20 理に外れし者
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色のある美しい料理が目の前に並んでいた。
おいしそうな刺身にも、煮物にもちゃんと彩りに緑や赤などの『色』が混じっていた。揚げ物も彩りがよくとても美しい。
「まあなんて綺麗な料理なの!?」
メディアは大げさに驚いて見せた。
「わぁ、どこぞの釣竿持参男の茶系料理とぜんぜんちがーう」
ラァスが嫌味をふんだんに盛り込みそれに続く。ちなみに、本当に釣竿は持ち歩いているらしい。海が近いので、午後からは釣りなど計画しているようだ。
「綺麗な盛り付け」
唯一アミュだけは悪気なく言う。しかし内容としては同じようなものだ。
「おお、これだ。私が城で食べたのは。この独特の美しさだ」
誰よりも贅沢な生活をしていただろうカロンも絶賛する。今更ではあるが、この男は贅沢の限りを知る男なのだ。仮にも王子が今共に暮らしているのだから謎である。もちろんヴェノムの扱いは王族に対するものではなくとも、普通以上のものである。彼の趣味に使う道具もあれば、食事もいい。しかし最低限の身の回りの事は自分でしなければならない。普通の人間からしてみればかなりいい環境だが、人に命令し自分では何もしないということに慣れているはずの王族が、ラフィニアのおしめを洗濯している姿を見ると、なぜだか無性に切なくなると同時に感動する。
見習うがいい世の男ども、と。
「頂きます」
真っ先に食べ始めたのはその庶民王子の作品、ノーラだった。カロンは娘とも言える彼女にどのような教育をしたのだろうか。やはり実はあまり城にいなかったのではなどと想像してしまう。研究のために、田舎にある空気のいい別荘にでもこもっていたのではないかと。
疑いつつもメディアは席についた。
こちらの文化にはこの一週間ほどで慣れた。箸の使い方はまだ上手くはないが、問題ない程度にはなった。ようはつまめなければ突き刺せばいいのだ。
「ノーラ……何というかお前は。皆を待てないのか」
カロンは意地汚い娘を見て、ほうけているような、ただあきれているだけのような、言いようのないあいまいな表情をした。
「美味いぞ。お前も食え」
ノーラは相変わらず乱暴な調子で言った。
ひょっとしたら、これが彼女なりの愛情表現なのかもしれない。構ってくれない親の気を引くためにグレる子のようなものだろう。メディアは構われすぎているのでグレようとも思ったことはないので、その辺の心理はつかみづらいが。
「……すまない、キリエ殿」
「いや。可愛いじゃないのねぇ」
キリエはノーラを見てしまりのない顔をする。
──カロンの逆ってことは、やっぱりそういう趣味なのかしら。
メディアはアミュを気にしながらも箸を手にする。アミュはぽーっとしているが、馬鹿でもない。何よりも彼女はメディアよりも強い。相手は仮にも神なのだから当然である。元々の器が違うのだ。だから彼女の身を心配するのも馬鹿らしい……はずなのだが、普段の彼女を見ているとやはり心配はしてしまう。杞憂と分かっていても、つい心配してしまうのだ。
──この子もねぇ。もう少しきりっとしてくれたらいいのだけど。
そのうち彼女は実家に戻る。その時、彼女は大丈夫なのかと心配でならないのだ。ラァスに任せておくのも後々を考えると心配である。ハウルほどではないが、邪魔者は容赦なく排除するだろう。彼の場合は暴力ではなく、情報収集し脅迫すると予想される。ハウルのように裏に連れ込んで半殺しの目に合わせる方がまだ扱いやすいのかもしれない。
メディアは悩みながらも煮物を一口食べ、おもわず頬が緩んだ。
「美味しい」
「ありがと、綺麗な瞳のお譲ちゃん」
キリエは座らず、ふすまを開けて部屋の外へと出た。
「おい、そこの。一番いい酒持ってきな。風神様のご子息のおこしだよっ!」
「はーい。少々お待ちください」
ハウルが飲むのだろう。酒癖が悪いような事をラァスは言っていたが、以前飲んだときはそうでもなかったように感じた。
