3話 幸運のある森で
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ハウルは三人を連れてそっと移動する。音とは空気を伝わるものだ。空気の振動が音の正体。音を伝えないためには、どうしたらいいのか。それ自体はよく分からないが、ハウルの簡単な干渉により、音を消す事はたやすい。一定範囲内に収める事もできる。
父など、離れた場所にいる母にのみ聞こえるように話したりもしているが、さすがにそれはまだできない。
これは最近気づいた技だ。できないかなと思っていたら、実はすでに身につけていたいうのが正しいか。初めは多少おかしかったが、それでも自分の声が聞こえるものだから失敗だと思っていたのだ。ラァスがいる間に身につけていてれば、彼を徹底的にからかえたのだが、残念だ。しかし今ではある程度の応用が利くようになった。この実験には、ラフィニアを使った。彼女にオモチャを与えてを近くに置いておき、呼びかける。範囲を広げて行くと、彼女に声が伝わる。それを一日数十分繰り返し、今にいたる。彼ものんきに野菜を作って、時に運動しているだけではない。
「ああ、しんどい」
数十分しか続けないのは、集中力がいるからだ。父は当たり前の事としてやっているが、人の血が混じるとどうしても力は劣化する。
「ならといてはいかがです? 別の道を行けば、先回りもできますよ」
ヒルトアリスは足音を殺しながら歩いて言う。
「いや、それは。見失う可能性がある。そして私は気づかれずに尾行する自信はない」
「そうですね。あの方達は訓練を受けていそうですし。弟さんの方は、暗器を潜ませていました」
一瞬、ラァスが頭をよぎる。彼女は正当な剣術を習っているはずなのに、時々、ラァスのような印象を受けるのだ。
「お前、まっとうな剣術習ってたんじゃなかったのか?」
「うちの家系は要人警護をする事もありますから、暗殺者についても学びましたし、実際に手合わせをした事があります。働きに出てからの兄と会うと、なぜか殿下もいらしたので」
気を引こうと一生懸命だったのだろう。今思うと、哀れな男だ。他人事とは思えず、まったく笑えない。
「……ヒルトアリスって、何やってたの?」
「ただの貴族のお嬢だ。過剰な護身術をたたき込まれてるだけだから気にすんな」
アヴェンダの問いにハウルは答える。ただ、その護身術にのめり込んで周囲を圧倒してしまったのが彼女だ。ハウルよりも技術が上で、ハウルの剣の師であるヨハンや、最近なぜか軍部に出入りさせられ、周囲から見ればわけの分からない謎の神官と化していると風の噂に聞く、ラァスほどの実力がなければ彼女を無力化できないだろう。かつての自分は馬鹿だった。
「結局、何がどうなってるの? 傭兵ギルドって、傭兵専用の派遣会社でしょ。それがなんで……」
「さあな。ただ、あの組織が最近魔道師を集めてるってのは聞いてる。うちの兄貴はその一人だな。それに関係するのかも知れない。魔道の事では理力の塔の方が上だし、理力の塔の魔道師は質がいい。最後まで残った奴はもちろん、ついてけずに追い出されてた奴でも、世間から見れば有用だ。下手に喧嘩は売れないんだろ」
と語る彼も、実はよく知らない。カロンもそういったことには興味がなったらしく、ハウルの話を聞いてふむふむと頷いている。
走る音を消して、話して、考えているのだから、今の自分は多少は成長しているのだろうか。嫌になるほど小さな成長なのだが。
「アヴェンダ、この先は?」
「領主の城がある方だね。ああ、思い出したらむかついてきた。撃ち殺してやろうか」
「やめとけって。パチンコでも石とかはマジで危ないから」
ハウルは言うと気合いを入れ直す。解けてしまわないようにするには、いっそうの集中を必要とした。
幸い二人はこちらに気づくそぶりもない。振り返った時にさえ気をつければ、見つかる事はないだろう。
「あいつらが説得してくれればいいんだけどな」
一時でも円満解決すれば、あとは理力の塔がやってくれるだろう。カオスなら誰と敵対しようとも、守るべき者は守るはずだ。
それからしばらく行くと森を抜け、知らぬ城の裏手に出た。
「領主の城だよ」
「へぇ」
ハウルは城を見上げ、ヴェノムの城よりも見劣りするそれを鼻で笑う。
「あんた達はそのまま行って。あたしはちょっくら城内の偵察に行ってくるよ」
