9話 塔の影で

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 静かで少し肌寒さを感じる朝。外からは鳥の鳴き声と、慌ただしさを帯びてきた、まだ少し控えめな人々の声。
 泊まり客は遅くに眠る者が多いから、彼らなりに静かに商売をしているのだ。その様子をしばし眺め、飽きては空で戯れる小鳥を可愛らしいと眺めていとる、部屋のドアがノックされた。
「鍵は閉まっていますがどうぞ」
 そんな意地悪を言うと、ドアの向こうで戸惑う気配を感じた。
「冗談です」
 可愛らしいので鍵を開けると、ディオルが立っていた。神殿であった時の黒ずくめとは違い、チュニックに綿のズボンと、いかにも普段着といった服装だった。あのときは小さいながらも悪の魔道士という可愛らしい様相だったが、今日はどこにでもいる少しいいところの男の子といった雰囲気。
「おはようございますディオル様」
「おはよう、シア」
 彼は不機嫌だ。むすりと不機嫌なディオルも子供らしくて可愛らしい。
「どうしました、むくれてますね」
「何なんだ、あのキスマークは」
「ああ、お客様がいたので、私からの返信だと分かるように」
「君、誰といたの? 金髪のガキ?」
 怒った顔は、本当に可愛い。起こっている内容も可愛い。
 分からない事に腹を立てている。
「そういう方もいらっしゃいました」
「君をジークの妹だとは思ってもいないようだっだけど、どういう関係?」
「さあ。彼は何のために一緒にいたのか。たぶん、代理なんでしょうけれど」
「何の?」
 知りたがり屋。
 お友達が自分の知らないところで動いているから、気になって仕方がないのだ。気になることがあると腹が立って調べずにはいられない。
 彼は根っからの研究者肌。
「気になるのなら、一緒に来ますか?」
「君と一緒に?」
「ええ、変装して、一緒に来ますか? 私はただの資金援助を受けたいだけで、隠すような後ろめたいことではありませんから。顔は隠しますけれど」
 ディオルは押し黙る。
 どこに、とはまだ聞かない。大切なのはどこ、ではなく、何をしにでもなく、誰にでもない。
 彼のお友達が、何を欲しているかだが、シアが賢者であることを考えれば、たどり着くものがあるはずだ。それが正しいかどうかは別として。
「変装って、見破られないほど知らない仲じゃないよ」
「顔を隠してしまいますから気づかれません。私の服で良ければ貸します」
「女物?」
「どちらともとれるものですが、ヴェールをつけたら女の子の見えるかもしれません。あなたの目は印象的ですから隠さないと」
 彼の目は強く鋭く、とても印象的だ。大人になればきっと大きな魅力になるが、子供の内では目立ちすぎる。
「まあいいよ。変なコスチュームよりはマシだから」
 てっきり嫌がると思っての提案だったのだが、彼はあっさりと受け入れた。
「女の子に見られても平気なんですか?」
「かたくなになるほどのことでもないよ。たかが性別。たかが服装。
 君のお兄さんは、未だにトラウマらしいけれど」
 性別、服装──女装。
 ジークが。
 顔つきだけならカーラント風の優男だが、体つきはたくましいあの兄が。
「女装……なんて、どうやってさせたんですか?」
「地神様にやらされたんだよ」
「まあ。どうして知らせてくださらなかったの」
「君にそんな姿を見られたらジークはこの世にいないと思うよ」
「ああ、なんて残念なのかしら」
 そんなおかしな姿を見損ねたのは、心から残念だ。ジークはとても可愛らしい男性だから、さぞ悲壮感漂う女装姿であった事だろう。
「では、ディオル様、下で朝食をとりながら待っていますので、お着替えください」
 シアはしわにならないようにハンガーに掛けていたゆったりとしたローブと、テーブルに置いたヴェールを彼に手渡す。シアよりも小柄だが、少し袖が余る程度で、大きすぎて違和感があるというほどではない。ヴェールは魔術師用の飾り気のない物だが、やはり女性的な雰囲気があり、女性であるシアが連れていれば少女に見えるだろう。
「なんでこんなものを複数持っているの?」
