6話 悪夢の神殿
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十年に一度だけ人が集まり、終われば十年放置される、森の中ひっそりと佇む寂しい神殿。その入り口は硬く閉ざされ、魔術でも火薬を使っても傷一つつけられない。だから人々はただ待つ。最奥に封じられた神殿の主すらどうしようもない、隔離されたこの世とは少し別の空間。
悪夢の神殿、サーガーンディ。
数少ない、真実の伝説を持つ遺跡。
もしも奥にたどり着ければ一攫千金。そう思うと少ない方だ。ここ百年以上は全滅ばかりしているので、徐々に人が減っているらしい。
人間は時がたつと真実を疑い、作られた噂を信じる。
ディオルは浮き足立つ周囲を見回し肩をすくめた。
夜も空けぬ闇に包まれた森に、喧噪が集まっている。暗いのと木々が邪魔でどれほどの人数かははっきりと把握できないが、焚かれている火から見ても少なくない人数である。減ってこれなら、今までどれだけの人間が死んだのだろうか。
「暗いのに人間がいっぱい」
保護者として、入り口まで引率してくれたアヴェンダの肩に乗った妖精が言う。
この妖精、土地ではなく、人についていたらしい。土地に未練はないので、懐いてしまった相手についてきている。細々としたことを手伝ってくれる可愛い奴だ。
「こら、離れない。あんた珍しいんだから」
ふらふらとどこかに行こうとするのをアヴェンダが掴んで引き戻す。
「ディオル、気をつけるんだよ。もしもの時はためらわずに戻っておいで」
「ディオル気をつけて?」
妖精はアヴェンダの真似をする。子供のようだ。
「この遺跡は蓄積された夢の力の結晶で、悪夢のようなことが起こるらしいからね。マヤ様でも把握しきれないところがあるから、ただ無事に帰ってくることだけを考えるんだよ」
それは皆に言われている。十年に一回もあるチャンスなのだから、諦めることも大切だと。しかし実際には違う。かなり力は蓄積されている。言い換えれば数百年に一度のチャンスだ。大人になるのを待っていては、今回で誰かに取られる可能性もある。
そんな状況だからこそ、二人も連れていくのだ。自分の欲しい物で余った力で、彼らの欲しい物を手に入れさせる。
他人の物は自分の物である。たまに使いたい道具なら、他人が所有していても問題ない。ディオルが上手く誘導してやれば、望む形で彼らに与えられる。その上道が楽になる。
その利用すべき二人は先ほどから仲良く話している。一人で暴走しそうなエリアスをジークがしっかりと押さえているという微笑ましい場面だ。
「しかし、自ら死にに行くとは、凡人の思想は理解できませんね。凡人の分際で、封じられしモノから力をかすめ取ろうとは」
「いや、死にに行くつもりはないだろう。そういうことは大きな声では……」
「ジーク、君に比べてすら凡人ばかりですよ。そう卑下するものではありません」
「そうじゃなくてな」
気の弱い男と強すぎる男が、周囲を気にして周囲を気にしなさ過ぎている。
ディオルとアヴェンダはそこから少し離れ、他人の振りをする。たまにエリアスは一緒にいると自信過剰すぎて恥ずかしい。人目さえなければ笑っていられる男なのだが、ディオルは人から注目されて自己陶酔はできない。
「そろそろ開くね。動くなら、全員の動きが止まってからにしな。これは落とすんじゃないよ」
アヴェンダはバングルを外して、ディオルの腕につける。マヤとの繋がりだ。気配をいつもより近くに感じる。これをつけたからと起きたままで夢の中の住人の声が聞けるほど、夢などという特殊な属性は持っていないが、中に入ればある程度は話も出来そうだ。
「地図はちゃんと持った?」
「持ってるよ」
「また読めない字で書き込んだりしてないね?」
「失礼だな」
ディオルは自分の字なら読める。なんの問題もない。
「地図なんてなくても、頭の中にあるよ」
「マヤは自分の神殿だけど、あんまり干渉できないから当てにしちゃあダメだよ」
