19 東の大地へ
2
崖の上。
少年が一人、大きなリアカーの番をしてた。リアカーさえなければ彼らの住まう家への最短距離である、この崖をいつもさらに上へと登っていた。ただし、崖だ。素人ではこの崖を登りきるのは難しい。道具も持っていないだろう。こんな場所で、エノは大丈夫だと言い、一人で降りて行った。
──女の子……もいるんだよな。
いつも彼女が話している、アミュという女の子。他にも術師が何人か。まともに術の使えないここで、果たして術師が目的地までたどり着けるのか。
師であるホクトは大丈夫だと言っていた。だが、コウトは心配だった。
ホクトとエノは特別だ。別次元の生物だ。人間を捨てているとしか思えない。そんな二人の判断が、常識人に通じるはずもない。
「おい」
コウトは突然声を掛けられ、周囲を見回し──リアカーに妙な影を発見し上を見た。
「…………」
人が、浮いていた。逆光で顔が見えないが、必要以上に後光が差して見えた。
「お前、ホクトの知り合いか?」
「は、はい。弟子です」
「そか」
その空と飛ぶ人は、地に降り立つ。
同じ高さになって初めて気付いた。光を浴びてキラキラと輝く銀の髪。涼やかな青い瞳。白い肌。どこかの美術館で見た、神話をモチーフにした絵画で見たような、人とは思えないほどきれいな男。もしも何の予告もなく出会っていたら、きっと空の化身だと思っていたに違いない。
「…………はぁ」
大きく口を開け、ぽけーとその少年を見つめた。同性だと分かっていても、綺麗だと思うほど神秘的な容貌をしていた。
「何じろじろ見てんだよ。見世物じゃねぇ」
天の化身かと思った少年の、神秘的で神々しい第一印象が見事に崩壊した。
美しい存在が口汚いと、これほどまでの破壊力を持つとは……。
「おう、ノーラも来たか」
少年は振り返り、これまた空を飛ぶ人間離れした美貌の女性を見上げて言った。
──女神だ……。
今度こそ女性で、美しく、少しきつい顔立ちがそれっぽかった。
「ん? なんだその貧相な豆チビは」
そして再び、崩壊する。
──ああ、世の中の美人は普通な奴なんていないってとーちゃんの遺言は本当だったんだ!?
師といい、姉弟子といい、山すその村人といい。
綺麗な顔をした奴は、みんな普通ではないのだ。
「お前ひどいぞ、それは」
「何を言う。私は醜いモノは嫌いだ。そして、なんとも言えない中途半端も嫌いだ。何なんだ、その特徴のない顔は」
「ひでぇって」
特徴がない。
そこまで言われたのは生まれて初めてだった。容姿で褒められたことはないし、よく顔を忘れられるが、ここまでひどい事を言われたのは、本当に初めてだった。
──師匠よりもひどい事を本人に向かって言う奴がいたなんて……。
しかも女神のような美女が。
との時だった。
突然、崖から大きな生物が現れた。一瞬鳥かと思ったら、それは竜だった。紛れもなく竜だった。
「ぎゃあああ!?」
コウトは驚きのあまりひっくり返り、リアカーの荷物を狙っていた猿どもも一目散に逃げ帰る。
「気にすんな。あれは俺のだから」
銀色の少年は、その竜へと手を伸ばす。
「いい子だな、ルート」
「空中恐怖症がいないと楽だよ、ハウル」
地に降りた竜は身を屈めた。その背に、三人の人間が乗っていた。一人は黄金のような髪色の男。それがまず地面に降りて、黒髪の少女へと手を伸ばす。もう一人の黒髪の女性は、銀色の少年の手を取り、地面に降りた。
こんなに沢山の異人を見たのは初めてだった。コウトにとって、異人の知り合いはエノ一人だった。エノ一人だからこそ、まだ思いとどまっていたのだが。
──異人ってのは、みんなこんなに綺麗なのか。
コウトはついにそう認識した。
「あら、あなたはホクトのところの子ですか?」
赤い目をした黒髪の女性がコウトに声を掛けた。
えらく冷たい印象を受けたが、エノも似たようなものである。コウトはさらに思い込んだ。異人は、迫力がある、と。
「は、はい。コウトと申します」
「そうですか。ホクトは?」
「先に家に」
「薄情な子……。まあいいです」
美女は再び崖へと目を向けた。
エノがまだ来ていない。
「律儀だなぁ、あいつラァスの速度に合わせてる。ってか、あいつほんと器用だよなぁ。まるで床を這うような勢いで進んでるぞ」
銀色の少年並び、小柄で絹のような艶を持つ黒髪の綺麗な女の子が崖を覗き込んでいた。女の子も話していたが、コウトの知らない言語なので意味が分からなかった。
──この崖を……登る?
