1話 腐赤眼

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 目を覆う。
 そうしていれば何も起こらない。
 しかしうかつに見つめれば覆う物が腐敗する。
 妹が心配してそのたびにまじないをかけてくれるが、一週間もたつと再び目がうずく。
 忌み嫌われる事しかない力を持ったこの目は、感情の起伏によってその力を発動する。つまり自分のふがいなさがこの事態を招いている。
 邪眼と呼ばれるこの目は、本来ならばここまで暴走することはないらしい。つまりは、自分が他の邪眼持ちよりもふがいないと言うこと。
 どれだけ鍛練を積んでも、己を律する事が出来ない。
 ふとした時に、この目は力を発揮する。人が即死するほどの力がない事のみ救いだが、身内以外は恐れて彼に近づかない。身内なら対処法を得ているが、一般人には難しいだろう。
 自分の慣れた場所なら目を閉じていても歩ける。そういう場所にいると安堵する。
 他者の気配は目をつぶっていても分かる。
 小さな気配が動いた。
 目を開けると、土色をした兎が前を横切る。小さな身体がぴょんぴょんと跳ねて愛らしい。
 立ち上がり、それを追った。


 カーラントの外れ、のどかだが軍事的な要地にある戦街ともよばれる都市エデル。ここから少し行くと死霊術師のアーラインが治める地方だ。国境を越えるので近くて遠い隣の町。
 風変わりな領主に治められるこの都市は、女子供でもある程度の武術の心得があるという。領主自身が代々武闘家として名高く、アークガルドといえば少し噂をよく知る者なら、他国の者も知っている。
 その例に漏れない、彼、ディオルはその活発な街を眺めて苛立っていた。
 鬱陶しいのだ、父が。
 剣が好きで、近くを通ったから寄っていこうとわざわざここで一泊することになった。
「見てみろよ。いいだろぉ」
 と、刃物を見せてくる。値札を見ると、こんな高い物を趣味で買おうとしているこの馬鹿親が嫌になる。息子は小遣いの少なさに嘆き、自分で稼いで研究につぎ込んでいるというのに。
「僕に刃物を眺めて悦に入る趣味はない」
「やっぱり退屈か?」
 楽しげに見えるのなら親として失格だ。
「じゃあ、一人で遊んでこい。この町はカーラントで一番治安がいいから、表通りならお前みたいな子供の旅行者でも大丈夫だ。ほら、これで好きな物買え」
 とくれる小遣いは先の値札に比べると現実的すぎて買い食いしかできない。
 文句を言っても無駄だと分かっているから、そのまま無言でその場を立ち去る。最初からこうしてくれればよかったのだ。
「ったく、僕をなんだと思ってるんだ」
 とくに腹は空いていないから、当たり外れのある知らない土地での買い食いをする気にはなれない。
 一人ではやはり退屈だし、興味のある物はないし、しかし暇だしと歩いている内に、街の外れまで来た。大きな屋敷が見えるので、領主の館だろうと判断し、その向こうに見える森へと続く道を歩く。ここの土地の事だから訓練にでも使うのだろう。
 知らない土地には思いがけない植物が生えている。魔道師の端くれとしては、そういう物には興味がある。時間はあるし、散歩のつもりで散策することにした。
 実家の方がよほど自然に囲まれているが、緊張感なく歩き回れるというのは、なかなかよい。
 目の前に、ひょっこりと可愛らしいうさぎが現れた。怯えているようで気配を変えて近づくと、大人しくしているので手を伸ばす。逃げないというのはいい。身の程をわきまえている動物は可愛らしく、持ち帰って改造してペットにするのもよいとすら思った。
 触れようとした矢先、その手に衝撃が走る。事態を認識する前に痛覚を遮断し、それからまじまじと手のひらを見る。