「あら、女はその日の気分で、身につける物を変えるのです。それに、隠したい部分を隠し、出したい部分を出せば、人の思考を誘導する事も出来ます」
 彼はきょとんとシアを見る。まだ子供だから、女をそのような目で見ないのだ。
「わたくしのこれは唇を出すことが出来ます。女の唇は見せるだけで武器になります。下手に顔を見せてしまうより、セクシーでしょう。
 あなたに渡したそれは、顔をすべて覆います。いかにも魔術師といった雰囲気でしょう?」
 シアはそれだけ言って、廊下に出た。
 大人びてもまだまだ子供。そんな可愛らしい少年の様子を見ているのは、なかなか楽しいが、あまり話し込んでいては時間が無駄に過ぎてしまう。


 朝、ディオルの姿はなかった。
 ジークは同室のため、着替えて出て行ったのは知っていた。用があると言っていたので、心配もしていない。本来なら、十二歳の少年がたまに遊びに来る場所とはいえ、祭りで浮かれた町に一人で行くのは危険だが、相手はあのディオルだ。心配するだけ無駄と、食堂で朝食をとり、キーラと一緒に案内された教室に入る。
 二人からしたら年下ばかりで居心地が悪い。小さな子は五歳ぐらいから、大きな子でもディオルぐらいの年頃の子が多く、図体のでかい二人はじろじろ見られた。キーラも女性にしては背が高いため、よく目立つ。
 ここは基礎の最終段階を教えるクラスで、試験で合格しない限りは、本格的な授業を行うクラスに進めない。ここは能力の足らない者を足止めするためのクラスなのだ。止めなければ、危険な知識を中途半端に教えることになる。力を使うには、常識が必要というのが塔の考えらしい。何かに突出したバカに集団は向かないのだ。
 そういうバカに向いているのが、少人数しか弟子を取らない個人に師事する事である。
 目が届くほどの人数であれば、基礎と応用を同時に教える方が効率はいい。
 だから知識の幅はここの子供達の方が上で、ジークやキーラの方が専門を持つ魔道士として見ると知識は上らしい。このクラスは、まだ何が自分に向いているかも分かっていない子供がほとんどである。
 と、ヴェノムが言っていた。
 彼女は一番出来のいい特別クラスで講義をしている。ハウルはそれについて行った。
 ジークの隣でキーラは真剣に授業を聞き、メモを取っている。父がいないと分かっているため、ストレスの元から解放され、いつもよりも集中出来ている。彼女の勉強が進まない一番の理由は、父親だったのだ。
 何度目かの休憩時間は、肩を回して珍しく笑顔を見せた。
 ジークの妹は何でもそつなくこなす、兄が助ける必要もない子だったが、キーラは表情をあまり表に出さない不器用な子だ。
 完璧な妹の可愛さとは、また違う可愛さを感じる。キーラと妹はちょうど同い年なのだ。
「キーラは楽しいみたいだな」
 彼女は声を掛けられ驚き、しばしジークを見つめた。隣人の存在を忘れるほど熱中していたのだ。
「ジークさんは楽しい?」
「楽しむ暇もないな」
 ディオルがいても授業が早すぎて説明してもらう間もなかったはずだ。いつものように深い納得はないが、ついていけないわけではない。
 彼女も似たり寄ったりだ。
「キーラ」
 教室にメディアが入ってきた。
 名を呼ばれたキーラは反射的に身構え、メディアと知って胸をなで下ろす。
「メディアさん、どうしたんですか」
「もうお昼よ。お昼を一緒に食べましょう。ヴェノム様達は別のところで食べるから。ディオルも戻っていないようだし」
 ここのシステムが、どういう仕組みなのか理解できていないから、ありがたい提案だった。
「この教室は午後からはテスト対策の自習だから、別の所に行くわよ」
「アルスさんの付属魔法ですか?」
「そうね。そこにも行くわ。力を封じたいあんた達には向いているでしょう。仮にも聖女の授業だもの」
 ジークも塔には聖女がいると聞いたことがある。
 何をして、どういう人が聖女と呼ばれるのか知らないが、唯一の母神の巫女だという聖女は有名だ。
「あの聖女というのは、どういう基準で決められるんですか。以前お会いしたクロフィアのラァスさんも聖人だと聞きましたが」