「なら俺も一緒に。ここからならカロン達で十分だろ。もしもの時もデートをしていたら迷ったとでも何でも言い訳がつくしな。このいかにも世間知ら……いいところの出で田舎は慣れていそうにないし」
さすがに一人で行かせるのが心配で、ハウルが提案する。
「引っかかるものはあるが、了解」
カロンはヒルトアリスに手を差し出し、本物の恋人同士のように寄り添って歩き出す。お忍びの恋人同士、もしくは兄妹のように見える。二人の持つ上品さが釣り合っているのだろう。
「で、何かあるのか?」
「ちょっとね。確かめたい噂を思い出して」
きっとろくでもない噂に違いないが、それは道々聞けばいい。
部屋に案内されると、領主と彼らの保護者がいた。広く贅沢な造りで、センスがいい。太陽神の絵画を中心にデザインされているようだ。
途中まで連れと共に馬車でこの町まで来たのだが、様子見のために通り過ぎる時にそのまま偵察に行って、あの少年達と出会った。
それが分かれ道になった。運命とは面白い。
「お帰りなさい」
中年にさしかかった、柔和な雰囲気の男が言う。丸眼鏡がその柔和さを強調しているように見える。いや、そう見せている。
二人の保護者であるクレメンスという男だ。二人の父の友人で、生まれた頃から世話になっているらしい。
「クレメンス、帰るぞ」
唐突な兄の言葉に、彼は目を丸くした。偵察に行ったかと思えば、突然帰ると言えば驚くのは当然だ。
「そんなにまずい相手ですか?」
「魔道師がいた」
「魔道師……ですか」
「理力の塔の関係者──ローシェルの弟とかいう男がいた」
クレメンスは目を見開いた。理力の塔の関係者だけでもやっかいなのに、それがローシェルの弟である。理力の塔の一番上に近い人物であることは間違いない。ローシェルの母というのが、理力の塔の長である男の師である。
「理力の塔っ」
領主は驚きのあまりにその言葉を漏らし、拳をくつり握りしめる。危険なことをしている自覚はあるようだ。
「リューネ様、カル様、何かあったのですか」
クレメンスはやんわり問うが、その柔和な顔に感情は見えない。
「森で子供が遊んでいた。彼らにとってあの森には危険などないそうだ」
「子供が?」
「ああ。ローシェルの弟が子供と遊んでやっていた。ここには偶然来たらしいが、多少話を聞いてきた。
なんでもあの妖精は乱獲されて保護指定されている妖精らしい。しかも、研究はとうに終わっていて、手出しは禁止されているらしい。素人に手が出せる分野ではないと思うが」
リューネは領主を見て静かに言う。生まれた時から死の精霊を抱え込んでいるため、感情を抑え込む事に長けた彼だが、今は少なからず心が乱れている。側にいるだけで冷たい汗をかく。けっして邪悪なものではないが、ともすれば動けなくなるほどの強く恐ろしい気配だ。
「ここは私の領土だ。私の領土に住まう生物を調べることの何が悪いというのだ? 研究成果を抱えて込んでいる理力の塔など頼る気にもならない」
「残念だ。もしもよければ、理力の塔に口をきいてやろうとやろうと思ったのだが」
「とてもすべての資料を出すとは……。私の領の生物を、私が把握していないというのはおかしいだろう。理力の塔に口を挟む権利はない」
リューネは顔をしかめた。
領主の言うことは正論だ。調査するだけなら、理力の塔に口を挟む権利はない。傷つけない限りは、彼が何をしようと彼の自由だ。
「妖精の生態を調べてどうする気ですか。あれは繊細な生き物です。大人が手を出せば、ストレスで死ぬ可能性があります。無垢な子供だからこそ、彼らは安心して近づくんですよ」
リューネが口を開くより先に、カルは彼の行うことの危険を示唆する。あの妖精のことはまったく知らないが、妖精というものの多くはそういうものだ。
「理力の塔なら知識のある子供がたくさんいる。だから彼らにストレスを与えないように研究する地盤があった。でもあなたにはそれがない。素人が手を出していいことではありません。このこと、見逃すつもりはありません」
カルが言葉を発するごとに、リューネの中の死の気配が収まっていく。魔力があればこれを漠然とではあるが感じるものだが、普通の人間はこの感覚を理解しない。これが邪悪であれば普通の人間も気づいただろう。この気配が清らかでなければ気づいただろう。
死とは生の終わりのゆりかご。最期のときに感じるもの。次へつながる聖なるもの。
