23 春の日差し暖かく

 

4

 背後から追いついた神官達は、彼らを見て迷わず呪文の詠唱を始めた。
「清らかなる 流れる 深きに住む汝ら水底の者達よ」
 水に干渉する呪文。ただカロンの感覚からすれば、少し長い。
「形変え 冷たき息吹となり敵を撃て!」
 いくつもの氷の矢が出現し、こちらを見る二人へと向かう。一人ではなく、三人分の術だ。普通ならば、即死。
 しかしヴァルナは手を前に差し出すだけだった。ただそれだけの動作で、氷の刃は消えてしまう。
 熱で溶かしたのではない。彼が干渉したのもまた水。どうやら、水を扱う術を得手としているらしい。
 カロンはラフィニアを抱きしめた。彼らが見つめているのはラフィニアと、ハウルが背負っている袋から顔を覗かせているルート。
 カロンは反射的に逃げようとして気付く。建物内に逃げれば、下手をすればこちらが不利。空に逃げたとしてもそれはそれで不利になるだろう。なにせ、彼らにはもう一人確実に仲間がいるのだから。
 自分がラフィニアを守るよりも、確実な方法があることに気付く。
「ノーラ、ラフィを」
「……私が?」
「ああ。お前なら、いつでも逃げられるだろう」
 彼女は頷いた。
「いいのか、大切なラフィニアを私に任せても」
「いいも何もないだろう。ラフィニアはお前にとっても妹のようなものだろう」
「……わかった」
 ノーラはラフィニアを抱くと、ハウルからルートも取り上げた。
「待って、たまごっ!」
 ルートが叫んだ。ラナの腕の中には、大きな卵があった。カロンが孵したものよりは、ほんの少し小さな卵。ラフィニアもノーラの手の中で暴れていた。卵の元に行きたいのだ。
 ──兄弟、か。
 彼らにとって、あの卵は兄弟なのだ。血の繋がりを知らぬ彼らは、そういった存在の繋がりが本能的に分かるらしい。ひょっとしたら、生まれる前は共にいたのかもしれない。
「なんてタイミングの悪い時に……。って、ヴァルナは何壁にもたれかかっているんですか!? 真面目にやってください!」
 女の方──おそらくまだラナなのだろう。眩暈起して倒れかけたヴァルナを叱咤した。
「だから、ラナの放置プレイのせいで風邪を引いたって言っ……げほげほっ」
 ──何をしていたんだこの二人は……。
 唯一理解できたのは、主戦力が仲間に風邪をひかされて少し有利になったということ。
「馬鹿じゃないあんた達」
 前に出ようとした将軍の行く手を塞ぎ、真夏の涼やかな突風に似た、刹那の破壊をもたらす台詞を口にしたのはメディア。
 彼女は二人を鼻で笑い、ほぼ人を殴るのに使用されている杖を腰のベルトについた、金属の輪に通す。ホルダーになっているようだ。
「お譲さん、どいていないと怪我をしますよ。私は出来れば無関係な人間は傷つけたくないんです」
 その言葉に、メディアは鼻で笑った。
「あなた馬鹿? 怪我をさせたくない相手が後ろにいるから前に出るんじゃない。偽善者ぶらないでくれる?」
 メディアは縁側から庭に飛び降り、杉の木の前まで行くとローブの懐に手を入れた。取り出したのは──
「とりあえず、一人確実に潰させてもらうわ!」
 いつぞやの木彫り人形を木の幹にたたきつけ、五寸釘をセットし、木槌を構えた。
 あの呪いは、この国の伝統的な呪いに近い方法。
 ただし、普通人前では行わない、普通夜にひっそりと行う。当たり前だが、本人の目の前では絶対にやらない。
 それらのセオリーを無視して、メディアは木槌を打ちつけた。
 ガン!
「うっ」
 ヴァルナは胸を押さえて膝を付く。
 ガン!
「ぐあっ」
 ガン!
