25話  大地の国



 スプーン一つでひっくり返ったテリアは、死んだように動かない。
 メディアが近寄り杖の先でつついたが、起きない。
 カロンはハウルの肩に手を置いた。
「ハウル君。人殺しはよくないぞ」
「スプーンで死ぬか。最期までなさけない奴だ。ざまあみろ」
 よほど彼のことを憎んでいるようだ。祖母と関係があったというただそれだけでこの態度。もしもヴェノムが誰か新しい恋人を得た時、彼はどうするのだろうか。
 ──考えるまでもないか。
 ラァスという暗殺を得手とする友人もいる。メディアという呪いを得手とする友人もいる。そして本人は神。この魔の手をくぐり抜けてヴェノムとつきあえる男など、神クラスでなければ不可能である。しかもその背後にはウェイゼルがいる。二級神程度では恐ろしくて近づけないに違いない。火神はありえない。地神は妻子がいる。水神は女性の人格。残るは太陽神と死神なのだが、太陽神は引きこもり、死神は多忙の日々を送っているらしい。
 ヴェノムは永遠にハウルの祖母という立場にいるだろう。
 ──可哀想なヴェノム殿。
「テリア、大丈夫ですか?」
 ヴェノムはテリアの頬を指でつつく。少しのばした爪が突き刺さっているが、気を失った彼は起きる気配もない。
 もちろんハウルは不機嫌そのものだ。
「あっれぇ、師匠、どうしてテリアさんがそこで寝てるの?」
 ラァスの声が廊下から響く。無事に返してもらえたようだ。
「あらラァス、クリス様をお連れになったの」
「うん。師匠に会いに」
 ラァスがテリアを飛び越え、アミュの元へと駆け寄った。その後を、身体特徴がラァスに似た少年が続く。顔立ちは、ウェイゼルの身内というだけありどことなく似ている。だが、どちらかといえばラァスの身内と言った方がしっくりとする、そんな元気な少年である。
 そんなクリスを見て、サメラが立ち上がる。
「クリス様、一体なぜこのような場所に? 本戦が始まるまでは顔を見せないとおっしゃっていらしたのに」
「サメラ、僕は気まぐれなんだよ」
「存じておりますわ」
 サメラはくすりと笑い、狭くなった部屋を見回し、なんとか椅子を用意するようにとファーリアへと命じた。
 クリスはとことこと足音を立ててヴェノムの前にやってくる。
「ヴェノム、元気そうだね。相変わらず美人だね」
「元気です。お褒めにあずかり光栄です」
 ヴェノムは頭を下げる。もちろん愛想など一欠片もないが、彼女のそういう部分もよく知っているはずのクリスは、当たり前のことと受け取りにこにことしていた。
「本当になんてお綺麗な方!」
「赤い瞳がまるで宝石のようね」
 金髪の二人の少女が入ってきたかと思うと、どういうわけかヴェノムをうっとりと眺め始めた。それに続いて一度だけ見たことのある女性、クリスの妻のレイアがやってきた。飴色の髪と青玉のような瞳を持つ、一見物静かに見える美女だ。王子などをしていると、様々な人物と顔を合わすことがある。彼女に会ったのは、この国に何らかの理由で訪問していた時だが、いつのことであったかは忘れてしまった。
「あら、可愛らしいお嬢さん達。初めまして」
「初めまして、ユライシャです」
「マリエットです」
「ユライシャはレイアに似ていますね。マリエットは目元がクリス様に似ていますね」
 ヴェノムは二人を見比べて言う。髪型や体格などか似ているからぱっと見は双子のようにも見えるが、よく見れば明らかに顔立ちは違う。むしろ、二人は印象をそろえるために同じような髪型をして、同じような装飾品を身につけているように見えた。
「あのあの、ヴェノム様。お願いがあります」
「なんでしょうか」
「ラァスちゃんをうちにください!」
 その言葉を耳にした瞬間、ラァスがカロンの背に隠れた。アミュではないのは彼女を巻き込まないためだろう。カロンなら巻き込んでもいいという考えが見え見えである。頼ってくれているというのは喜ばしいが、やはり悲しい気もした。
 カロンの頭にいたラフィニアは、メディアがビスケットをもって呼ぶと、カロンの頭から離れてメディアの腕の中へと収まる。
「あら、あの子も可愛い」
「だ、だめだだめだだめだっ」
 さすがにカロンは慌ててメディアごとラフィニアを抱きしめた。背中にラァスを貼り付けたまま。