登山用具など、持ってきたのだろうかと思い、覗き込もうとしたとき、目の前に突然顔が現れた。
黄金色の大きな瞳が、二度瞬きをした。
「びっくりした」
厚くも薄くもない唇が、華やかな笑みの形を作る。
コウトは驚きのあまり、またもや尻餅をついて息を飲んだ。
「よいしょっと」
その金色の人は崖から這い上がり、汚れた手を払う。
「お前、ロッククライミングもできたのか?」
金色の人は、知らない言葉で銀の少年に話しかけた。
「お前、崖のぼりの訓練なんてしてたのか。しかも凹凸のない建物も素手で登れるだと? お前ら正気か?」
金色の人はうなづいてきゃらきゃらと笑う。
──す、素手!?
細い身体をしている。手首だって、折れそうに細い。
「その腕でどうやってここを!?」
「……」
金色の人は、何かを言ったが、コウトにはそれが理解できなかった。それに答えたのは、エノの声。
「コウトだ」
コウトが金色の人に気をとられているうちに、エノが崖を上りきっていた。その腕には、炎のような色をした髪を持つ女の子が抱えられていた。
──異人ってのは、みんなこうなのか……。
コウトはあまりにもかけ離れたイメージとのギャップに、カルチャーショックを受けた。
カロンは賢者だ。しかし賢者といえども、万能ではない。一部の深い知識はあれど、浅い知識すらないものもある。幸い、黄の賢者であり、白の領域の知識も多少は持つ彼は、言語というもので困ったことはあまりない。白の領域は生。言語は生物の持つものであり、だからこそ代表的な言語は理解できた。
だからこそ、その奇妙な現象を奇妙だと感じた。
「お前、コウトだっけ? いくつだ?」
「十五です」
「同い年!?」
「え!?」
コウトとハウルが、まったく異なる言語で会話しているのに気付かざるをえなかった。
──何なんだ?