「分かってるって。なんだかアヴェンダさんの方が母さんよりも母親っぽい反応だね」
ディオルは淡泊に見送ってくれた母を思い出して苦笑する。あれでもかなり心配していたのだ。
「そろそろ開くから、アヴェンダさんは帰った方がいいよ。変なのが出るだろうしね。コロムを護衛代わりに連れていっていいよ。コロム、気を抜くなよ。ちゃんとやったらご褒美をやるからね」
アヴェンダにコロムを手渡した。
少し頭は弱いが、守る時にはとても役に立つ。あれが一匹いれば問題なく帰り、また迎えに来られる。始まる直前ぐらいになると、他者を蹴落とすために殺し合いが始まることもあるらしい。本当なら女性がここまで来るのも避けた方がいいのだが、本人が気にしない、送るというので、甘えてしまった。父のハウルよりも年上らしいが、見た目は若い女性である。しかもまだ未婚である。昔、ラァスに一目惚れして玉砕した後、仕事一筋に生きてきたらしい。父親に似たエリアスだが、頭はいいが馬鹿なので気にもならないらしいのが救いである。
「マヤ様、ディオルを頼むよ」
彼女は腕輪に話しかける。巫女としての媒体だ。装着していなくても伝わっているだろう。
コロムが馬の上に乗ってバイバイと光を振り回し、見た目の可愛さにつられて周囲のまともなタイプの連中が微笑ましそうに見た。
時計を見る。
時間は近い。
この場での夜明けが開始の時間。翌朝には入り口が閉まる。出入りできるのは二十四時間。それを過ぎれば夢とうつつをさまよい歩き死ぬことになる。
「太陽、もうすぐ出てくるな。そろそろ誰か動くかもね」
「もうそんな時間ですか。眠くなってきました」
エリアスの自己管理のなってなさに呆れた。仮眠をしろと言ったのに、遠足前の子供のように一晩はしゃいでいたのだ。
ディオルは我が儘な男は無視して空を仰ぎ見る。木々が邪魔で見えないが、空の片隅は明るくなっているだろう。本体が見えるまでは開かないが、問題なのはそれではない。空が明るくなると言うのは、扉が開く合図なのだ。明確な木の上に登っている者もいるので、目に見えるこの合図が誰かを動かすだろう。
ディオルは荷を持ち、動く準備を始めた。
「ほら、動いた」
誰かが言い合いを始めた。中心にいるのは、フードをかぶった小柄な者。男か女かも分からない。子供のようにも見える。
「いい動きだな」
ジークが呟く。
からかうように大きな男の手をすり抜けて、足を絡めて蹴り倒す。
男でも女でも子供でも、ここに来るだけはある実力を持っているようだ。
木を蹴りとんぼを切って包囲の輪から離れ、それは腕を振り上げた。
目に飛び込んできた魔法陣の規模と、強い魔力感じ、他人事としてみていたディオルは咄嗟に身構える。
魔力が通り過ぎた直後、皆がばたばたと倒れた。死んではいない。傷もつけずに皆殺しに出来るような術を、儀式無しにこの規模で行うのは不可能。
となりでばたりとジークも倒れた。
「こらっ、いきなりこんな術にかかるなっ! 情けないっ」
何人か残っているのは、魔術師だろう。魔力は高いが初心者のジークでは他人の魔力から自分を守るのは厳しかったようである。
「ちぃ。エリア、魔物を出せっ」
「いわれっ……え……ぅぇ」
エリアスが、パタリと倒れる。
魔術ではない。
ディオルの前々でばちりと音を立てて何かが止まる。つぶてか何か、物理的な攻撃。
「おい、僕のキメラ達っ……って」
見れば彼らも仲良くお休みしていた。明らかに人工物か、知られていない希少種にしか見えない彼らは、真っ先に狙われたようである。
魔術にも毒にも耐性が高いので死んではいないだろうが、あっさりとやられてしまう仲間達しかいないのが情けない。
一人相手にほぼ全滅。ディオルは周囲を見回し、襲撃に備える。それはいいが、その襲撃者の姿を見失った。木々が邪魔で暗く、目印となる灯りはかなり消えてしまっている。灯りがかえって集中を妨げて邪魔だ。
息を殺し、音を聞く。
次々と残っていた者が倒れる音がする。何者だろうか。他者を排除する意味は二つある。敵を蹴落とす。もう一つは無駄死にする者を無くす。