 鉄の棒が刺さっている。先端は釘のようにとがっている鉄棒。それが手のひらに刺さっている。鉄の棒が、手の甲から平へと突き抜けている。
「な……?」
 驚きのあまりそれ以上の言葉が出なかった。
「人!?」
 木々の間を駆けて、かなり離れたところから人間が駆けてくる。真っ白な髪の真っ白な少年が、森にとけ込むくすんだ色の服を着て駆けてくる。赤い瞳を見開いて。
「邪眼」
 くすんだ黒みがかった赤が輝いている。咄嗟に身につけた魔具に力を込めて身を守る。
 傍らの植物が急速に枯れたのだが、邪眼にあんな力があったとは知らなかった。
 うさぎが腕の中に飛び込むので、渋々と抱えて呪文を唱える。痛覚を遮断する機能がある魔具のおかげで傷は気にならない。
 いくら戦街と呼ばれていても、白昼堂々襲われるとは。ここは冷静に対処するべきだろう。それが天才の立ち振る舞いという奴だ。
「だ、大丈夫か!?」
 男は血相を変えて安否を問う。どうやら悪意はなかったようだ。しかし気は抜けない。
「手っ」
 改めて手を見る。見ているだけで痛そうだ。
「君、何。いきなり人に凶器を投げつけ、邪眼で森を枯らして」
「狩りをしていて」
「どんな狩りだよ」
「小石よりは痛くないようにしとめられる。弓とか道具は禁じられているから」
「まさか、手で投げたの!?」
 こくりと頷き、ディオルの手を取る。
「ほっていてくれていいよ」
「何を馬鹿なことを。手が使い物にならなくなるぞ!」
「邪眼を暴走させるような奴に言われる筋合いはないね。慰謝料でも払ってくれるなら別だけど」
 お金はいくらあっても困ることはない。ディオルの研究にはお金がかかる。この少年にそんなものは期待しないので、さっさと立ち去るが吉。
「それでいいから、とにかくおいで。痛いだろうけど、少しそのままで我慢して欲しい」
 いいのか。
 鉄の棒で狩りをするような男のくせに。
「別に痛みは遮断しているから問題ないよ。それより君、何?」
「というか、それはこちらの台詞だ。ここはうちの土地だから」
「ここは個人の私有地なのか?」
「アークガルド家の私有地だ」
 アークガルド。ここの領主。
「なんで領主の息子がこんなところで、こんなモノでうさぎ狩り?」
「うちの方針で食料の調達は自分でしろと。だから何かしらの食材を出さないと夕飯にありつけない」
 ディオルは抱えたうさぎを見つめた。
 これは彼の夕飯になる予定だったらしい。
 アークガルドの領主の息子だというのなら、借りを作り恩を売るのも悪くない。
「じゃあこのうさぎはやるよ」
「……助けたんじゃないのか?」
「別に。捕まえたら素体か餌にしようと思ってただけだから」
「そんなに懐いているのに……」
 なつくからと初対面の動物を庇護するような優しさは持ち合わせていない。そろそろ重くなってきたので男に押しつける。
 歩く内に森を出た。立派な城である。城下が見下ろせるのは、少し気に入った。
 玄関へと向かい、途中金髪碧眼のディオルと同じ年頃のそれはもう愛らしい少年が寄ってきた。
「兄さん、どうしたんだ? 見ない顔だな」
 ディオルは二人を見比べた。似ていない。弟が春の日差しのような雰囲気なら、こっちの兄は吹雪の中で燃える松明。
 きっと腹違いか何かだろう。他人の家庭環境に対しての詮索は厳禁。面倒くさい。
 ディオルは少年に手を見せてやる。それで理解するだろう。理解して、顔色を変えた。
「ちょ、何二人とも冷静になってるんだ!? 緊急事態じゃないか!」
「痛みは遮断している。僕は魔道師だ。どうしても治療がしたいと言うから来たやったんだよ」