だから気づかない。
彼が死の精霊憑きであることは、誰かが死ぬまで、魔道師でもない限りは気づかない。魔道師でも普段は気づかないのだから。
「なぜギルドのあなた方が理力の塔の肩を持つ? 決して仲のいい組織ではなかったと思うが」
「最近、協定を結びました。両方の得意分野を考えると、手を組んだ方が互いの……」
背後のドアが開く。
気配はなかった。音もなかった。だが、扉が開く風がカルの黒髪を揺らした。
振り返るとハウルと連れの少女がいた。少女は怒りをあらわに怒鳴り散らす仕草をした。だがその声どころか息づかいすら聞こえない。
「何をしたい?」
リューネは首をかしげる。彼の言葉にハウルは手を打ち合わせ、少女に何かを言った。それを聞いて少女はハウルに怒鳴りつけ──
「……にやってんだいっ!?」
「悪かったって。今は聞こえてるから、好きなだけあの男に罵ってやればいいから」
「……って、早く言いなさい! 不審な目で見てるじゃない!」
二人の会話を聞くと、音を封じていたようだ。それがどれほど恐ろしい事実か、魔術を知らぬものには分からないだろう。
カルもリューネも魔道を学んでいるため、それがどれほどのことかある程度は分かる。ローシェルの弟の姿を見たためか、リューネから完全に死の気配が消えたのが救いだ。
ハウルの連れの少女は何かを握りしめ領主を睨み、ゆっくりとそれを差し出した。中に粉末がごく少量入っている小瓶だ。それはほのかにではあるが、緑の輝きを放っている。
「あんた、この妖精の羽根の粉末、どこで手に入れたの?」
言われてみれば、先ほど見た妖精の羽根に似た色をしていた。多くの者が求めたとは思えない、美しいだけに見える粉。
「ああ、それは昔ご先祖様が回収した家宝だ。最近のものではないよ」
「大人であっても、悪意がなければ妖精達は逃げない。逃げられているのは強い悪意がある証拠だよ」
少女は隣のハウルに小瓶を押しつけ、ずかずかと領主に近づいていく。
「領主様、あたしのことはご存じかい?」
「街で時々見かけたことはあるが」
「ふん。父君とは正反対だね、あんたは」
「先ほどからなんなのだ。子供とはいえ、無礼が過ぎるぞ」
少女はくつりと笑う。唇の右端をつり上げ、背の高い領主を見上げた。
激しく強い意志を秘めた瞳が印象的だった。
「よく聞きな。あたしはアヴェンダ。薬師、アヴェンダ=アヴェインだよ!」
その言葉に領主は顔を歪めた。アヴェインの名は傭兵なら一度は聞いたことがあるだろう名だ。アヴェインの作る軟膏を塗ればたちどころに傷が治ると言われている。腕がいい医者と薬師は傭兵を知っているのは、傭兵としての常識だ。
「アヴェンダの孫か」
「ひ孫だよ」
「それがどうした」
「どうしたもこうしたもあるかい! ゼトノアともあろうものが、アヴェインの女の顔も知らないなんてありえない!」
びりびりと耳に響く、高い怒声。彼女にとって、それはどういう意味なのだろうか。
「若いのに古いしきたりに縛られているのか、可哀想に」
「しきたり? この小さな片田舎の領主の息子が都で豪遊できたのは、なんのおかげだと思っている? 森とそれを管理するアヴェインの力よ。大体ゼトノアの家の者はアヴェインにこの土地の管理を任せた。良質の薬草が育つ、魔素に満ちたこの土地を。
あんたがしようとしているのは、あんたの財の元をつぶす事だよ。もしも妖精がこの地を離れたら……あんたどうする気? 困るでしょ、あんたは。でもあたしは困らない。あたしらには培われてきた技術がある。こんな土地にとどまる理由なんてないから、みんなもっと条件のいい土地に行くね。生きていくのには困らない。でもあんたは困る。今みたいに遊び回る金はなくなるよ」
アヴェンダは領主を強い力のある目で見上げた。真剣なまなざしは、少女のものと言うよりも女のもの。女独特の、有無を言わせぬ雰囲気のある目だ。
「それが? 私はこの領土を特別だと思ったことはないが」
アヴェンダの怒りに日を注ぐかのように、領主はにたりといったように笑う。
「財はいらないの?」
「そうはいっていない。ただ、くだらないことだと思っただけだ。遊ぶ金などあってもなくても同じだろうに。大切なのは他にあるだろう」
「……何を言って」
彼のような者を何人か見たことがある。
彼がこだわるのは、もっと別のものに。