これで倒れる程度なら、どうせ中に入っても無駄死にだろう。ディオルはそこまで親切ではないからやらなかったが、これをしているのはどちらのつもりでやっているのか。
上で、がさりと音がした。木の上。その場を離れ、上に意識を集中させ、前に飛ぶ。
迎え撃とうと身体の向きを変えると、眼前に足の裏があった。
「ぐわっ」
強い衝撃に足が堪えきれずに後ろに吹き飛ばされる。
地面に倒れてすぐさま身を起こして、ディオルを蹴り飛ばしてくれたマントを睨む。
起き上がれると知ると、それは飛び上がり蹴りつけてくれた。ばちりと結界がはぜて、蹴りのダメージはないが、そのまま再びひっくり返った。
面倒なので、起き上がらずそのまま寝たふりをする。暗いので薄目を開けて観察した。
白いフード付きのマントを羽織った女だ。光の位置とフードで顔はよく見えないが、服装には見覚えがあった。青い縁取りの前合わせのローブ。
太陽神殿の神官服だ。
これだけ実力のある巫女が、こんな所に来る理由など思いつかない。むしろ来てはいけない立場だ。ここは太陽神と死神が封じた邪神の力の掃き溜め、邪神の神殿である。
「子供……」
ディオルは面倒ごとは嫌いなので、完全に目を伏せた。
彼女は人を子供と言うが、彼女もまだ若い女のようだ。絡まれていたのは、そのためだろう。時間が近いので面倒だから動いた。
音がする。重い物が動く音。日が昇り、入り口が開いたのかも知れない。
子供と侮っているのか、彼女はそれ以上何も言わずにきびすを返した。
気配がなくなると身を起こす。
『大丈夫だった?』
腕輪から声が聞こえた。
「マヤ?」
『開いたから声は届くようになったみたいだね。そちらの状況は? みんな寝てるけど』
「最悪」
足として期待していた連中が全員眠ってしまっているので、かなり痛手を被ったが、ディオル自身にダメージはない。カロンに不可視の携帯結界装置を作らせて正解だった。材料不足のために彼ほど完璧な物ではないが、この程度の物理的な衝撃を弾いたり緩和する程度なら可能である。こういうところでは、このような備えこそが大切なのである。
「まったく、服が汚れた。ジーク、エリア、起きろっ」
試しに起こしてみるが、どれだけ蹴っても起きない。
「マヤ、起こせる?」
『よぉく眠ってるよ。日が暮れるまではみんな眠ってるね』
夢神が言うのなら間違いない。彼は睡眠の神でもある。神殿に近いここならマヤの力が及ぶ範囲だが、彼が起きないと言うことは、夢に干渉する程度ではどうしようもないほどよく眠っていると言うことだ。
夢の神が起こせないのだから、ディオルは諦めることにした。この情けない姿は後々でネチネチと責めてやるとして、キメラ達まで寝入っているのは本当に痛い。
まったく、ろくでもないことをしてくれる女だ。しかも天敵である太陽神殿関係。
出端を挫かれてしまった。
ディオルは神殿内を最短コースで走り、地下へと続く扉を開く。
見た目におかしな所はない。ありがちな石造りの地下神殿。壁に刻まれた封印する力を持つ文字だけが異質だ。常人にはこの意味すら理解できないだろう。ディオルはキメラ以外に、この呪式についても研究している。正確に言うと、ヴェノムに出資してもらうために適当にやっている。彼は空間を操るため、普通では見えぬ黒い魔の帯の文字を鮮明に見ることが出来るのだ。
周囲の情報を理解できれば、マヤの状態も分かる。ある意味、この情報を手に入れられたのは収穫かも知れない。こんな物があるとは思ってもいなかった。これを刻んだ本人達に理屈を聞いても本気でなんとなくこうなると言うので、人間が解明してやるしかないのだ。マヤの周囲を時間が許す限り記録すれば、ディオルの名前は一般の教科書にも載るかも知れないというほど価値がある。人に高く売りつけられるし、彼の目標にも役に立つかも知れない。何より一番簡単な形で参考に出来る太陽神と死神が作った呪いである。実に贅沢な呪いだ。神の力というものの偉大さとは、このような形あってなき物こそが示してくれる。考えるだけでぞくぞくした。
