7話 忌み子
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育ての親のクロフもいないとキーラは緊張して動きが鈍る。
ここはもうあの特殊な場所ではない。近いが、影響力はほとんどない。しかし多少はある。それでも彼女は緊張する。
だからディオルが手を引いた。
ヴェノムによく似た、感情を表に出さない少女は、弟の手で少し安心してちまちまと歩く。
街に出るというのに、家にいた時と変わらず部屋着のようにラフな男物を身につけている。髪も一つに縛っただけで、実に女らしくない様だ。
「姉さんはもう少し見た目を気にした方がいいよ。せっかく世間が絶世の美女なんて呼んでくれている母さんに似たんだ。髪も適当に切ってるし、結ぶにしたって、クシで整えながら結んだって感じじゃないしさ」
姉に対する大きな不満だ。ディオルが髪を伸ばしているのは、たまに髪を使うからだが、伸ばしている以上は手入れして、毎日邪魔にならないよう三つ編みにしている。三つ編みなのは、小さなころからハウルがそうやって結んでくれたため癖になっているだけだ。娘に触れられない分、息子を娘っぽくして我慢してただけなのだが。
「そうですよ。せっかくキーラさんは美人なんです。少し心がけただけでずいぶんと変わるでしょうね」
エリアスも珍しく他人を褒めるようなことを言う。彼はキーラは気に入っている。彼女が内気で、真剣に話を聞いてくれるタイプだからだというのが大きいが、それ以上の理由は分からない。
「母さん、まずは姉さんの服でも買ったら? 悪いけどあの三人、服にこだわらなさそうだし」
「そうですね。私が来る度に持ってきていた可愛らしい服は着られた形跡もありませんですし」
「この国では浮くし、動きづらいからだよ。どうせ父さんも口を出したんだろ」
「もちろん口を出さないはずがありません」
彼は娘命だ。可愛い娘に好かれたくて、山のように貢ぎ物を送っていた。可愛すぎるフリルのドレスを選んではヴェノムに己の妻をよく見てから選べと言われ、キーラに似合うはずの女物の服を送った。ドレスから普段着まであるはずだ。
「似合う物と、着たい物が一致してないのが難しいんだよ。姉さんはそういう動きやすい服がいいんだよね」
ドレスを着てでも大立ち回りできるヴェノムが特殊なのだ。本来は活発な女の子に窮屈な服など着せたら、ますます内向的になってしまう。
「姉さんなら男物でも似合う。可愛い男物を着ればいいんだよ」
「そうですね。城に行けば、ラァスが昔着ていた服があります。彼の服ならちょうどいい」
昔は今以上に可愛らしく、それを自覚して利用していたというラァスだ。服装もそれなりの物だったのだと想像できた。父親の話題にエリアスが顔をしかめる。
「ジークなら、動きやすそうな服分かるよね。君の妹も動く時はそれっぽい服着ていたんだろ。どんな格好していた?」
シアは間違いなく本性を隠していた。果たして、この兄がどこまで知っているのか疑問だが、普段から着ている物ぐらいは知っている。
「シアは自分達と同じ物を着ていたな。あの子は美人だから、何を着ても似合っていた」
シスコンだからというのもあるが、今よりも幼い彼女なら、何を着ても可愛らしいのは当然だ。
「シスコンの意見は当てになりませんね。うちの父なら嬉々として選び始めそうですが」
「そういえばそうだね。じゃあ、祝いには服を要求してもらおうか」
「それがいい。あの人はこの手の顔が好きだから、喜んで貢いでくれるでしょうね」
息子が鼻を鳴らして笑う。
ハウルもラァサにはとにかく甘い。自分の娘を可愛がれない分、ラァサにはいつも奮発して物を買い与えている。どっちもどっちだ。
「あそこを見なさい。若い女性向けのブティックです。とりあえず、もう少しだけマシな服に着替えましょう」
ヴェノムは娘の手を取り、返事を待たずに進む。キーラは拒否をしない。
「僕らは外で待とうか」
「そうですね。こっちは男の方が多いのに、入るのはちょっと」
