15話 少年と少女と魚達
ハウルはいつものように釣りをして、いつものようにまたハディスを釣り上げた。
さすがに、双方言葉もない。
「……この付近に、なんかあるのか?」
「いや。偶然下を通るとなぜか針に引っかかる」
お互い毎日それをしているのだから、たまに引っ掛けてしまうのも無理はない。
何せ、彼はマントなど羽織ったまま海に入っている。ただ、釣りのポイントは毎日違う。それにもかかわらず、こんなハウルにとっては価値のない大物(普通の人間なら喜んで食べるかもしれないが、その前に反撃されて殺される)がかかってしまうのだ。
「何してたんだ?」
「セルスに呼び出されて、向かっていた途中だ」
ハウルはハディスから針を外し、考える。
この男を釣った日は、それ以降一匹も釣れなくなるというジンクスがある。今日は、もう無理だろう。始めたばかりだが、やる気が失せた。
「ラァスも一緒なのか?」
「さあな」
最近、ラァスはイルカに夢中だ。アミュと共にイルカと戯れる毎日を送っている。もちろん午前中のみにおこなわれるヴェノムの講義が終わってからだ。
「俺もたまには一緒に遊ぶかな。子供らしくないってヴェノムにも叱られることだし」
一般常識が通じる範囲内での趣味思考にまで文句を言われる筋合いはないと思うが、やはり保護者の言う事は聞いておくべきだろう。
「ならばついて来い」
言ってハディスは海に飛び込む。ハウルはその後に続く。
ここの海は本当に清く澄んでおり、だからこそ高位の水妖達が住み着く。この環境を維持しているのはヴェノムとヨハンだ。人の手が入らぬよう。心無い人間が水妖目当てに来ぬよう。二人が管理しているからこそ、ここはいつまでも変わらない。
さすがに水中で人魚には追いつけないのでハディスの背にしがみ付く。通りすがる人魚達と挨拶し、魚人たちにも挨拶する。美味しそうな魚達が、ハウルを避けるように散っていく。
ここは水妖の楽園とまで言われている。西海の水妖の王が住まう場所なのだから。その第五子がセルスだった。力もあり真面目な気質である事から、次の王はセルスではないかとすら言われている。ただ、上の姉達を差し置いて王になろうなどとは思いもしていない様子だ。真面目すぎるのが唯一の欠点。
しばらく行くと、海底の岩場にセルスが腰を下ろしていた。その傍らにシィシアもいる。シィシアは魔力を持つ特殊なイルカで、世間一般では魔物と分類されるものだ。
「あれ、ラァスたちは?」
「今日は姉たちとクジラを見に」
アミュはきっと喜ぶだろう。彼女はなぜか小さな生物よりも大きな生物が好きだ。深淵の森では、肉食の獰猛な魔物とすら意思疎通に成功していたのを見た事がある。大人しくて可愛い物が好きなラァスとは、対称的な趣味だ。
「で、何の用だ?」
ハディスは首を傾げる。セルスはほんのりと頬を赤く染め、シィシアの背に手を置いた。シィシアはハディスへと何かを語りかける。意味不明。動物とテレパシーにより会話できるのは、アミュぐらいのものだ。
「何?」
ハディスは驚く。
「そうだったのか」
セルスはハディスに見つめられ、恥ずかしそうに身をよじる。とても珍しい反応だった。
「どしたんだ?」
「いや、何でもない」
「何でもないって……」
「人のプライバシーに関わることだ。お前は元の場所に戻って、いくらでも釣りをしていろ」
どうやら、関わって欲しくないようだ。
「へいへい。んじゃ、邪魔者は退散するよ」
「すまない」
人には知られたくない事の一つや二つは存在する。同じ一族だからこそ相談できることもある。そういう話なのだろう。
丘の上の、空に関わるハウルは、彼らにとっては他人でしかない。
水に属するものたちは、同じ水に属する者にしか心を開かない。彼らはとても臆病だから。
他の系統が攻撃的すぎたり、物怖じしなさ過ぎたりするというのもあるが。
そういう意味では、ハディスは父親の血を色濃く受け継いでいると言える。