ただ、ふだん彼は自ら酒を飲もうとしない。ヴェノムに飲ませたくないからだ。そしてもう一人酒を飲めるカロンは、泣き出したラフィニアのおしめを取り替えていた。料理よりも酒よりも子育て第一なその主義は立派である。子供は世界の宝である。
「ん?」
アミュに話しかけていたラァスが、突然何かに反応をした。ぱっと見は分からないが、すぐに動けるように構えている。メディアは母親のアルスを観察しなれているので、その小さな変化を見て取ることが出来る。
その時だ。
「お嬢さん! 美しいお嬢さん! ああ、運命とはなんと気まぐれなのだでしょう。私は一目であなたの虜となりました」
突然、奇妙というか奇天烈な台詞が耳に飛び込んできた。メディアの中では最低の位地にランク付けされるタイプの男が、どこからともなく湧いて出てキリエの手を握っていた。
彼女達と同じ西大陸の人間のようだった。とても背が高い。黒髪に、特徴的な紫色の瞳をしている。
──変わった目ね……。
始めて見る色だった。
「ナデシコのようなお嬢さん。もしよろしければ、ぜひ私と」
「やめてください、恥ずかしい!」
その言葉の通り恥ずかしい男を、走り寄ってきた金髪の女性がその後頭部を鈍器で殴りつけた。女性の腕で持てることが不思議でならないサイズの木槌である。しかも男は生きているのが不思議だった。しかしカロンの弟のような例外もあるのだから、それによって騒ぎ立てるほどのことでもない。人間といえども、神以上に謎の存在もいるのだ。
「ああ、すみませんすみません。うちの馬鹿がすみません。ほんとよく言って聞かせて置きますから、気を悪くなさらないで下さいすみません」
ひたすら腰を低くして謝り倒す女性。気持ちは分かる。知り合いがそんなことをすれば、とりあえず殴り倒して謝るしかないだろう。キリエはふっと笑い、彼女の手を取った。
「いいんだよ、そんなに謝らなくても。馬鹿な男のために、何も悪い事をしていない女が頭を下げる必要なんてこれっぽっちもないんだから」
あんたがセクハラしててどうする。
メディアは思いながらも食べ続けた。変人に関わるとろくな事がない。
「あんた今来たところかい?」
「は……はあ」
「ならあたしたちと一緒にどうだい? 今日は珍しい異人が多くて華やかでいいよ」
キリエはケラケラと豪快に笑った。どこかで見たことがあるような気がしないでもなかったが、思い出せない。理力の塔に姉御肌の者でもいて、それの印象なのだろうと自らを納得させた。
「あの……あなたは?」
「ああ、あたしはここの主さ」
「女性でこのような立派な店の。すごいですね」
「馬鹿な弟が家を継がずに遊んでるからね」
彼女は自嘲気味に笑う。愚かな身内をあざ笑ってくれとばかりに。
「へぇ、師匠弟いるんだ」
「ああ。あいつのおかげで、あのヴェノムちゃんに出会えたから、まあよしとしてやってるんだけどねぇ」
彼女にかかればヴェノムも「ちゃん」であるらしい。
「はじめまして、美しいお嬢さん。私は」
「私に触るな」
いつの間にか構わず食事を続けていたノーラの手を、黒髪の男が握っていた。本当に分かりやすい男である。
「貴様、うちのノーラに気安く触れるな」
あからさまに嫌がるノーラを見て、保護者のカロンが彼女を抱き寄せた。ちょうどラフィニアに汁の上澄みを与えていたところだったので、手にはさじとお椀と間抜けな姿である。
「む、何者?」
「人の作品に勝手に触れて、何が何者だ」
外見から推測するに、同年代か黒髪の方がやや年下か。カロンが爽やかな王子なら、彼は甘いマスクのいかにも女たらしの貴公子といったところだろう。背もカロンと同じほどだろうか。
互いに何か感じるものがあるらしく、じっと睨み合い。
「カロン……そんなに見つめて……」
ラァスが感極まって呟いた。
「きっとそれなりに好みのタイプだったんだろ」
「そっかぁ。残念。これで財布が一つ減るけど。得るものは大きいしまあいいか。また運命を見つけておめでとう」
「よかったなぁ。あの変態が他の男に興味もって。本当におめでとうだな」
少年達の会話を聞き、黒髪は一気にふすまの所まで後退した。それを見てキリエが顎に手を当て考えて、