「何やってるんですか? あんな子供の呪いを真に受けるなんて」
「無茶を言うな!」
「……あら、ダーナ様? 大丈夫ですか?」
「大丈夫なものか! 呪殺用の術だぞ! しかも変なアレンジが加えられて呪詛返しが出来ん」
 メディアは金槌を振るう手を止め、呪殺セットを懐にしまった。人形には釘が刺さったままで、ダーナは冷や汗をかいていた。
「メディアちゃん、珍しいね。トドメささないなんて」
 ラァスが不満げにメディアへと訴えた。
「私はトドメさしたことなんてないわよ!」
「いや、精神的にさぁ」
「防がれたみたいだから、続けても嫌がらせにしかならないわよ。返されても私はぜんぜん平気だけど、その分周囲に行くこともあるもの。アミュやラフィみたいなか弱い女の子にあたったら危ないでしょ」
 ──男はいいのか……いや、ヴェノム殿達もいたな。
 彼女は何をしても大丈夫だという確信があるからだろう。他は興味もないのだろう。
「あなた、下がっていなさい。あなたのようなおちびちゃんの敵う相手じゃないわ」
 将軍は庭でふんぞり返るメディアへと言った。
「お黙り! 誰がチビだっていうの失礼な奴ねっ!」
 事実なのだが、メディアはひどく傷ついたらしい。ホルダーから杖を抜き取りダーナへと構えた。
「この二重人格! 覚悟なさい!」
「好きで二重人格してるわけじゃないんだけどな」
 口調と顔つきがヴァルナへと戻っていた。メディアの顔がさらに歪む。
 ダーナが引っ込んだことに対して、侮られたと感じているのだ。
「ここが聖域でなかったこと、後悔させてあげる」
 メディアは言って呪式の展開と呪文の詠唱を始めた。
「ヴェノム殿、止めなくてもいいのですか?」
「見守りましょう。そのうち彼女も満足するはずです。この狭い場所では、黒魔術を得意とする彼女にも有利に働くでしょう。それよりも、あの逃げ出した女性を捕らえましょう」
 ダーナにきをとられているうちに、ラナは走り出していた。
 それを見て真っ先にラァスが動いた。
「おねぇさん、待って!」
 ラナはちらと振り返りラァスを見た。
 その時には、呪式の構成は完璧に出来上がっていた。モノクル越しに、彼の周囲に呪式が幾重にも広がっていた。今のところのラァスの限界、四層の呪式だ。複雑な呪式を作るに必要なのは単純に才能だ。四層というのはよくできている方だが、メディアの作る六層の呪式には見劣りする。その分彼は身体を張っているのだが。
「繋がれし永劫の罪人よ 汝が罪を分け与えよ 我が望むは理の牢壁」
 ラナは顔を顰め足を止めた。目には見えぬ壁が彼女の行く手を塞いだ。罪人に関わる罪が具現化された物を召喚するシリーズのその術は、ただただ術との相性が必要なだけで、召喚自体はさして難しくない。だが、その威力は確かだ。
 ラナはそれを本能的に感じ取り、足をを止めた。触れて死ぬことはないが、タダではすまない。彼女は卵を持ったまま庭へと廊下から飛び降りた。
「通さん」
 庭を走り来た将軍が、その行く手を塞ぐ。女性ながらも足が速い。他の神官たちは、やや遅れて包囲に参加した。
「こっちもとーせんぼ、ってな」
 宙から舞い降りたハウルは、くつと笑って屋根の上に降り立つ。
「……どいてください」
「どかねぇよ。その卵を渡してくれりゃあ別だけどな」
 彼女は小さく肩をすくめた。
「どうしてもどかないの?」
 表情ががらりと変わる。彼女は卵を片手で持った。ボールか何かを扱うように。
 自らを囲む三人を見て、再び笑う。
「そんなに死に急ぐ必要があるの?」
「死ぬ気はないし、その子も死なせないよ」
