4話 手を取り合う時
ラフィニアはそれを端から見て右往左往した。
それしか出来なかった。今の二人には、声が届かないのだ。
「今日という今日こそ、君には私の偉大さを思い知らせて差し上げます」
「偉大さって、自分で言うことじゃないと思うけど、まあいい。やってみなよ。僕が叩きつぶしてやるからさ」
エリアスとディオルは止める言葉も聞かずに、各々の配下をぶつけ合う。
自分達でぶつかり合えばいいのだが、二人はそういうタイプではない。
「やめてくださいっ、かわいそうですっ」
ラフィニアの声は届かない。
いつもそうだ。二人揃うと止められない。ディオルは相手をしなければいいのに、相手が生き物をけしかけてくるから嬉々として相手をする。
止まらない。
「行け、ええと……オルトロス」
「ファーゼ、天然の犬っころなど生ぬるいと教えてやれ」
適当な名前ではなく種族名を叫んでけしかけるエリアスに、人間時代の名前を叫んで犬の頭の数種混じりなキメラをけしかけるディオル。相変わらず理解に苦しむ生物だが、あれでもまだ可愛い方だ。オルトロスもじっとしていたら二つの首がじゃれ合って可愛い。
本人達も賢い魔獣と元人間。好んで争いたいはずがない。傷つけば痛いのだ。
「やめてくださいっ」
声は届かない。自分の魔力を使えばいいのだが、それではただ二匹を傷つけるのがラフィニアに変わるだけ。意味がない。止められそうなヴェノムはどこにいるか分からず、ハウル達は離れたところにある畑だ。兄はこういう時は頼りにならない、インドア派の魔道士。
アウトドア派の二人は、アウトドア派らしく畑仕事などしていないで戻ってきて欲しい。ジークを無理矢理ハウルが連れていったのだが、思えばこの二人を止められる者を残さずにどこかに行くなど、無責任ではないかとすら思う。
適度に手を抜きつつ、それでも傷つけ合う二匹を見て涙がでそうになった。滅多な事では泣くなと言われているが、今は泣きたい気分なのだ。
「だからっ、やめてっ……」
ください、と続けようとしたところに、二匹を石のつぶてが撃った。大した痛みはないだろうが、これ幸いと互いに動きを止める。
「また喧嘩か。人に餌の調達をさせておいて……」
呆れてため息をつくジーク。白くて柔らかそうな髪が風でなびき、逞しい肩に乗せられた猪にかかる。
ジークは猪を担いでこちらを見ている。奇妙な組み合わせに、ラフィニアは目を丸くした。
「餌、いらないのか」
「いるっ」
二匹はジークが地面に投げ捨てた猪をじっと見つめた。とくにオルトロスはよほど空腹なのか、蛇の固まりのような尻尾を振り回している。
「ごはん、ごはん! 一年ぶりのご飯!」
オルトロスの言葉にジークが目頭を押さえた。彼は基本的に動物好きだから心を痛めているのだ。
「エリアス、本の中では死なないからといって、動物虐待はよくないと思う。こんなによだれを垂らして尻尾振っているじゃないか。まだ虐待そのものをしているはずのディオルの方がマシな飼い方だ」
手に持っていたウサギを一羽ずつ魔物達の前に投げると、二匹は勇んで食べ始める。代理喧嘩をしていた方が物わかりがよい。
「そんなに腹が減ってたのか」
二つの頭部が互いに助け合いながらウサギの肉を綺麗に食べていく。
「ジーク、いきなり乱入して、人のペットに餌を与えないでください。勝てたら与えるつもりだったのに」
「だから、動物虐待だ、それは。全部で何匹ぐらいいるんだ?」
「百匹ぐらい」
「…………お、多いな。
とにかく、これから罠を増やして食料をたくさん取るから、一年も放置とかはやめてくれ。腹が減っていると力も出ないし、勝てる戦も勝てなくなる。志気は大切だ。上から押さえつけるばかりでは、強者も実力のすべてを発揮しない。犬だって出来ないからと罰を与え続けても伸びない。褒めて餌をやるだろう。飼い方というのは、能力を伸ばすにも大切な要素だ」
ジークはゆっくりと言い含める。短期間でエリアスの性格を把握した彼は、たまにこうやって二人の喧嘩を止めて、エリアスに説教を始める。主に動物の飼い方についてだが。エリアスも本がないとまともに動物を飼えないタイプなので、そこをつつかれると弱いらしい。希少種の飼い方を詳しく書いた本などないのだ。