「か、カロンさんって、やっぱりそういう趣味の方だったんですか!?」
まるで存在感をなくしていたコウトが突然叫んだ。
「……そいつと同類ってことは、……ハウル!? なんて誤解をっ!」
「違うのか?」
「あたしゃあねぇ、ただ綺麗なものが好きなだけだよ。女の子はみんな綺麗だろう。だいたい、別に女が好きというわけじゃないよ。男男してなきゃ男でも構わない。ただ、綺麗なものを見てるだけだ。でなきゃあ誰が男を弟子に取る!?」
ハウルは男男している男ではない。現在の彼を女と間違えることはないが、それは体格的な問題であり、昔はそういうこともあった。男の子か女の子かわからない、そんな時代があったのだ。ただ口を開いたとたん、誰もが男だと確信していた。今でも顔だけを限定してみれば、男だか女だか一瞬迷うこともあるだろう。
ハウルはその整った顔でふっと笑う。何を考えているのかは知らないが、決して喜んでいないのだけは見て取れた。
「まさか、師匠の口からそんな言葉を聞こうとは……」
「失礼な男だね。追い出すよ」
「そう言うなって。ただ、師匠を見てると誰だってそう思うって。なぁ、ラァス」
話を振られたラァスは首をかしげた。
「そんなことないよ。初対面でいきなり襲い掛かってきたカロンに比べれば、普通の範囲内だよ。カロンなんかと比べたら失礼だよ。人として、最低限言っちゃいけないことがあるって覚えておいたほうがいいと思うよ」
どっちがとメディアは思うが、気にせず食べ続けた。しかしラァスの言葉に一人ショックを受けるカロンの手の中からラフィニアが抜け出したのを見て、ようやく彼女は手を止めた。
「ラフィ。だめよ」
彼女は金髪の女性の足元まで行くと、くいくいとそのズボンのすそを掴んだ。反対側では、ルートが擦り寄っている。
──何?
変なフェロモンでも出しているのだろうか。
「あら、可愛い」
彼女は微笑むとしゃがみ込んでラフィニアを抱いた。ラフィニアは上機嫌できゃっきゃと笑う。
「可愛い。羽の飾りがすごくよく似合って可愛いですね」
ラナはラフィニアに頬をすり寄せた。
「本当に可愛い。俺とラナに子供が出来たらこれぐらい可愛いんだろうなぁ」
いつの間にか黒髪が戻ってきていた。
「ヴァルナ、夢物語は寝て見てください。でも本当に可愛いですね。この羽どうやって取り付けて……」
「本当にまるで本当の羽み……本物!?」
黒髪──ヴァルナが大げさに驚いた。
「ばぁ」
ラフィニアはヴァルナにも手を伸ばした。人懐っこい赤ん坊である。少しも人見知りをしないのは、かえって心配である。
「よかったな、ラフィ。お姉さんが抱っこしてくれて」
「おにいさん。子持ちの変態ですが、今後よろしくお願いします」
ラァスはラフィニアが黒髪を気に入ったのを見て、頭を下げて頼んだ。
「ラァス君、別に好みとか好みでないとかは問題ではない。私は君が好きなのだ。それにラフィは娘ではなく愛すべき妹だ」
「ちぇ」
ラァスは残念がるふりをした。本気で思うほど馬鹿でもないし、本気で言うほど馬鹿でもない。彼はカロンのことにはもうなれてしまっているから。
「でも、ラフィは元々人見知りしないけど、あんな風に誰かに懐くのは珍しいね」
アミュが小さくつぶいた。それを見て、ハウルがルートの首根っこを掴んだ。
「お前も、女の人の足にしがみ付いてるんじゃない。ガキじゃないんだぞ」
「ハウル、ルートって孵ってから十年ぐらいだって言ってなかった?」
十歳。十分子供である。
「珍しいですね、白竜の子なんて」
ラナがルートへと微笑んだ。人の良さがにじみ出るような笑顔である。
「ああ。俺が卵から孵したんだ」
「……卵」
ラナはルートを凝視した。竜は卵生だったのかと悩んでいるのだろう。メディアなどは逆に竜は卵から生まれるものだと思っていた。見た目は爬虫類に近いので、何の疑問も持たなかったものだ。世間も竜は卵から生まれるものだと思っているらしい。
「始祖……」
「ああ。今抱えてる赤ん坊もな。こっちがルートでそっちがラフィニアってんだ。可愛いだろ」
ルートはひたとラナを見つめていた。
──一目ぼれかしら?
