5話 人でなしの会話
小さな羽根で、ぱたぱたと彼女は空を飛んでいる。その翼が動く度、とてつもない魔力が放出されている。人間の魔力なら、この数分の滞空時間で疲れ果てているのではないだろうか。これを見ていると、人間の脆弱さを思い知らされる。
キーディアは、そんな赤ん坊を見て、首をかしげた。疑問に思ったことを、抱える剣──ダリに問いかける。
「どうして彼女はずっと飛んでいるんですか?」
「知らん」
ダリは、あまり物知りではない。そういうこととは縁がなかったからだ。ダリは戦うために生まれてきたので、それが当然の反応だ。
「それはね、じっとしていると魔力を発散できないから苦しくなるんだよ」
まるで親が子供に言うように、カロンはキーディアに易しく説明をする。キーディアの父親は、娘の目から見ても一般の父親とは異なり、今までこのような経験はなかった。一番親切に教えてくれるのは姉だった。口にすると若い彼は不快に思うだろうから、心の中で『お父さん』みたいだと思うことにした。
「そういえばキーディア、ヴェノム殿とはどうだい?」
「先生は見た目は死霊みたいですけど、教師としては今までの中で一番です。高度なことをわかりやすく教えてくれます」
今までは難しいことばかり言う教師達ばかりで、生徒が理解しているかどうかは二の次だった。大切なのは、教えたという事実だからだ。
「そうか」
「カロンさんも、先生の弟子なんですか?」
「私は違うよ。いや、子育てに関しては彼女に色々と学んでいるから、子育ての先生ではあるな」
「先生はなんでもできるんですね」
料理も出来て、縫い物も出来て、頭も良くて、魔力も高くて、どんな魔法も駆使して、教え方も上手くて、美人で、優しい。なんて完璧な女性なのだろうか。何よりもあの雰囲気。あれこそ死霊術師の鏡である。
「私も先生のようになれるでしょうか」
「ああはならなくていいと思うが」
「なぜですか? それは私にはあんな完璧な女性になることなどとうてい不可能ですが」
「そういう意味ではなくて……うーん」
カロンは何かに悩んで黙り込む。その間、ラフィニアが窓辺に近づき、小さな手で鍵を開けて外に飛び出す。
「……カロンさん、ラフィニア出て行きましたよ」
「え……えぇええ!?」
カロンは外を飛ぶラフィニアを見て、頭を抱えて絶叫する。
「ら、ラフィ!」
カロンは慌てて彼女を追って窓から飛び出る。
「あ……どうしてあなたがここに?」
カロンは慌てた様子をなくし、誰かに話しかけた。キーディアは気になり、窓から少し顔を出してカロンを見た。
ラフィニアは知らない男性の頭に乗っていた。よしよしと彼女を撫でる男性は、腕の中に小さな赤ん坊を抱いていた。一歳にも満たない小さな子だ。
キラキラと輝き、聖なるオーラを宿した男性だった。輝きすぎて、キーディアは怖くなった。
キーディアがしゃがみ込んで震えていると、そこに畑仕事を終えたばかりのハウルがやってきた。
「キーディア、どうした?」
「知らない人がいます」
と、そこまで言って彼女は気づく。
「……ハウルさんに、似てました」
言うとハウルは窓辺に駆け寄り、だんと窓枠に拳をたたきつけた。
「オヤジ、なんで!?」
やはり親戚なのだと、ハウルの横から再び覗く。ハウルよりも強烈な光を放っていて、まぶしい。
「その……仮面は?」
「新しい弟子だよ」
キーディアは見つめられ、怖くなって身を隠す。人ではない。少しだけ、ダリのような気配がする。
「男の子ですか? 女の子ですか?」
「あ、母さんもいるんだ。久しぶり母さん」
ハウルはひらひらと手を振って
「うそ!? メビウスっ!?」
「うそ」