 メディアは首をかしげた。頬に手を当て、少し困った顔をした。
「曖昧よ」
「へ?」
「普通でない力を持っていることが条件。
 ラァスぐらいの聖眼になると、やろうと思えば精霊を地神から引きはがすことが出来るわ。ヴェノム様とクロフのような関係ね。
 アルス──というか、うちの家系は水門……母神への扉を開けられる……縁があるのよ。これだけならそれほど珍しいわけじゃないわ。アルスは扉を開けるどころか、力を引き出しても生きていたから聖女になったのよ。
 モルヴァルの王族は玉座にいるだけで魔石を生み出すわ。
 でも昔は、ディオルみたいな突発的に現れる、本当に特別な存在を、聖人って呼んでたのよ。それが子孫に遺伝しちゃってる家系があるから、昔と比べると量産されているわ。とくに聖眼関係で伸びているわね」
 行いより力が大切なのだ。聖とつくが聖人君子というわけではない。
「誰が認定するものでもないから、人が言っているだけの事よ。
 ああ、ジークのは邪眼としては濁っているし弱い方だから当てはまらないわ。安心なさい。それはそれで綺麗な目だけど、やっぱり真紅であるのが望ましいのよ。邪眼の認定は一番条件が厳しいのよ」
 邪眼だけはのけ者にされているのだ。ジークは呪われているようなこの目を忌々しく思う。もっと力の強いヴェノムは、もっと苦労したのだ。だからあれほど無表情になったのだ。
 キーラはその邪眼が些細なことと言えるほどの重荷を背負っている。
「聖人でなくて安心するというのも、変ですね」
 キーラが首をかしげた。聖人というのは、響きだけ聞けば良いことのように思えてしまう。
「ろくな事がないわよ。変な組織に勧誘されるし」
「変な組織?」
「色々とあるのよ。世の中はとても複雑なの」
 ならばこんな目が妹に出なくてよかった。可愛い妹が少しでもそんな集団に狙われたらと思うと、安心して眠れない。
「ああ、そうだ。食事が終わったら、ちょっと行くところがあるから付き合ってもらうわよ」
「え、はい」
「ほら、混むからさっさと行くわよ」
 メディアは二人の背を押して食堂に行くよう促す。
 そうすると、とたんに空腹を感じ、ジークも足を速めた。


 ディオルは心の中で頭を抱えていた。
「お弟子さんですか」
「ええ。可愛いでしょう」
 男の質問にシアが答える。
 可愛いも何も、顔をすっぽり隠しているから、男か女かも分からない状態である。
 彼女は顔を隠して年をごまかしている。女の子は男よりも成長が早い。ジークから聞いた話では十四歳。化粧をして唇だけ見せて大人のふりをするには十分すぎるほど育っている。
 それはともかく、エリアスがこんなところにいるのか。
 顔を隠しているが、声を聞けば分かる。あれは予想通り間違いなくエリアスだ。
 昨日、キメラを放って返信が彼だった理由はまさにこれ。キメラが間違えたわけではなかった。それが分かっただけでも喜ばしいが、今は喜んでいる場合ではない。
 一緒にいるのは各地で暗躍する聖性主義者。
 聖性主義、聖人をあがめる組織アルファロスの尖兵。
 ラァスが毛嫌いしている組織だ。
 それを知っているはずだが、エリアスはここにいる。
「お弟子さんをお連れになるとは思いませんでした」
「この子もそろそろ大人ですから」
 相手はシアの身元までは知らないだろう。シアが簡単にこんな連中とつきあいを持つはずがない。顔を隠しているのがその証拠。
 問題は、目当てが何なのか。
「それよりも商談を進めましょう。こちらは準備が整いました」
 シアは懐から紙の束を取り出す。
「お望みの薬の作り方になります」
 シアは白の賢者。生物の知識を多く保有するため、薬物に関しても強いはずだ。
 何の薬か知らないが、取引するほどだからあまり表沙汰にできないか、伝説級のものか。
 白の賢者が生まれたのは、少なくとも千年以上前で、失われた知識だとされていた。売り方によっては莫大な利益となるだろう。
「確認をよろしいですか」
「もちろん。見て効能があるかどうか分かるわけでもありませんから。
 作るときは有能な薬師に任せてください。