知っている。これは何をしてでも得たい者がある者の目だ。
彼が得たいのは金ではない。地位か、名誉か。それとも……
「君たち、この子者達を追い返してくれ。私はうるさい女と子供が嫌いでね」
領主はクレメンスへと命じる。妖精の件に関しては保留だが、契約は有効だ。相手は不法侵入である以上は正当な言い分である。彼らをここにとどまらせる理由はない。ここはひとまず彼らを帰して、こちらで話をつけることにしよう。
「分かりました。じゃあ……」
カルは言葉を切った。
アヴェンダが黒いものを領主に突きつけていた。
「あんたは森を殺すのをやめる気はないみたいだね」
それは拳銃だった。
認められた場所でしか製造が禁止されているため、一般人が所持していることはまずないのだが、それは確かに拳銃だった。
「……それは」
「あんたの祖先がうちにくれたもんだよ。世界でただ一つのデザインで、名をアヴェンダってんだよ。
で、あの子達で何をするつもりだい。答えな、死にたくなければね」
彼女は撃鉄を起こし、まっすぐに領主へと銃を向けた。扱いに慣れた者の動作だ。
「おやおや。女とは思えない野蛮さだな」
「そういう家系よ。あんた達を生かすも殺すもあたし達なの。森を殺す者は殺す。それがあたしらの役目なんだよ」
領主はちらとこちらを見た。取り押さえるかとそっと動ごく。
「…………」
カルは一歩だけ前に出て、足を止めた。
領主の背後に見知らぬ者が二人いた。つい一瞬先ほどまで、誰もいなかった。それが、少し目を離したすきに、そこにいた。
それはまったく気配を感じなかったのに、なぜかリューネを見ているような感覚に見舞われた。
今日は、変なことばかりが起きる。
人が二人、いつの間にかそこにた。
二人とも若い。若いというよりも幼い。ここで覗いているアリスヒルト自身よりも年下のような気がする。
気がするという曖昧な表現の理由は、二人とも目深にかぶったフードで顔を隠しているからだ。
アヴェンダは驚いて目を見開いた。
「うわ……」
隣でカロンが小さくうめき、頭を抱えていた。
「お兄様?」
よく見れば、部屋の中のハウルも似たような反応をしていた。ヒルトアリスはよく聞こえるようにそっと窓を開く。今なら気づかれないだろう。
「何だ? どうした?」
一人気づいていない領主の肩を、背の低い方がつんつんとつついた。女の子らしい可愛いしぐさはものだった。きっと可愛らしいに違いない。
「っ……お前は」
「気は変わらない?」
可愛らしい声で彼女は問う。可愛いが、とても落ち着いた声だった。
「あれは夢では……」
「気は変わらない?」
「夢だ……」
「答えて。気は変わらない?」
「馬鹿な……お前達は一体」
彼女は小さく息を吐く。一瞬のまっすぐにおいて、彼女は再び口を開いた。
「ごめんなさい、それは言えないの。一方的だというのは理解しているけど、どうしても宣言して欲しいの。ワーズさんと二度と関わらないって」
彼女は領主を見上げる。あのフードで見えているのだろうか。
ヒルトアリスの隣で珍妙な顔をしていたカロンが、急に真剣な顔をして窓にかじりつく。ヒルトアリスは一瞬だけそれを気にしたが、すぐに少女へと目を向けた。きっと愛らしい少女に違いない。
「ワーズ様と関わるなと言うのは、無理な話だ。私のすべてはあの方のものだから」
「そう……あなたの望む道が、破滅の道でも?」
「お前達は何なんだ……」
少女は首を横に振る。そして再びうつむいて言う。
「少ないけれど、道をあげる。禁忌を犯せば、あなたは煉獄に包まれる。犯さなければ、罪にまみれた生でも、自分自身で人生の結末まで生きていける。私たちは人間としての罪は罰しないから」
少女の言葉はヒルトアリスには理解できなかった。だが、カロンとハウルは理解しているように見えた。
「お兄様、あのミステリアスな方とお知り合いなのですか?」
「ん、まあ。いろいろと」
「色々な女性とお知り合いでうらやましい」
「そういう問題ではないと思うが」
ヒルトアリスはため息をついて少女を見つめた。きゅっと引き結ばれた薄めの唇が愛らしい。何度見てもため息が出る。きっと彼女は美しいに違いない。
「お前が私を殺すというのか?」
「そうなると思う。でも死ぬ必要がないのに、死なないでほしいの」
「お前達は何なんだ」
「この人達が証人になってくれる」
「お前達は悪魔か?」
