11話 痴話喧嘩

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 草むしりを終えると、エリアスは大きく伸びをした。
 ヴェノムの命令でやらされた仕事だ。理力の塔のあるアンセムに行き、放置していた庭に草が生え、部屋にこもってばかりのディオルとエリアスに、ちょうどいいとやらせた。
 見張りとして、キーラとジークが二人を挟むような位置で草むしりをしている。
「ああ、腰が……。
 まったく、こんなものは冬になれば勝手に枯れるのに、なぜ私のような高貴な存在がこんな事を」
「君はどこまで図々しいんだ。
 ここはテントで覆うから、邪魔な物は取らないといけないんだ。この山が豪雪地帯だって言うのは知っているだろ」
「あなたが草むしりも出来ないキメラばかり作るのが悪いんです。手伝えるのが全部やらせれば早いのに、三体だけだなんて」
「君はそれ以下じゃないか。あいつらは君の三倍は働いてるよ。
 動物の手じゃどうやっても植物にダメージを与えるんだから、つべこべ言わずに最も優れた手を持つ僕ら人間がやらずに誰がやるんだ……ああ、君、うちのキメラよりも不器用だったね」
 ディオルがエリアスにいやみたらしく絡んだ。彼らは昔から仲が悪いとハウルが言っていた。ハウルとラァスはあれほど仲が良いのに、息子は真逆。親二人とも複雑な心境だろう。
「争うなら手を動かすか、敷地の外で動物を使わずにやれよ。ゼノン、巻き込まれる前に逃げておけ」
「まあ、大丈夫っすよ。俺、観賞用だからあんまり戦力にならないんで」
 日向ぼっこしていた大きな白猫のゼノンは、のそりと起き上がって人間のように手を横に振る。彼は文字とおり猫の手なので、のんびりと見ているだけだ。
 ゼノンは確かに金持ちの間でペットとして人気の出そうな姿である。売っていたら、ジークもかなり悩んで飼っていいか母に聞いていただろう。
「ジーク、私がそんな野蛮な事をするとでも?」
「いつもしているだろう」
「そんな事よりも、私は汗を流したいんですよ。ああ、もう寒いぐらいなのに汗はかくし汚れるし」
「汗をかくのはお前が着込んでるからだろ」
「ああ、そうですね。では、着替えてすっきりしてきましょう」
 彼はそう言いながら風呂場の方へと向かう。
 このまま戻ってこない気がした。
「まったく。まだ全部終わってないっての。
 まあいいや。いてもいなくても大して変わらないし。
 ジーク、僕は薬をまくから、君は姉さんと骨組みを。お前達は引き続き草むしりをしていな。終わったら特別におやつだよ」
 ディオルはキメラ達に指示を出すと、噴霧器背負って、ジークが先日ここまで運んできた台車を指さす。
「ああ」
 ディオルは二人が動くのを確認すると、薬を撒き始めた。何の薬か知らないが、一冬放置してもいいようになる薬らしい。
 ここも早ければあと数週間で雪が降り始めるそうだ。そうすると南にある海辺の別荘に行くらしい。
 夏の間は海になど行かなかったのに、冬になると行くなんて変な一家である。
 ジークはキーラと協力して、地面に支柱を立てる。かなり頑丈に見えるが、この上に雪が積もるのだから、これで本当に大丈夫なのかと逆に疑問に思う。
 毎年の事なので、大丈夫だからやっているはずなので、何も言わないが。
「今年は楽だな」
「今まではハウルさんと?」
「ああ。僕が小さなころは父さんと母さんとキーディア姉さん……五年前にお嫁に行った母さんの弟子で作ってた。キーディア姉さんがお嫁に行ってから、僕も手伝い始めたよ。草むしりと薬まきだけだけどね。力も体力もないし。まあ、昔は草むしりも薬ですませてたらしいけど」