見当違いな事を言いあっていれば問題はない。しかし、二人の間には確かな意思疎通の元にこそある会話が成立していた。
「何で二人ともあれで通じてるの!?」
同じ事を思ったらしいラァスが、東大陸──ノリアド大陸で一番よく使われる共用語で突っ込みを入れる。
「私はラァス君がよどみなくそれを言えるのも不思議だ」
ラァスはカロンを振り返り、
「僕は特訓を受けたの。老後のために手に職つけたいとか言ったら、なぜか違う大陸の言葉の特訓させられたの。その言語以外を使ったらおしおきされるから、必死になって覚えたんだよっ!」
友人を思い出し、顔が自然とにやけた。彼の好きそうなイベントだ。そして老後のためとは、愉快な子供である。
「それよりも、なんで二人とも言葉が通じてるの?」
「ほら、おれ人間じゃないし。なぁ、アミュ」
話を振られたアミュは珍しく不機嫌を顔に表した。目をわずかに細め、唇を尖らせる。
「ハウル。デリカシーないんじゃない?」
彼女の父親嫌いは根深いようだ。一度しか会っていないらしいが、名を聞くだけで不快を顔に表す。始めは力に関しても抵抗があったようだが、皆の根気強い説得により、彼女は力に関してだけは考えないようにしたようだった。ただ、あからさまに言われれば彼女は不機嫌になる。
「うーん。でも、この便利な神様体質はいいと思うけどな。こういう役得がなきゃやってられねぇよ」
ハウルは軽い調子で言い、おそらく苦労したであろうラァスは彼を睨みつけた。
「だいたい、じゃあなんで君は動物の言葉わかんないの?」
「そこまで便利に出来てねぇんだよ。だいたい、種が近けりゃ言語が通じるようになる術があるんだ。それの弱いのが常にかかってるだけだ」
「僕の苦労は……あの特訓は……あのなんちゃって東方人めぇ」
よほど辛い目にあったのだろう。ラァスは近くにあった岩に拳を叩きつけて真っ二つにしてしまった。
ラァスのこの力も、ハウルの力と似たような物だ。
彼の力は魔力に頼るものだが、魔法ではない。むしろ精霊達と近い力の使い方をしている。地の力を借りているのだ。いつもは精霊がそれを手助けするが、今は土地そのものがそれを手助けする。だから力は変わらないし、増していてもおかしくない。
「……す……素手で岩を」
コウトが大きな目を剥き、震える声で呟いた。
「やだぁ。僕ったらつい」
ラァスはてへと舌を出す。
「ラァス。あまり物を壊さないで下さい。あと、崖は殴らないで下さい。崩れてきては困りますから」
「はーい」
ラァスはヴェノムの言葉に元気よく手を上げた。
そのヴェノムは日傘を持ち、いつものドレスで登山している。山の上で溶け残っている雪もちらほらと見えるほどの気温とはいえ汗一つかかず、涼しげに、洗礼された足取りで歩いているのだ。
──ハウル君に妖怪妖怪呼ばわりされるのは、この辺なのだろうな。
暑さの前にも彼女は変わらずドレスを着ていた。なぜそこまでドレスにこだわるのか。聞いてみたいと思うが、聞きづらいので思い留めていたのだ。
その時だった。
「お、ヴェノム」
崖の上から声が響いた。そう思ったとき、突然人が降ってきた。
「あら、ホクト」
それは、一旦空中で停止したあと、ゆったりと地に降りた。
──魔法……じゃない。
カロンのモノクルは、魔力などを見ることが出来る。だが、見えたのは魔力とは別のものだった。
隣でラァスが大げさに感動していた。
おそらく人間の男だ。肩ほどまでの黒髪を頭の後ろで一つにくくっている。背はハウルよりも少し小さいほど。こちらの大陸の人間にしては、かなりの長身の部類に入るだろう。
「よく来たな、久しぶり」
「変わりなく嬉しいです」
「ヴェノムも相変わらずだな。少しは笑え」
「嫌です」
「けっ」
そう言ってから、ホクトは一同を見回した。
「増えたな」
「はい」
「こんな大きな弟子も取るのか?」
ホクトはカロンを見て言った。ハウルよりも背の高い彼は、彼を見下ろす形となる。