「術が使えるからって、強気になってるの? 言っておくけど、私もダーナほどではないけど、やれるわよ」
 ラァスが話しかけている間に、呪式を展開していた将軍達をちらと見る。
「氷の中で眠る者よ その凍れる牙を」
 将軍は術を解き放つ。かすかに見えた白い牙は、サリサの元へ届く前にぱんと音を立てて消え去った。
「得意は結界なのよ。昔は聖職者してたこともあったから」
 信じられない内容だった。彼女が聖職者になれるなど、どこのずぼらな神だろうか。
「ぼーや達。それとそこの女。世の中にはねぇ、どうしても越えられない壁があるのよ。そして、防ぎようもないことがね」
 サリサは卵を持つ手を振り上げ、それを地面に叩き付けた。


 メディアはいくつかの術を試したが、あっさりと防がれる。
 即死魔法もあったが、彼にとっては魔術を使うことはどんな動作よりも容易なことのように見えた。メディアよりは、よほど風邪の方が強敵だとばかりにせきを繰り返し、鼻までかんだ。そのくせ、こちらには何もしてこない。その視線の先にあるのはヴェノムとカロン。そしてノーラの腕の中にいる子供達。
 向こうを見ると、その短い間にラァス達はラナの行く手を塞いでいた。
 この男は、相方を逃がしてから自分は余裕で逃げる気なのだろうか。自分に防げない術はないと思い込んで。
 ──上等じゃないの!
 メディアは目を伏せ呪文を唱える。
「溟々なる水紋の守護者よ 我は鍵を持つ者なり 古き契約によりその扉開きその威を我に」
 左腕に痺れが走る。この術を使うときはいつもこうなる。術の使用を終えてもしばらくはこの状態が続く。それが対価。それを差し引きしても価値のある術だ。
「……それは水門開放!?」
 ヴァルナの顔が引きつった。
 水門の鍵を持っているということによほど驚いたのだろう。水門に集まるのは世界の暗黒。不の力の吹き溜まりだ。鍵を持つとは、水紋の番人と契約を結んでいるということなのだから。
 メディアの目の前に、水たまりが出来た。水底から湧き出る水紋。
「開きなさい! 水紋の扉!」
 水紋が闇に染まる。闇が気体のように立ち上り、生き物のようにうねる。
 腕に激痛が走る。骨が折れたときよりも痛かった。歯を噛みしめ、その痛みによる怒りをすべて目の前の男にぶつけた。
「さあ闇よ、喰らいなさい」
 メディアは闇を操りヴァルナへと仕向けた。
 腕ある感覚が、痺れではなく激しい痛みへと変化する。扉を開けている故の痛み。闇を引っ込めれば痛みだけは消え、再び痺れとなる。当分あれは呼び出せないだろう。
「なぜ鍵を」
「知らないわよ」
 生まれる前に契約を交わしていたらしい。
 生まれる前──前世という意味だ。知らない時。それでもこの痛みと闇の深さだけは懐かしい気がした。
 そして今の彼女にこれをくれたのはカオスだ。もしものとき、痛みに耐えられるなら使えと。
 痛い。気が遠くなるほどの痛みだ。それでも前世の自分は操っていたのだろうか。だからカオスは教えてくれた。魂にまで刻み込まれた縁しを。
 闇がヴァルナへと進む。決して速いとはいえない動きだが、逃げ続けるなど不可能。人の走る速さよりは確実に速いのだから。しかし彼は咳き込みながら呪文を唱えて逃げに入る。
「卵っ!」
 大きな、耳に響くほどの叫びが上がった。直後、ラフィニアが泣き出した。
「?」
 メディアが痛みに耐えながらルートの視線を追った。
 ラナがいた。彼女の手の中に卵はない。地面を見ると、叩き割られた卵があった。
 中身はない。すぐに卵の殻はぼろぼろと崩れ風化し、この世界から消えた。