 どうせ退屈だ。父には鈍くさいと言われそうだが、あれを避けられる方がおかしいのだ。他人には求めないくせに、自分の息子には自分の感覚を押しつけるので鬱陶しい。
「と、とにかくはやく中へ!」
 屋敷の中に連れられ、医務室らしき場所に案内された。
「医務室……けっこう本格的だね」
 手術台まであるのは、かなり珍しいのではないだろうか。
「けが人が多いからだ。裏に道場があるから。縫合する時は専用の台があると便利だぞ」
「そう」
 鉄棒が抜かれ、水で洗った後、手際よく縫合される。慣れるほどよく行われていることのようだ。ここは医者ではなく、武人達本人が使うらしい。正しい知識があれば、下手な医者よりもずっと上手いだろう。こういうのは経験だ。
「痛み止めは本当にいらないのか?」
「いらないよ。薬は専門家が判断したとき以外は頼らないことにしてるから」
 痛み止めなど痛むときに飲めばいい。痛みを自力で抑えられる場合は必要ない。子供相手と慌てているのだろう。
 指も動くし、家に帰ったら母に治療してもらえばいい。
 嫌な相手なら慰謝料の一つふんだくろうと思ったが、加害者が目に見えて落ち込んでいるので攻撃するのも哀れだ。彼は基本的に、まっとうな一般人には親切なのである。
「他人の怪我の心配するよりも、邪眼を抑えた方が喜ばれるんじゃないか」
「…………」
 また落ち込んだ。鬱陶しい。
「魔道師に師事すれば早いのに」
「この街の魔道師は怯えて引き受けてくれない。普通の魔道師は邪眼の扱い方など知らないし……」
「そんなものなのか?」
 自分の知っている範囲が常識とは言えない。それは自覚しているが、仮にも魔道士ならアドバイスも出来ないとは情けない。
「君は邪眼の扱い方が分かるのか?」
「母さんが邪眼だから、簡単な封印も出来るんじゃないか。貴族相手にはタダじゃやらないだろうけどね」
 男の目が輝いた。肩をつかまれ、それを払う。怪我をした手でやったので、慌てて彼は離れた。
「良かったねジーク兄さん! 邪眼の人ならきっとアドバイスしてくれるよ!」
 白い兄はこくりと頷いた。
 どうせ暇だからいいのだが、問題は母がどこにいるかだ。


 胸が高鳴る。
 この目は例え喜びであっても視界に入った花を腐らせるぐらいの暴走をする。おかげで彼は植物が見えない暗い部屋を寝室にしている。母と妹が大切にしている花壇は、ここ数年見るどころか近づいてすらいない。
「いつもそんな風に俯いて歩いてるのか?」
「ああ……」
「いっそ目隠しして歩いたらどうだ? 目が見えないものだと思い込めば、多少の不自由ですむよ。母さんは昔からそうしているみたいだしさ」
「そこまで…………」
 自分は覚悟が足りなかったと思い知らされる。甘く見ていたのだ。あまり見ないように、出歩かないようには気をつけていたが、完全に封じる不自由さを嫌っていた。
「なんか、ものが動く気配とか、空気の流れでほぼ不自由なく歩き回ってるよ」
「そこまでの……魔道師とはそんなことも出来るのか?」
「魔道師のスキルにそんなのはないよ。ある種の達人の領域って奴だと思うけど」
 生まれたときから目が見えないという老人を見たことはあるが、手を引かれて不自由そうにしていた。慣れれば家の中なら不自由はないらしいが、見知らぬ外となると別だ。
 ジークは長男であり、外に出ないわけにはいかない。弟にすべて譲りたいのだが、誰もそれを認めない。弟は自分に押しつけてくれるなと言う。もちろん彼もジークと同じ教育を受けているが、身代わりではなく、常識としての教育らしい。
「兄さん、そんな落ち込まないで。
 でも、目隠しして生きているってことは、そんな凄い人でも抑えるのが難しいって事ですか?」
 弟のクラムが自分と同年代なのに自信がみなぎっている少年に問う。