「君なら大丈夫だよ。女でも通じるから」
「なっ……なにをっ」
エリアスが町中で本を取り出し、ジークに後ろから羽交い締めにされる。こうなってしまうと、そこから抜け出す身体能力が皆無の彼には何も出来なくなる。
「まあまあ。今はともかく、将来は嫌でも男らしくなるから安心しろ。その時は女がほっとかないから」
「何ですか、その投げやりな言い方は。そんなのは当然ですが、私に釣り合う女性などこの世に数えるほどしか存在しないでしょう」
「…………そ、そうか」
呆れつつも暴れないと判断して、ジークがエリアスの拘束を解く。エリアスの自分に対する評価を、彼は甘く見すぎているのだ。
その余計な自負心さえなければ、もっと伸びているのだが、本人は気づかない。もしくは気付いていても、言動を変えられない。馬鹿ではないが、ずれているので彼がどこまで考えているのか、ディオルには計れていない。
「数える程の中に、現在の知り合いも入っているの?」
それともまだ見ぬ、いもしない完璧な女を捜しているのか。
「まあ、数人はいますよ。キーラさんはそのうちの一人ですね。聖眼だし、あの特殊体質は魅力です。しかも従順で、美人。欠点はディオルの姉という点のみ。それが大きいのですが」
「ヘルネは?」
共通の知り合いの名を出す。
「ヘルネは関係ないでしょう」
「そう言うと思ったよ」
彼の基準は簡単だ。基準だけは、本当に簡単だ。特別な存在であればいい。自分が特別だから、特別な存在としか釣り合わないと思っている。
実にくだらない選民意識だ。
彼の見下す存在がいないと自分の今もないのだとは、誰も教えてはいないらしい。危機感を持った頃には今の彼が出来ており、馬耳東風だ。
「ジーク、あんまり考えると禿げるよ。他人は他人、自分は自分、世間は世間。
受け流せる頑固さが君には必要だと思うんだ。僕らのことは気にしなくていい。僕自身、一般常識には当てはまらない。君も、エリアも」
君の妹も。
心の中でそう付け加え、笑みを浮かべる。
「受け流す……」
「それが出来ない点でも、君とうちの姉さんはよく似てるな」
「そうか?」
「ああ、似ているね。自分の力には確信があっても自信がなく、人の意見に左右され、己を貫くことを恐れている。それで人を傷つけるのが恐いんだ。それでも結果的に動いているから、君の父君は立派な方だよ」
身体の事で周囲に迷惑を掛ける点が二人の大きな共通点だ。キーラの方が規模は大きいが、それはこの際関係ない。方向性の問題なのだ。
「決めつけているわけではないから、否定してもいいけど、端から見るとそんな感じだよ、二人とも」
ディオルは窓からこちらを見ていたキーラに向かって言う。
自覚は大切だ。他人にそう思われていると知って、二人がどうするのかを見る。自覚させて解決するか、殻に閉じこもるか。
「ディオル、生き物が好きだからと、姉と友人で試すのはやめなさい」
「試すだけではないよ。母さんもゆっくり見ているよりも、少し殻を壊すことも大切じゃないかな。
あ、姉さんその服に合ってるよ。さすが母さんの見立てだね」
ヴェノムは気が長いところが欠点だ。時間間隔がおかしいので、人よりも気長に見てしまう。時間が解決することだから、せかすことはないと。
しかし幼いディオルは時間の大切さを知っているから、その点で彼女とは対立する。
「一応言っておくけど、身内だろうと好ましくもない相手なら放置するからね、僕は」
「分かっています」
ヴェノムはそれだけ言うと、会計をしてから服にはあまり興味を持たないキーラを連れて店を出た。全部ヴェノムが選んで買ったらしい。
「せっかく可愛くなったので、ついでに神殿に挨拶に行きます」
「し、しんでんっ」
キーラが初めて拒絶の色を見せた。
「長らくお世話になったのです。礼も言えないのですか」
この街の海中神殿には水神『ハミア』が住んでいる。普通なら、主の近くにキーラを置くのは反対する。しかしハミアは温厚な者の多い水の長。怒らせたりしなければ、近くにいるだけでは虐めたり嫌がらせをしたりはしない。