 ラァスに関してはある程度予測していたが、ラフィニアに目をつけるのは予測外だった。珍しい物好きにラフィニアは恰好の獲物だろう。サメラなら簡単に断れるが、地神をバックに持つあの少女達に対して断るのは簡単なことではない。神の不興を買うのを恐れない勇気がいるのだ。
「鬱陶しい」
 腕に抱えていたメディアが言う。
「ああ、すまないメディアちゃん」
「いいけど、別に」
 下心が欠片でもあれば殴り倒しているだろうが、その可能性がない彼に対して、メディアはとても寛容だった。彼女とは、今後もいい友情が築けそうだ。

「騒がしい男性ねぇ」
「見た目は素敵なのに、もったいない」
 少女達は好き勝手に言う。
 カロンはそう言われるのには慣れている。王の器があるのに、それを拒否する小さな男だとか、賢者の石にあてられて頭がおかしくなったとか、彼の中で期待に添えない理由となる部分に対して、人はよく『もったいない』と言う。
「楽しそう……」
 アミュは固まっている友人達を見て、中に入りたそうにつぶやいた。遊んでいるつもりはないのだが、寂しがり屋の彼女は輪の外にいるのがつらいのだろう。隣に立っていたハウルが小さく笑った。
「遊んでないって、たぶん。代わりに俺が遊んでやるから」
 カロンがメディアにしているように、ハウルはアミュを抱きしめてやる。すると今度はラァスが文句を言う。
「ハウル! どうしてそんなことするの!?」
「どうしてって……」
 自分はカロンに隠れているくせに。
「俺としてはなんでこんな事になってる方がどうしてって感じなんだけどな」
「…………」
 何かを思い出したのか、突然カロンの背中に顔を埋めてうなった。
 穴があったら入りたそうな、そんなうめき声を出しながら。
「何が……」
「聞かないで」
 その言葉を聞いて、姉妹が大げさだと言ってくすくすと笑った。
 ──よく分かららないが、ひどい目にあったのだな。可哀想に。
 ヴェノムも隠れるラァスを見て、心なしか心配そうに問う。
「ラァス……なぜこの子達があなたを欲しがっているのですか?」
 それに答えたのは姉妹の方であった。
「弟として是非」
「とっても可愛がります。毎日着飾らせて、どこに行くのも連れていきます」
 ラァスが怯える理由を理解できた。
 ──ラァス君は年上の女性に可愛がられるタイプだからな……。
 女の子のいいオモチャになるだろう。しかも彼は女の子相手だと乱暴はしない。もしもの事があれば、抵抗できずにオモチャにされ、逃げ出すにも相手が相手なので逃げられずに悶々としているのだ。彼は案外こういうことに関しては臆病だ。暗殺ギルドにずっと居座っていたのも、唯一の居場所を失いたくないのと、世界に巣くう力というものが恐ろしかったからだと予測する。
 明るく元気に無鉄砲に振る舞っているように見えるが、今でもそれは変わらないだろう。個人ではなく、暴力的な力でもなく、彼の恐れるのは組織の力だ。
「しかし、ラァスは明らかに嫌がっています」
「そんなことないわよねぇ?」
「え……」
 力そのものである地神。それに溺愛される娘達。愛されているのは、夫婦の暖かな視線を見れば一目瞭然だった。
 ラァスは断る口実を探しているのが背中越しに伝わってくる。
「僕……いやです。離れたくない人がいるから」
「好きな子? どこの誰? 私たちよりも美しいというの?」
 ハウルの腕の中のアミュが首をかしげてハウルを見た。彼女の中でラァスの離れたくない人とは、友人であるハウルが第一候補なのだろう。
 ラァスは迷う。アミュと言えば、彼女が怯えなければならないことになる可能性がある。
 カロンは切なさを覚えながらも、冷静にそう判断した。
 ラァスはしばらく迷った後、言った。
「この人」
「…………」
 カロンはラァスの決断が見えなかった。ラァスはカロンの背中に張り付いているからだ。周囲の視線が集まっていることに気づいたカロンは、さすがに青ざめる。
 力が一番よく現れると言われている瞳の色からして、この姉妹は人間である母親の血の方が強いだろう。だからアミュのように女神とは言えないが、やはり睨まれて嬉しい相手ではない。
「だ……男性?」
「まあ……男性と男性……美青年と美少年」
「ああ、なんて素敵」
