23 春の日差し暖かく

1

 泥の中に倒れ込む。その大地と水の匂いを嗅ぎ、精神が安定する。
 汚いとは思わない。それは自然だ。大地だ。
 殴られた腹が痛いが、奥歯を強く噛み、ゆっくりと起き上がる。
「っしゃあ! 次いってみよぅ!」
 ラァスは空元気を振り絞り、再びホクトへと立ち向かう。
 術の補助なし。魔力による『力』も使わない。それで自分がどれだけのことが出来るのかをラァスは試している。力が互角なら、勝敗を決するのは経験と技術。経験と技術に関しては、男も女もない。元々から存在するハンデは力と体格差だけ。ラァスの体格はよくない。だから力で補っていたが、それも無意味。そうなれば、やはり技術。
 付け焼刃でも、ないよりはマシ。ド素人ではないのだ。元々学んでいた者が、さらに学ぶ。それは短期間であっても、ある程度は身につく。別に奥義を教えろといっているわけではないのだし。
「ラァス、あまり無理するなよ」
 ホクトは構えもせずに言う。
「平気平気」
 足に震えがきているのをホクトは見逃さなかったようだ。しかしラァスは笑顔で返す。
 大きく息を吸う。何度か呼吸すると、身体が楽になる。
「……器用だな。教えられてもいないのに、それが出来るか」
「何?」
「いや、なんでもない」
 ラァスは跳躍する。着地と同時に足に力がかかり、少し腹が痛んだ。それだけだ。
「僕、タフなのが取り柄だから」
「しかしな」
「世界一美しいゴキブリ男って言われたことあるぐらいだし」
「誰が言ったんだ、それをお前に」
 ラァスに向かってゴキブリという人間がいるのが信じられないのだろう。もっと言い方があるはずだ。まるでダイアモンドのような頑丈さ、とか。
「……ハウル」
「なるほど」
 ホクトは納得して構えを取る。大きな動作はない。相手の力を利用するように、ゆったりとした構え方をする。力を利用せず、相手の力を利用する柔拳。どうにも距離が取りにくい。近付いても、間合いが分からない。届くと思っても届かない。届かないと思ったものが届く。
 そういった、不思議な動きだ。
 サリサよりもやりにくい。
「んじゃ、続けるか」
 ホクトが言って、ラァスが動いた。
 悔しいから。必要だから。そして、今が楽しいから。


 ちょきん。
 はさみが白い糸を切った。
 エノがそれを見て、その部分をかざす。作り上げたそれの全体を見て、それからそれを持って移動した。ノーラはその後に続いた。
「何か用?」
 エノが振り返る。
「別に」
「……別にいいんだが」
 彼女はノーラを気にしつつも、居間へと足を踏み入れた。
 春に冷たい床を裸足で寒くはないのだろうか。カロンなど、いつも毛糸の靴下をはいている。それとも、人ではないからだろうか。しかしそういう理屈で言うならば、人間であるホクトとコウトが裸足である理由が説明できない。
 精霊のノーラには関係のない事なのだが。
「……それをどうするんだ?」
「これをラフィニアに」
 居間でヴェノムに抱かれてスティック状のにんじんをしゃぶるラフィニアは、自分の名を呼ばれて反応を示した。
「のぉ!」
 彼女はエノを『のぉ』という。ちなみにノーラのことは『のぉあ』だ。聞き間違える場合が多い。ちなみにカロンのことは最近『きゃあお』と呼んでいる。彼女なりの愛称であるらしい。
「あら、可愛らしい」
 この国独特の染料で染色をされた、西の大陸で買えば馬鹿高くなるような布で作られた服だった。中に綿が詰められているので、暖かそうである。暖かいというのの何がいいのかは理解できないが、それが暖かそうなのは理解できた。彼女は熱を感じないわけではない。それにより不快を感じないだけである。
「半端な布が余っていたから。大人の服は作れないが、赤ん坊ならと思って。明日は祭りだ。この国の雰囲気を味わうのもいいだろう」