 まるで何もなかったように。
 彼らは元々何もない場所から生まれる。生まれてようやく形となる。だからこそ、彼らは生まれなければ存在しないに等しい。
「っ」
 殻は完全に消えてしまった。
 ラナはヴァルナを見て微笑む。
 ──殺したくせにっ
 頭に浮かんだのはラフィニアでもルートでもなく、ミンス。大切な友人であり、父だった。この世で唯一、アルスと同じほど大切な血の繋がらない家族。
「っのれ……」
 闇が速度をあげてラナへと向かう。
「ダーナ!」
 ヴァルナだかダーナだかは、唱えた呪文を完成させる。
 ──これは。
「来たれ、潜む者」
 召喚術。
 人の形に似た黒い魔物が現れたのは、闇の直前、ラナを庇う位地に。メディアが止める間もなく闇はそれを飲み込み、瞬時にして門の中へと戻って行った。魔物はこの世から消え、水紋は世界の果てへと潜っていく。
「その術の弱点は、一度飲み込んでしまえばすぐに引き返すことだ。その上操るのには膨大な魔力と経験がいる。召喚する時間さえあれば、恐くもない。失敗すれば術者はかなりの魔力を消費してしまい無防備になる。残念だったな」
 ダーナはくつくつと笑った。
「しっかし、今時の子供はぶっそうねぇ」
「将来が楽しみでいいだろう」
「障害になるならその楽しみを摘み取らなければならないのよ。私は別に子供を殺すのが楽しみというわけでもないのにね」
「躊躇いもしないくせに」
「当然よ。一番可愛いのは自分だもの。ダーナ、あんたはそっちの邪眼の魔女を。その小さな魔女はしばらく使い物にならないでしょうけど気をつけてなさいよ。私は他を」
 サリサは背負っていた筒の中からモーニングスターを取り出した。
 普通の女性でも一撃で人の頭を砕くことのある武器だ。馬鹿力の彼女が扱えば、当たれば即死は逃れられないだろう。
 戦力外扱いされたメディアは、左腕を杖で殴り、それから再び呪文を唱えた。片腕が不自由だといつもの感覚と違うので、ろくな呪式を組み立てられない。ただそれだけだ。疲れもしたが、気力を振り絞ればできる。この手で、絶対に。
「メディアちゃん。今はやめておこう」
 アミュがメディアの腕に触れた。彼女と顔を見合わせると、何を考えているか理解できない赤い瞳がメディアの姿を映していた。その、考えが分からないところが好きだ。共にいると落ち着く。それは火を見ているに似ているかもしれない。
 小さな炎を見ていると、どうしようもなく落ち着くあの感覚に。
「おねえさん達に任せよう。みんな、とても怒っているから、前に出ると危ないよ」
「でも」
「メディアちゃんは危ないことしたらだめだよ。メディアちゃんは、ちゃんと心配しているお母さんもいるんだから」
 メディアは返す言葉もなかった。やりきれない怒りはすっと冷めていった。それでも静かな怒りはあるのだが、熱くなっていたという自覚を出来るほどにはなっていた。
「……それもそうね。巻き添えはごめんだわ」
 メディアはアミュの腰を抱いて宙に浮く。そのまま屋根の上に上がると腰を下ろして傍観を決め込んだ。
 アミュの身体は熱かった。怒りに身を熱くさせていたのは、彼女も同じだったのだ。


 エノはホクトを見つめた。彼は金髪の女と向き合っていた。女性に手を上げる事を苦手としている彼だが、決断すれば容赦はない。容赦できる相手でもない。
「あらぁ。けっこうまともなのが出てきたじゃない。私は元神官戦士のサリサ。よろしくね」
「俺はあの山の管理人のホクト。最後になるかもしれねぇがよろしくな」