「暴走の問題じゃないよ。偏見の問題だよ。
 あと、その方が大人しそうに見えて、ちやほやされるのが狙いっぽく見える。悟ったような顔して、実のところ若い男が好きだから」
 彼の母とはどんな人物なのだろうか。ちやほやされるからにはかなりの美人なのだろう。息子のディオルは水底を思わせる翡翠のような瞳がとても印象的な美少年だ。
「そう言えば君、名は? 私はジーク、この子はグラム」
「ディオル」
 一度だけ振り向いて、彼はすぐに前を向いた。彼は先ほどから自分の親を捜して視線を巡らせている。しばらく歩くと、カフェの前で足を止めた。
「父がいた」
 カフェに足を向け、ジークは眩しくて眼を細める。誰かの髪に光が反射して目を射った。近づくと、銀髪の男性が足を組んで本を読んでいる姿が見えた。やはり眩しい。
「父さん」
 ディオルはその銀髪の男性に声をかける。
 漆黒の髪を持つ彼が、あの銀髪の男に。
 男が振り向き、爽やかに微笑むその姿を見て驚いた。
 似ていない。ジークと家族並みに似ていない。しかし似ていないからと血が繋がらないわけではないのは、自分が一番よく知っている。ジークの場合は突然変異の邪眼他のため似ていないが、この家庭にも色々とわけがあるのだろう。あの二人の場合は雰囲気が一番似ていないだけで、顔立ちだけを見ればかけ離れているわけではない。二人ともとんでもなく美形の親子だ。ここまで顔立ちが整っているのだから、親子であるのは間違いないと確信した。
「どうした? 友達が出来たのか?」
「よく見てから物を言った方がいいよ」
 嬉しそうにしている父親に対して辛らつな言葉を投げる。父親が好きではないのだろうか。その父親は切なげな表情でジークを見て、首をかしげる。
「……邪眼だ、珍しい」
「ここの領主の息子だよ。制御できていないから母さんを紹介して欲しいとさ」
「ヴェノムとはここで待ち合わせしているんだ」
「探した方が早い」
「そうか?」
「あんた達は目立つんだ。後光がさして見える銀髪と、仮面女なんて待つまでもない」
 親に向かってあのような事を言うなど、ジークにとっては信じられなかった。グレているわけでもなさそうだが、父親はしゅんとしてため息をついた。父親の威厳がないのだろうか。外見はただの優男だ。
「そんなにのんびりしていると、どこぞの色男と母さんが浮気してても知らないからな」
「お前な」
「嫌だったらさっさと探す」
「下手に干渉する方が嫌がるんだぞ」
「僕は待つのは嫌いなんだ。場所だけ特定してくれればいいよ。やってくれないなら僕のキメラを使うけど?」
「わかったからそれはやめなさい」
 今、理解できない話の流れが出たような気がするのだが、魔道士という理解できない職業の者の話だ。彼の知る言葉にも別の意味があったりとする事もあるに違いない。
「んとだな」
 若すぎるディオルの父は空を仰ぎ見る。
「あっちだ」
 彼はジーク達が来た道を指さした。その指が指された方角にある主な建物は、彼の家。一直線の大通りなので、他にない。
「そういえば、今日はお客さんが来ているって母様がいっていたな」
 グラムの言葉にジークは頭を抱えた。
「僕らは同じ建物にいる相手をわざわざ探しに離れていたのか、馬鹿らしい」
 こちらに文句を言うかとも思ったが、それはなかった。自分の母親の動向を知らなかった手前、お互いに強くは出られない。
「でも、ここには父さんが来たいから来たんでしょ?」
「ああ、ヴェノムはこの国に知り合いが多いから。とくにアークガルドなら何らかの繋がりがあってもおかしくはないな。というか、先祖はあいつの部下だった事もありそうだぞ」
 先祖という言葉に首をかしげる。