 毒にも薬にもなります」
「私がそういった薬師でないとは限りませんよ」
「あり得ません。あなたが薬師だとしても、それほど薬には触れない方でしょうね。とても綺麗な爪ですもの」
 長くもないが、短くもない綺麗な爪。薬が爪の間に入り込んでいるということもない、綺麗な綺麗な形の整った爪。女のアヴェンダですら、爪にはすり潰した緑が入り込んでいた。
 普通の男なら爪など手入れしないから、よほど容姿が良いか、それなりの身分がある。
「なるほど」
 彼は自分の綺麗な爪を見てから、書類をぱらぱらとめくる。一通りさっと目を通すと、それを鞄の中にそれをしまい込んだ。
「ではこれを」
 男は札束を差し出す。
「……これでは約束の額には満たないのでは? どういうおつもりです。そういうケチなことはしない方々だと思っていましたが」
 かなりの大金だが、白の賢者の知識であれば安い方だ。
 シアは笑っているが、わずかに腰を浮かした。彼女がジークの妹だと知っているからこそ、ディオルにもその意味が分かる。
 返答によってはこの二人どうなるか。
 エリアスなど呪文を唱えるどころか、本を開く間もなくやられてしまうだろう。
「ご安心を。用意はあります」
「後払いは認めません。私は忙しいのです」
「ええ、そうでしょうとも。白の賢者であられるあなたは、忙しいでしょうね」
 賢者であることを知っている。
 彼女は太陽神殿が囲っている賢者だ。もちろん表沙汰にはされていない。知られれば、カロンの弟のワイズが動く。シアが生まれたのはワイズが王になった後の事。王は自分は賢者になれず、賢者になって自分よりも優れてしまった兄を妬んでいたから、自分の自由になる賢者を作ろうとしていたと、カロンに聞いた。
 なぜ王が管理していないとおかしい賢者が、ジークの妹をやっているか知らないが、知られてならない事だけは分かる。
 カロンへの反発による攻撃性がなければ、優秀な男だ。妹のラフィニアを暗殺したのも彼の一派であるため、カロンは二度と実家には関わりたくないらしいが、それさえなければ今頃どうなっていたか分からないと言うほど。
 そんな男がシアの存在を知って、放置するはずがないのだ。手に入れられなければ殺す。そんな男だ。
 だから彼らは間違いなくワイズとはつながっていない。ワイズは聖人ではないし、聖人も抱えていないから。
「全額をお支払いする前に、もう一つお願いがあります。もちろん追加料金ははずみます」
 シアは見える部分では表情を変えずに言葉を待つ。顔をすべて覆っているディオルは思い切り顔をしかめ、少し驚いた様子のエリアスを睨んだ。
「それに伴い、私どもに付いてきていただきたいのです。もちろん貴女を捕らえようなどとは思っておりません。出来ない可能性がある事をして、貴女と縁を切るような事は致しません」
「ええ。聖人でもない私を無理矢理さらうほど、貴方達は困っていないでしょう。
 ですから内容によります」
「大したことではございません。特殊な体質の人間を調べていただきたいのです」
「その方が望んで調べられるのでしたらよろしいですが、拐かしてきた方ならお断りします」
「もちろんそのようなことはいたしません」
「その方はどのような方ですか。知らなければ調べようもありません。調べるまでもないなら調べる必要もありません」
 シアは静かに答える。
 かなり不愉快に思っているはずだ。
 条件を覆す取引相手に、ろくなものはない。しかも相手は身元を隠したカルト集団。
「この世界の毒についてですよ」
 この世の毒。
 考えるまでもなく、キーラのことだ。訪ねてきたのは昨日。塔の関係者なら知っている。
 エリアスを睨み付けたが、彼はディオルが睨んだ瞬間立ち上がった。
「私は、聞いていません」
「ええ、言っていません」
 エリアスとキーラのつながりを知っていての行動だ。エリアスの聖性は嫌でもその聖性を証明するのに身元が割れてしまう。隠してばかりで証明される事のない聖性に、聖性主義者は従わない。
 逆を言えば、見せれば従うほどの力がエリアスにはある。