「でも……」
「ここにいるのがあの方だからこそ、お前はここにいられたのです。コウトにも挨拶しないといけません」
キーラは小さく震えながらも頷いた。
ジークはここまで文化の違う他国の街に来るのは初めてで、その上、水神が住まう入り口と言われている水神殿の本場にまで来ると緊張で汗をかいていた。
一番緊張しているのはキーラだが、気付いたディオルが手を引いている。
守衛僧に挨拶をして中に入り、一般の参拝客を横目に奥へと向かう。
平屋建ての立派な神殿で、突き出た見張り台にはすべて人が二人以上。古い木造だが、側面には魔除けの類の模様が描かれている。
呆けたように見上げて歩いていると、本殿に到着し、神官達に迎えられた。
「ヴェノムさん、お久し振りです。今日はハウルさんの姿が見あたりませんが、珍しく別行動ですか」
「ええ、娘がいるので、アレを連れてくると騒がしくなりますから」
笑顔だけ見ればおっとりとしているが、立ち姿には隙のない神官がヴェノムに話しかける。平均的に小柄なこの国の中では長身の部類に入る、ホクトと似た雰囲気の男性だ。
「コウトさん、おばさんのご機嫌は?」
ディオルの問いに、彼は無言で首を横に振る。
「では、出直した方がいいのでしょうか」
「大丈夫だとは思います。原因は男ですから、気に入りのディオルがご機嫌伺いをすれば少しは」
「なるほど。お前達、先に挨拶していらっしゃい」
達、の中にはジークも含まれているらしい。美女と名高い水の女神にご機嫌伺いに同行など、考えるだけで冷や汗をかく。
「これだけ揃えておけば、彼女の機嫌も少しはよくなるでしょう。キーラはハミア様の許しが下りるのを待っていると伝えてください。
ディオル、頼みます」
「分かった。行くよ、二人とも」
エリアスが面倒くさいと不機嫌そうに言いながらもついていくので、ジークは黙って歩いた。
コウトに案内され、地下への階段を下りる。地上とあまり変わりない印象の地下神殿に出ると、奥へ奥へと進み、広い部屋へとたどり着く。
御簾の奥に影かがあり、コウトがその人影へと平伏する。ディオルとエリアスもそれに続き、ジークは遅れて平伏した。
国によってマナーが違うのでやりにくい。
「ハミア様、ディオルをお連れいたしました」
コウトの言葉を聞き、御簾の向こうで人が動く。
「面を上げよ。ディオル、久しいわね」
御簾が独りでに上がり、座っていた女性が立ち上がる。
美女には違いないが、顔の形やパーツの雰囲気が、どことなくハウルに似ている女性だ。知っている男に似ているため、美人だからという理由では威圧されなかった。
「おばさんっ」
ディオルがハミアへと駆け寄った。まるで子供のように無邪気に走り、彼女の胸に飛び込む。
「おばさん、お久し振りだね。こんにちは」
「こんにちは。相変わらずウェイには似ずに可愛い子だこと」
ハミアが彼を抱きしめて撫でる。
「お久し振りです」
エリアスは静かに頭を垂れた。
「おばさん、落ち込んでいるって聞いたけど、何か嫌なことがあったの?」
「少しね。でも、可愛いお前を見たら元気が出たわ」
「本当に大丈夫? ストレスは美容によくないって、いつも母さんが言ってるよ」
「人間は些細なことで調子が悪くなるものだから仕方がないわ。でも私は大丈夫よ」
「本当? よかった。でも、やっぱりすっきりしてた方が表情が輝くっていうし、ボクに出来る事なら何でもするよ」
ディオルがあんなに甘えている。しかも、演技なのだ。演技であんな風に笑顔で安心を示すのだ。
「ディオル、最近は動物作りは上手くいっているの?」
「色々作ってる。楽しいよ。大きなネコも増えたね。見る?」
「見せてくれるの?」
「いいよ」
ディオルは嬉々と空間に穴を開け、腕を突っ込み引きずり出す。ダメと言われても、止める保護者がいなければ彼はやる。
引きずり出されたゼノンは、床に下ろされてもしばらく硬直してハミアに撫でられた。