メディアの知っている始祖の竜、ミンスもまた母アルスに一目ぼれしたらしい。一目ぼれしやすい種族なのだろうか。嫌な種族である。
ラナとヴァルナは顔を見合わせた。
「お前達、何をしている?」
低く抑えられた冷ややかな声音が二人へとかけられた。黒のフードを被った少年だった。
「げ、ザイン様」
「げ、ではない。行くぞ。まったくこの忙しいときに」
踵を返した少年の後をヴァルナが追う。
「あの、この子」
「ああ、すまない。ありがとう」
ラナはラフィニアをカロンへと返し、最後に小さく頭を下げて二人を追う。
「……なんだったのかしら?」
「さあ。よくわからなかったから」
アミュがお茶を飲みながら言った。
「何が?」
「ほとんど分からなかったの。感情が。もやもやとしていたみたいだけど。分からなかったから。まるで……」
いいかけてアミュは言葉を呑んだ。
「どうしたのよ」
「やっぱり違うや」
「何が?」
「不思議な人たちだったね」
不思議なのはアミュに関しても同じである。人の心の起伏が伝わってくるくせに。
店を出るとハウルは釣りに行きたがった。しかし、長く居座ってしまったので、そこまでの時間もなく今日のところは帰ることが決定した。決定したのは一番発言力があるというか押し通して逆らう者には容赦ない言葉を浴びせるメディアである。
ラァスもそろそろ帰っていろいろとしたいと思っていたので、賛成した。いやむしろ、朝の活気ある町に比べ、今の町はそれほど魅力はない。日によってはそうでもないようだが、今日は何の催し物もない退屈な日である。一週間後に大きな市が開かれるらしいので、その時にまた遊びにこればいいと説得し、今まさに帰っている最中だった。
カロンはノーラと手をつないで空を飛んでいる。精霊とは便利なものである。もちろん、精霊は人など足元にも及ばない力を持つ場合があるが、受ける制約は大きい。自由に見えて、自由にならない部分がそれなりにある。しかし作られたノーラなら、時々カロンにチェックしてもらわなければならないという程度だ。人間が定期的に健康診断するのと同じだ。
ルートの背には、行きと同じメンバーが乗っている。その後をハウルが追うように飛ぶ。
「うう。これさえなければ毎日でも通いたいけど」
「目隠し耳栓して来い。何も見えずに聞こえずにってーのが一番楽だろ、お前のような奴のばあ……」
ハウルが言葉を詰まらせた。饒舌な彼が珍しいと目を開けると、ルートがバランスを崩すのが目に入る。
「ルート!?」
ハウルが声をかけたが、ルートは高度を下げていく。ほとんど落ちているに近い。それでもルートは背の上に乗る三人を振り落とさずに墜落した。幸いすぐそばに崖があり、その上へと彼はたどり着いた。距離が足りずに下に落ちていたら、悲惨なことになっていたかもしれない。
彼が落ちる様は着地ではなく、墜落だった。足で降り立つことすらしなかった。背の上には三人はいない。途中でコウトが二人を抱えて飛び降りたのだ。
ハウルも慌てて皆の元にかけつける。
「ルート、どうした!?」
先に駆けつけてルートを調べていたコウトが振り返る。
「矢です」
「矢?」
ラァスは耳を疑った。
「矢で打たれています」
二人がルートを見ると、ぐったりとした様子の彼の腹に、確かに矢が深々と刺さっていた。鋼と例えられる竜の皮膚を、たかが矢で貫いたのだ。
「嘘だろ!?」
ラァスも思ったが、それよりももっと気になることがあった。彼のサイズから考えれば、この傷は大した深さではない。人がナイフで刺されるよりもずっと軽症だ。それにしては、妙にぐったりとしていないか。
「これ、毒が塗られてるんじゃない」
「っ!?」