「最低限の餌と運動だけしていればいいんだ。犬ならフリスビーでも投げて遊んでいろ」
「別に遊んでいたわけじゃありません。魔物など、私のために闘う事がすべて。闘えない魔物など生きる意味もないからこそ、私がもっとも有意義で気高き生を与えているまで」
話が通じない。ジークはため息をついて視線をラフィニアを向けた。向けるだけで目は合わせない。
「じゃあ、女性が必死でやめてくれと叫んでいるのに、女性の前で血を流させるというのは、素晴らしい聖人君子のすることなのか」
「始めた時にはいませんでしたから」
「途中でもやめるのが男だろう。やるなら他人が気を揉まないようにやれ。女性に心配をさせるな」
「…………ラフィには、気をつけますよ」
ラフィニアだけに気をつけるのではなく、喧嘩をしないで欲しいのだが、機会が減ってくれるのなら有り難い。
ジークは疲れた顔をして、猪を指さした。
「これは捌くから、残ったのを餌にしていい。綺麗に半分こだぞ。で、長く食事を与えていないのから順番に与えてやってくれ」
一部は夕飯に使われるのだろう。癖のある肉だが、ヴェノムの手にかかれば臭みも消えて美味になる。
「分かりましたよ。ええと、なんだったか。オルバー?」
「もう毎回名付けられるよりは、さっきのように種族名で呼んでください。かぶっているのは入れられないんですから、皆も混乱しません」
オルトロスの頭部の一つが諦めの境地で言う。もう一つの頭部は骨をしゃぶっている。
「一匹一匹名前付きの首輪でも作ったらどうだ」
ジークが顔を上げて提案する。それが一番確実な案だ。
「エリアス様はどうせそれすら見ないでまた適当な名前をつけますよ。どうでもいい事はまったく頭に入れて下さらない方だから」
「エリアス、ペットは愛情を持って育てろ。今度、ちゃんと名前をつけて、一覧を作れ」
それもいい案だ。本人が覚える気はなくとも、誰かが覚えて何度も何度も繰り返し教えてやれば覚えるかもしれない。
「とにかく、そろそろお茶の時間だ。ラフィニア、ここはいいから師匠を手伝ってきてくれ」
ジークはラフィニアへと微笑みかけてくれる。彼は優しい。翼を見ても少し驚いただけで何も言わないし、偏屈なディオルにも付き合ってくれている。
辛い目に合ってきたからこそ、彼は優しいのだろう。
皆でお茶を飲みながら、ヴェノムが買ってきた菓子を口にする。美容に気を使うヴェノムらしい、甘さ控えめの焼き菓子だ。
ディオルは美味ければなんでもいいが、上品ぶったエリアスは上品なものしか口にしないので、こういう菓子は好きらしくよく食べている。食べている時は大人しくていい。
ハウルはヴェノムの用意する物に、例えそれが不味かろうと文句など言いそうにもないので、ヴェノムを褒めながら食べている。カロンは目の下にくまを作りながらも妹の手前、いつものように優美さを崩さない。
「あら、お茶が無くなりましたね。私、入れなおしてきます」
ラフィニアがティーポットを持って立ち上がり、ふわふわとキッチンへとかけていく。その背中をジークがじっと見つめていた。
ジークはたまにじっとラフィニアを見ている。じっと。じいぃぃぃっと。
「ジーク、うちの妹に何かついているかい」
「いや、その」
「うちの妹が美しいのは私もよく理解している。だが妹に色目を使うなど十年早い」
「そういうやましい気持ちではなくて、ただ、妹に似ていると……」
ジークははにかみながら懐から写真を撮りだした。
「そんな物を持ち歩いてるのか」
「ほ、本物とは顔を合わせられないから」
写真に写っているのは、たおやかに微笑むカーラント系の美しい少女であった。同じ人種だから印象は似るものだが、本当に似ている。
「ラフィに似ているという以上に、お前と似てなさ過ぎるなぁ」
ハウルがけらけらと笑い、ジークを凹ませる。たまにホームシックで空を見上げてため息をついているのを知らないのだろうか。
「大人しそうな妹ですね。こういうのなら可愛いのでしょうか」
大人しくない姉を持つエリアスは遠い目をして呟いた。
彼の姉は可愛い可愛くないと言う問題ではない。可愛いのだ。可愛いが、有害なのである。