「待て、やらなくて言い作業をやらされていたのか?」
「薬ばかりじゃ、植物に悪いだろ。口に入らない植物だからって、手抜きはよくないよ。僕はそういうところは、きっちりやるタイプだから」
 だったら部屋もきっちりかたづければいいのに。
 ディオルはさっさと作業を終わらせ、キメラに指示を出して早々に骨組みを完成させ、その上に布をかぶせた。
 布で良いのかと首をかしげたが、毎年の事だというので、魔法は便利と納得した。
 完成した頃、すっきり顔の、綺麗になったエリアスが戻って来た。わざと終わるのを待っていたのだ。
 彼らしいが、その彼らしさのため、少しばかり殴りたいという衝動に駆られた。相手は殴ったら死にそうな、華奢もいいところな体力のない少年だというのに。
 大人気ない自分を恥じて大きく息を吸って己を落ち着かせる。
「余った薬品、頭からぶっかけてやろうか」
「ふん。この私にそんなものが届くとでも? 堅固な守りが地の聖眼の最も優れたところである事を忘れましたか」
「僕がなんでも切り裂く力を持っている事を忘れた? まあ、僕は未熟だから、君の身体ごと真っ二つにしかねないから、やらないでおいてあげるけどね」
 ディオルは道具をキメラ達に撤収させる。こればかりは手伝えなかった連中も手伝い始めた。もちろんおやつが欲しいからだ。
「エリアスじゃないが、もっと器用なキメラは作らないのか? 人間ベースなのに、もったいないような」
 言ってから、人間がベースである事に慣れている自分にジークは少し戸惑った。
「人間は面倒な部分を省くためにやってるだけだよ、これはいいと思ったら、自分で教育する。
 今度、魔術の補助が出来る猫型キメラを作ろうと思うんだ」
「え、俺はお払い箱っすかぁ、寂しいなぁ。癒し系猫も卒業かぁ」
 どこか嬉しそうにゼノンが乗ってきた。
「普通の猫サイズだよ。見た目は可愛い方がいいから、ラーフみたいな翼を付けてみようと思うんだ。可愛くて、一目でキメラだと分かる」
「わぁ、可愛いっすねぇ。楽しみっすねぇ」
 ゼノンはおだてて何をするつもりだろうか。比較的、見栄えがいいという理由から便利に使われているのが面倒くさいのかもしれない。
「それは、罪のない猫を犠牲にするという事か?」
「それよりも、人間の犠牲はつっこまないんすかぁ」
 人間と猫を比べると、猫の方が癒されていいなと最近思うようになったので、聞き流す事にした。
「私が猫好きなのは知っているだろう」
「知っているよ。猫っぽい見た目だからと言って、生きた猫を使うと思ったら大間違いだよ。キメラ作りって言うのは、そんな安直なやったら面白くもない」
「……なるほど。猫を苛めないのなら、止めるつもりはないが」
 猫が不幸にならないのであれば、それでいい。
「君は意外と本当に猫好きだね。君の家族は猫派なの?」
「父は犬が好きだな。母は猫が好きだ。弟は動物は美味いかどうかとか、食べ物としか見ていない」
「まさか、君の大好きな妹も?」
「妹は可愛い生き物は好きだぞ。とくに猫は食べ物ではないから。ウサギだと、可愛いよりも食料という印象の方が強いらしい」
 ディオルは額を押さえる。ディオルのところとはまた違う、特殊な環境に驚いているのだ。ジークがこの家に驚くのと同じである。
「まあいいや。次はキメラ達の整理だね」
「整理? 部屋を片付けると言う意味か、連れていくために荷物をまとめるのか、始末するのか、どれだ?」
「どうして眠らせておくって選択がないの? 連れていくのもいるけど、半分以上は養液につけてそのままにするんだ。生まれた時の環境だから、落ち着くらしいよ」
「そ、そうか。少し怖い考えがよぎったが、よかった」