親子らしからぬ会話は、人間味があり不思議な感覚を与えた。
「それよりもヴェノムは?」
「いるけど……」
ハウルは不機嫌な表情で視線を巡らせ、傍らにいたキーディアに目をつけた。
「お前呼んでこい。ウェイゼルが来たって言えばわかる。その方がお前のためだし」
なぜそれがキーディアのためになるのか理解できなかったが、理解できないからといって彼の親切を無視することはできない。キーディアは部屋を出て、ヴェノムがいる台所へと向かった。
ウェイゼルはキーディアを行かせたハウルを睨んだ。相手が子供であっても、彼はしっかりと目をつける。人間は数年で大人の女になるからだ。
ハウルは父を睨み返し、残る二人の少女達の事を考える。ウェイゼルは基本的に面食いなため、アヴェンダに関してはそれほど興味を持たないだろう。彼女は魅力的はあるが、彼が目をつけてきた数々の美女のような『美貌』があるわけではないので、こちらはそれほど心配していない。危ないのはヒルトアリスだ。彼女は確実にウェイゼルの好みだろう。ヴェノムはきっと、彼女を大切に隠してくれることだろう。ウェイゼルにだけは見せてはならない。ハウルの母の二の舞になる可能性もある。
「この馬鹿息子は……。それよりも、この子」
ウェイゼルは頭の上からラフィニアの襟首を持ち引きはがし、目の前にぶら下げる。ラフィニアは羽根を動かし、楽しそうに笑う。
「……うちの子と変わらない時期に生まれたのに、どうしてこんなに大きく……」
彼は腕の中でラフィニアを見上げるヒースを見て、悔しげにつぶやいた。父親としては娘が負けていることが悔しいようだ。
「ラフィ、おいで」
「うぅ!」
ラフィニアはカロンに呼ばれて彼の元へと飛んでいく。ヒースと比べてみると、ラフィニアは本当に大きくなった。最近は十分なほどおしゃべりをするし、走ることも出来る。通常の倍の早さで成長している。
「ヒースも、大きくなったな。前見たときはあんなに小さかったのに」
ハウルは久々に見る妹を見て微笑んだ。
「当然です。メビウスの作った離乳食はこっそり捨てていますから」
「ささやかながら苦労してるなオヤジ」
赤ん坊に濃い味付けとかそういうレベルではない食べ物を与えることを阻止するのは、それを理解している親の義務だろう。ハウルもそれだけはされていたらしく、味覚は普通だ。むしろ味付けは薄くても問題ない。年寄りに育てられた結果だろう。
「でも、まだ離乳食なのか?」
ハウルは何気なく父に問いかけた。ラフィニアは数ヶ月も前から、大人と同じ物を食べるようなっている。もちろん、子供にも食べやすく、栄養面に気を使ったバランスの取れた食事だ。
「この子は普通なんですよ。まだ離乳食です。それに、子供の成長には個人差があります。その有翼人が大きくなりすぎているだけです」
ウェイゼルは顔に不機嫌を表し、ヒースを抱きしめた。ヒースはきゃっきゃと笑い、父の顔を叩く。その様子を見てハウルは彼女に近寄った。
「ヒース、おいで」
手を差し出すと彼女は不思議そうにハウルを見上げた。どちらに似ているとはまだ言えない。髪の色はハウルのような銀ではなく、茶が混じっている。しかし母のような濃い色ではなく、金髪と言っていい色だ。ぷっくりとした紅色の頬が愛らしい。
「ヒース、にーちゃんだぞぉ」
父からヒースを受け取ると、ヒースは不思議そうにハウルに触れる。
「オヤジに似てるから戸惑ってるのか?」
「ヒースは僕に一番懐いているから、そうかもしれませんね。気配も似ていますし」
ウェイゼルは息子と娘を見比べて言う。
彼女がどちらに似ているのかはまだ分からないが、ハウルよりは母親に似ているので彼は満足しているのだ。