──釣りするか。
ハウルは置きっぱなしにした竿の元へと泳いだ。余談だが、人魚たちが珍しがって竿を眺めていた。人魚を釣り上げる竿だ。珍しいのも無理はない。
彼はふむと頷いた。
この水の中の友人は、もじもじとしながらシィシアの背を撫でる。
「つまり、私にラァスとの関係を取り持って欲しいということか?」
セルスは顔を真っ赤にして頷いた。よほどラァスが気に入ったのだろう。あれも見た目だけはいい。人魚たちの中に混じっていて違和感がないどころか、人魚たちよりも華やかだ。無理もない。
「しかし、取り持つにしても私はあまり親しくないぞ」
「他に相談できそうな相手がいないのだ」
「確かに、ゲイルやメディアに相談してもあれだしな」
アミュは論外だ。恋愛というものを理解していそうにもない。ゲイルの場合は、姑息な方法で相手をものにする方法など吹き込みかねない。あいつはそういう女だ。父が普通の男であったならば、ゲイルの誘惑に耐えられたかどうか。
「以前ラァス殿に真珠をプレゼントしたのだが、どうもあまり喜んでいなかったようだ。人間は真珠が好きだと聞いたのだが、間違いだったのだろうか?」
「真珠が好きなのは事実だな。高価だから。しかしあいつの好きなのは地面に埋まっているようなものらしいな」
その真珠は、アミュへのプレゼントになってしまっていた。
「貴金属が好きだと言っていたから、てっきり真珠も喜ぶと思ったのだが……」
それは最もな誤解だ。
「ものによっては石ころでも喜ぶらしいな。基準は理解できんが」
セルスは小さくため息をつく。切なげなその表情に、ハディスは自身の事を思い出す。
「分かるぞ、その気持ち」
「ゲイル殿はつれないものな」
まったくだ。なぜあんな他人に興味のない「オヤジ」がいいのか、理解できない。ゲイルの事を拾ったのも、母が金髪の娘を欲しがっていたのを思い出したという理由から。今では妻が可愛がるペットに多少の情が移った夫のごとく、ゲイルにある程度の好意を持っているらしいが、恋愛の対象ではない。そんなこと、ゲイル自身も理解できないほど愚かではない。とっとと諦めればいいものを、酒に酔わせて薬を使って、既成事実を作ろうとするぐらい諦めていない。もちろん、薬は彼がただの色水と入れ替えておいた。
ただでさえ普通ではない家の家庭崩壊を防止するためだ。色水程度では腹を壊さないだろうから、感謝してもらいたいものだ。
「そんな顔をするな。見た目は父君に似ているような気がする」
遠くからこっそりとしか見た事がないのだろう。自分たちの前王を喰らった男を好奇心から間近で見にいくような馬鹿はいない。
「顔だけでどうにかなるような女なら、顔なんていくらでも変える」
「そうだな。ゲイル殿の場合は……」
人魚たちにも、ゲイルの奔放さは知れ渡っている。邪気の固まりの場合もあれば、この上なく無邪気な場合もある。彼女の扱いはとても難しい。
「お前の惚れた相手も強敵だと思うぞ」
「やはり、私では不釣合いだろうか?」
「いいや、そんなことはないぞ。お前は十分に魅力的だ」
「しかし、私などでカロン殿のような立派な方に太刀打ちできるのだろうか? いつもアミュ様と共にいるし……」
さすがにメディアとの関係は疑っていないようだ。
「気を落とすな。当たって砕けてみろ」
「砕け……。そうだな。ハディスはいつも砕けているものな」
セルスはふっと笑い、横を見る。
ハディスは一瞬しめてやろうかとすら考えるが、事実に近いので何も言えない。
「とにかく、少しでも多く共にいることだな」
「そうだな。そろそろ帰ってくる頃だ。迎えに行こう」
その一行にはゲイルがいる可能性も高い。喜びはしないだろうが、嫌がられもしないだろう。
行く価値がないわけではない。
「そうだな」
向かうのは南。足を使うならば遠いが、水の中であれば遠い距離ではない。
ハウルはヴェノムを探していた。いつもなら菓子でも作っている時間なのに、キッチンにいない。庭にもいない。書斎にもいない。