「あはは。言えてるわ。最初で最後の挨拶ね」
 サリサはモーニングスターを筒の中にしまい、中から槍を取り出した。その物理的に不可能な光景に、神官たちはぎょっとする。高等技術だが、魔術によって影に異空間を作り出しそこに物を入れるということは可能だ。しかし普通は自分の影の中にしまうものだ。自分自身の影は常に自分の側にある。ただ、それだと取り出すのにも手間がかかる。ヴェノムほどになれば簡単な術で引き出せるようだが、普通の者には簡易的なものだとしても儀式が必要となる。ホクトであっても、多少の時間を要してしまう。
 しかし常に影が出来る筒を、影封じの術をかけた魔具にしてしまえば、そちらの方が使い勝手はいいかもしれない。手放してしまえばおしまいだが、物であれば取り出すための儀式を必要としない細工ぐらいは出来るのだろう。彼女達はただものではないようだから。
 彼女は筒を背負いなおし、ホクトへと槍を向けた。
「僕らは無視って?」
「そういうことだろ」
 ラァスの不満にハウルは応え、指を弾く動作をした。それだけでカマイタチがおこり、サリサの周囲の植物をなぎ倒す。しかし彼女は傷一つついていない。
 ラァスは顔を顰めた。
「つまり、僕らは無視しても支障ないレベルってこと」
「だろうなぁ。妖怪同士だし」
 ハウルは屋根の上から降り、将軍達を守る位置に立つ。
「誰が妖怪よ。ダーナははじめから妖怪だったけど、私は元々は普通の人間よ。ザイン様に出会って人生変わったけれどね」
「普通の人間が、始祖の卵を割れるかよ!」
「力の込め方次第よ。叩きつける力と、地精たちの力を利用すれば。それに好きで割れるようになったわけじゃないもの。好きでこんな事をしたわけでもないし」
「言い訳も言い分も聞く耳もたねぇ! てめぇら、生まれる前の子供を殺したんだぞ!? よく平然としていられるなっ!」
 ハウルの声に含まれた怒りは大きい。彼の常は春の日のような柔らかなものだ。しかし今は北風のように硬く冷たい。
「だって、他人だもの」
「てめぇ……」
 彼女は地の悲鳴を聞いただろうか。
 力と共に毒素を封じている今のエノにはその声は聞こえない。だが、きっと彼らは悲鳴を上げただろう。ノーラの腕の中でじたばたとする始祖の二人のように声をあげただろう。そしてきっと泣いている。
 精霊達は彼らを愛しているから。
「しかし、今のはお前が悪かったと私は思うぞ。何も、あのように残酷な事をしなくとも……」
 魔道師のダーナはわずかに目を伏せて言った。悲鳴を聞いたのだろうか。
「ダーナ、あんたどっちの味方よ」
「どちらでもない。お前を味方だと思ったことは一度もない。
 子供を泣かすな。精霊達を無意味に乱れさせるな。有翼人が泣いてしまって、精霊達がさらに戸惑っている。おかげで場が乱れて、ろくな術が使えない。そんな中で邪眼で睨みつけられる身にもなれ。私はお前と違って、ただ魔力が強いだけの普通の人間なのだからな」
「あんたが普通なら、世の中が変だって言うつもり? だいたい、防いでるんだからいいでしょ。あと、私もあんたは敵だと思ってるから。今も昔もね」
 言ってサリサは不機嫌な表情のまま動いた。
 素手のホクトへと槍を繰り出す。ホクトは一歩前に出て槍の軌道を右手で逸らした後にその柄を掴み、前に出した足を元に戻すようにしてサリサを引き寄せた。
 サリサは袖の中に隠し持っていたナイフを手にし、にやと笑う。
 エノは目を伏せた。
 血の匂いがした。
 人の命の匂い。それはエノの好物でもあったが、彼の元に来てからは一度も口にしたことはなかった。あるとすれば、自分が流したそれだけ。