「キメラはうちにごろごろいるから二束三文のように見えるけど、一体作るのにすごくお金が掛かるんだ。野良犬を薬殺処分するのとはわけが違うよ」
 いつも金欠の彼が、金を掛けて作った物を処分できる性格なら、あの部屋はあんなに散らかっていないはずである。安心と納得の言葉に、ジークは落ち着いたまま屋敷に戻る事が出来た。
 風呂に入りたいが、女の子のキーラを先に入らせたので、しばらくは空かないはずだ。彼女は長風呂である。
「今日のおやつは何かな。動いた後はお腹がすくね」
「ああ。キメラにも約束通りちゃんと与えろよ」
「ああ。分かってる。ゼノン、部屋に置いてあるから勝手に食べていいよ」
 ディオルと並んでいつものリビングに入り、ジークは固まった。
 客がいた。
「今日はどうしたの?」
 ディオルは首をかしげて彼女に問う。
 知らない男と、理力の塔があるアンセムの街で出会った、自称ミステリアスな女のミスティが、以前と同じ柔らかな笑みを浮かべながら立ち上がった。
「今日からしばらくご厄介になります」
 ジークは驚きのあまり、ドアで思い切り足の小指を打った。


 
「え、とうとう内職がマディアスさんにバレちゃったの!?」
「ええ」
「それでリーンハルトさんまで一緒に逃げてきたんだ。八つ当たりされそうだもんね」
「ええ。首謀者二人と思われていそうだったので」
 ミスティは頷き、困ったとばかりに、膝に抱えた人形を撫でる手を止めて、ため息をつく。
 ミスティの内職。
 普通なら悪い事を指しそうな物だが、裕福な彼女だから想像も付かない。
 一緒にいる男、リーンハルトは内職幇助で一緒に逃亡。
 ますます分からない。
「その、内職とは?」
「ミスティック・カンパニーのことだよ」
「は?」
「あの会社が、秘密の内職なんだよ。会長と技術顧問」
「会社が? あの世界有数の商社が?」
 内職。
 ありえない。
「そう。だから偽名で顔を隠して活動してるんだ」
 偽名だとは思っていた。取材を受けても顔は出さない事で有名な、ミステリアスな女だとは知っていた。
「よく、今までバレなかったな」
「彼女の保護者は過保護なのに鈍い人だから。エリアスにちょっと似てるかも!」
「それは、自信過剰で気の効かない我が儘な男だと?」
 ミスティは鈴が転がるように涼やかな声で笑う。抑えているが、かなり本気で笑っているように見える。つまり肯定の意味だ。
「ジーク、あなたは私の事をそんな風に……」
「ああ、そういえばいたな。すまない。まあ、それも個性だ」
「最近、ディオルに毒されてはいませんか? 最初の頃は、もっと内気だったような気がするんですが」
「少し慣れてきた」
 流されているだけではだめだ。立ち向かわないといけない。
「あーあ。エリアスの影響ですね。動物好きの人間の前で、動物虐待するから」
「動物虐待って、ジークだって狩りをして来るじゃないですか」
「狩りと虐待は違うよ。狩った獲物を餓死させるような事をしたら、虐待だけど。君は手に入れたら閉じこめておくだけだもんね。コレクションするなら、生き物以外にすればよかったのに」
 また喧嘩を始めた。
 部屋にはミスティとリーンハルトだけ。
「師匠は?」
「お茶の準備を。ハウル様とルートは引っ越しの準備に追われているそうです」
 ラフィニアとカロンは実家に戻っている。実家とは、迷いの森の家の事だ。こちらに持ち込んでいる機材を、元に戻しているらしい。
「この時期だと分かっていた来たんだよね?」
「ええ。毎年の事ですし」
「あの二人は?」
「マディアスと一緒に、海辺の屋敷に行くのではないでしょうか」