 魔道士の言葉は意味が分からない。
「あ、ディオル、クッキー食べるか?」
「何だよ急に。いらないよ」
「ダイエットなら運動してした方がいいぞ」
「うるさいな」
 女の子でもあるまいし、とてもダイエットが必要な体型には見えない。身体を作るのが目的だとしても、クッキーの一つぐらいはいいだろう。この少年は、やはりかなり変わった子だ。手の平を貫かれても平然としているのだから、肝の据わり方は生半可ではない。ジークよりもしっかりしているように見えた。
 こうしているだけで、自分が情けなくて穴に埋まっていたくなる。
 こんな自分を弟と妹は慕って支えてくれている。両親も厳しいが、長子として扱ってくれる。
 それだからこそ今の自分が情けなくてたまらない。何としててもこの目の扱いをモノにしなければならない。
「どうした、坊主。暗いぞ」
「植物を枯らして回って凹んでいるらしいよ」
「植物が枯れるのかぁ。夏場にイスんところ連れてったら喜びそうだなぁ。除草剤で土地を汚さないし」
「それが出来れば、多少の役には立てるだろ。出来ないから凹んでるんだよ、馬鹿だな」
 ディオルの言葉が胸に刺さる。まさにその通りなのだ。制御できれば役に立つ事もあるだろうが、出来ないから無能を通り越して有害なのである。
 情けなさ過ぎる。
「兄さん、落ち込まないで。体質なんだから仕方がないよ。あの姉さんだって、簡単にはいかないって言ってたじゃないか」
 今は友人に招かれて遠出している妹は、身近にいる中では一番物知りで頭がよい。邪眼の事も調べてくれたが、あまり例のないことだから、気長に見ろと言っていた。邪眼は容易に制御できないからこそ迫害されるが、年齢と共にそれが可能になると。ジークの邪眼は人を殺すほどの力がないから焦る必要もないと。でも畑には行かないでと、笑いながら彼女は言った。
「そっか。大変だな。アミュは普通に生活してたから、そんなもんかと思ってた」
「あの人と一緒にするのは可哀相だろ。相手は普通の人間だよ。人間でない人と比べるのは間違いだ」
 何なのだろうか、人間ではないという言葉は。それほどすごい人物達という意味のようにはあまり聞こえないのだが、気のせいだろうか。
 喜びと共に不安も胸に生まれてくる。
 そんなものは根性でどうにかしろと言われたらどうすればいいのだろう。ディオルのような冷静さが必要なのだろうか。咄嗟の時にも落ち着いている、あの冷静さ。
 また落ち込んでいる事を悟られないように、うつむいたまま力を入れる。混乱してつい表に出してしまった。自分には努力が足りないのは理解している。だが、どうしても焦りが産まれる。他者に迷惑をかけないことでならいくら焦っても構わないが、この焦りは確実に迷惑をかける焦りだ。
 植物なら枯れるし、人なら気分が悪くなる。
 焦らないよう、客人に失礼がないよう、ゆったりとした足取りで屋敷に戻った。


 屋敷に戻り執事に尋ねると、確かに仮面をつけた婦人が来ていると答えた。応接室に行くすがら、侍女達がディオルの父を見て呆けたりと、歩くだけでジーク以外の誰かが実害を与えるという初めての経験に感動していた。感動する事ではないが、ジークにとって通りすがりに何かを落とすのは、自分に脅えた者がする事だった。
 ドアをノックして中に入る。
 両親と知らぬ黒髪の女性が向き合っていた。美女だ。ハウルと並んで遜色ない美女なのだが、ハウルと違い冷たい雰囲気を身に纏っている。にこりともせず、無表情で、赤い瞳がとても冷たかった。
「どうしました、ハウル」
「この邪眼のぼうずがお前に相談したいとさ」
「ああ、ジークですね。今、あなたの話をしていたのです」
 言葉の内容は普通だが、淡々とした声音と、変わらぬ無表情。