 目を開けると、両者は離れて対峙していた。
 腹に傷を負ったのはホクト。打撃を受けたのはサリサ。
 両者すぐさま傷を癒し始める。サリサは顔を殴られて、憎悪に満ちた目を彼に向けた。
 エノは拳を握り締めた。
 彼女が下手に動けば、それこそまた封じられかねない。いや、消される可能性の方が大きいだろう。
 影響力がありすぎる。
 それでも、彼の血の匂いをかいだことにより彼女は動揺した。
「ホクト!」
 サリサが叫んだエノを見た。後ろから襲い掛かったラァスをいなして、それでもエノを見つめた。ダーナも彼女を見つめた。二人はエノを見つめた。
 そして、サリサが口を開く。
「ザイン様っ!」


 突然、空を見ていたザインが立ち上がり、コウトの首根っこを掴んだ。突然のことにひよこ達は驚いてピョピョピョピョっと合唱した。
 気がつくと、知らない場所にいた。まず太い木が見えた。視線を右にずらすと、目を丸くするラァスがいた。
「あっ」
「コウト!? なんでそいつと!?」
 コウトはほんの少し悲しくなった。このような状況は考えていなかったようだ。
「ふん。こないだの小僧に邪眼の魔女か……。さすがにこれぐらいになると、お前達でも手間取るのか?」
「違います! ザイン様、あそこにアイオーンがいました!」
「……なに?」
 彼は首をかしげた。
「どこに?」
「だぁかぁらぁ、そこの女!」
 サリサなのだろう。短気に怒りながらエノを指し示す。コウトの心臓が跳ね上がった。
「……本当だな。確かに気配はする」
 焦った様子もなく彼はエノを見た。彼女はコウトを見つめ手を胸の前で合わせていた。
「……気配だけ、ね。どういうこと? 暴れもせずにおとなしくしているアイオーンなんて」
 ザインは空いた片手を唇に押し当て考える。それは何度か見た動作だった。彼の癖なのだろう。
「……そうか……あの山のせいか。あの山がここまで力を抑えるものだったとは。そういえば、一年ほど前にアイオーンの気配が現れて間もなく消えたことがあったな。誰かが見つけて退治したのかと思っていたが……」
 アミュと出合ったのは夏の日のこと。春となった今、もうすぐ一年だ。時期的に見ても、その可能性が高い。
「じゃあ、あれは今のところ問題ないのね?」
「今のところはないな。害もなく、その上正気を保っているなら問題はない。
 ところで、だからお前も、ここに来ていたのか? 流砂」
 ザインは振り返り見つめたのは、灯篭。
 その中から、突如少年が顔を突き出した。まるで心霊現象である。
「あ、ばれた?」
 白い布で髪を覆っていた。はみ出した前髪は金。瞳も金。幼い子供の姿をした地の精霊。
「時々様子を見に来ていたんだよ。もしものときは、私が殺せって。害がないなら、彼女を偏見から害しようとするするものにお仕置きしてやれってさ。地神様直々のご命令」
 監視されている可能性はエノも口にしていた。ホクトは問題ないと言っていたが、これほど幼く見える外観の者に見張られていたということに、コウトはほんの少しだけ驚いた。
「では、私の邪魔をしろとは言われていないはずだな」
「そうだね。私がこの件で顔を見せたのは、私自身の意志。地神様は関係ないよ」
 彼、もしくは彼女はくすくすと笑う。子供じみた仕草が、かえって子供らしくないように見えた。全身を現さず、石の中に下半身を置いたまま笑う子供。
 不気味だと感じてしまうのは、人として当然だろう。
「邪魔をするな」