『楽しそうだね』
「楽しいよ。身体を持って夢の中を歩いているって言うのも、面白いかも知れない」
ここは半分は夢の世界だ。道は固定されているが、現実にあるわけではない。しかし夢ではなく現実。
夢と現が曖昧で同時にある。ここは確かにあり、ここで死ねば死ぬ。しかしここは実際には存在しない。
そんな空間だから、正しく道を知っていれば普通に歩いてギリギリのところを、かなり短縮していける。エリアスがいれば、簡単に出し入れできる足があったのでもっと楽だったのだが仕方がない。保険として連れてきたキメラ達が爆睡していたのもしかたがない。
本来なら一人で出来る事だ。そのために道具を持ってきた。
アイテム提供のカロンには、カロンだけ役に立ったと伝えよう。現在も、あまり体力のないディオルは、カロンが作った道具に頼って走っている。玩具として売っているラーフの翼に近い力を持つマントを羽織っている。飛ぼうと思えば飛べるし、今は走るための補助としている。一歩一歩が軽く大きい。
「マヤ、外は誰も起きてこない?」
『みんな熟睡しているよ。あの子、本当にいい腕だね』
マヤの声が外よりもはっきりと聞こえる。外と違いここはマヤの領域だ。干渉しやすいのだ。
神殿内なのに、この程度の干渉しかできないとも言えるが。
「僕がどこにいるか分かる?」
『分かんない。媒介があるから声は届くけど、君は眠ってないからね』
では、もしもの時の道案内にはならないようである。腕輪は気休め程度と考えた。
『中央に近づいたら方向ぐらい分かるかも知れないね。早く着てね。リアルで誰かに会うのって、何千年ぶりだろう』
「今までの人は会わなかったの?」
『僕に感心がないから僕に気付かないんだ。それに宝に目が眩んだ人間なんて不愉快。だったら子供の変な夢を見ていた方がいいよ』
幽閉の身なのに、夢に逃げられるので実に暢気な囚われ人だ。もしも本当に孤独であれば、神と言えども正気ではいられないだろう。
「君に感心がないと言えば、あの女はどうだろうね。調べてきたのかな。太陽神殿、何を企んでいるんだろう」
『今のカーラントの王様はカロンの弟だよね』
「そう。師匠の命を狙って、長兄も殺してしまった王様だって。ただ、神殿は掌握できてないみたいだから、関係あるのかないのかはわからない」
『神殿は強いね。まあ、どんな愚王でも太陽神殿に手を出すほど馬鹿じゃないか』
太陽神は引きこもりの神とも言われている。滅多なことでは報復などない。ないが、神殿に手を出せば、矜持の高い太陽神が動きかねない。そうなれば地獄を見ることになる。
それを知っている太陽神殿の巫女がこんな所に来るなど、正気の沙汰ではない。
『服だけなのかな?』
「さあね。僕には分からないよ。問題は、あの女がどこまで調べてきたかだよ」
マヤの神殿だが、本人が全貌を把握しているかというとそうでもない。ディオルだって自分の家の地下を把握などしていない。両親共にそうだろう。最低限の道しか知らない。
最低限の道は、記録されている可能性がある。太陽神殿などという歴史が詰まったところになら、多少の知識の蓄積はあるに違いない。
「ん?」
前に、黒い固まりが見えた。近づくと、それが炭のようになった魔物の死骸だと気付く。夢の中だからこそ、飢えぬ魔物が徘徊する。悪夢の神殿と呼ばれる所以だ。
ディオルは黒く焦げたそれを飛び越え先に進む。
巫女がやったのだろう。巫女のくせに凶悪な女である。
と、角を曲がって顔をしかめる。
また死骸。
「同じ道を通ってるのか」
『入り口付近はマッピングも正確だろうし、簡単に手に入れられるんじゃないかな。今までもそういう人はいたよ』
「なるほど。じゃあこのまま先行してくれれば、楽に進めるかも知れないね。道を間違えてくれたらそれでさようならできるし」
『ディオルは本当に素で悪役っぽいよね』
「ほっとていてくれないかな。僕は正義の味方になるつもりはないし」