 乙女達は手を取り合い頬を染め、期待と羨望に充ち満ちた輝く瞳でラァスとカロンを見た。
 覚えのある視線だった。
「そう……そういうことなら仕方ないわね」
「禁断の愛だもの」
「ええ。だからこそ、受け入れてあげなくては。保護して差し上げなければ」
「ああ、素敵っ!」
 二人は大変盛り上がっていた。ラァスは不安げにハウルを見つめ、カロンはちらと背後のラァスを見た。ラァスはまさかあっさりと受け入れられるどころか喜ばれるとは思っていなかっただろうから、完全にカロンの背中に引っ込んで隠れてしまう。
「…………ラァス君」
「なぁに?」
「あんまりおいたが過ぎると、無理矢理食べてしまうぞ?」
 笑顔で言う彼にラァスはやや怯えながらも反省した様子で、
「……うーん。そういえば、女の子ってそういうの好きな人多いらしいね。今度からはもっと考えてから言うよ」
 それからしばらく、和気藹々と雑談していた。もちろん姉妹は美しいカップルに祝福と応援を送り続けた。よければ国を持ってしても二人の仲を保護するとまで言ったが、ラァスもカロンも首を横に振った。
 その間に、ヴェノムが容赦なくテリアを始末していたのは言うまでもない。
 一体、彼女がなぜテリアをそこまで邪魔に思うのか、カロンには想像もつかなかった。


 翌日。
 朝食の場には当たり前のようにクリスがいた。さすがに一家総出ではないが、彼はいた。
 ハウルは隣で怯えるラァスを見て小さく笑う。彼はすっかり地神苦手になってしまったようだ。
「やぁ、みんなおはよう」
 当たり前のように言う彼と、当たり前のようにそれを受け入れるこの屋敷の面々。
「……ひょっとして、伯父さんここに通い慣れてる?」
「ああ、この家系は神殿関係者がおおいからね。レイアもこの一族の出だよ。
 君たちが泊まっているって聞いて、来ちゃった」
 子供姿の彼は、威厳も何もない。とても人間くさく、厚顔不遜な態度は小さなラァスでも見ているようだった。彼は神の中で最も人間の中にとけ込んでいる神だろう。そして、最も神らしい神でもある。両極端な彼の姿を知っているから、複雑な気持ちだ。
「ラァス、娘達は君達を見守ることにしたらしいよ」
「それはよかったです」
 力なく言う彼は、どこかげんなりしている。
「僕としては、ラァスには僕の側にいて欲しいんだけど」
「僕はまだ修行中なので」
「じゃあ、修行が終わったら、うちに就職しなよ。就職先は決まってないんでしょ? 金の聖眼……しかもそんなに見事な聖眼はここ数十年見たことがないから、すぐにでも上の位を上げられるよ。誰も反対しないと思うしね。今は金眼が大神官一人しかいないんだ」
「……って、僕に聖職者に慣れって事ですかぁ? 無理です、無理無理。僕なんかが聖職者になれたら、信者の方に申し訳ないですよ」
 クリスはつまらなさそうに唇をとがらせた。
 上目づかいで見つめられ、ラァスはたじたじとなる。
「僕、聖職者になれるような綺麗な生活送ってないんで、ごめんなさい」
 その言葉に、クリスはそれでもラァスを見つめた。ウェイゼルの視線と違い、その目に邪な心はない。だからこそよけいに彼は動揺する。
「ラァス、その気持ちはよく分かります」
 言ったのはヴェノムだった。
「他人が許しても、自分が許せないという気持ちは、よく分かります。私も似たような感情を持っていた記憶があります。
 しかし、クリス様にお声をかけて頂くのはとても名誉な事であることは理解していてください。クリス様がいいとおっしゃれば、許されないことではありません」
 ラァスは傍らのハウルを見上げ、それからヴェノムを見て、小さく頷いた。
「まっ、今すぐとは言わないけど、真剣に考えておいてね。聖眼っていうのは、君が思う以上に人に影響があるんだよ。聖眼の者が現れたって、それだけでうちの国民は安心するんだよ。今の大神官はもう歳だし、彼の仕事はレイアが変わりにやっているぐらいだからね」
 ラァスは納得できない顔をしながら頷き、席に着く。そのとたんに、クリスは立ち上がった。
「僕はこれで退散する。今までは隠れて観戦していたけど、今日は堂々と観戦するよ。もちろん、姿は見せないけどね。あと、これ大会の対戦表」
 紙をテーブルの上に置き、彼は手を振って姿を消す。おそらくラァスの勧誘と対戦表を渡すために来たのだろう。
