をしてやってきた。
「おはよう、ラァス君」
ラァスはカロンを無視して、席に着く。やがて女の子二人もやってきた。なぜか、皆から少し距離を置いていた。
「………お前ら、マジで何教わったんだ?」
「べつにいいじゃない」
「ねぇ」
アミュまで一緒になっている。
言いようの無い悔しさに襲われた。
「あら、皆さんおそろいで」
フリルのついたエプロン姿のヴェノムは、焼きたてのパンの入れられたかごとスープを持って現れた。
「何教えたんだ?」
「秘密です。ねぇ」
「ねぇ」
女の子二人は満面の笑みで同時に答える。
──す……すっかり教育されている……。
「ところで、ウェイゼル様は覗きに来ただけなのですか? ならば帰ってください」
「違いますって。メビウスのことです」
「生み月になったらよこしてください。それだけです」
「……それだけ、ですか?」
「するべきことは、ハウルの生まれるときに教えました。で、それだけですか?」
「……帰ります」
ウェイゼルは立ち上がり、姿を消した。
「……威厳の無い神様もいたもんだねぇ」
「親近感がある分、マシだと思いますよ」
ヴェノムはほんの少し表情を和らげた。
少し、腹が立つ。
「ガディス様や、ラーハ様に比べると」
「んなのと比べりゃあなぁ」
ハウルは窓の外を眺め、小さくため息をついた。
もうすぐ母が来る。それが少し、嬉しかった。欲しいのは妹。おにいちゃんと言って、べったりと懐いてくれるような、可愛い妹が。
「ハウル、何ぼーっとしてるの?」
「いや、そーいや、母さんに会うのって、二度目の家出以来だなって」
「え?」
なぜか、ラァスたちは目を点にしていた。
彼は退屈をしていた。
本当に退屈だ。
何をしよう?
ヴェノムはまだ機嫌が悪いようで、近付くのは得策ではないことを身に染みるほど理解した。
「うーむ」
「今度は何を企んでいるの?」
椅子に座り編み物をするメビウスが、首を傾げて問うた。
「退屈で」
「ふふ」
彼女は笑う。
「じゃあ、あなたもやってみる?」
「編み物?」
「ええ」
彼女は料理以外の家事は何でもこなす。彼女の料理のまずさは、味覚がおかしいのが原因である。治療を試みたが、生まれつきのものなので、どうしようもなかった。
「男か女かも分からないのに、編むんですか?」
「ただの靴下よ。寒くなる時期に生まれそうだから」
彼女は微笑む。
「最近、よく動くのよ」
「お転婆ですね」
「男の子かもしれないわよ」
「どっちでもいいですよ」
「あら、意外」
今日はやはり、出かけるのはやめよう。
彼女の側にいるだけで、癒されるような気がするから。
「君を愛しているから」
「はいはい」
ウェイゼルはメビウスの腹に触れた。
しばらく、こうしていよう。
この子が動くまで──