実に馬鹿らしい話だ。目の前で崖から落ちそうになっている生き物がいたら助けるぐらいはするが、その後はメリットがなさそうなら無視して立ち去る、必要以上に親切でも冷酷でもない、ごく普通の感覚の持ち主だ。
だから利用できるなら利用する。
どうせすぐに追いつくから、つかず離れず歩き、正しい道を行き続ければ、疲れたところを追い抜けばいい。
子供と侮ったあの巫女が悪いのだ。
角に差し掛かり、足を止める。ここは歪みなどない、模型のように綺麗な道の神殿だ。下手に飛び出せば障害物はないので丸見えである。
そっと顔を出し、空を飛んでいた。
「っっっ!?」
「あら?」
首を掴まれ投げられ、首が折られる寸前ぐらいで相手の姿を確認し合う。
ディオルに見えるのは、マントや服の袖ぐらいなのだが、それだけで相手があの巫女だというのは分かった。
声も出ないほど硬直し、心臓だけがバクバクと激しく騒いでいた。
「あらやだ。さっきの男の子」
解放され、息を吸い込みけほけほと咳き込む。
いきなり待ち伏せされるとは思わなかった。
「ごめんね。痛かった?」
「べ、別に」
首が絞まったのが苦しかった以外はない。後で首が痛くなるかも知れないが、その時は母に見てもらえばいい。
一番大きい痛手のは精神的なものだ。
「どうして一人でこんな危ないところに入り込むの」
首に手を触れられ、顔を覗き込んでくる。
初めてまともに目が合った。
「ラフィさん……」
口にして、驚いた。
一瞬見間違えるほど似ていると思った。しかしよく見れば全然違う。ラフィニアに劣らない美人だが、人種が同じで雰囲気が似ているだけで、ラフィニアより目元は少し垂れ気味で、目の色も濃いし、髪の色は薄い。バランスも彼女の方がいいような気がした。つまりラフィニアよりもさらに美人だと言える。
カーラントの美人はたまに飛び抜けた美人になるが、その中でも彼女は最上級だ。それほど、目鼻立ち以上にバランスというのは大切なのである。
「今なら間に合うから帰りなさい」
「何が帰りなさいだ。僕とそう歳も違わないだろ」
彼女は十代半ば。年の差もせいぜい二、三しかない。子供扱いされるほど違わない。
気付かれてしまった以上は仕方がない。予定を変更してさっさと先に進むべし。
「待ってください。一人では危険です」
巫女が走って付いてくる。あれだけのことをした女に接近されても恐いので、本気で逃げることにした。
「待ってくださーい」
道具を使って走っているのに、普通に付いてくる。魔力を込めて、速く飛ぶ。
「面白いマントですのねぇ」
「…………」
普通に付いてきた。余裕の笑顔すら浮かべている。
「肉体強化型か」
「魔力は使っていませんわ。普通に走っているだけです」
ニコニコとたおやかに微笑む。
速い速度でけっこうな距離を飛んでいる。
あの魔力、あの体術、この体力。
どこかで見たことがある。
どこで……
ディオルは思い当たって地面に降り立つ。
「君の名は」
「あら、女性から名を名乗らせるのは失礼ですわ」
「君はシアか」
「まあ、なぜわたくしの名を?」
彼女は頬に手を当てて首をかしげる。仕草がイレーネと似ている。イレーネと似た印象を受ける狸女。
「君の始めの術で、君の兄もおねんねしてたんだよ」
いつもジークが眺めている写真の女だ。髪型が違うから気付かなかったが、まさしくラフィニアに似ているジークの妹。写真の中の彼女は綺麗に結っているが、今の彼女は長い髪をぞんざいに緩く結っただけ。女は髪型一つで変わる物だ。写真と印象が少し違っても仕方がない。
「お兄さまがいらしたなんて……。
どうしましょう。こんな所にいるなんて知られたらまた必要以上に心配なさるわ」
やはり妹から見ても過保護な兄のようだ。あの家で育って、まともな女のはずはないと思っていたが、本当にまともでない女だった。ジークの見る目の腐っていること。
「なぜジークの妹がこんな所にいるんだ。神殿に出入りしているとは言っていたが、これは君の父親の意志か。それとも神殿の意志か」