ディオルは鼻を鳴らしておやつを口に含む。あとでたまにはキメラ達にもおやつを食べさせてやろう。ディオルから見れば大した罪でもない者しか生き残っていないが、生まれ変わる事によってその罪は洗い流された可愛い奴らだ。赤ちゃん返りして子供のように無邪気なのもいる。
おやつといっても買いだめした落雁のようなものだが、甘いので喜ぶ。
「そういえば、賞味期限が近いな」
「いきなりどうした。賞味期限?」
写真を眺めていたジークが、写真をしまいながら聞いてくる。
「キメラのおやつに買った菓子だよ。日持ちするのを選んだけど、安いから大量に買いすぎて余った。毎日やると甘えるし、捨てるのももったいない。
あ、せっかくだからエリアの魔物にもあげようか」
「それはいいが、懐かれたのをいい事に捕獲しようなんて考えていないだろうな」
「何を馬鹿な事を。僕はただ、エリアに正しい動物の管理方法を教えようとしているだけだよ。
存在自体が崇高だというなら、ペットぐらい管理できないとね。ここには使用人もいないんだからさ。
僕は使用人がある生活なんてした事無いけど、エリアは使用人がいるのが当然の生活だしねぇ。慣れないと」
だからディオルは基本的に自分の事は自分でする。
たまにキメラ達が掃除を始めるのが不愉快だが。
廊下からぱたぱたと足音が近づいて来る。
「エリアさん、お客様です」
ティーポットを手にしたラフィニアが翼をぱたぱたと犬が尻尾を振るように動かしながら玄関の方を指さした。
「私に客?」
「ラァサさんです」
逃げだそうとしたところをハウルに拘束される。
「また部屋に籠城するつもりか。姉が様子を見に来ただけで大袈裟だなぁ」
ハウルはケラケラと笑う。彼は色々と問題がありすぎて、他人からすれば大事は些末なことでしかない。たかが聖眼が取り柄の怪力女が来たところで、怒らせさえしなければ何の害もないと思っているのだろう。
ディオルも現在地と自分の物の位置を予測して、被害を受けないように考え始めた。実験室は大丈夫だ。問題は放し飼いにしているキメラ達。前は強いからといって一匹持って帰ろうとした。もちろん死守したが、うっかり腕を骨折させられた。悪気はないようだが、まだ自分の馬鹿力を完全にコントロールできていないのだ。
その悪気のなさが、一番厄介なのである。
「今、ゼノンさんと遊んでいらっしゃいますよ。あ、いらっしゃいました」
とたっとたっと軽快な足音は、ゼノンが走っているものだ。いつもよりも重く聞こえるのは、何か荷物を載せているのか。
「ごっきげんっよーう」
弟に似た姉のラァサは、ゼノンの背中に乗って現れた。
「ちょ、ゼノン!?」
ラァサは満足げにゼノンの背中から降りる。ゼノンの方はぐったりしていた。
「せ、背骨大丈夫!?」
「ちょっと! どういう意味!?」
「それは愛玩用で人なんて乗れるように作ってない! このサイズに乗ろうなんて何考えてるんだ!?」
虎ほど大きかったならともかく、こんなのに乗ろうと思う神経を疑う。確かに乗れそうだなと思ったことがないと言えば嘘になるが、主ですらそれを実行したことがないというのに。
「姉さん……」
さすがに弟も呆れている。自分のペットの心配でもしているのだろう。
「私そんなに重くないわよ! ねぇ、猫ちゃん」
「まあ、なんとか」
「猫ちゃんはキメラなのにいい子で可愛いわね」
前に誘拐しようとしたキメラのことは忘れてしまったのだろうか。
姿重視の女子供に、ディオルのキメラの魅力は理解できないものだ。彼に顧客がいるということが、その価値を意味しているというのに、力のない安心して連れ歩けるぐらいの価値しかないゼノンばかりを褒められるのは不愉快である。
「あっ、君がパパの言ってたアークガルドの男の子?」
ラァサの興味が唐突にジークへと移った。ジークは先ほどからエリアスとラァサを見比べている。
「二人は双子じゃないよ。年子の姉弟。君の妹と同じ年じゃないかな」
言わないと二人はよく双子だと勘違いされる。母親の血が子に出にくいため、彼らは必然的に父親に似てしまった。
「ねぇねぇ、ちょっと手合わせしてみようよ!」
「て……ええ!?」
妹と同い年と言われたばかりのジークは、見た目だけは可愛らしい彼女の提案に仰天した。