「ディオル、上手になったわねぇ。本当に面白い力。
このネコも可愛いわ」
「欲しかったらあげるよ」
さらりと言われてゼノンは飛び上がる。
「ど、どちら様で」
「ハミアおばさん。バーミアとかバミアとかの方が聞き覚えがあるかな。国によって呼び方が違うからね」
「いやいやいや、水神様のようなお方に、俺みたいなケチな野郎は釣り合いが取れませんっすよやだなぁ」
「そうだね。お前みたいな人を騙すタイプをおばさんにプレゼントするのは失礼だね」
ゼノンは何度もうんうんと頷く。
緊張の毎日よりは、人里離れたところで気楽な飼い猫になっている方がいい。ジークが彼でもそう思う。
「今度、もっと知能が高くていい子が出来たらプレゼントするね。
今の研究予算だと、既成の物を使うしか出来ないから、当分先だけど」
「小遣いが足りていないの?」
「小遣いの範囲を超えるからね。昔はおじいちゃんにおねだりしてたけど、最近は母さんが、趣味は自分の稼ぎの範囲内でやりなさいって怒るんだ。遅々として進まない」
「そう。ヴェノムが怒るのなら仕方がないわ」
「でも、マヤにいい物をもらってきたから、今度はアシュターで実験するんだ」
「アシュターとは、三の月の?」
「そう。この前、偶然見つけたから、もらう事になってるんだ。
神様でも、人間の中に押し込められているから問題ないって、おじいちゃんも許してくれたし」
「ディオルは賢いわねぇ。ウェイゼルがうらやましいわ。こんなに面白い孫がいるなんて」
あの発言内容で、微笑ましげに見つめている。ジークには信じられない。
神にとって、人の命は可愛い身内の玩具程度の存在なのだ。
「ああ、そうだ。おばさんに会えて嬉しかったから忘れてた。
姉さんが一度うちに帰ることになったんだけど、おばさんに挨拶したいんだって。入ってきてもいいかな? 父さんの事がなければ完璧なぐらいになってるから、触れなきゃ影響のことは心配ないんだけど」
だめ? と見上げ、ハミアは笑みをこぼす。
「出来上がったの。幼い子がよく堪えたわ。コウト、精霊達を避けて連れてきなさい。わたくしは居間で待っているわ。行きましょう」
「御意」
コウトは一礼すると来た道を戻っていく。
ハミアは本当に不機嫌なのか疑わしくなるほど上機嫌に見える。
エリアスに背を押され、手をつないで前を行く二人についていく。
「身内で仲がいいんだな」
「ディオルはあの力が面白がられて可愛がられていますね。ガディス様もかまいたそうにしているんですが、ヴェノムさんに睨まれて退散しているらしいです。
クリス様もディオルには甘いですね。誕生日プレゼントに値の張る宝石を与えてはヴェノムさんに叱られています。
何がいいのか私にはさっぱり分かりませんが、四神に好かれるフェロモンでも撒いてるんじゃないですか。ハミア様の場合は、ディオルの顔が好みというのもあるんでしょう。彼は母親似ですから、風神の妻に似ているということになりますから」
身内に甘いのではなく、ディオル限定。
夜中に実験室の前を通りかかった時は、不気味に含み笑いをしていたあの子供らしくない子供相手に。
居間と呼ぶには広く眺めがよすぎる部屋に通され、ジークは呆然とした。
壁が見えず、海が見えている。少し走れば魚の泳ぐところにまで行ける。海の中にあるのは知っていたが、これではまるでおとぎ話の中にいるようだ。
「際まで行っても、ハミア様の許可がない限りは外には出られません。つまりは溺れることはありません」
「そうか。よかったな」
ジークは身体を動かすことなら何でも得意だが、彼らは身体を動かすことが一番苦手だ。
「私は泳げます」
「そうか。すまない」
「ディオルはろくに泳げませんから、あちらにどうぞ」
ディオルに睨まれる。
水場が精霊だらけで、ハウルの釣り堀状態の湖だけでは、泳ぎが上達しなくても仕方がない。
「そちらの二人もおかけなさい」
示された敷物の上で、ディオルを見習い胡座をかく。