 聖眼のラァスは、それほど強烈な聖性ではない。
 しかしエリアスの聖眼は父親よりも強い。その理由は母親が半神であるからだ。神の血は子世代にしか出ない。そのため、半神の血はその子に現れにくい。だからキーラは母親にうり二つである。むしろ母親よりも強い邪眼を持っている。その邪眼の力があるからこそ、毒を内に封じ続ける事が出来るのだ。シアもキーラほどの力があれば、あんな呪いに蝕まれたりはしていなかったはずである。
 エリアスも同じで、聖眼の力だけは父親よりも強い。
 肉体派の姉が父親並みだというのが皮肉だ。エリアスは地の聖眼の一番の強みである身体能力を生かすつもりがないのだから。
 唯一才能を生かしているのが、あの本だけだ。あれはエリアスが強い地の聖眼だからこそ扱えている。
「何をするつもりですか」
 シアはエリアスの様子を見ながら問う。
「ご安心を。無理矢理どうにかするのではありません。
 どうせなら専門家の立ち会い頂きたいと思っているだけです」
 問題はどう連れてくるかだ。ヴェノムが認めるはずはないから、ジークをどうにかしなければならない。彼の戦闘能力に関しては、ディオルは深い信頼を寄せている。ジークでだめなら、ディオルでもだめだ。
「お前はバイブレットがいないとずいぶん強気ですね。私に話しもなくそのような交渉をするなど、何を考えているのですか」
「事前に申し上げなかったのは、未確定の事だったからです。女性に会いに行くのにあの方がいると誰でも慎重になります。今回接触するのは女性ばかりでしたから、下手に口にしてついてこられてもお嫌でしょう」
 エリアスが低く、ぅう、と唸った。
 きっとウェイゼルのような男だろうとディオルは勝手に想像する。
 もちろん女好き、周りがハラハラするという二点のみにおいてだ。
 昔、モルヴァルのイレーネに言い寄っていた聖人というのが似たような扱いを受けているタイプだったので、同一人物かもしれない。ディオルが生まれる前から、彼女は夫を尻に敷いていたので、話に聞いただけだが。
「どうしましょうか」
 シアがディオルへと尋ねる。放置するわけにもいかないので、小さく頷いた。
「連れもよいと言っているので参りましょう」
 シアは何事もないように微笑んでいるが、キーラにはジークが付いているのは確実だ。それを知らせなければならない。
「その前に、食事を」
 ディオルは潜めておいたキメラにしゃべらせた。男の子とも女の子の声にも聞こえる声だ。
 エリアスはディオルや普段外にいるキメラの声ぐらいは覚えているが、小さすぎて出歩かないキメラの声など覚えていない。
「一時間後に参ります」
「ええ、私どもはこちらでお待ちしております」
「失礼いたします」
 そう言って部屋を出た。


 人気のない場所で身につけていたローブを脱ぎ、ディオルに戻る。シアは逆にローブを着込んだ。この変装ならすぐに元に戻れる。
 連なる露店で腹がふくれそうな物を買い、再び人気のない路地に入り込み、資材置き場に腰を下ろす。
 ここでようやく問題を口にする。
「狙いはうちの姉のキーラだよ。ジークがついているはずの」
「お兄さまが? それは困りました。下手に動けません」
「口も声も隠した方が良い」
「声は大丈夫です。ほら」
 途中から彼女の声が変わる。
「声を変えるのが特技なのか、魔術なのか気になるんだけど」
「そんな特技はありませんわ。わたくしは呪われた賢者なだけでそれ以外は普通の女の子ですもの」
「ならいいんだ」
 シアがヴェノムのような女だったとしたら、何も知らないジークが可哀相だ。目が見えるくせに目をつぶっても歩けて、声音も大きく変えられて、無駄に強くて、賢者の女など、この世に二人もいて欲しくない。
「君が常識の範疇内でよかったよ」
「あなたのお母様と比べないで下さい。
 でも、アルファロスはディオル様のお姉さまを調べてどうするつもりなんでしょう。毒といえばあれなのに」
「うちの姉は間違いなくその毒を持って生まれたよ。ただ、封じて生きているけどね。母さんが生んだの二回目だから」
「まあ。さすがはヴェノム様」
 シアは口元を抑えて驚く。