 ヴェノムは早速ラフィニアの服を脱がせた。ついでにおしめの様子を見て、もらしていたので取り替えて着替えさせる。綿の肌着の上にそれを着せる。羽があるラフィニアは、何を着るにも背中に穴が必要だ。エノが作った服も、背中に切れ目が入っていた。その切れ目は、紐で編み上げ隙間を最小限にするようになっている。
「あ、可愛い」
 アミュがやってきてラフィニアを抱いた。カロンに似た青い瞳でアミュを捕らえ、彼女に手を伸ばす。誰にでも懐く赤ん坊だ。
「よかったわね、ラフィ」
 完成したのかしていないのか、呪いの人形片手にメディアはラフィニアを撫でる。
「エノちゃん、服も作れるんだ。器用だね」
 アミュが褒めると、エノはくすりと笑う。
「何もしていないのが嫌いなだけ。何もしていないと、夢の中にいるように感じて、孤独で怖いから」
 ノーラは戸惑う。何もしないのが怖いとはなぜだろうか。何もしていないときは、カロンに作られたときの事を思い出す。初めて外に出たのはいつだっただろう。始めに見たのはカロン。おはよう、と声をかけられた。ぼんやりとした世界が鮮明になった瞬間だった。世界に色が増えた。認識が増えるということは、色が増えることに似ている。夢の世界よりも、現実の色のなんと多いことか。ひょっとしたら、エノは色の少ない世界が嫌いなのかもしれない。ノーラの場合、カロンに触れられていた記憶が残っているから、それもまたよい思い出だ。少ない彼女の人生経験の中でも、印象が内容である時。それは人の子供が母親の胎内にいた事を覚えているということに似ていると言われた。生まれるまでというのは、最も無防備で最も安堵する時なのだと認識している。そうでなくて、なぜ曖昧な時を覚えているというのだろう。
 ラフィニアにとっては、卵の中というのがそれだったのだろうか。孤独だったのだろうか。だから今、自分にむけられる意識にすべて好意で返すのだろうか。自分を孤独でない誕生をさせたカロンを好いているのだろうか。
 他人の気持ちは理解できない。
「殿下に見せてあげようね」
「そうね。あの娘馬鹿のことだから、きっと狂喜乱舞するわ」
「…………」
 ラフィニアはいつも可愛い服を着ている。もちろん彼女には羽根があるからオーダーメイドだ。ノーラは周囲の魔素を服にしている。ある程度の妖魔でもこのように肌を隠す物を身につけている。だから精霊であるノーラもそうしている。
 だからこそ、何かを与えられたことはない。
 二人の人の少女達は外で『練習』を続けるカロンの元へと走る。なぜかラァスの見える場所にいるあたりが最悪だった。男狂いなど情けない。
「殿下、見て」
 アミュの声にカロンは振り返り、怪訝もあらわに立ち上がる。
「なんだい?」
「ラフィ」
 差し出すと、その瞬間にカロンの表情が崩れた。
「ああ、ラフィ! なんて可愛いんだ!」
 アミュの腕からラフィニアが飛び上がり、カロンの腕の中に収まった。カロンは頬擦りなどし始めた。
 以前あれを一度だけされたことがあるのだが、その時は研究に明け暮れていて無精ひげなど生えており、気色が悪かったという記憶しかない。現在は意中の相手の側ということもあり、どんなに忙しくしていようとも、身だしなみだけはしっかりと整えているが、研究中のカロンは他人に見せられたものではない。あの格好付けが、無精ひげを生やして何日も同じ服を着ているのだ。そういう時はノーラも見かねて洗濯をしてしまう。
「お前は私に似て何を着ても似合うな」
「あんた妹とか言いながらそれ娘の扱いよ。だいたい、血も繋がらないくせに」
 メディアの適切な言葉にノーラは心から賛同した。彼女とは、どこか通じるところがありそうだ。しかしカロンは眉をひそめた。
「しかし、実際に私に似ている気がするのだよ、この子は。ルート君もどこかハウル君に似ているところがある。ひょっとしたら、自然に孵らなかった始祖は、孵るのに吸収した魔力に影響を受けるのかもしれないな」
 カロンは頭の上にのぼったラフィニアが落ちないように支えながら言う。カロンの頭は彼女のお気に入りの特等席だった。
 ノーラはそんなラフィニアを眺める。