「私たちはただの狩人。おにいさん、これは理力の塔ですら手を引いた、禁忌だから……だから、禁忌に触れないようにお願いします。これは本当に最後の忠告です」
そう言ってから、彼女はハウルに向かい直りぺこりと頭を下げた。
「邪魔してごめんなさい。あと、その妖精さんは、お姉さんに渡して。そんなものがあるから、この人は禁忌を望むの」
少しだけ悲しげな声だった。ヒルトアリスは胸を押さえて目をつぶる。彼女のような愛らしい人が、辛く悲しむ様を見ると、ヒルトアリスは胸を締め付けられるような思いになる。
「アミ……いや、お前ら。こいつはこんなもので何をしようとしているんだ? たかが小さな幸運だろ」
大きな幸運ならともかく、ささやかな幸運には命を賭ける価値などない。
「それはお姉さんが知っているから。それじゃあ、帰るね。殿下もさようなら」
カロンは慌てて首を引っ込め、そそくさと逃げ出した。その時手を引かれたものだから、その後どうなったかは知らない。
アヴェインの家に戻ると、ハウルは真っ先にヴェノムの元へと向かった。老婆のアヴェンダの枕元で、彼女はリンゴの皮を剥いていた。ヒルトアリスはそれをほうけたような目で見つめていたが、これはいつものことだ。
「ヴェノム、話は聞いたか?」
「はい」
「どうしてザインはともかくアミュが?」
「アミュはザイン様の元で修行中ですから」
サギュが元々行っていたのは、世界に影響を与える者の粛正だ。運を多用するというのは、それに当てはまるのかもしれない。問題は、あの男が言葉を聞かなかった場合──。
「あいつにそんなことさせていいのか?」
「彼女が選んだ道ですから」
「殺すんだろ?」
「だから忠告をしているんです。どうやら夜な夜な夢で忠告していたようですが、聞く耳はなかったようですね」
「でも……なんで、あの時なんだ」
普通、他人の目の前ですることではなかっただろう。ハウル達だけならともかく、アヴェンダや傭兵達がいたのだ。アミュやザインの性格なら、人前では行わない。
「それは、死の精霊憑きがいたからです。彼の心に影を残しては、今後の安定に差し支えがあるからでしょう。彼の封印にはローシェルが関わっています。あの子は未熟ですから、あまり揺さぶると死がこぼれ出てしまいます」
ヴェノムはリンゴを切り芯を切り落とした。皿の上に、リンゴの皮と芯が積み上がっている。破棄されるのを待つリンゴの一部。
「ところで、知っていますか」
「何を」
「あの妖精が人間達に狩られていた本当の理由」
ハウルは迷い、アヴェンダを見た。彼女はあの二人のことについて納得していない。説明などできないし、しても理解してもらえるかどうか怪しい。だからヴェノムの話に耳を傾けている。
「あの妖精は幸運を呼ぶわけではありません。わかりやすく言えば、運命の選択肢を極端に狭めるのです。幸運か事故が多いと言われています。幸運の確率が高いのは確かですが、事故にあってもそのおかげで生き残ったという結果から、良い方向に捕らえることができるから、悪い方向に働くという事が伝えられなくなったからです。言ってしまえば、彼らは時に属する力を持つ数少ない生物です。主に最も力を持つ羽根を粉にして、錬金術に用います。不死の研究が最も盛んであった、私が生まれるよりも前の話です」
「不死……って、失敗してるんだよな」
「はい。その他、様々な使い道があります」
ヴェノムはリンゴをアヴェンダに一切れわたしてから、ハウル達に皿ごと差し出す。
「殿下、弟君の趣味は?」
「その錬金術だな。あれはそういうのが好きだった」
「その中で最も好きだったのは?」
「キメラの作成だな。別荘には気味の悪い生物の残骸があるらしい」
カロンも似たようなものが好きなはずだが、それとはまた別のものなのだろうか。しかし言えるこは一つ。血のつながりとは、そんなものということだ。
「あの粉はそのキメラを作る際にも使用されます。最も優れた──そう、つなぎとして」
つなぎという言葉には違和感を覚えたが、口で簡単に説明するようなことではないのだろう。生物を玩具にすると言うことは、簡単なことではない。
「……あの男は、ワーズの信奉者だ。自分のすべてをうちの弟に捧げる程度には、崇拝していた」
カロンはラフィニアにリンゴを食べさせながら言う。