探し回った挙句、私室にいる彼女を発見した。何か植物の抽出液を採取しているようだ。
「ハウル?」
あまりにも魔女らしい魔女姿に、ハウルはしばし呆けていた。この姿を人が見れば、全員が全員彼女がろくでもないものを作っていると想像するだろう。あまりにも「悪しき魔女」という言葉が似合うから。似合いすぎている。
「そうだった。あのさ、人魚たちから聞いたんだが」
彼女は体ごとこちらを向いた。人魚たちからの情報というのが、気になるのだろう。
「俺が前に見たデカいウツボが、また出て人魚が何人か食われたって」
彼女は目を細める。
人魚すら襲う危険な生物が、彼女の管理する海域に出たこと。そして今、弟子達がその海にいること。それが彼女の機嫌を損ねていた。
「それは由々しきことですね」
「王も対策に困ってるらしい。何しろデカい上に泳ぐ速度が速いから、少人数で見つけると食われないようにするだけで手一杯なんだと」
厄介な問題だ。海は広い上に視界も悪い。巨大な生物とはいえ探し出すのは困難だ。
「人魚なら逃げられるかもしれないけどさ、あいつらは無理だよな」
陸上でならたいていの魔物は殺せるだろうが、水の中で使うような術を得意とする者はあのメンバーにはいない。唯一ハディスだけがその可能性を持っているが、セルスと密談中だ。唯一の救いはラフィニアをヨハンが子守している上、カロンの姿も見えないことだ。しかし彼も水中でできることなどたかが知れている。
ヴェノムは小さく息をつき立ち上がる。
「仕方ありませんね。行きましょう」
「ああ」
ひょっとしたら、アミュかゲイルなら友達になってしまう可能性もあるが。
はしゃぐ姿が可愛らしいと思う。黄金色の髪が海水により漂い、何ともいえぬ色香を感じる。
──なんて可愛いんだ、ラァス君。
ラフィニアを預けて来た甲斐があった。
「クジラって、本当に大きいんだね」
アミュがうっとりと呟いた。彼女は大きな生物が好きなように思う。今までの彼女の趣味を見てきた結果の推論だが。
「でも、顔は可愛いね。でも、僕はシャチの方が好きだな」
クジラやシャチをわざわざ連れてきてくれた人魚たちは嬉しそうに微笑む。
属性が真逆だが仮にも女神であるアミュや、聖眼を持つラァスに喜ばれて嬉しいのだろう。冷静なのはメディアとゲイル。メディアはいつもの事だし、ゲイルには珍しいものではないのだろう。
子供たちの保護者としては、もっと楽しそうにしてもらえた方が嬉しいのだが、こればかりは仕方がない。クジラを見て無邪気にはしゃぐメディアは想像もつかない。
「カロンはクジラ見たことあったの?」
「実物は初めてだな。ただ、生物に関わる白の知識領域も多少は持っている。知識としては存在するから、驚くような事はない」
子供や人魚達が尊敬の眼差しを向ける。一部忌々しそうな視線も混じっているが、彼女に関してはいつもの事。
その時だ。ラァスがカロンの服の裾を引っ張った。
「……ね……ねえねえ、じゃあ今あそこでクジラに噛み付いているあれ何?」
ラァスはとある方向を指し示す。
しばらく、分からなかった。あまりにも大きすぎて。
「……大きな……ウツボ」
「へぇ、あれがウツボ。海には大きな蛇がいるんだね。気色悪いヤツ」
ちなみにウツボは蛇ではない。ウツボ科だ。ただし、カロンにはあの生物の正体は分からない。よく見れば形、口の構造がウツボとは違う。が、ウツボだと思っていても構わないだろう。他に表現のしようもない。
それよりも子供達の方がよほど重要だ。
弱肉強食を止める気は無いらしく、皆は傍観している。人魚たちはともかく、この子供達の割り切りのよさには時折心配になってくる。子供と言うのはもう少し、愚かな正義感が強いものではないのかと。あの森に住んでいればその考えも変わってくるのだろうが、先ほどまで遊んでいたクジラが襲われていることには何も感じないのだろうか?