 普通の存在ではないのは同じ。しかし、彼女は自然に生まれた。自分はただ作られた。その違いは何であろう。
「ノーラさん?」
 アミュがノーラを見上げた。ノーラは女性としては長身の部類に入る。元々性別を考えずに作られた。いや、むしろ男性にしようとしていたに違いない。だからこそ、少し大きめに作られた。
「元気?」
「ん、元気だ。問題ない」
「ならいいけど……」
 アミュの言葉にカロンはノーラの頬へと手を伸ばした。
「本当に元気か? 最近ずっと調子を見ていないから、万が一ということもある。お前は繊細に出来ているから、何かあれば言うんだぞ? 何かあってからでは遅いからな。もしものときは一度家に帰るから。相手を殲滅させてでも」
 ノーラは複雑な気持ちになる。
 実際に調子はいい。この国は町でも空気が綺麗だ。精霊も多い。そういった場所で体調を崩したことはない。
「大丈夫だ」
「本当に大丈夫か?」
「お前はラフィニアを心配していろ。余計な世話だ。私はただの作り物だろう」
「何を馬鹿な事を言っているんだ」
 カロンはノーラの額を小突く。
「お前も私の家族だ」
 ノーラは口に出しかけた言葉を飲み込む。
 桃色の花の花びらが一枚、彼女の足元に落ちた。


 祭りだ。祭りである。毎年恒例らしい春祭り。
 桜舞落ち、風が吹けば吹雪となる。
 この世で最も美しいのは散り行く瞬間。
 そう。それは人にも言えること。
「桜の似合う可憐なお嬢さん。俺と共に、今夜二人で夜桜でも」
 黒髪に桜を飾らせた年上の美女にヴァルナは声をかける。
 ごっ!
 いつものように、超絶怪力美女の投げたハンマーが側頭部に当たる。魔術で防御していなければ、人であるこの身、この頭は棒で叩かれたスイカのように、真っ赤な血を撒き散らしながらはぜ割れていたに違いない。
 ──今思えば、この前の男のあの『ばりあー』とやらは便利そうだったなぁ。
 防御はしているが、その支えたる自分の足には何も細工していない。彼は当然吹き飛ばされ、横倒れになる。そんな中考えたのが、そんな考えだった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。この人頭おかしいんです気にしないで下さいごめんなさい」
 謝り続けるラナは、謝りながらヴァルナの頭を踏みつけた。残念ながら彼女はズボンをはいている。スカートなら、根性で中身をのぞいてみたい気もしたが、その時はやはり命がないかもしれないと思いやはりズボンでよかったと安堵する。
「えといや……その、私用事があるので。さ、さようならっ」
 身の危険を感じたのか、美女は顔を引きつらせて逃げ去った。
 ──ああ、さようなら異国の美女よ。
 逃げ去る萌黄色の着物を着た美女は、逃げながらも淑やかに走っていた。着物が走りにくいというのもあるが、その姿がたまらなく色っぽい。なんていい国なのだろう。
「まったく、恥ずかしい」
 ラナはヴァルナを踏みにじるのをやめて言った。
「あの、町中で人にハンマー投げつけて踏みにじるのは、ナンパよりも恥ずかしくないことなんでしょうかとか思うんですけど」
「貴方が普通にしていてくだされば、私だってこんなはしたないことはしません!」
「男の一人寝がどれほど空しいものか、ラナには分からないだよ」
「分かりません。ほら行きますよ。ザイン様が遠く離れて他人のフリしてるじゃないですか」
「ああ、あそこで一人普通人のフリをして遠巻きに見ていらっしゃりやがりますね、俺達の極悪非道の中ボスが」
 誰が中ボスか。
 視線にそんな意図を含み彼は睨みつけた。
「まったく、お前達ときたら……。もう少し静かに出来ないのか?」
「ほら、これもラナとのスキンシップですよ。こうやってラナが嫉妬してくれるのが俺のたのしっ……」
 ヴァルナは股間への蹴りを、寸のとこで受け止めた。さすがに言葉が出ない。
「…………」
「…………」
 二人は無言で見詰め合う。時が止まったのではないかとすら思われるほど、沈黙の長い攻防戦。