ハウルが狼狽のあまり口をぱくぱくと開け閉めする。舌が回らないようだ。
「確かに、毒だな。早くどうにかしなくては」
「でも、ここ魔法使えないよ。少し戻らなきゃ」
ものの三分ほどで境界につく。ノーラさえいれば、運搬に関しても問題ないだろう。解毒も治療もはラァスとカロンのどちらでも出来る。
「誰がこんなひどいことを……」
メディアが周囲を見回した。
問題はそれである。
運ぶにしても、今のルートの巨体では、どうしても目立ってしまう。そこをまた射られたらたまったものではない。
「私、お師匠様を呼んできます。ここからだと、近道を通って数分で帰れます」
コウトは立ち上がる。
ここから数分が帰り着ける距離ではないはずなのだが、地元の彼が言うなら間違いないだろう。
「お願い」
ラァスの言葉にコウトは頷いた。そして、人知を超えた速度で走り去っていく。ラァスよりも確実に足が速かった。
──やっぱり奇人変人摩訶不思議な世界の一人だったんだなぁ、コウトも。
真面目で地味なので、その可能性を否定していたのだが……。
「……誰か近付いてくるよ」
ラァスは身構える。
何にせよ、竜を撃ち落すほどの弓を持つ者が只者であるはずもない。そして、人の乗る竜を毒矢で射落とす者に悪意がないはずがない。
地を踏み、徐々に近付いてくる。気配を書くそうとはしていない。ラァスは近付く気配に隠し持ったナイフを投げる。
「ごめんなさい」
女性の声がそう言った。ナイフを手に、金髪の女性が現れた。
「さっきの……」
「ラナです」
彼女はにこりともせずに言った。手には弓。そして大きな筒。
「あんたが?」
「はい。やりました」
低く、冷たさを声に含ませて。
「なんで……なんでルートを」
ハウルは憎しみを込めて彼女を見た。彼女は少し目を細め眉を寄せた。
好んでしたことではないようだ。
「これが仕事だからです」
「竜狩りか!?」
危険ではあるが、実入りがいい仕事である。竜は高く売れる。竜のすべての部品は高級である。物の素材としても、食材としても。
「どうとでも思ってください」
「どうとでもって……」
ラァスはふと思うことがあり振り返った。
彼女には二人、仲間がいた。
「カロン!」
「っ!?」
ラァスの声を聞き、カロンは振り返る。
「おや、残念」
崖の上に浮かぶ、やけににや付いた笑顔で黒髪の男が言う。
「振り返らなければ、あんたは死なずにすんだのに」
呪文はなかった。一瞬にして呪式を幾重にも展開した。今まで見た中で、一番素早く完璧な式。
「死ね」
にやけた表情に相応しくない式が発動する。
水の術。
理解できたのはそれだけ。
「カロンっ!」
カロンはわずかに手を動かした。
ヂっ。
何かがこすれるような音がわずかに生まれ、放たれた術は消え、カロンは尻餅をついた。
生きている。
「結界か? 俺の術を防ぐなんて……」
そんなことをするそぶりはなかった。もしやカロンは常に結界を張っているという案は一瞬で却下した。力に上限のある人間には不可能なことである。
「あっ、バリアー」
「ああ、バリアーね」
「ば、ばりあ?」
アミュとメディアが二人だけで納得する姿を見て、一人二人とは違う発音で口にして、ラァスは首をひねる。
「バリアーって……」
「改造は成功したの?」
「いや。まだだが、少し発動しやすくしておいた。まさかこんな所で役に立つとは……」
「名前はまだ決まってないのね?」
「……考えたが人に教えるのはどうも恥ずかしい」
カロンは背負い紐を外し、ラフィニアをしっかり抱きなおしてヴァルナを睨みつけた。
「いくらラフィニアが将来美人確実だからと言って、誘拐を目論むとは……なんて卑劣な」
「誰が誘拐するかっ! 童女ならともかく、乳児に興味はない!」