彼はひょっとしたらストレスで家出をしたのかもしれない。押しつける影の支配者に付けねらう弟。その他色々とあったのだろう。つくづく、ハウルは比較的気楽な家に生まれて良かったと感じた。
「っつかさ、いっそ本当にお前が王様になっちまえよ。んで、親戚から養子をとる。それでいいじゃねぇか。そうたら世の中平和になるし、結婚の必要もない」
「冗談じゃない。私は国のために人生を棒に振るつもりはない。甥がいるようだから、私が動いても動かなくても一緒だ。どうせ大切なことは全部ウィトランがやるのだから」
カロンは大人げなく必死になって首を横に振る。戦争になったらお前のせいだと言っても、彼は首を横に振る。人のいい彼がそこまで嫌がるのだから、よほどの大きなトラウマなのだろう。彼がこうなったのも、ひょっとしたらすべてウィトランの抑圧によるものだったのではないかとすら勘ぐってしまう。
「安心なさいませ殿下。もしもあなたが王になるとしたら、私が止めて差し上げます」
ヴェノムは怯えるカロンに冷たいように聞こえる声で、優しく言う。
「ヴェノム殿の言葉とはいえ、あのウィトランが耳を貸すかどうか……」
「あなたは賢者です。賢者は知神エリキサとの契約者。エリキサに関わる者を、太陽神は快く思っていません。カーラントでの賢者の王は、何が起きようが阻止すべきと考えています。下手をすると、それこそザイン様達が動きますから、説得してみせます」
カロンは顔色を変えて、今度は首を縦に振る。二度と敵対したくないと思っている彼らに、今度は自分が狙われるなど考えもしていなかったに違いない。
「可能性です。
それと、領主様が過ちに気づくかどうか、自分を抑えられるかどうか。今夜が山でしょう」
ヴェノムは手に取ったリンゴを口に含んだ。しゃり、という音には緊張感がない。
「今夜?」
「アヴェンダに抜かりはありません」
師は無表情にリンゴを食べ、老いた弟子は微笑む。
「盗聴だそうだよ。うちの弟が、せっついていたらしい」
カロンの囁きに、ハウルは朗らかな老婆を見つめた。
この師だからこの弟子なのだ。
翌日、森の入り口で焼死体が発見された。
車いすを押すアヴェンダは、葬儀の参列を遠巻きから眺めていた。彼女はあの男に何を求めていたのだろう。
隣に立つヴェノムは、ハウルと同じように二人を眺めている。
「アヴェンダ」
曾祖母の呼びかけにアヴェンダは目線を落とす。
「なに、ばぁちゃん」
「お前、先生についていきなさい」
「…………は?」
先生とは、ヴェノムのことだろうか。
「先生をお呼びしたのは、あんたを預かってもらうためでもあったんだよ」
「なんであたしがあの人のところに? あたしはばぁちゃんに教わりたいよ」
可愛い事を言う孫だ。立派な身内を尊敬し慕うことのできる彼女は、実に立派だ。
「あたしゃもう限界さ。もうじきボケがくるかもしれない。それにあの方はあたしの先生だよ。植物に関してならあたしよりも詳しい。なんと言っても緑の賢者だからね。あたしの元にいるよりも、あの方の元にいた方がいい。あたしは今でもあの方に世話になりっぱなしさ」
「でも……」
アヴェンダは言いよどむ。彼女の気持ちは分かる。大好きな曾祖母と離れ、その間にもしものことがあった時、いくら後悔してもしたりない。
ハウルはかける言葉も見つからずただ無闇に考えていると、ポケットの中にある交信魔具である巻貝が一瞬震え、声が響いた。
『ハウルぅ? いるぅ?』
ハウルはそれを耳に当てて、苛々と問う。
「何だよ」
『いや、昨日さ、アミュがそっちに行ったらしいんだけど何かあったの? すっごく悲しんでるんだ』
「ああ……やっぱり」
アミュのことだ。落ち込まないはずがない。
「人が死んだんだ。ラァス、お前慰めてやれ」
向こうでラァスがうなだれ、何かを言おうと息を吸う音が聞こえ。
「ラァス?」
アヴェンダの声がそれを遮った。
「ラァスって……」
『この声アヴェンダちゃん?』
ラァスは一度彼女と会ったことがある。互いを知っていて当然だ。しかし……
「そういえば、一度お使いに行かせましたね」
ヴェノムが顎に指を当て、思い出したように言う。
「やっぱり、あの金髪のラァス!?」
彼女は恐いほどの形相でハウルに詰め寄ってきた。
「ああ、金髪金眼のラァスだけど」
「貸してっ!」
突然形相を変えたアヴェンダは、ハウルから貝を奪い取った。
──ラァス、お前何したんだ?