「新顔ね。いい男だこと。前の弟子はいまいちだったけど、今度のはいいわ」
「ホクトさんが武術を習いに来たところの長男だよ。魔術はまだ下手だけど、すごく強い」
「そう。コウトも堅物な所が可愛くて悪くないけれど、これだけ派手な姿だったらもっとよかったのに」
彼は十分いい男だ。
「コウトさんはまだ印をもらってくれないの?」
ディオルの言葉でハミアの表情が一瞬凍る。
「おばさん、ナシトが何か馬鹿なことしたの?」
「お前は本当に、的確な言葉を選ぶわね。
そうね。馬鹿なことを言っているわ」
鼻で笑い、皮肉げに笑う。強がっている態度だ。
隣でエリアスが舌打ちした。
「ど、どうした?」
「腹が立っているんですよ。
ナシトさんは、人としての人生も存在も捨てて、神に仕えている神官です。印を付けられることから、印持ちと俗に言われています。
ヴェノムさんも立場的にはそれに近いです。契約内容が違うので縛られてはいませんが、本来なら自分の主から離れるなど出来ない立場です」
「大神官のようなものか?」
「違います。うちの大神官は普通に年を取る老人です。後継者は父の身内ですから、年だけは取らないでしょうが、普通の魔術に長けているだけの神官です。
契約して、印を与えられると神の使いになる、つまりは使い魔のような物になるんです。
分かりやすく言うと、よく吸血鬼が血を吸って相手に力を与えるでしょう。あんな関係に近いと思ってください。
つまり、大神官は破門になっても出て行くだけですが、印持ちはどうやっても離れられないんです」
そんな人間が馬鹿なことをしている。
「離れようとしていると」
「まさしく馬鹿なこと、ですね。人はそれを承知で印を受けるものです。周囲にも、ハミア様にも説明は受けていたはずでしょうに。
私はそういう分をわきまえない思い上がりが嫌いです」
エリアスが怒り、ハミアはため息をつく。
それほど世話になっている神を裏切る理由とは何か。
「ああ、噂をすれば」
ハミアがため息をついて立ち上がろうとするのをディオルが止めた。
「おばさん一人で悩むことはないよ。ナシトさんが全面的に悪いんだから。
おばさんは優しいから、みんなが珍しく怒っているのが悲しいんだろうけど」
水の者は大人しい気質が多い。滅多に怒らないが、怒らせると恐ろしいと言われている。
「ディオルはいい子ね。
……ああ、ナシトが来るわ。どうしてこんな時に来るのかしら」
ハミアがため息をつく。ジークは引き戸を見て、やがて足音が近づくのを感じた、神殿内のこととはいえ、神の力に感心した。これでは彼女にはどうやっても忍び寄れない。
必要はないが、色々な場面を癖で想定してしまうのだ。
エリアスは呆れながら、平伏する我が儘な印持ちを見下ろす。
直属の神官上がりのくせに、百年しか保たなかった。普通の人間でも生きられる時間だ。
神官だったくせに、意味を理解していないはずはない。
「何の用かしら。くだらない戯れ言なら後になさい。来客中です」
「くだらないなどっ」
必死に言いつのるナシトを見て、ハミアがうんざりとため息をつく。
「ここまで連れてきたのね。本当に馬鹿な子」
隠れていた女が出てきて、ナシトの隣で頭を垂れる。
「まさか、女に惑わされたんですか」
エリアスは呆れて言う。
人間の覚悟は簡単に崩れる物だ。しかし、自制と我慢は出来る。
女に惑わされて主に背くなど、どこの馬鹿お坊ちゃまだ。
「まあ、そこそこの美人ではありますが、ハミア様ほどではないでしょう。そんな女を神殿にのこのこ連れてくるなど、何を考えているんですか。印持ちが軽々しく人間と係わるのも避けるべきだというのに」
だからコウトやラァスの様な、直属の神官が存在するのだ。
例外中の例外は、契約方法が違うヴェノムだけだ。彼女は外から与えられるのではなく、内の力を固定されているのだと、地神が言っていた。必要もないのにわざわざ縛り付けるのは、ウェイゼルの主義に反するというだけ
だが、ヴェノムは神の力を受けて生きているのではない。