シスコン気味の彼には、妹と同年代の女の子というだけで、手合わせなど無理だろう。ジークは少し困ったような顔をして首をかしげた。顔に出ているので、本心ではかなり困っているはずである。
「体格が違いすぎて危ないと思う」
「大丈夫! 私は力があるから!」
と、ジークの手を握り、ずるずると引きずる。
そのままの意味で引きずっている。女が長身の男をだ。
ジークは理解できないようで呆然と目を見開いてされるがままになっている。
「金の聖眼は馬鹿力が多いんだよ。このエリアスでさえ、やろうと思えば片手でベッドを持ち上げられるよ」
聞いているかいないか分からないが、自分の状況を理解できるように声をかけてやる。
「シスコンのヘタレとはいえ、哀れですね。あの手加減できない女と強制喧嘩とは……」
ラァスも手加減知らずなところはあるが、方向が少し違う。厳しいのと、危険なのは別だ。
ジークはどうするだろうか。意味もなく女性に武器は向けられないだろう。素手だとハウルよりもはるかに強いので、何とかなるだろうが……抵抗できずに大けがを負うという可能性も捨てきれない。
ハウルがやれやれと呟いて立ち上がり、外に向かった二人を追う。あれが付いていれば大丈夫だ。
その日、ラァサは満足げに魔法陣で帰って行った。
日帰りするために、一番近い理力の塔の支部から走ってきたのだと言うから、実に恐ろしい女だ。エリアスがそんな底なしの体力を持って喧嘩を仕掛けてくるのではなくてよかったと、姉を見ていると本気で思うのだ。
体力のない者同士で本当によかった。
翌日、エリアスはペット達と対峙していた。
こうもたくさんいると、餌やりも面倒で、最低限のことしかしていなかった。どうせ死なないのだからいいではないかと言うと、ハウルに一時間説教された。
なぜ神の息子が切々と空腹について語るのか理解に苦しむが、いいから餌をやれと言うので仕方なく魔物達を本から出した。
餌はディオルに用意させた。
汚部屋を作るのが得意なくせに、そういうところはマメな男だ。餌を用意する前に、部屋を片付けろと皮肉を言っても、あれが使いやすいと聞く耳を持たない。ジークがたまに部屋に入っているが、その際はマスクと汚れてもいい服を身につけていた。
エリアスはあの部屋に入ろうとは思ったこともない。
その汚部屋に保管されていた保存食。
「これ、普通の魔物が食べても腹を壊しませんか?」
「壊すわけがない。腐ってもかびてもいないんだからね。保管は完璧だよ。僕は君と違って管理は得意なんだ」
部屋の管理は出来ないくせに、自信満々と言う。
ここまでいうからには、それなりの保管をしたのだろう。キメラ達が危機感を感じて自衛することもある。彼らは常識の面ではディオルよりも上だ。頭の中まで弄られているので絶対服従だが、許される範囲での自衛行為はしているはず。
「しっかし多いね。これで十ページ分か」
小さめのばかりを出しているが、わらわらと邪魔くさい。小さくて可愛いのは先ほどからラフィニアとノーラにかまわれている。女とは、なぜああいう小動物が好きなのだろうか。
「そういえば、あの猫好きの姿が見えませんね」
「朝食を食べてから僕も見ていないな」
朝食の時、うっかりペットの話になり、食事の事に触れたらハウルが怒り出したのだ。
あれのおかげで時間を食い、既に昼近くなっている。全部体力馬鹿にやらせようと思っていたのに、肝心な時に使えない。
保存食だけじゃ何だからと、ハウルが荷車を引いて畑に向かったので、それも待たなければならない。野菜のことは作り主に任せればいいので楽でいいが、待つのが面倒だ。
そのとき、魔物達が一斉に顔を上げて同じ方向を見た。
「何これ!? エリア、なんでこんなに魔物出してるの!?」
身体が固まる。
生まれた時から聞き続けたこの声。昨日聞いたばかりで、当分聞かなくていいはずだった声。女のくせに短気で乱暴な姉の声。
「き、昨日の今日でなんでっ」
「パパが外泊はダメって言うから日帰りなのよ!」
ラァスは娘に対しては過保護である。
「なんでまたわざわざ!」
「いいじゃない!」
確かに言われている範囲内でなら、彼女が何をしようが止める権利も力もない。憎らしい姉はいつものように胸を張っていたところ、急にもじもじとしおらしい態度を取った。