「父も神殿も関係ありません。どうしても欲しい物があるんです」
「欲しい物?」
彼女は曖昧に微笑む。
「そういう君こそ、どうしてこんな所に一人で来たんですか?」
「僕も欲しい物があるんだよ。太陽神の封印も見てみたいしね。破る方法とかあったら面白いし」
こう言えば、引いてくれるだろう。神殿関係者が不敬者に係わることは禁止されている。
「面白いことを言うんですね」
「自分が仕える神だろう。少しは怒ったら?」
「ここにいる時点で破戒僧ですわ。それにわたくし、太陽神は嫌いです」
神様が嫌いな神官など数多くいるが、ここまで突出しているのも珍しい。
「…………なんで巫女なんかに。そこまでしてジークから離れたかったの?」
「お兄さまのことは大好きですわ。ただ、お兄さまはわたくしといるのが辛そうでした」
「目のことが関係すると暗いからね」
妹が大好きだからこそ暗くなる。暗い時の彼は放置するに限る。その原因となった彼女は、居たたまれない気持ちになるだろう。
「君は何が欲しくてこんな所に来たんですか? お兄さまの欲しい物は何となく想像できますが」
このいい方だと、複数のアイテムが手にはいることもあると知っている。本当に食えない。
「いくつも候補があったけど、君のせいで一つに絞ることになったよ。ジークがいたら言いくるめて僕の欲しい物を望ませたのに」
本当に残念だ。ジークの分は確実だったのに。
「ごめんなさいね。まさかお兄さまがいるなんて思いもしなかったの」
「キメラを作るのに役に立つんだけど、必須じゃないからいいけど」
利点は、ジークにはそのうち不要になる可能性があり、それを買い取ることが出来たこと。多少の調節なら普通の道具で出来るが、針に糸を通すような精密な調節となると並の道具では無理だ。
「一緒にいた子達ですね。君はまだ小さいのに、キメラを作っているんのね。すごいわ」
「別にすごくないよ。金とそれなりの知識さえあれば出来ないことはないからね」
「でもどうしてキメラを? 君みたいな若い子が好む分野ではないと思いますが」
それはそうだろう。普通は自分自身が強くなることを望むものだ。
「人間が自分自身を磨いても、どうやったって上限がある。その点、自分で作る限りは、上がない。神を作ろうとは思わないけど、太陽神ぐらいおちょくれるようになりたいね」
ディオルはくつくつと笑う。
もちろんわざと太陽神と口にした。軽く貶めるぐらいの方がいい。マヤはあれでもディオルにとっては友人だ。週に一度、遊びに行く約束をしている。趣味は似ているし、話は通じるので悪くない遊び相手だ。タブーにさえ触れなければ、会うに値する。
ディオルは腕輪を見せつけるように前髪をかき上げ笑う。
「君、その腕輪……」
「太陽神の巫女とは対立するだろうね」
「わたくしは気にしませんわ」
ここまで来ると、本当に口先だけではない。少なくとも、本気で太陽神なんてどうでもいいと思っているのである。
「…………まあ、ここに来るぐらいだからそうだろうね」
邪神に悪い感情を持っていないことだけを確認だけしたかった。
「試すようなことを言ったのは謝るよ。マヤに邪神と差別するような神官が彼に近づくの嫌だったから」
「友達思いなんですね」
「なんで神様と僕が友達なんて思うの?」
自分で直属の神官だと勘違いしたのに、普通は出ない言葉である。
「そんなことを言う相手は、恋人か友達ですよ。敬意と好意は似ているようで少し違います」
確かに呼び捨てしたし、見せるようなことをした。本物の神官ならしない。
ジークの妹のくせに、人をよく見ている。
「そういえば、君の名をそろそろ教えていただけませんか? せっかく知り合ったんですから」
綺麗な顔で綺麗な笑顔を作って顔を覗き込んで言う。
自分の容姿をよく知って使っている人間だ。何もかもジークとは違う。ジークよりも世慣れして賢い上に魔術も上手い。
「ディオル」
自分を理解して効率よく使う人間は嫌いではない。マヤを嫌わないなら、名乗るぐらいはしてやってもいい。