「卵を壊すことは、邪魔しなかったよ。世界に祝福される存在を壊す事を黙認した。私にとってはこれが精一杯の譲歩。生まれていないから、死んだことにもならないから許した」
 ザインは唇を歪ませる。
「そういう考えもある」
「だから賢いやり方をするなら、生まれてから殺せばいいんだよ。そうすれば、君達の考えからも矛盾しない。でもそれをしないということは、やっぱり非情になりきれていないんだね」
 意図を掴みかねる会話だった。始祖が増えないようにするのが目的であれば、卵のままでも問題はないはずだ。
「君たちのことも否定は出来ない。でも、私にとって始祖の死は胸がつぶれるような思いがあるんだ。君たちのように、人の体の中で守られていないから。
 だから一つだけ言っておくよ。私は君達があの幼い始祖達を殺したら、その親である彼らに君たちの身元を明かすつもりでいるから」
 ザインは小さくした打ちした。コウトを掴む手にも、わずかに力が入った。
「そしてあそこの彼は風神様が可愛がっている実の子。
 君の大切なご主人様がどうなるか、考えてから行動した方がいい」
 ザインの顔が歪み、不機嫌をあらわにした。そしてコウトの首を掴んでいた手を離す。
 コウトは慌てて彼から少しの距離を置いた。
「脅しているつもりか?」
「さぁ。少なくとも、私は君たちの仲間ではない。気持ち的には、彼らのほうに近い。でも手が出せないから口を出す。ただそれだけ。地精って、そういうもんでしょ?」
 くすくすと笑いながら、その地精は石の中に引っ込んだ。ザインはただその見えぬ姿を睨んでいた。
 顔色を悪くしたダーナは、こほこほとせきをしながらコウトの元へと走り寄った。
「ダーナさん、ものすごく顔色が悪いですが大丈夫ですか?」
「問題ない。邪眼のせいでよけいに熱が上がっただけだ。
 それよりも、二人をありがとう」
 コウトはしばし迷った後にダーナへとひよこ達を渡した。怯え騒いでいたひよこ達は、ダーナの手に渡るとぴたりと鳴き止み落ち着いた。
「ダーナさん……あなたのような優しい人が、こんな事を続けるなど間違っているとおもいます」
「私は優しくなどない」
「でも……」
「そのようなことを言われたのは初めてだ」
 ダーナはかごを抱えて、目を伏せた。ひよこ達は再び鳴き始めた。先ほどまでの恐怖は感じられない。ただ腹がすいたとばかりに鳴いていた。
「ダーナ。今回の目的は果たした。帰るぞ」
「承知」
 ダーナはザインの元へと歩き、その肩に触れる。不満顔のサリサもヴァルナに倣い、肩に手を置いた。
 他の誰も動かない。いや、動けない。
 ザインに近付くことが出来ない。ホクトですら、硬直している。
「騒がせたな。コウト、結局ただ連れ回すだけになって、すまない」
「コウト……達者でな」
 ザインとダーナ。二人はコウトに向けて別れを言い、この響きが消えるか否かという瞬間に、その姿を消した。
 理解できないことばかりで、本当に何が何だか分からなかった。
 それでもコウトは、安堵した。
 知っている人を、彼らが殺すことがなくてよかった。少なくとも、悪い人達ではないのだから。


「流砂とかいうあいつ、一体どこに行きやがった!?」
 怒れるハウルは肩を震わせそれでも我慢ならずに木を蹴った。
 あれから、皆は神殿から出てキリエの屋敷へと落ち着いた。
 それでもこの憤りは消えない。落ち着かない。
「ハウル、人んちの庭木に八つ当たりはやめな。みっともない」
「でも師匠」
 一部始終を傍観していたキリエは、ハウルを鼻で笑った。
「あれを探してどうするつもりだい? 奴らの居場所を聞き出すのかい?