「お前たちはなぜいつもいつも喧嘩ばかり……」
「ザイン様のような朴念仁には、この愛の形が理解できないんですね」
「これを愛というなら、私にも理解できません」
「私はお前達を見ていると、自分が真人間である錯覚を覚えてしまう」
「それはないです」
 二人同時に言うと、ザインは少しふて腐れて歩き出す。
「それに、俺らは仲良しですよ」
「中のお二人のように嫌いあっていないことは確かです」
 ヴァルナはラナの肩に手を回す。とたんに彼女は紫の瞳でヴァルナを睨んだ。
「やめてください」
「思うにいっそ、俺達が結婚してしまえば、中の二人も仲良くならずにはいられないんじゃないかと思うんだ」
「私はそんなことのために人生の墓場に足を踏み入れたくありません」
「そんなおっさんのような言葉を……。いいかいラナ。結婚とは二人の絆をより深く、ふかぁくするもの。決して人生の墓場なんかじゃないよ」
「そりゃあ貴方は結婚しても変わらず女性を追っかけているでしょうから変わらないんでしょうね」
「はははは」
 ラナは筒の中に作り出した異空間から取り出したウォーハンマーを手にし、ふるふると身体を振るわせた。
 そんな姿すら美しい。ラナは戦女神よりも勇ましく美しい女性である。
 そんな時だった。
「げっ」
 見てしまった。それを、ヴァルナはその目でしかと見てしまった。それは『彼』の興味を示すには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
 支配されるではなく、何かが胸の内に沸き起こるような、そんな感覚。
 染められる。
 言葉では言い表せない感覚の後、ヴァルナは完全に支配され、ダーナとなる。
「あら、ひょっとしてダーナ様?」
 ダーナはラナの言葉も聞かずに、それの元へと歩み寄る。
 その、黄色の物体を見て、くつりと笑った。
 凶悪な女よりも、こちらの方がダーナにはよほど興味のあるものだった。

 町へ降りると、やはり人が溢れていた。エノの手製の着物を着たラフィニアはカロンの頭の上にしがみ付いている。ただでさえこの国では目立ちすぎる長身である。その上赤ん坊を頭に止まらせた西方人。
 コウトは少し離れた位置からそれを見ていた。
 目立つ一行である。
 毛色が違うからとか、そういう意味ではない。
 色々な意味で、存在するレベル、世界が違うのだ。
 コウトはあの中に混じろうとは思わなかった。ホクトは平然と混じっているが、コウトはただ一人、少し離れたところでその集団を見ていた。
 珍しい光景に、エノも含めて浮かれていた。
「コウト、あれは何だ?」
 エノは一番後ろを歩くコウトに問う。関わりたくはなかったのだが、仕方なく答える。
「輪投げです。あの立っている棒に輪を投げ入れると、その前に置いてある景品がもらえるんですよ」
 エノは輪投げに興味を示したらしく、それをじっと見た。否。その景品の中にある髪留めに使うような飾り紐を見ていた。
「あれが欲しいのか?」
 ホクトの問いにエノは頷いた。彼女は長い髪をいつも布の切れ端でくくっている。女性なのだから、こういったものに憧れるのも仕方がない。
「エノちゃん、髪飾り欲しいの? よかったら僕のあげようか?」
「……お前の……って、石がついていたりする派手なのか?」
「ふつうのリボンとかあるよ」
「いらない」
 シンプルなものが好きな彼女は、やはりああいったシンプルな飾り紐がいいのだろう。
 そんな会話を繰り広げている間に、ふと気がつけばハウルとカロンが並んで輪投げを始めていた。あれこれだ、やれこうだと、なかなか楽しげに遊んでいる。
「ほぉらラフィ、キレイな人形だぞ」
「ほれ、紐」
「ラフィ、変な玩具だぞ」
「クシ」
 カロンとハウルは交互に景品を取っていく。半分の確率で景品を取った二人は、満足げに立ち上がりまた歩き出す。
 エノの手には紐とクシが残った。
「ハウルはホクトと違ってけっこういいところがあるな」