「その捜索が終わった頃に、移動すればいいんだね?」
「ええ」
「わかった。じゃあ準備はもう父さん達の所だけだから、いつでも大丈夫だよ。前倒しも出来るから。雪が降らない内は気軽に戻れるし」
「感謝します」
 彼女は腕に抱いた人形を撫で……
「よく見たらローシャ」
 悪霊入の人形、ローシャが膝の上に座っている。
「まあ、私のような可憐人形が目についていなかったなんて」
「いや、すまない。正直、人形の区別はあまり付かないから気付かなかった」
 動かなかったら、最後まで彼女の人形だと思っていたところだ。
「男ってだから嫌なのよ。イレーネも、どうしてあんな男を選んだの? 貴方なら選びたい放題だったでしょう」
 ローシャはミスティを見上げて、イレーネと呼んだ。
 彼女の本名らしい。
「権力やら財力があると、相手選びはかえって難しいんですのよ」
「いい女は大変ねぇ」
 いつ見ても、人形が動いて話す姿は不気味だ。
 ラフィニアは昔から遊んでもらっているらしく仲がいい。他の悪霊に比べたら、可愛い類の物とはいえ、ジークには信じられない。
「迎えはあの吸血鬼三匹だけ?」
「はい」
「騒がしいのは来ないのよね?」
「ええ、来ません」
「それはよかったわ。彼が来ると、みんながウザイってうるさいの」
 客を驚かすのが大好きな悪霊にウザイと言われるなど、誰が何をしたのか想像も付かない。
 ジークは顔に出して驚かず、突然驚かしてくると、反射的に戦闘態勢になるのを見て、もう誰も脅かさない。
 ジークの剣は悪霊でも切れるらしく、彼らにとっては脅威であるらしい。
「でも、冬って嫌だわ。私達は寒さを感じないけど雪が積もって暗くなるもの。払うだけ無駄だし」
「地縛霊は大変だね」
「そうよ。ディオルも死んだら私達の仲間になるのよ」
「いやだね。僕はさっさと成仏するよ」
 ディオルは椅子に座り、足を組む。
「エリアは地縛霊になるタイプだろうけど」
「失礼な」
「人間、神と契約して人間を捨てなけりゃ、長く生きるのは難しいよ。生きて千年だからね。長く生きた者ほど、世界の毒に蝕まれる。その時、君はどうするんだろう」
「高潔な私は潔く散るのでしょう」
 潔さとは無縁に見えるので、ジークまで彼を怪しげに見てしまう。
 イレーネはくすくすと笑い、ローシャをテーブルに置いた。
「そうだわ。皆さん、しばらくご厄介になるので、お土産をお持ちいたしましたの」
「本当? 嬉しい!」
 ディオルが笑みを浮かべて身を乗り出した。
「ディオルにはこれよ。あなたが欲しがっていた本が見つかったの。その写本です」
「わっ、うそ、ありがとうイレーネさん。
 うわぁ、すごい」
 この喜びようは、キメラ関係の資料だ。ヴェノムはキメラ関係に興味がないので、家に資料があまりないらしい。
「エリアスには、これよ」
「なぜ私にはルートがモデルのぬいぐるみなんですか?」
 差し出された竜のぬいぐるみを見てエリアスの顔が引きつった。
「お父様に言われているの。価値のある物や、生き物は渡しちゃダメって。
 だから、最新式のロボットペットよ」
「私を馬鹿にしているんですか?」
「あ……ひょっとしてラーフタイプの方がよかったかしら? お父様もあっちの方が好きなのよね」
「いや、そうでなくて……」
「とっても便利なのよ。辞書代わりにもなるわ。言葉を教えたら一字一句間違えずに覚えていてくれるから、ノート代わりにもなるし、あなたのペットよりは役に立つわ」
 それなら大人でも役に立つだろう。ただ、ビジネス用には、あまりにも可愛らしい姿だ。キョロキョロして、じたばたとエリアスの元へと歩いていった。