「ハウルお兄さんが言っていた子かな?」
アミュが首を傾げる。
「おそらく。とにかく危険だ。こっそりと離れよう」
と、振り向きカロンは驚愕する。
もう一匹、こちらへと向かってやってくる。血の匂いに誘われて。
目の前にいる小さな獲物にも興味を持ったらしく、こちらへとこちらへと向かってくる。
カロンは慌てて呪式を組み立て呪文を唱える。
「歪に潜みし悪夢の白童 向かい来る者を惑わせ」
比較的簡単で有効的な幻惑の術を発動させた。とたんにそのウツボはあらぬ方向に泳ぎ出す。
「さあ、今のうちだ」
「悪夢の白童って?」
「夢神だ。最も特殊な神で、次元軸のずれた場所に住んでいるって、そんなことは問題ではない」
「あ、戻ってきたよ」
ゲイルがいつもの調子で言う。
「なに!?」
幻惑の術がもう早解けてしまったらしい。魔法に対して強い抵抗力を持っているのかもしれない。
「カロン様。あれは最近騒がれているウツボです。正確にはウツボとは違うようですが。水妖族も何人か犠牲になっています。術がほとんどきかず、私たちも手を焼いております」
人魚達が食われるのだから、そうとうのものだ。やはり逃げた方がいい。一人ならどうにでもなるが、周囲を巻き添えにするような術は使えない。
その時、ゲイルを見て思い出した。
普通のウツボは頭足類、タコなどを好んで食べる。
「ゲイルちゃん。こないだのクラーケンを呼び出してくれないか?」
「人のオトモダチを餌にしろと?」
気づかれた。
「アミュ、いつもみたいに説得できないの?」
「無理だよ。あの子、普通の生き物じゃない。きっと、誰かに無理矢理ああされたんだよ。前に見たキメラっていうのとにたような感じがする。それとも少し違うけど……」
そう言って、アミュはこちらへと来るウツボへと手を差し出した。
何をする気だと思った瞬間、彼女は術の構成を組み立てる。彼女ののんびりペースでは考えられない、恐ろしく凶悪な術式。
「流る赤を象徴する、死と苦痛と絶望の子よ
我は汝の飢えを満たす贄捧ぐ
我が敵に救い亡き苦痛と絶望を」
皆の顔が引きつった。アミュにはあまりにも不釣合いな術ゆえに。
刹那、意味もなくウツボは血を流す。身体中が切り刻まれる。
流血神に力を借りた術。それは組織によっては禁術とされるほどに凶悪無比。呪いを解かぬ限りは術で癒そうとも傷が広がり血を流し続け、死にいたるほどの術も存在する。何よりも、流血神は召喚に応じてくれやすい。
そう。アミュはよりにもよってその流血神を召喚したのだ。姿は見えずとも、その存在はここにいる。死と苦痛と絶望の化身、凶神トリアスから生れ落ちた呪われた神が。下手をすれば呼び出した術者の命までも奪い取る、闇から生まれた神が。
眩暈がした。
「アミュ……そんな術を使えたのね」
さすがにメディアの顔も引きつっていた。
「うん。こうした方が、話は早くつきそうだから」