 やめときな。少なくとも、拷問しても口を割らないような奴もこの世にいる。他人を巻き込むなんて、空しいだけだよ」
「でも……」
「でもじゃないよ。まったく、そんなんだから、いつまでたってもお子ちゃまなんだよ、あんたは」
「…………」
 ハウルはふてくされてそっぽを向いた。
「いいかい。仇を討ちたいなら自分の力だけでやりな。それが男ってもんだよ」
「……ど、どうしようヴェノム。師匠がまともなこと言ってるぜ」
「失礼な男だねあんたは」
 キリエはハウルの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。力強い中にある、優しさを感じられる行為。ハウルはしょんぼりして肩を落とした。
「あとホクト、あんたはあたしに何を隠している? あの山は何なんだい?」
 キリエはハウルから離れて、座敷で酒を飲むホクトに問う。
「……あそこは、世界にいくつかある点の一つだ」
「点?」
「世界にはいくつかの結び目がある。世界の中心点は太陽神が守っている。他の点も、近い場所にいくつか規則正しい配置で存在する。それらは皆、二級神以上の神が守護している。だが、あの山はその規則性から外れた場所にある。だから、理の狂っちまた場所になった。理が狂っているから、神にはこの山は視点が合わずに見えねぇんだ。知っているはずなのに、気にも留めない。精霊の中でも、見えるのは元々あそこで生まれるか、ひねくれた奴らだ。
 元から正常でないから、エノがいてもそれ以上場が狂うことはねぇ。ただそれだけの場所だ」
 キリエは理解した様子もなく、眉根を寄せて縁にどかりと座り、そこに置かれた酒をぐいと飲む。
「あんたのしていることは、危ないことじゃないのかい?」
「危ないな。あの聖域の特殊さを利用しようと、妙なものが紛れ込む。だから、管理者がいる。管理者はいつも人間だ。精霊も神も、この場所をないもののように扱う。ひょっとしたら、この場所は奴らにとっては禁忌なのかねしれねぇ。この場所は知っていても神は守らせないんだからな。
 だから俺は次の管理人になるべく、強くなるために世界を旅した。最後に行き着いたのが、ヴェノムだったんだよ。
 ねーちゃんに理解してくれとは言わねぇよ。前の管理人に声をかけられたときは、俺もしばらくその重要性を理解してなかったんだ。
 今は俺が管理人だ。ねーちゃんがなんと言おうが、山を離れられねぇ。出てくるとしても、この町までだ。それ以上は、よほどのことがない限りは禁じられている。
 今は、エノもいるしな」
 ホクトは傍らで酌をするエノの頭を撫でた。エノは目を細め、それを受け入れる。
 知らぬ間に、二人にはどんな絆が出来ていたのだろうか。一年にも満たない月日だが、人生観が変わるには十分に時だ。
 実際、ラァスと出合ったのも一年前。
 ラァスがアミュに出合ったのも、ホクトたちが出会うよりもほんの少し早いだけ。一年未満で、ラァスはずいぶんと変わった。アミュも変わった。大人しいだけだった彼女が、今では自分の意見を言う。
 ハウル自身も変わっただろう。
「そうかい。じゃあ好きにしな。どうせ戻ってきても追い出すだけだからね。
 あたしゃ明日からミワと一緒に、陛下の元へ行く」
「ミワ……あの女将軍か」
「そう。大変な場所に居合わせちまったからね。ミワ一人じゃ可哀想だろう。
 だから、帰るときにうちに挨拶に来てもあたしはいない」
 この言葉はハウルに向けられたものだった。ハウルは寂しく思い、彼女の横に座る。
「師匠、また来るから」
「ああ、いつでもおいで。好きなだけ美味いもん食わせてやる」
「だから師匠好きなんだ」
「現金な子だねぇ」
 キリエはハウルの額を小突く。ヴェノムはその光景を見つめ、茶を飲んだ。
 それまで大人しくしていたラァスは、にたにたと笑ってキリエの前に座る。
「キリエさん。ちょっと嫉妬深い奴ですが、今後ともよろしくお願いします」
 言って礼儀に則り手をついてわずかに頭を下げた。
「任せときな。こいつは一生可愛がってやる」
「まだ言ってるのかお前ら!?」
 ハウルはふざけるラァスに掴みかかった。彼はたくみにそれをすり抜け庭に逃げる。そんな鬼ごっこを楽しみながら、ハウルは日が落ちるまで遊んだ。
 国に帰るのは、もうそろそろだ。
 

 

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