カロンはふざけた事をいいながらヴァルナと距離を置いた。緊急事態だというのに、意外にお茶目な男である。
「ハウル君。ラァス君。気をつけろ。彼らの狙いは始祖だ」
「始祖?」
ハウルが問う。彼はルートから毒矢を抜き、傷口に薬を塗りこみ始めた。解毒効果のあるものだろう。ヴェノムの薬なら、それだけで何とかなってしまうかもしれない。もちろん安心できることではない。一刻も早く治療をしてやらねばならない。
「おそらく彼らは始祖狩りだ」
「何だそれ。何で始祖を狩るんだよ」
「知らない。ただ、最近始祖がよく殺されている。世界中で卵が破壊されているらしい。ラフィニアの事を知るために調べていたら、そんな話を聞いていたが、どうやら甘く見ていた」
元々強い力を持つことの多い始祖を殺してまわる。それを甘く見るとは何事だと思いはしたが、確かにこれほどまでと思うのは怯えすぎている。
この魔法を極端に封じられる場所で自在に魔法を使うなど。
──使えたら、逆に強くなるからより厄介か……。
「始祖狩りですって? なんで罪もないこんな幼体の竜と赤ん坊を殺そうとするの?」
杖を構えたメディアが言う。魔法しかとりえのない彼女が前に出るのは危ないので、ラァスがその脇に立つ。
「それは言えないな。こっちは血も涙もない上司の命令で仕方なくやっていることだからなぁ。守秘義務って奴だよ、五年後に期待の綺麗なお譲さん」
「何が血も涙もないよ。二人ともあんなに懐いてたのに。始祖が寄って来るような匂いでも撒き散らしてるの?」
それならば合点がいく。さすがにルートの様子は普通ではありえなかった。この毒もやはり危ないだろう。とにかく、早くヴェノムを呼ばなければならない。
「存在自体が罪になることもあるんだよ、お嬢さん」
「お黙りなさい! このにやけ最低下劣恥男!」
メディアの口上に慣れない彼は頬を強張らせる。メディアは黙っていれば物静かで賢そうな女の子なのだ。
──まあ、これが魅力でもあるんだけどね。
自分に向けられると涙が出るほと落ち込むが、嫌いな相手だと爽快感すら与えられる。これは一つの才能である。
ラァスはハウルに貰ったナイフを握り締めた。斧は使えない。魔法が使えないから、影の中にしまってあるのを取り出すことが出来ないのだ。
どう攻めようか打算するラァスの横へ、突然アミュが進み出た。
「どうして存在が罪なの? 始祖はアイオーンと違って、何にも影響なんて与えないんでしょ?」
「どうしてって……それは守秘義務だから言えないな。こちらはただの雇われものだから」
アミュの瞳に暗い色が浮かぶ。
──あ……怒った。
いつものほほんとマイペースな彼女がだ。まるで父親と出合って、顔をあわせたときのような目をしていた。彼女は炎。炎とは、静かなる温もり。そしてまきをくべれば雄たけびを上げるように勢いよく襲い掛かる。とても感情の起伏が激しいのが炎に属する者の特徴。アミュも例外ではない。ただ、燃料となるモノが滅多に存在しないだけである。
「理由が言えないなら、絶対に許さない」
ラァスは鳩尾の辺りに嫌な疼きを覚えた。昔、彼と同じ事をしていた。雇われて人を殺して。仲間達は今もそうしている。そういうものが出来てしまうのも仕方ない世の中だと知っている。
理由などはない。仕事だったから。
「そうだな。個人的に理由なら……あるよ。俺は逆らえないようにで来ているから」
「……」
「俺の主は特別でね。その配下が俺の中にいるんだよ」
彼はにやりと笑う。
その瞬間、彼の顔から表情がなくなった。紫の瞳がアミュを捉える。
雰囲気、まとう気配が異質になった。
これはまるで……。
「神」
アミュのつぶやきに、ラァスは眩暈を覚えた。