「いえ、この方はただの………………何なのですか?」
ヴェノムは突然問いかけてきた。
「む……そう言われてみれば、私達の関係は何なのだろうか? 始めはラァス君目当てに住み着いたような気がするが……。むぅ。共同研究者か?」
「ああ、それですね」
あまりにも歳が離れすぎているためか、友人と言うような関係ではない。ただの居候とも違う。仲間意識も大してない。ただ、時々目的が一致し、手を貸しあう。それが二人の関係だった。
「……どうでもいいんだけどな、お前はほんと、わけのわかんねぇ交友関係を築いてるよな。ほんとどうでもいいけどな。
そんなことよりもさっさと来い。大声は出すなよ。ここらはよく日が当たるから雪はほとんど溶けたが、上のほうには雪があるから、雪崩が起きやすいんだ」
ラァスは崖の上を眺めた。崖と言っても大した傾斜ではない。カロンでも素手で登りきれそうなほどだ。ただ、その上が見えないことには変わりない。
「ねぇねぇ、ホクトさん」
何を思ったか、ラァスが可愛らしく甘えよるようにホクトへと話しかけた。
「んん?」
「さっき一瞬浮いてたの、あれ教えて」
ラァスはこちらの共用語で言った。叩き込まれただけあり、発音もかなり上手かった。
「無理だ無理。一ヶ月やそこらで覚えられるモンじゃねぇ」
ホクトはラァスに冷たくしっしと手を振った。
「ええ、そんなこと言わないでさぁ。コツだけでも」
「生兵法は怪我の元。覚えのいいエノだって半年近くかかってるんだよ。無理無理」
「ぶぅう」
ラァスは非難がましくホクトを睨む。そんなラァスの肩に、ヴェノムが手をかけた。
「ホクト、教えて上げなさい」
「っに!?」
「師匠っ!」
驚くホクトに、感動してヴェノムに抱きつくラァス。
ヴェノムはホクトに向かって言った。
「やらなければ諦めませんよ。男性には容赦ないので、毎夜耳元で教えてと囁き続けられたいのですか? 私の場合、朝と昼と夜の食後でした」
カロンはちらりとラァスを見た。彼は小さく笑う。カロンが来る前のラァスは、積極的だったようだ。いや、最近はカロンへと矛先が向いたから、ヴェノムに言わなくなったのかもしれない。カロンは教えろと言われれば何でも教えてきたから。
「どんなに早くても、一ヶ月じゃせいぜい天井に貼り付けるようになるぐらいだぞ」
「あ、それだけでもいいよ。握力だけで何もないところに張り付くのって、難しいんだよね」
──貼り付けるのか!?
ひょっとしたら、天井を少しくぼませてそこに手をかけて張り付くという意味かもしれないが。カロンにはラァスなら出来そうに気がして悩んだ。レンガ造りの壁なら楽勝で登れると聞いたときも驚いたのだが。いまはもっと驚いていた。
「まあ、いいけどな。怪我しても知らねぇぞ。俺は教えると決めたら女子供にも容赦しねぇからな」
「平気平気。僕、丈夫だけが取りえだから」
ホクトは小さくため息をついた。
ラァスの言うことはある程度事実なのだが、ホクトはそれを信じなかった。ある程度、とつける理由は、カロンの中で最も頑丈に出来ていると認定されているのが、彼の実の弟だからだ。
その家は、意外にも大きかった。もちろん屋敷というには狭いが、三人が住んでいるにしては広かった。木製の独特の造りの建造物で、その美しさと匂いで異国に来たのだと実感した。
ラァスはその家につくと、すぐに着替えた。やや薄手のシャツだった。これから運動するなら、これぐらいの方がいい。今は寒いがすぐに暑くなるだろう。
「ホクトさん、始めよ」
「始めよはいいんだけどなお前」
「うん」
「その、なよなよした態度はどうにかならんのか?」
「なんない」
ラァスは一切の迷いなく即答する。
か弱いふりをして相手を騙す。これもスパルタ教育の成果である。なかなかこの癖は抜けない。
「なぁ、なんで俺までここにいなきゃならないんだ?」
ヴェノムの命令で、無理矢理参加させられるハウルが呟いた。