「おにいさんって、けっこうプレゼントが好きなの」
 結局何もしなかったホクトは、エノに軽く睨まれた。ラァスは名誉挽回とばかりに、エノの髪を三つ編みに結った。人ごみの中歩いてそれをするのだから、器用な男だ。
「エノちゃんの髪さらさらだねぇ。キレイ」
「お前の髪もきれいだ男なのに。いかにもリボンが似合いそうだ」
「そんなに褒めちゃいやん」
 金色に輝く髪を見せ付けるかのように首を左右に振る。さらさらとした髪はふわりと広がり、しかし乱れることなくまとり元の位置に収まる。
 自慢するだけはあり、日々泥を被る生活を続けながら彼は少女のように美しい。少女でないことが未だに不思議なほど、彼は可憐である。
 ──ここまでなりたいとは思わないなぁ。
 十人並みと言われようが、ここまで遠い世界に居座るよりはずっといい。
 その時だった。
「おう、コウト!」
 知人の呼び声に引かれ、コウトは皆から離れた。
 屋台を構えている知人を見つけ、そこへ走る。人の流れは多い。この国の住民は祭りが好きだ。昼間から皆飲んで歌っって遊んでいる。
 そんな中、この知人は毎年のように屋台を開いていた。綿菓子を作っている。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「はい、元気です。お師匠様も思ったよりも良くしてくれます」
「そりゃそうだろ。あの若旦那は口は悪いが立派な人だ」
「そうかなぁ……。強い人だとは思うけど、立派とまで言うと違和感が……」
 と、そこでコウトは気がついた。
 綿菓子屋の右側から『ぴよぴよ』といった音がしていた。それは知っていた。毎年見るひよこ屋だ。小さな頃に買って、大きく育てたら父親に食べられて泣いた記憶がある。
 そんな苦い思い出のあるひよこ。
 ひよこの前にしゃがみ込み、熱心にひよこを眺める男がいた。短い黒髪に、腰を落としていてもその全長の高さが予測できる、背の高い細身の体格。そして、整った西大陸独特の掘り深い顔立ち。
「ぴよぴよぴよぴよ」
「ぴよぴよぴよぴよ」
「なんい愛らしい生物なのだろうか。このまま全員持ち帰りたいぐらいだ」
 無表情に可愛くも騒がしいひよこ達を愛でる、見覚えのある顔をした西大陸の男。
 コウトはその異様な姿に、逃げるのも忘れてただただ呆然自失の体となった。

 ハウルは戦利品の一つの砂糖菓子を食べていると、前方から見覚えのある女性と男性がやってくるのを発見した。
「お、師匠達」
 料理の師匠キリエと、釣りの師匠カトウだ。
「師匠!」
 ハウルが手を振ると、二人の師は彼らに気付いた。キリエの目はヴェノムただ一人を捕らえていた。
「ヴェノムちゃんっ」
 キリエはヴェノムに駆け寄り、そしてカトウに後頭部を殴られる。
「何をするんだい、このオヤジは」
「人様に突撃してんじゃねぇよ、このオバン」
 見た目若いカップルに見える二人は互いをど突きながらこちらへと来る。そして、
「げ、ホクトじゃないか」
「げっ、とはなんだよねーちゃん」
 姉。姉とはもちろん姉のことだろう。姉とは血が繋がっていて、兄弟である。そう、まだ幼く一度しか会ったことのないが妹ヒースとハウルのような関係である。
「こいつら姉弟なのか!?」
 ハウルは衝撃の事実に驚愕して声をあげた。
「はい。正真正銘血のつながった」
 だからこそ、ヴェノムはキリエを知っていたのかもしれない。かつての弟子の姉。知っていてもおかしくはない。キリエも以前から家を継がずに遊び暮らしている弟がいると言っていた。それがホクトのことだったのだ。
 確かに、人から見ればあの生活は遊んでいるように見えるのかもしれない。生活の支えはヴェノムに習った魔法により、人々を治療することらしい。もちろん医学の知識も必要なのだが、日々汗を流して働いているわけではないからどう思われても仕方がない。
「そういえばわが道を行くところなんか似てるかも」
「ハウル! 師に向かって恐ろしい事を言うんじゃないよ!