「そんなわけで、最近になってようやく安全地帯を離れて家に帰ってきたんだ。こんな大きな街に来るのも初めてで緊張しているから、下手に刺激して毒が漏れたらと思うと洒落にならないよ。
 向こうに知り合いがいるから、そのことは分かってると思うし、妙な事はしないと思うけど」
 昼食を腹に詰め込む。
 馬鹿馬鹿しい限りだが、無視できるような組織でもない。
「一緒にいたのは、やはり前に神殿に来た可愛らしい男の子だったんですね」
「そう。まさかあんな連中と付き合っているなんて思いもしなかった」
「あのキメラさんが来なければ、わたくしも気付きませんでした」
「僕もキメラが間違えたと思ってたのに」
 まったくどうしようもない。
 相談する相手もいないし、本人に知っている事を告げる事も出来ない。胸に秘めるしかない。
「チュチュッ」
 ネズミの鳴き声でディオルは自分が非道く苛立っていたのに気付いた。
「チュチュッ」
 見下ろすと、手を伸ばすネズミ型のディオルのキメラが主を見上げていた。苦笑いして、パンを千切って地面に落とす。
「あら、昨日のネズミさん」
「姉さんの様子を見に行かせてたんだ」
 ディオルは懐に入れていた鳥を引き出し、ネズミの上に乗る。
「キーラはジークとメディアと一緒」
 鳥がネズミの背に乗り、ネズミの代弁をする。
「メディアさんが一緒にいるのに、どう連れ出す気なんだろう」
「それよりも、この鳥さんは何ですか。可愛い」
 シアは鳥にパンくずを与えだした。賢者と言えども女子供に違いない。可愛い生き物を好むのは当然である。
「他の生き物の言葉を話すんだ。言葉を話せないキメラの口になれる。
 さっきはこいつに小声で命令してしゃべらせた」
「へぇ。面白い」
「売ろうと思ったんだけど、いらないって言われたんだ。ねずみ取りに掛かるかも知れないのに、高く付くから。
 欲しがったのが犯罪組織だけで、母さんが諦めなさいって」
「三ツ目だからじゃあ……」
「これは僕の趣味で能力を上げただけで、普通にも出来るよ」
「あら、そうなんですか。だったらなぜいらないなどとおっしゃるんでしょう。わたしくなら欲しいです。可愛らしいですもの。
 ずいぶん賢いようですから、ねずみ取りにも引っかからないのでは?」
「これは僕が育てたんだよ。ちゃんと根気よく育てないと使えないのに、使い捨てしたいのが組織なんだ。僕もさすがにキメラを粗末に扱う奴には売りたくないし。
 ルーニ、食べたらもう一回様子を見に行ってくれ」
 ネズミのルーニはチュッと鳴いて、ならばもっと餌をとねだる。
「メディアさんには見つかるなよ。ジークが気付いて庇ってくれると思うけど、混乱して殺しに来るかも知れない」
 ルーニはもっともっと手を伸ばす。
「こんなに可愛いのに、なんで嫌いなんだろう」
「こればかりは個人差ですもの。
 でも、三ツ目な分はネズミっぽくなくていいと思います。別の動物を混ぜて、可愛らしくしてみてはいかがです?」
 シアがルーニにチーズを与え、きゃっきゃっと喜ぶ。女子供とは動物に対する餌付けが好きなものである。
「うちの子達が見たらきっと喜びます」
「子達?」
「わたくし、子供達に魔術を教えていますの。出来のいい子はよく外に連れ出すから、ディオル様もそうだと勘違いされたようです」
「ああ、そうなんだ。大技を使えない賢者なら、師になる方が向いているね」
「ええ。みんな可愛いんですよ。でも子供を育てるにはお金がいりますからね。とくに魔術師を育てるのにケチっていては、師としては失格ですもの」
 彼女も理由があって金がいるのだ。神殿で育てているなら、孤児か貧しい家の子供達。費用はすべて神殿持ち。最近は太陽神殿も力がない。
「世の中、何をするにもお金が必要で嫌だよね」
「ええ、まったく」
 女である彼女が金を稼ごうとすれば、勘違いをして寄ってくる男も多いだろう。
 食事を終えると二人はルーニを見送り、着替えて待ち合わせ場所に向かった。


 

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