「いいじゃん。いっしょに『しゅぎょー』しようよ」
甘える舌っ足らずな調子で言うと、ハウルはラァスの後頭部を殴った。
「わざとやるのはやめろ」
「いいじゃん。喜ぶ人いっぱいんだし。
それよりも、ホクトさん、コウトさん、お願いします」
ラァスは二人にぺこりと頭を下げた。二人は顔を見合わせ、ため息をついた。
「じゃあ、まずはお前達がどの程度か見たいから、ちょっとあそこの木まで走って戻って来い。空は飛ばずに」
ラァスは木を探した。少し離れたところに、細い木らしきものを発見した。
ハウルがへいへいとやる気のない返事をして走り出した。やる気のない割には、ちゃんと全力で走っていた。ラァスもその後を追う。折り返し地点に差し掛かる前に追いつき、追い越した。基本的に身体能力はラァスの方が圧倒的に上だ。ハウルは力を使いだすと恐ろしいが、使わなければ恐ろしくもなんともない。
ラァスはすぐに折り返し、ハウルとすれ違い元いた場所へと滑り込んだ。
「……は……速いな」
ホクトが半ば呆れながら呟いた。
「金の聖眼だから、基本的に脚力強いんだよね。毎日走りこめば、足も速くなるのは当然だよ」
悪霊に追いかけられるときが一番全力で走るのだが。
「体力はあるか。なら問題ないだろう。コウト、適当に教えてやれ」
「えっ!?」
声を上げたのは、ラァスとコウト。
「お、お師匠様!?」
「大丈夫大丈夫。お前なら出来る」
「む、無責任な」
「俺よりもお前の方が丁寧な教え方が出来るだろ。いいのか、俺が教えて」
コウトはちらりとラァスを見た。
──そーいえばまだ男だって言ってない……。
ラァスはしばし考え。
──まあいいか。
ラァスは気軽に受け流し、コウトへと微笑んだ。純粋なのか、西大陸の人間が珍しいのか、彼は照れて視線を逸らしてしまう。
「よろしくね」
ラァスが言うと、コウトは大人しく頷いた。
繰り広げられる理解不能な修行を傍目で見つつ、カロンはヴェノムの話を聞いていた。
「呪式のみで術を組み立てることは、実はそう難しいことではありません」
「そんなはずないじゃないですか。簡単なことなら、もっと広がっているはずだわ」
魔道の最先端、理力の塔に所属するメディアが反論する。その反論も当然のことだった。
「感覚をつかむまでが、とても難しいんです。私も作り出すのに、二百年かかりました」
二百年。二世紀。カロンの今までの人生の八倍以上。
「…………そ……それをどうしろとおっしゃるんですか」
メディアが、珍しく声を震わせて問う。さすがの彼女も、こればかりは自信満々に応えられないようだった。
「大丈夫です。ほんの少しだけコツを得る程度の事をします。
それにはここが最も最適なのです。力に溢れていながら、精霊に好かれる条件を持ちながら、力を与えられながら、精霊たちのいない土地。毒であるアイオーンの力の影響すら受け付けない、特異な地」
エノはヴェノムの言葉を真剣に聞いていた。
──真面目な子だな。
アイオーンというものの知識はあれど、初めて見るカロンはラァスのついでに彼女の観察もしていた。
「その代わり、規制される部分があります。だからこそ、この特訓をするにはここが最適なのです。とても行いやすいから」
ラァスは、コウトに何かをされて身体が軽くなったと喜んでいた。
何をされているのやら。
「殿下。聞きたくないのなら、どうぞあの二人の中に混じってきてください。止めません」
上の空のカロンへとヴェノムが容赦なく言った。
「そんなことはない。ヴェノム殿に秘術を教えていただけるのだから真剣に聞いているに決まっている」
さすがにあの二人に混じっては疲れるだろう。無理だ。絶対に。だから、興味のあるこちらに混じっているのだ。
「ここにいる間、少しずつ覚えていきます。そのために、まずは普通に呪式を多重展開する練習をしてくさだい。ここでなら、今までの限界を超えられるはずです。一度越えてしまえば、外界に出ても案外それを再現できるものです。特訓あるのみです」