 この男はね、前々から決まっていたにもかかわらず婚儀から逃げ出し、家の財産持ち逃げして自称留学をした馬鹿だよ。今は仙人とか言われてるけどね、あたしからしてみればただの甘ったれたいい加減な男だよ」
 ホクトは顔を引きつらせたが、しかしすぐに思いなおしてくつりと笑う。
「馬鹿かねーちゃん。誰があんなおたふくと、親が決めたからって結婚できるかっ!」
「お前、おたふくだなんて女性を馬鹿にしたような事をっ。おたふくだって可愛いじゃないか!」
「何より、俺は料理は食えりゃそれでいいし、女だってほどほどの容姿でもいい。なのに料亭の亭主になった挙句、ほどほど以下のおたふくとなんて結婚できるかっ」
 両者の言い分は理解できる。が、突然往来のど真ん中で本人達にしか分からない口げんかというのは非常に恥ずかしい。やるなら、もっと密室に近い場所ですればいいものを、何を考えて生きているのやら。
 離れゆく皆に従い、ハウルはヴェノムと共にこそこそとその場を離脱する。
「なあ、師匠ってそんなに歳食ってたのか? ホクトさんって、実年齢三十過ぎなんだろ? ホクトさんが見た目若いのは納得できるけど、師匠が二十代にしか見えないのは少しおかしくねぇか?」
 ホクトは二十代後半に見える。しかしキリエは二十代前半。ホクトが三十代というのは、少し若く見える程度で通用するが、キリエの場合は無理である。
 ヴェノムは遠巻きに二人の口論を眺めながら答える。
「理由は簡単ですよ。人魚の肉を食べたからです。人魚の肉は儀式を行って食べると不老になりますが、普通に食べても老化を遅らせることが出来ます」
「いやあの……どうやって普通の人間がそんなものを」
 人魚とは魔力、腕力共に強い種族だ。それを食べようと思うなら、それこそ竜殺しをするのと同じぐらいの気持ちでかからねばならない。いや、群れがいるのだから、それ以上の覚悟が必要だろう。復讐される可能性が高い。二人は普通の人間ではないものの、それは中身の問題であり、戦闘能力は並みの人間程度である。
「カトウが釣ったそうです。そしてその場でキリエがさばいたそうです。こちらの人魚は、嘆きの浜の人魚よりも魚に近い姿をしていますから。本人達は、食材程度のつもりだったらしいのですが……。
 人魚の方も、まさか釣られると同時に喉を切られるとは思っていなかったのでしょう。人魚達の慢心が招いた悲劇ですね」
「抵抗する間も仲間呼ぶ間もなかったのか……」
 人魚を釣った場合というのは、当たり前だがそれをした本人は驚く。その間に逃げてしまうのが大半である。
 二人の師匠の異様さは知ってはいたが、さすがにもう言葉も出ない。
「ハウル、この人の手を握ってくるお兄さん誰?」
 カトウはラァスを一目で気に入ったらしく、カロンの殺意にも気付かず彼の手をなでなでと触っていた。中身は立派なオヤジである。
「ああ、それは俺の釣りの師匠のカトウ。キリエの方と同じ趣味で、男女の隔てなく可愛いのが好きなんだ。気をつけろラァス。お前男だけど可愛いから」
 ラァスは慌ててカトウの手を振りきり、全身の鳥肌を立てて自分の身とアミュとメディアをカロンの背後に隠した。
 それがある意味一番安全だろう。
「天女様がいるなぁ」
「むっ」
 カロンの頭の上で羽をぱたぱたとさせているラフィニアを見て、だらしなく顔を緩めた。危険を感じたのか、カロンは背後の少年少女三人を庇いつつ後退する。