「今は小さな子供が喜ぶ、初めてのお友達モードです。これは切り替えが可能で、静かに聞かれた事だけ答えるようなモードもあります。もちろん新機能もたくさんあって、マニュアルが分厚くなった事が悩みなの。リーンもこればかりは、紙に書いておかないと後でクレームが来た時に困るからって譲ってくれなくて」
「クレーム対策は大変だね」
「ええ。ああ、ジークにもあるのよ」
 ジークは本、ぬいぐるみと続いたので、何が来るのだろうと首をひねる。前回は魔具をもらった。だから今回はきっと可愛らしい物だろう。
「魔術を習う初心者向けのパズルです」
 やはり可愛い物だった。
 販売者はもちろんミスティック。表面がキラキラして、綺麗な立方体のパズルだ。
「こんなの出したんだ」
「はい。技術者にも魔術の基礎は必要です。それを効率よく身につけさせるため、魔力の質というものをゲームによって分かりやすく理解させるためのパズルです。ジークのような方が反復すれば、効果は大きいかと思います」
 考えて土産を選んでくれたのだ。
「ありがとう、ミス……イレーネの方がいいのか?」
「そうですね。今はイレーネでお願いします。商売に係わらないところでミスティと呼ばれる方が危険ですから」
 金持ちだと宣伝しているようなものだ。彼女は立っているだけで育ちの良さが分かるし、身につけている物も華美ではないがいい物ばかりである。
「ところで、リーンさんまで逃げてていいの? 仕事は? 奥さんは?」
「仕事は私一人がいなくても困るような事は滅多にありません。妻は絵さえ描ければ、例え私が一年ぐらい姿を見せなくても問題ないでしょう。私がイレーネ様に連れられていく姿は見ていましたから」
「……理由の説明はしていないんだ」
「本当はあれも荷担しているんですが、マディアス様も未だに理解しきっていないあれを叱責する事もないでしょう。未だに甘いですから」
「でも、よくデザインで気付かれなかったね。一番彼女を見ている人なのに」
「あんなに可愛らしいデフォルメしたデザインまで描けるとは思われていなかったようです。始めはホテルの内装だけの予定だったらしい」
 デザイナーの妻がいるらしい。
 なんとなく理解できたが、ジークは別の疑問で首をかしげた。
 逃げてばかりでは解決しないことである。
「最終的には、どうするつもりなんだ?」
「短気な彼が少し冷静になるまで待つだけです。お年寄りだから忘れっぽいので、なぜ怒っていたかも忘れてくださいます」
「そうなのか。うちの歳寄りは、機嫌を直させるまではずっと怒っていたが、人によるのか」
「そうですね」
 イレーネはくすくすと笑う。
 イレーネという名はよくある名だ。わざわざミスティの本名がイレーネである事を隠す意味があるのだろうかと疑問に思った。あまり尋ねてばかりでは、彼女を不愉快にさせてしまうかも知れないから、飲み込む。
「あら、貴方達、作業はもう終わったんですか」
 お茶の準備を持ってきたヴェノムは、少し困ったようにトレイの上を見た。
「私が行ってきます」
「あら、ありがとう、ジーク」
 お年寄りは大切にしないと……とは、もちろん本人に向かっては言えない。


「ぷ、ぷらいべーとびーち?」
 翌日、マディアスがこちらに向かっていると情報が入り、急いで移動したのだ。
 ジークが窓の外に広がる砂浜を見て呟いた。
 この地方の砂浜はリゾート地だ。無理もない。魔物が多発しなければ、観光地になっていたはずである。
 ディオルはリビングにある地図を示し、
「現在地はここ」
 国境をまたぐ海辺を指し示した。
「で、うちがここ」
 地図上ではほとんど山の中を示す。城から先が本格的に険しい山脈地帯になっていくので、大陸地図ではそうなるのも当然だ。