その意味を、一瞬理解できなかった。別のウツボが血を流すウツボに噛み付くまでは。おびき寄せる餌として利用したのだ。もう一匹の大きなウツボも、切り刻まれている。
その様子に、さすがのカロンも恐怖した。
「何匹いるの!?」
ラァスが小さく叫ぶ。
あれほどは大きくはないが、その半分ほどのウツボがそのウツボに群がり、喰らっている。
ウツボではない、アミュの言うとおり作られた存在。それが増えた結果がこれ。おそらく初めに見た一匹が食われているこのウツボが親。夫婦かもしれない。だからこそ、この一回り小さなウツボたちは隠れていた。しかし弱ればただの食料でしかない。命令よりも食欲が優先されているようだ。
「やはり、ラフィニアを狙っていた奴か」
自分のことを知られたくなくて、雇った男たちを食わせた。そして今は、その親となったカロンを。
その考えならば、今までラァス達が襲われず、今日に限って襲われたことが説明できる。
しかし、彼女はヴェノムに近い場所にいる。万が一という心配もない。彼女はラフィニアをとても可愛がっている。まるで自分の娘のように。
「アミュ。あれどうする気よ」
彼女は言葉の代わりに再び力を練り始める。今度は呪文を唱えない。純粋な力。神としての力だった。
「安らかに」
言って、彼女は力を解き放つ。水温がわずかに上昇する。広いこの海の水温を、わずかとはいえ上げる力。
その中心であるウツボたちは、力なく水面へと浮上した。一匹残らず。
ほんの少し漏れ出た余波でこれ。水中でありながら、ウツボたちは焦げていた。
「アミュ……あんた」
「すごいなぁ。いいなぁ。僕、攻撃力のある術使えないし」
言うメディアとラァスはアミュとは目を合わさない。
「わたしはラァス君が羨ましいよ。ラァス君は人の役に立てられる術をどんどん覚えていくから。私に出来るのは、哀れなあの子達の命を摘むことぐらい」
彼女は死人を恐れない。それは天然だからだと思っていたが、ひょっとしたら死を理解、容認しているからなのかもしれない。彼女の強さは、そこにあるだろう。どんなに否定しても、彼女は神の血を受け継いでいる。ひょっとすれば、将来は本当に女神としての地位を確立できるほどになるかもしれない。その時、彼女がどんな神となるか。ある意味楽しみだった。
しばらくするとハディスとシィシアとセルスがやってきた。ラァスには分からないが、血の匂いをかぎつけ急いで迎えに来たようだ。寒いので再び海に潜り事情を説明すると、セルスが青ざめ怪我人はいないかと聞いてきた。真面目で優しくて美人。男の人のような話方をするのも気にならないほど完璧な美少女に心配され、ラァスはへらり笑う。
「クジラが一頭食べられちゃった」
「なんてことだ……。
しかし、ラァス殿が無事でよかった」
セルスは思ったよりも大きな白い手でラァスの手を掴む。
──ん?