本人はその違いを理解していないらしいが、エリアスは知っている。神を三人も手玉に取り、その息子まで手玉に取る魔性の女。
実に面白い人だと、彼は彼女には尊敬の念を抱いている。
しかしこの男は違う。
目を見張るような素質もなく、男としてハミアに気に入られ、ヒモをしているだけのダメ男。それが他に女を作ってくるなど、自覚がないにも程がある。
エリアスはどんな相手であろうと、自分の立場を理解していない者が大嫌いだ。
「ナシトさん。自分の主を怒らせてまで、どうしたいの?」
ディオルが静かに尋ねる。
彼は傲慢な性格だが、ハミアを慕っているのは本当だ。嘘をついて擦り寄ってくるような男なら、さすがに誰もここまでは可愛がらない。
ジークは気味悪がっているが、子供の頃から彼はああだ。
「ハミア様のお怒りはもっともです。この身を引き裂かれる覚悟は出来ております」
ハミアがそのような野蛮なことをするはずがないと、分かっているからこその言葉だ。ガディスあたりなら彼は切り出した瞬間死んでいるが。
「火遊び程度ならともかく、自分がしていることの意味は理解している?」
「はい」
「理解していないよ。百年生きて何をしてきたの? まさか、ただここで遊んでいただけ? 元々神官でしょう?」
ディオルの言葉で、エリアスは吹き出す。
「まあ、ハミア様の所の印持ちは、恋人兼ですからね。
ハミア様が男を甘やかしたいタイプですから、勘違いをして思い上がってしまったのでは? 人間と神の時間感覚は違いますから」
長い間、一緒にいると思っていても、ハミアから見れば、熱が冷めるには短い時間。
「無礼は承知です」
「無礼じゃない。非道っていうんだよ、こういう時は」
「そんなつもりは……」
ハミアは四神の中で一番繊細だ。他の三人に繊細さがないだけだが、彼らとて大した理由もなく他に好きな人が出来たと別れ話を持ち出されれば怒る。
ヴェノムはさっくりと別れたが、理由があってのことらしい。
「彼女のことを真剣に愛しているんです」
「そりゃ、真剣でないのにこんなことしてたら、おばさんが止めても僕がこの場で殺すよ」
印持ちがどれほど頑丈か知りたいだろうから、かなり我慢しているらしい。相手がハミアでなければ、もう少し外道な事を口にしていたはずだ。
「ナシトさん、その方を愛しているのは理解できました」
珍しく切れかけているディオルを横目に、エリアスが微笑みかける。聖眼として生まれたので、最低限の愛想笑いぐらいは身に付いている。
「それで、どうしたいんですか? まさか、ハミア様の元で結婚して幸せに暮らしたいとか?」
「……」
「それしか道はありませんからね。分かっていて、そんなことを頼みに来たんですか。外道……鬼畜の行いですね。普通、そんなひどいこと、普通は思いついても実行などしませんよ」
「しかし、印持ちが一般の人間と結婚することはあります」
話をしていると頭が痛くなる。エリアスも他人の気持ちが分からないと言われる方だが、ここまで他人の気持ちが理解できないのも珍しい。
彼は歳に見合わない幼さを有していた。子供っぽいところが可愛かったのだ。ヴェノムもハウルのいつまでも続く幼さと新婚気分に満足している。優秀で余裕のある女性は、甘えてくる少年のような男を好む事が多い。
「婿に入った分際で、他所の女連れて別れてください、でもこのままここに住ませてくださいなんて、普通あり得ない事してるって、自覚ある?
そっちの女の人は、その非常識な浮気相手。愛人だよ。自覚ある?
で、そんなことを許す女主人が、この世にどれだけいると思う?
僕はいたら大奇蹟だと思う」
ディオルは言葉のトゲを隠しもせず、自分を可愛がってくれる大叔母を馬鹿にする二人を睨み付けた。
「それでも、これしか考えられなかったんです。
ハミア様、どうかお許し下さい。彼女の腹の中の子のためにも」
今度こそ、ディオルが切れて殺しにかかる。ジークとゼノンが押さえつけなければ、その『子』ごと殺されていただろう。