 対戦表を見ると、ラァスはファーリアとは離れていた。勝ち残れば、当たるのは明後日の準決勝だ。決勝ではないというところが、また皮肉な話だ。
「あら、ラァスさんの第一試合、ディナルドじゃないですか」
 覗き込んだファーリアが言う。
「ああ、あの人。強いの?」
「優勝候補です。あの歳で既に騎士団の団長に推されていますの。素敵でしょう?」
「……ちっ。ついてない」
 ラァスはおそらく、自分が弱い相手と当たり、強い者同士がつぶし合ってくれることを望んでいたのだろう。自分がつぶし合いに参加することこそ、彼にとっては避けるべき事だったに違いない。
「手加減して勝てる相手じゃねぇんじゃないか?」
「まぁ、ねぇ」
 ハウルの言葉にラァスは力なく答えた。
 予選最期の相手も、手加減はしていなかった。人を馬鹿にした調子はそのままであったが、彼は怪力を発揮していた。それまでの調子ではどうにもならなかったと言うことだ。
「嫌だなぁ。実力は隠したいんだけどなぁ。ハウル、どんな手があると思う? そろそろ出し尽くしちゃった」
「自分で考えろよ、道化男」
「ピエロっていうのは、すっごく大変な仕事なんだよ。どれだけ滑稽に芸をして、人の感心と笑いを取るのか」
「熱くなんなよ」
「んもう。人ごとだと思って」
 ラァスは腕を組んで頬をふくらせませ怒ったふりをする。その彼の頭に、突然ラフィニアが飛び乗り皆を笑わせた。しかしハウルの抱える小さなルートが彼女を見上げると、ラフィニアはあっさりとラァスを捨ててルートへと突撃してきた。ほとんど落下するようなそれを見て、ラァスが慌てて空中で捕まえる。
 子供は何をするか分かったものではない。


 大会の開会式というのは、参加者にとっても、観覧者にとっても退屈なものである。ラァスは可愛い口に手を当ててあくびをして、いつの間にかできていた彼のファンを悩殺した。
 愉快で可愛いドレスと鞭の女の子。しかもその実力は発揮されたことがないという、エンターテイナーとしても、選手としても注目される立場である。
「しかし、今日は一段とメイクに気合いが入っているな。ラァス君」
 カロンはオペラグラスを覗きながらつぶやいた。モノクルが邪魔だが、外してなくすと大変なことになるので、つけたままが一番いい。
 ラァスは遠くから見ても輝くばかりの愛らしさだった。美貌というにはまだ幼く、しかし男性達の心は掴んで離さない。
「ラァス君が大衆に愛されるのは嬉しいが、男としてはつらいな」
「男として……なのか?」
 ルートとラフィニアを一緒に抱くハウルがうなった。
「彼を愛する者として、ならいいのかい?」
「それならよし。なぁ、ラフィ」
「うぉ?」
 ルートに抱きついていたラフィニアは、ハウルを見上げて首をかしげる。
「かわゆいのう」
 サメラが手を出し一人と一匹を撫でる。ラフィニアはルートから離れ、撫でてくれたサメラの腕の中へと飛び込んでいく。彼女の人なつっこさは折り紙付きだ。育ての親として、カロンは複雑な気持ちだった。誘拐されないように、小さな頃から知らない人にはついて行ってはいけないと教育しなければならない。
「お、長い話が終わった」
 ハウルは身を乗り出した。
 しかし次の瞬間にはこちらに人々の注目が集まり、彼はルートを隠すようにして身を引いた。遠目から見ればぬいぐるみにしか見えない上、この席は特別な仕掛けにより外からはぼやけて見える。しかし、そうしたくなるほどの視線が集まったのだ。
「な、何だ!?」
「隣は陛下達とレイア様達の部屋じゃ」
「伯父さんもか?」
「姿は見せていないだろうが、いるじゃろう」
 ハウルは隣の壁を見て、椅子に腰を下ろす。ネフィルとサメラの待遇がどのようなものであるか、皆は改めて感心した。
 隣から声が響く。
 集まった者達と選手達への感謝の言葉。そして、開催の言葉。
「ラァスさんは大丈夫なのかな? あんな恰好でディナルドと対戦するなんて」
「兄上、あんな恰好だからこそ勝てるというのもあるぞ」
「確かにディナルドは、女性にめっぽう弱いからね……。前もそれでファーリアに負けました」
 ラァスはかなり有利なようだ。もちろん、ラァスはそれで油断するような可愛い性格ではない。