「で、母さんの所有地がこんな感じ」
 指でぐるっと示すと、ジークは呆れ顔になった。
「母さんはある意味、一国の女王だね。国境も曖昧なんだよ。一応、母さんはカーラント人だから、カーラント扱いされるらしいけど、放置された自治区だよ」
「曖昧だな」
「ああ、五百年生きた魔女にちょっかいをかける馬鹿はいないって事だよ。ほとんどが自然しかないところばかりだし、街があっても規模は小さいし、魔物ばかりの厄介な地域を管理してもらっているぐらいの気持ちだろうね」
 住んでいるところだが、ディオルが知らない事の方がはるかに多い。行き来する深淵の森とこの浜辺の事と、迷いの森の事しか知らない。
「ジーク、ヴェノム様の屋敷と、わたくしの住むところはそれほど離れていませんのよ。モルヴァルはヴェノム様の所有する、過酷な自然が多い危険な地域を避けて通る時のルートですから」
 ヴェノムが所有する地域の切れたところに、モルヴァルの国はある。
 女王の力が及ぶ範囲がモルヴァルだ。他国はそれを侵さない。魔石は女王の土地でなければ採掘されず、魔物も増え、ただの厄介な地となるだけだ。
 この世で最も価値があり、大切に敬われるべき女性が、モルヴァルの女王なのだ。人の価値はお金ではないと言うが、彼女の命は世界で一番高い。
 ジークはそのことを知らないはずだ。女王相手と知っていたら、本人が何と言おうと、あのように呼び捨てにはしないはずだから。
 権力があると、友人も恋人も、選ぶのは大変だ。
「今日はイレーネのために、とびきりの料理を作るぞ」
「まあ、ハウル様ったら、相変わらずですのね」
 釣りは海でこそというハウルは、浮かれた調子で外に出る。
 いつも勝手に釣りに行けばいいと言われているのに、ヴェノムから離れたくないという理由で、近場の川や湖で我慢している分、引っ越した後の反動は大きい。
 淡水魚と違い脂も乗って、種類が豊富なので簡単には飽きなくていいが。
「楽しみだわ。ハウル様はうちのシェフよりも腕がいいですもの」
「そうそう。魚料理だけじゃなかったらねぇ。美味しいんだけどねぇ」
 とくに連日川魚という時は、うんざりする。
 出ていくハウルに、釣り竿を手渡すヨハン。
 普通なら定年退職している歳だが、彼はまだまだ元気である。
「ヨハン、セルス達は?」
「もうすぐいらっしゃるでしょう……ほら」
 軽い足音。
 開く扉。
「お姉さまっ」
 黒髪の美女、ヒルトアリスが部屋に飛び込んできて、ヴェノムに抱きついた。
「お待ちしておりました、お姉さま、イレーネ様。マディアスさんは、適当に言って追いかえしておきました」
「ありがとう、ヒルト」
「イレーネ様のためですもの」
 少女のように彼女は頬を染めて頷いた。
「ヒルト、ヴェノム様に迷惑は掛けないようにね」
 いつもの調子のヒルトアリスに、一応は夫的な立場であるセルスが窘めた。
 一応、とつくのは、ヒルトアリスがなぜか彼を女性のように扱っているからだ。きっかけはアヴェンダによる洗脳だという。
「こんにちは、セルスさん、ヘルネ」
 セルスと、彼の陰に隠れるように立っていたヘルネに挨拶する。
 ヘルネはヒルトアリスとセルスの娘だ。ヴェノム曰く、生まれたのが奇跡的な子らしい。どういう意味で奇跡なのか、聞いた事はないのでこれからも聞かない。
 容姿は母親に似ていて、母親よりも色の薄い茶色の髪だ。歳はディオルよりも一つ下。彼にとっては妹のような存在である。
「どうしてエリアくんが?」
「今、うちにいるんだ」
「そうなんだ」
 エリアスが彼女を見て不服そうに顔を逸らす。聖性主義の集まりに顔を出すだけあり、彼は人間というくくりにこだわりがある。だから半妖の彼女に冷たい態度を取るのだ。