思ったよりもごつい。
人魚は美形だらけだ。その中でもセルスは美しい。しかしよく見れば……。
「セルスって、ひょっとして男の人?」
「そうだ……が…………」
どうりで男名であるはずだ。
「わ、私は男だ」
彼はおろおろとして言う。勘違いされていた事に戸惑っているのだろう。
ラァスは自分という見事な例がいるので、さして驚かなかった。ただ、まさか自分と同系統の男の子だとは思っていなかっただけ。
「あははは。じゃあ、ひょっとして僕のことも女の子だと思ってる?」
「…………は?」
彼は首をかしげた。
「やっぱり!」
ラァスは笑う。
「ラァス君は男の子だよん」
ゲイルがハディスの背中にしがみ付いて言う。
「はぁ!?」
セルスとハディスが同時に身を引いた。
「男!?」
ラァスは頷く。喉仏は目立っていないので、間違えるのも無理はない。日々美貌を磨いたたまものだ。
「やだなぁ。自分の事棚に上げて驚かないで……って、どうしたの!?」
セルスは突然泳いで行ってしまった。その後をシィシアが追う。
──僕に気があったのか……。
なぜ自分は男にばかりモテるのか。こんなに美少年なのだから、もっと可愛い女の子が近寄ってきてもいいだろうに。
「ひどいなぁ」
ラァスは苦笑いして皆を振り向く。
視線の先に黒髪の美女と銀髪の少年がこち似に向かって来ていた。
「おい、ラァス。あの美味そうに焦げてるウツボって……」
やってきたハウルは水面を指し示す。
ラァスはちらりとアミュを見る。彼女とだけはケンカしたくないと、この日初めて心から思った。
「あれ、食べられたの?」
アミュが首をかしげた。
「ああ。普通のは食えるな。でも、普通に手を出したら危ないからな。ウツボは人間の指なんて簡単に噛み切るから」
ハウルはケラケラと笑う。
「あの、ヴェノム殿……」
突然カロンが震えた声でヴェノムを呼んだ。
「ら……ラフィは?」
「ヨハンがみていますよ」
その言葉にカロンの顔色が変化する。
「ひょっとしたら、ラフィが狙われている可能性があったのだが……」
「…………まあ、大変」
彼女の言い方はぜんぜん大変そうではない。可愛いラフィが狙われているのだ。もっと慌て騒がねばならない。
「私は戻る」
「あ、僕も」
ラァスはカロンの袖を掴む。刹那、景色が変わる。海辺の屋敷の魔法陣の上。二人は同時に駆け出した。気配がある。異様な何かがいる。
「くそっ」
気配の元へと向かう。キッチンの方だ。近付くと、赤子の鳴き声と血の匂い。何かが倒れる音。ラフィニアと、そして料理の上手な老紳士の姿が頭をよぎる。
「ヨハンさんっ」
「はい、なんでございましょう」
けろりとした、血まみれの老人が泣きじゃくる赤子を背負い立っていた。その足元には魔物が二体倒れている。
「ええと……何?」
魔物を指差し問うた。
「なぜか突然襲われました。私がついていながらラフィニアお嬢様のお顔を血で汚してしまい、申し訳ございません」
彼は血に塗れた包丁を手にしていた。
──包丁一本で……。
「な、何者なんだ?」
「元は聖騎士とまで呼ばれたじぃさんだ」
答えたのは追ってきたハウル。
「ヨハンは強いから大丈夫だって言おうとしたら、お前らいっちまうんだもんな」
彼はくつくつと笑う。カロンはヨハンを見つめて呟いた。
「聖騎士ヨハン?」
「そう、それ」
ラァスも聞いた事がある。勇者選定の魔剣アルセードの所有者であった者。カーラントの英雄としてはまだ新しく最も有名。
「なぜあなたがこんなところで家事を……」
「昔の話です。今では年を取り、アルセードも次の所有者を選びました。それ以降国にもいづらくなり、世話になったヴェノム様に相談に行ったところ、この屋敷とこの海の管理を任されました。料理は昔からの趣味でした」
カロンは棒立ちになる。彼と会った事があるのかもしれない。彼が行方をくらませたのはラァスが生まれるよりも前、カロンが幼い頃だろう。
「そうか。雰囲気が変わったのでわからなかった」
「しわも増えました」
彼は笑う。
──世の中、いろんな人がいるんだなぁ。
ヴェノムの回りには、なぜこんなすごい人物ばかりが集まるのだろうか。
「ところでさ、途中セルスが泣いて逃げてったけど、どしたんだ?」
「それが、彼がラァス君を女の子だと勘違いして思いを寄せていたらしい」
「…………それであの反応か……」
ハウルは息をつき首を左右に振る。
「哀れな」
「美とは徳であり罪だ」
カロンの視線がものすごく嫌だった。ヨハンはかつて自分が仕えていた国の王族を見て微笑んだ。複雑な気持ちに違いない。
自分の周囲に少しは普通の人間はいないのだろうか?
自分の事は棚上げし、彼は心底からそう思った。