 初戦の準備が始まった。本戦なので、試合は一試合ずつ行われる。初戦はラァスとディナルドだ。
 他の選手が控え室に戻っていく中、対戦する二人は中央に作られたリングに留まった。リングは、予選の時と形が違う。さすがは地神のお膝元。精霊達が好みに合わせて作り替えてしまったらしい。
「ラァス、勝てよ」
 大金のかかっているハウルは、ぐっと拳を握りしめた。収入に不自由したこともないカロンも、願掛けのためにラァスへと賭けている。もちろん彼の場合は大した金額ではない。
「大丈夫だろう」
 ラァスが考えているのは、どうやれば今後も敵に勘違いをさせ続けるか、だ。
 彼が強いことを明かないのは無理。ならば道は……。


 ラァスは両足をそろえて立ち、にこりと微笑んだ。
 メイクも完璧。胸の詰め物も完璧。現在のラァスはどう見ても『女の子』であった。普段女の子と間違えられるのは冗談ではないが、今この状態で男と言われるのはそれ以上の屈辱となるだろう。
「よろしく」
 その言葉に、ディナルドは動揺した。彼は前回、ファーリアを女性だと思いこんで負けてしまったらしい。
「よ、よろしく」
「お手柔らかにお願いします」
「あ……ああ」
 その上、彼には身の上話もしている。ラァスに勝つのは心苦しいと思っているだろう。ラァスはもちろんそのチャンスを見逃したり苦にしたりするような善人ではない。
「準備はいいですか?」
 審判員が二人に声をかけてきた。ラァスは持っていた棍の真ん中を持って構える。鞭もいいのだが、やはりこういった打撃を与える武器の方が今は向いている。
 ディナルドも剣を構える。前に戦ったノエルと同じ構え方だ。彼よりもずっと強い。
 ──うーん。手は抜けないなぁ。
 身体能力でラァスを上回る者などこの中にいるとは思えないが、技術面では敵わない。ラァスが幼少の頃より受けたのは、人を殺す技だ。殺すわけにもいかないので、技術的には圧倒的に不利だ。
 審判員は振り返り、膝をつき王へと礼をする。初めて見るが、人の良さそうな老人だった。威厳も感じるが、慈悲深い人柄だと言う印象を持った。
 ──まあ、あの神様が側にいれば一見温厚にもなるよなぁ。
 ヴェノムの話では、クリスは王族に対しては友人のように接するそうだ。
「はじめよ」
 王が審判員に向かって宣言した。審判員は言葉を聞くと立ち上がり王へと背を向ける。そして王と同じ調子で言う。
「──はじめよ」
 ラァスはその言葉を聞いた瞬間に動く。
 全力で地を蹴り、ディナルドの懐に飛び込む。そのまま棍で腹を突こうとしたが、手で払われる。しかし棍というのは、剣などとは違い、全体が等しい威力を持った武器である。中心を持つ手をひねり、払われた勢いを利用し、その反対側で空いていたディナルドの腹を打つ。
 棒というのは槍のように片側に重りがないので、力がない者にも素人にも扱いやすい。初心者向けとも取れるが、棒術を極めた相手は、剣の達人よりもよほどやっかいな相手だ。メディアが人を簡単に殴り倒しているのも、技術あってのものである。
「っ」
 鎧の上からなのでダメージは小さいだろうが、注意をそらすには十分だった。棍から離れていた右の掌底を、砕かぬほどの力で目の前にあるディナルドのあごへとたたき込む。
 脳震盪を起こして崩れ落ちる彼を仰向け倒れるようにちょいと蹴り、倒れたところを喉を踏みつけにして、審判員を見た。ここまですればすぐに気がついても動けないはずだ。
 端から見ればあまりにも短い出来事で、何が起こったのか認識している者は少ないだろう。相手が油断しているうちに決着をつけねば、苦戦をしてられることは明らかであった。
 油断は死につながる。油断して一撃を食らわされた場合、死んで当然なのだ。ラァスなら確実にやる。もちろん、試合なので殺さずに戦闘不能にさせるだけだが、油断した相手の場合、殺すも気絶させるのも同じほど簡単だ。
「勝者、ラァス=ロウム」
 ラァスはにっこりと微笑む。
 おそらく、これでラァスはスピードファイターという印象を植え付けただろう。
 道化のままでいたかったが、これはこれで悪くない。

 


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