 ただ、両親が両親だ。そして育てているのがほとんどヨハンである。
 エリアスは父親の力を受け継ぎながら、磨かないので体力面では母親似と言われるほどで、まともにやったらヘルネには勝てないため、暴力などを振るった事はない。
 昔も今も、どちらが上かは火を見るよりも明らかなのだ。
「キーラも大きくなりましたね」
 ヴェノムとの再会の抱擁に満足したヒルトアリスは、キーラに微笑みかけた。
「お姉さまの若い頃の姿を見ているようです」
 彼女はキーラを抱きしめる。
 下心はないだろうが、不安になる光景だ。
「若い頃…………」
 ジークが愕然と呟き、目を見開いてヒルトアリスを見た。
「違うよ。母さんはたまに若い姿になるんだ。
 彼女はヒルトアリス。ウェイゼアの騎士の家系で、優秀な精霊使い。アヴェンダさんと同期の母さんの弟子」
「そ、そうか」
「その子が娘さんのヘルネと、その父親のセルスさん。セルスさんはここの生まれの人魚だから」
 ジークはきょとんとしてヘルネとセルスを見た。人間っぽい生活が板に付いたセルスは、そのせいか最近は人間にしか見られなくなった。
「この人はジーク。カーラントのアークガルド当主の長男。ヨハンはジークのお父さんとは会った事があるんじゃないかな」
「ええ。何度かお会いしました。雰囲気が若い頃のお父上によく似ておられる」
 似ていると言われたのは初めてなのか、ジークが戸惑っている。
「アークガルドの方は独特の気配をお持ちです。よく似ておいでですよ。カーラントらしい男前です」
 色さえなければ、彼はカーラント人らしい顔つきだ。父親に似ていると言われ、ジークは嬉しそうに照れた。
 彼は基本的に純粋な男である。
「今夜の夕食はハウルが作るそうですから、ヨハンは休んでいなさい。セルス、客室にイレーネ様とリーンハルトの荷物を運んで差し上げなさい」
「はい。イレーネさん、お持ちします」
 イレーネの持ってきた重たそうなトランクケースをセルスは受け取る。
「ああ。そうだ。あの吸血鬼のお二人からの伝言です。マディアス様が落ち着いたら連絡するそうです」
「ありがとう。いつもごめんなさいね、巻き込んでしまって」
「いえ。貴方が来ると、ヒルトが喜びますからいつでも歓迎ですよ」
 ディオルはセルスの言葉に、切なさを覚える。
 なぜ自分の周りは、女性上位の男ばかりなのだろうか、と。
「わたくし、ここに来る度に悪い事をしている気分になりますの」
「まあ、なぜですか? ヨハンさんも、お客様がいらっしゃると喜びます」
 料理が出来ないヒルトアリスに、女王であるがために料理などさせてもらえないイレーネ。基本的に生魚が主食のセルス。
 遊びに来れば、ヨハンが身の回りの世話をするのが当然で、ずいぶんと年を取った彼を使うのは気が引けるらしい。
 彼女の祖父が亡くなったのは、ちょうど今のヨハンぐらいの歳だ。
 一人で泣くところを借りに来たので、よく覚えている。子供心に、最後の直系の家族が死ぬということは、それだけ辛いものなのだと胸が痛くなった。
 ディオルの場合、子の方が早く死にそうな両親だから、我が事として胸の痛みを覚える事はなさそうだ。
「さて、ディオル、お前はジークに部屋を案内して差し上げなさい」
「いいよ、母さん。ジークおいで」
 ディオルが部屋を出ると、なぜかヘルネまでついてきた。
 遊んで欲しいのか、何か見せたい物があるのだろう。
 可愛い子だ。


 

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