あまりにも似合わない態度に恐怖を覚えて後退する。
「ところで、ジークは?」
もじもじと、内股で─をくねらせる姿が気色悪い。もちろん中身を知らなければ似合いもする態度だ。しかし、似合わない。知っているとどうしても拒否反応が出てしまう。恐ろしい。
「ジークがどうしたと言うんですかっ!?」
「いいから、ジークがどこにいるか素直に吐きなさい」
気が強いのだか弱いのだか分からない、将来使えそうな男の笑顔が脳裏をよぎる。
あれに何のようだというのだ。
「な、なぜジークなんですか!? 今朝から見てません!」
「そう。まあいいわ」
彼女は大切そうに小脇に抱えていた荷物を、両腕に抱えなおした。その荷物に興味を持った魔物が鼻を近づける。
「…………いい匂い」
「ちょっと、これはあんたのじゃないわよ」
ラァサはエリアスの魔物達をしっしと追い払う。飢えたケダモノの前でいい匂いの物を持って立っている方が悪い。
「ラァサの食い物なんかに手を出したら殺されるよ。野菜の前におやつあげるから、ほら横に一列に並んで」
空腹の魔物達はディオルの指示に従い整列する。
こんなに統率が取れた動きをするのを始めて見た。
「餌につられて……意地汚いですね」
「ちゃんと食べさせるから、争わずに食べるんだ」
確かに、一塊にしていたら争って食べる。死体が出来る事もあるだろう。このマメさを、なぜ自分の部屋に発揮できないのか。
「ああ、ジーク!」
「ひっ」
ラァサの声が変わった。妙に高い声だ。ぎょっとして見ると、姉がスキップなどしながら大きな獲物を引きずるジークに駆け寄った。いつもなら殺しに行くのかというような、父親に似た静かな走り方をするあのラァサが。
「な、なんですかっ」
思わず隣にいたディオルの肩にしがみついた。あまりにもいつもと違う姉の様子に、何でもいいからすがりたい気分なのだ。
「ジーク、約束通りにお菓子を焼いてきたの。いい出来だったから居ても立ってもいられずに来ちゃった」
トーンが違う。キャラが違う。そんな『うふふふっ』というような女の子らしい雰囲気を出す女ではないのだ。それが、まるで年相応の女の子のようなあの態度。
「何ですか、あの中身まで女らしく感じるアレはっ」
ディオルをガクガク揺さぶる。恐ろしい。何の前触れだ。人が作ったキメラを見ても乗るか鍛練のための道具にしか考えないあの姉が、菓子など作ってきて女らしいのだ。父の方がよほど女らしいと皆に言わせるあの姉が女らしい。
「わわ、分かったから、揺さぶるな! 君の馬鹿力で揺さぶられ続けたら馬鹿になるっっ!」
手を払われ、エリアスは少し落ち着いた。息を整え、冷静に考える。考えるとまた恐ろしくなる。
「ででで、でもっ!」
「僕も女の子のことは専門外だから、ゼノンにでも聞いたらどう。母さんに聞くよりは適切な答えをくれるんじゃないかな」
近くで手の止まったディオルの代わりに適量を配り始めたゼノンが目に入った。
「ゼノン、あ、あれはっ」
「なんでそんなに慌てるんすか。ラァサさんだって年頃の女の子っすよ。惚れた腫れたに興味を持つお年頃ってやつですよ。
それにジークの旦那は顔良し家柄良し、その上腕っ節も強くて女性に親切。ちょっと気が弱いところも、女からすりゃ魅力の内。ダメなところのある男が好きな女ってのは案外多いものっすよ」
猫の手で袋から出していたところ、別のキメラがそれを引き継いだ。ガルーダのような姿をしたキメラで、人間の頃の手に近いのため、猫よりはこの作業に向いている。子供返りを起こしてそのまま定着しているので、子供のように面白がって献身的だ。
「昨日のやりとりは、なかなか楽しげでしたっすよ。さすがに道場主の息子だけあって、稽古をつけるのにはなれてたっすね。
ラァサさんもそのたくましさに好意を持ったみたいで、これから育まれていく恋ってやつでさぁ」
猫のくせにニヤニヤしながら二人を見ている。
エリアスにとっては恐怖しか覚えない光景だ。
「しかし、ありゃジークの旦那は気付いてないっすねぇ」
「そ、そうなのですかっ」
「あの人は他人との接触を避けてきたから鈍くできてるんすよ。他人と目を合わすことすら出来ないんすから、好意の種類なんて気づきやせんぜ」