「カトウ師匠、おびえてるからやめろ」
「ハウルは相変わらず可愛くなくなったな。ちぃせぇ頃はそりゃあもう可愛かったのに」
「はいはい。それよりも、あれ止めろよ」
 カトウは振り返りキリエを見る。漁師と料理人以上の関係を持つ親友たる二人は、生まれた頃からの付き合いらしい。よって、知り尽くしているとも言えた。
「ああなったキリエはほっとくしかねぇ。下手に近付くと、出刃包丁がな……。仮にもホクトの姉だけあって、強いんだよあいつは」
「料理人の命を振り回すのか」
「人間も所詮は肉だからな。ヤツにとっては牛や馬と大差ない」
「うわこえ」
 危ない女だとは思っていたが、ここまで来ると関わっていていいのだろうかとすら危ぶまれる。その時だ。気付いたのは。
「あれ、コウトは?」
「さっき歩いているときに知り合いに呼ばれてどこかへ行った」
 それを確認していたらしいエノが言うと、
「お譲ちゃんも可愛いなぁ」
「寄るな変態」
 エノの隙のない構えを見て、カトウは彼女へ近寄るのを止まった。彼女へ近付けば打撲程度で済めばよい方である。元々ヴェノムが本気を出そうという相手なのだから。力を抑えられているとはいえ、ただの天才釣り人が敵うはずもない。
「ホクトもいい加減にしないか。せっかくの楽しい日だとと言うのに、なぜ実の姉と喧嘩をするんだ」
 真面目なエノはホクトを嗜める。
「そういう運命なんだ」
 何が運命なのだろう。ただの姉弟喧嘩であるというのに。
「お前、身内のいない私達がかわいそうだとは思わないのか?」
 重い言葉だった。
 エノが言うと、とても重い言葉だった。
 ホクトはエノのことを知っているはずだ。静寂と孤独を恐れる彼女の恐怖を知っているはずだ。
「そうだそうだ。僕もお母さんいないし、父親に姉弟揃って売られたぞ!」
 ラァスはその場の空気を蹴散らすように言った。彼もまた身内が独りもいない者の一人。それを見てカロンも参戦する。
「私だって、両親はいないし、唯一まともだった兄は実の弟に殺されたようだし、一番下の弟はヴェノム殿に求愛する究極の変人だし。そんな私よりもキリエ殿の方が何十倍もいいだろう!」
「待ちなさい殿下。その言い方では私に求愛しているのが変質行為のようではありませんか」
 カロンはヴェノムに胸倉を掴まれ、青ざめて謝り倒した。
 ──まあ、一般人がヴェノムに求愛するのは確かに変だと思うけどな。
 ご先祖様レベルの年寄りの妖怪ババアである。見た目がいくらよくとも、関われば愛だの恋だのと言う気持ちになる者は滅多にいない。
「私もお母さんいない」
「私も父親と兄が死んだわね」
 アミュとメディアも身内を思い呟いた。
「なんて可哀想な子達なんだいっ!」
「すまねぇ。すまねぇなホントすまん」
 喧嘩をしていた二人に慰められ、皆は曖昧な表情を浮かべた。
 一人両親妹祖母健在のハウルは、肩をすくめてヴェノムの横顔を見下ろす。
「それよりも、コウト遅いな」
「コウトか。あいつもこの町の生まれだから、友人と遊んでんだろ」
「そうか。んじゃ俺達も遊ぶか」
 こうして、皆はコウトの事を忘れることにした。

 

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