彼女の様子は、ラァスを疑うほどに激変していた。
「ラ、ラァス? 久しぶり。あ、うん。あたしは元気だよ。あんたも元気そうね」
そういったごく普通の挨拶を、いつもよりもトーンの高い声でする。いつもの声はこの年頃にしては低いのだが、今のこの声は可愛らしいを通り越し、きゃぴきゃぴしていると言っていい声だ。
一同の目が点になった。
「え、ここはあたしの村だからだよ。ああ、うん。そう。ラァスは何をしているの? 神官? すごいねぇ」
ハウルはようやく悟った。
嬉しそうに話す彼女は、どう見ても『恋する乙女』そのものであった。
ハウルとヒルトアリスは同時にうなだれる。そんな互いを見て、お前もかといった風に見つめ合う。
「…………君たち」
カロンが妙に冷たい目で二人を見た。振られなれている彼からすれば、出会って間もない相手に少しでも期待した自分達が大げさに見えたのかもしれない。実際に彼は、ラァスに振られても振られてもめげずにアタックし、見事に友人までになったのだ。
「もうほっといてくれ」
「やはり私はお姉様一筋ですっ」
「って、お前はヴェノムに突撃するなっ」
ハウルはヴェノムへと抱きつくヒルトアリスへと怒鳴り散らす。しかしヴェノムはそんなハウルを見て、にこりともせず手招きした。
「うっ」
ヒルトアリスは首をかしげてハウルを見る。一緒に来ればいいのにとでも思っているのだろうか。言葉につまり、手招きに誘われてふらふらと前に一歩踏み出した時、アヴェンダの声が響いた。
「ばぁちゃん、あたしその人の弟子になる!」
彼女は貝を片手に目を輝かせていた。どうやら、ラァスが説得してしまったらしい。
「は? なんでそんなにあっさりと気が変わったんだい?」
「ラァスが、滅多にないチャンスだよって言うから」
アヴェンダの軽い言葉に、曾祖母のアヴェンダは片手で頭をおさえ、しかし耐え切れなくなり立ち上がる。
「お前はなんて現金な子だい! 男目当てに弟子入りかい!?」
「それに関してはあんたに言われたくないねっ!」
「まったく誰に似たんだか! 行くんならとっとと荷物をまとめて行っちまいなっ!」
「ああ、行くよ!」
気の強い女達だ。アヴェンダは確実にアヴェンダに似ている。そういう家系なのかも知れない。
「返せ」
ハウルはアヴェンダの手から貝を奪い取り、そして向こう側にいるラァスへと話しかける。
「お前なんて嫌いだ」
『え? どうして?』
「どうしてお前なんだ!?」
『は?』
ハウルは泣きたい気持ちで貝をカロンに押しつけた。
「ラァス君、久しぶり。ああ、あれかい? ハウル君は巨乳好きというのは君の台詞じゃないか」
「ちげぇ!」
「ははは、気にすることはないよ。彼は立ち直りが早いから。ほら、慣れているし。私? 私も慣れたよ」
爽やかに笑うカロンの背中に蹴りを入れ、ハウルはヴェノムの元へと走った。
人の幸せがこれほどまでに恨めしく感じたのは初めてだった。