「それはよかった」
「おや、反対で?」
「あんな見栄えだけの女に捕まったら、ジークが哀れでなりません。始終ビクビクして過ごすに違いない」
「たまにいますよねぇ、そういうカップル」
容易に想像できるのが悲しいところだ。ジークは今が一番大切な時期。ここで押しの強い女に上から押さえ込まれるようなことがあっては、一見そうは見えないおどおど感が抜けなくなるだろう。
あれはこれからエリアスが有効利用していく予定だ。姉などに潰されてはたまらない。
「別れさせないとっ」
「まだ付き合ってすらいないよ」
ディオルが突っ込んでくる。
「何を言うんですか。姉さんは顔だけはいいんですから、男を騙すのなんて赤子の手をひねるようなものです。付き合う前に、なんとしてでも姉さんの本性を見せてあげないといけませんね。ディオル、あなたも協力しなさい」
「なんで僕まで。関わり合いになりたくない」
「もしも付き合ったら、毎日来るかも知れませんよ」
「それはっ……」
考えるだけで恐ろしい。何が恐ろしいか予想もつかないところが恐ろしい。悪気がないから恐ろしい。
ジークがわびを入れて獲物を引きずって城に戻り、ラァサがスキップしながら戻ってくる。
「上機嫌すねぇ。そんなにジークの旦那がそんなに気に入ったんすか」
「だって強いもの! 力任せで押されないんだもの! クロフィアじゃあ相手がいないから私もこっちに来たいぐらいだけど、パパが男ばっかりのところはダメって言うのよ。ひどいと思わない?」
人の親としては当然の考えだ。
「あんたたち、飢えた獣扱いされてるのよ。エリアがよくて、私がダメなんてひどいわよ。私の方が強いのに」
「父親ってそういう物だよ。愛されている証拠だ」
ディオルが目を逸らして言う。
「でも、ここにいる男なんて、弟とホモと奥さん馬鹿とガキだけじゃない!」
「残りのジークが引っかかったんだと思うよ」
「どうして? 人と目を合わせないぐらいの人なのよ?」
「そこまで理解してるんならいいよ」
ディオルがエリアスの肩に腕を回して、耳元で囁いた。
「こっちは自覚無いから、しばらくは大丈夫だと思う」
「そうですね。あの女に繊細な感情からくるものを予想すること自体が愚かでした。私としたことが、この程度のことで取り乱してしまうとは」
「でも、たぶん頻繁に来るだろうね。何とかしろ。僕は前に何度も馬鹿力で実験器具壊されたんだ」
「それよりもドアの心配をした方がいいでしょう。突撃されそうな時は補強しないと危険です。ドアノブごともってかれます」
「僕の部屋のドアは例えラァスさんが引っ張っても大丈夫だから問題ない」
「ちょ、それ大発明でっ…………」
その時、背後から殺気を感じた。
「あんた達、なんか仲良くなったわねぇ。何を話しているのかしら?」
「いえ、姉さんには関係のないことです。私達は来るべき日に備えて、ドアの強度についての相談を」
「なんでそんな相談してるのよ。また引きこもるつもり?」
「キメラが暴走しても安眠するためですよ」
「なんでそんな事をこそこそ仲良く話してるの」
「仲良くなどありません!」
「共通の敵とか目標があると、仲良くなると言うけど本当なのね」
「仲良くなどありません。利用しているんです」
「まあいいわ。私、ジークを手伝ってくる。魔物のために肉を狩ってくるなんて、本当に動物好きなのねぇ」
ラァサはジークが消えた方へとスキップする。
一緒に解体するつもりだ。恐ろしい女。こういう事で引かないのでは、よけいに引っ付く確率が高くなるではないか。
「こうなれば、父さんに告げ口しましょう」
「ああ、それはいい。きっと出かけるのを阻止してくれる」
まさかラァスの過保護さが役に立ちそうな日が来るとは思っていなかった。いつもは仕方がないなぁと甘やかしているが、きっと厳しく言い聞かせてくれることだろう。
「坊ちゃん達、世の中には障害があった方が先に進む場合もあるんだぜ」
白い猫の忠告に、安心しきった二人は再び混乱に陥った。
そして、どうすればジークが無事でラァサが来なくなるのかではなく、どうすれば二人が別れるかという馬鹿なことを、ハウルが来るまで延々と意見し合っていた。