カロンの限界は五重展開。それ以上は、なかなか集中力が続かないのだ。確かに五重展開が一度出来たときは、何度も繰り返して数週間で完璧に安定させられるようになったものだ。五重展開以上をこなす魔道師など、歴史上の中にもなかなかいない。目の前の生きた歴史たるヴェノムはそれを平然とやってのけているが。
「ヴェノム殿も特訓をしてきたのか?」
「ええ。一人のときは暇なので」
──暇をもてあまして特訓か……。
残念ながら、カロンは暇をもてあそぶほどの時を生きていない。ある意味羨ましく、ある意味そこまでにはなりたくないと考えた。
とりあえず、ヴェノムの言葉どおり、久々に特訓をしてみることにした。
十代の頃に戻ったようで、懐かしい。
そう思う程度には、年を取ってしまったことに気付き、カロンは苦笑した。
翌日の午後。
ホクトはその時、暇にかまけて昼寝をしていた。
弟子たちは他事に夢中で、彼の出番はなかった。だから久々にのんびりと昼寝をしていたわけである。
そんな折、突然コウトが部屋に飛び込んできた。
「お師匠様っ」
「…………っだよ」
ホクトは不機嫌丸出しにしてコウトを睨んだ。怪我をさせてしまったとか、そういったくだらないことだろう。その程度のことはヴェノムに言えばいい。そう思ったとき、コウトは叫んだ。
「ラァスさんが、もう崖歩いています!」
「………………」
ホクトは一瞬コウトを疑った。しかしコウトは洒落や冗談を好むタイプではない。次に自分が寝ぼけている事を疑った。
「師匠! 起きてます!?」
どうやら現実らしい。
「はぁ?」
「来てくださいっ」
コウトはホクトの手を取り引きずるようにして外に連れ出した。寝ぼけている頭をなんとか回転させ、ホクトは状況を把握しようとした。
結局──
「ほらっ」
コウトがほぼ垂直の壁にまっすぐに立つラァスを指差した。危ない体勢ではあるが、それでも確実に出来ていて……。
「嘘だろ……」
「だから言ったでしょう。あの子なら出来ると」
ヴェノムはパラソルの陰に置かれた椅子で、呑気に爪を磨きながら言った。
「何者なんだ?」
「元々、近い力の使い方をしていたのです。少し気を流してもらい、それを身体で覚えてしまえば、この程度のことラァスにとっては難しいことでも何でもありません」
つまり、天賦の才能。
ホクトはバランスを崩して落ち、下にいたハウルに抱きとめられたラァスを見て呟いた。
「なんで魔道師なんかやってるんだ」
「知って損はありませんから」
ヴェノムは答えた。
ホクトがヴェノムに弟子入りしたのも、魔道というものの力の使い方をマスターするためだった。それが大いに役立ったのは確かだ。
「ヴェノム。あいつ俺にくれ」
「ダメです。あげません。ここにいるせいぜい一月の間でどこまで教え込めるかが見物ですね」
ヴェノムは相変わらず無表情に、無感動に言う。
短いと思っていた。短すぎると思っていた
しかし、あれならひょっとしたらと欲が出る。
「あ、ホクトさんだ。見てくれた?」
生気に溢れた笑みを浮かべ、ラァスは走り寄る。その足運びは恐ろしく静かだった。
「明日から、俺が特訓してやる。今日は今のを続けてろ」
「本当に? やった」
ラァスは飛び跳ねて喜んだ。ハウルもラァスの横に並び笑みを浮かべた。
「お前は今のを続けろ。才能ない奴は努力あるのみ」
「俺をそういう肉体派と一緒にするなぁぁぁあ!」
ハウルはすっかりすねてしまいヴェノムの横で自分の爪を切り出したが、ホクトは気にもしなかった。
不出来でやる気のない押し付け弟子よりも、やる気のある押しかけ弟子の方がいいに決まっている。
「覚悟しろよ」
「はーい」
ホクトは明日の事を考えた。
本格的に、始めよう。それには、そのための準備をしなければならない。
強くなることに夢中にさせ、心変わりをさせるため。
ホクトは笑い、倉庫へと向かった。