 気にさわる事でもしただろうか。この歳になって暴走しているので見下げられたのだろうか。
「母さんの無表情は物心ついた頃からだから気にする事はないよ。息子の僕がこのフォローを毎回入れるほど普段からああだから」
 見透かされてジークは内心落ち込む。
 偶然の事だ。勝手に被害妄想に囚われていたりとか、勝手に落ち込んでいたりとかは見透かされていないはずだ。
「少し黒みのかかった邪眼ですね。それが性質を歪めているのでしょう。なかなか興味深い」
 手招きされて、ディオルの母の傍らに立った。
「よく見せてください」
 しゃがみ込み、視線を合わせる。近くで見ると、彼女の邪眼は自分の物とは異なることがよく分かる。彼女の瞳は鮮血の色。自分の瞳は乾きかけたくすんだ血の色。見れば見るほど、とてもディオルのような大きな息子がいるようには見えなかった。ジークの年の頃には産んでいたのだろう。彼は邪眼のせいで浮いた話は一切ない。道場があるおかげで、友人は何とかいるのだけが幸いだ。あれがなければ友人も出来なかっただろう。引きこもりになっていた。
「前を向きなさい」
 知らず知らずに内に落としていた視線を再び持ち上げる。
 誰かとこうして真っ正面から向き合うなど、兄弟以外ではほとんどない。親とすらないので緊張した。人妻とはいえ、こんな美人だ。
「植物に一番影響を与えるそうですね。自分の意志では行えないと」
「はい」
「落ち込む事はありません。十代で聖眼を上手く使いこなすには、かなり特殊な訓練が必要です。あなたも訓練を受けていますが、それとはまた別の訓練ですから」
 頭を撫でられる。
 頭など撫でられたのはどれほどぶりだろうか。両親は厳しい人達なので、子供を子供扱いしない。兄弟とは長男なので撫でる側だ。
「ハウル、今日はこちらに泊まっていく事にしました。ルートに伝えてあげなさい。森の中は私有地だそうですから、あの子が遊んでいても問題ありません」
「わかった」
 ディオルの弟が街で遊んでいるのだろうか。兄、ということはないだろう。二人ともどう見ても二十代前半だ。
 この一家なら、それも可愛い子供に違いない。子供好きの妹がいればさぞ喜んだことだろう。
「あ、もう来た」
 ディオルが窓に寄り、開いて手を振った。
 庭に降り立ったそれを見て硬直する。
「竜!?」
 竜がいた。庭に。首を突っ込んできてディオルに撫でられる。
「森で遊んでいいってさ」
「ディオルもおいでよ。つまらない」
「君もいい歳なんだから一人でいなよ。僕は君に付き合うと疲れるから嫌だ。まだ父さんに付きまとわれた方がいい」
 彼は自分の父親を何だと思っているのだろうか。ハウルは目に見えて落ち込んで、妻に慰められている。仲のよい夫婦らしい。
「あの森、森って言っても狭そうだよ」
「文句を言うな」
「じゃあ、森に行ってくるね」
 竜は翼を広げて飛び立った。
 一見するだけでは恐ろしく感じたが、口を開けば男の子という印象で可愛かった。
「で、かあさんどうするの?」
「そうですね。身体を動かしている時は発動しないというのは本当ですか?」
「は、はい」
 訓練中は生死に関わるので必要以外の事は考えない。ただ、それを終えて休んでいる時が危険なのだ。壁に穴を開けてしまった事もある。
「では道場に行きましょうか」
 ヴェノムは立ち上がり、ハウルがその手を取る。これだけ大きな息子がいるのに、新婚のような雰囲気が漂っている。ハウルのヴェノムに対する好意が、彼女の無表情を打ち消すほど溢れている。
 自分の家族のあり方とは少し違うが、いい家族だ。

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