ハウルはしばらくヒースと見つめ合っていたが、やがてヒースは右手を差し出す。
「はっ」
と言って、右の握り拳を強調する。ハウルが手を差し出すと、ヒースは握りしめていた拳を離す。するとくしゃくしゃになった白い花がヒースの手の平にひっついていた。赤ん坊は汗をよくかくため、ひっついてなかなか離れず、ヒースは手を振ってその花を引き離そうとした。
「俺にくれるのか。ありがとう」
ハウルはひっついていた花を手にしヒースに見せると、ヒースはそれを指さして笑う。
その様子を見て、カロンも手を出しヒースの頭を撫でた。
「可愛いなぁ。ラフィ、ほらヒースだよ」
「ひーす?」
「そう、ヒースだ。ハウルの妹だよ。私とお前と同じ関係だ」
「ひーす、いもと? はーる、ぱぱ?」
ラフィニアは、0歳児とは思えない理解力だった。ハウルがカロンをパパだと教えた影響か、パパという単語まで出てきている。カロンが必死でそれを訂正し始めるが、すでに覚えてしまったものは、なかなか治らないだろう。それを見て、ウェイゼルが悔しそうに歯噛みする。
「神よりも成長が早いなんて……」
「何をくだらないことで対抗意識を燃やしているのですか」
窓からヴェノムが顔を出し、ウェイゼルを睨んでいた。
「私は来るなと言ったはずですが、なぜここに?」
「もちろん、成長したヒースを見せに来たんですよ。気になるでしょう」
「預けに来たのではないのですか?」
「まさか」
ウェイゼルはハウルからヒースを取り上げ、ヴェノムの元へと歩み寄る。そしてヴェノムにヒースを手渡した。
「ふ………ふあぁぁぁぁぁぁぁあ」
突然ヒースが泣き出した。泣き方が大人しくて可愛らしいが、泣かれたヴェノムは遠い目をして空を見る。彼女は子供受けが悪い。
「よしよし、ヴェノムは怖いですねぇ」
ウェイゼルは窓枠まで跳び上がり腰をかけると、ヒースの頬をつついた。すると彼女はぴたりと泣きやみ、父へと手を伸ばす。
「ずいぶんと懐かれておいでで」
「僕とウィアが育てているようなものですから」
「へぇ、男の子の時にはウィアに任せていたのに、ずいぶんな可愛がりようですね」
「ハウルみたいに反抗的になったら嫌ですから。僕は娘には好かれたいんですよ。父として当然でしょう」
腹の底はムカムカとしたが、ヒースのためにハウルは唇を噛みしめて我慢した。ここで騒げばまた彼女が泣いてしまう。そう必死で耐えていると、元気な少女の声が聞こえた。
「先生、そのやたらとキラキラしたまぶしい男、誰?」
アヴェンダだった。彼女ならまだ安全圏だろう。ヴェノムの目を盗んで口説くほど好みには当てはまらないはずだ。
「新しい弟子ですか。前の女の子のような黄色い子と似たような感性ですね」
「あら、それが分かるほどラァスのことをご存じで?」
「僕は神だからね」
「どうせ精霊に聞いたんでしょう」
ウェイゼルはヴェノムを無視してアヴェンダに微笑みかける。思ったよりも趣味の範囲は広かったのかと、どぎまぎした。
「ひょっとして、アヴェインですか?」
「どうして知ってるの? あんたハウルの兄?」
「そうです」
「いや、父。実の父」
笑顔で兄と肯定するウェイゼルの背後で、ハウルは即座に口を挟む。どうして親というのは子供の兄弟と間違えられると喜ぶのだろうか。ウェイゼルは笑顔のままでハウルへと手を伸ばし、額を指で弾かれた。ハウルは痛みで、不機嫌に沈黙した。
「可愛らしいところが、アヴェンダそっくりです」
「ひいばあちゃんのこと? あのばあちゃんと似てる? 嘘でしょ?」
「もちろん若い頃ですよ。雰囲気がそっくりだ。気の強い、しっかりとした子でしたよ」
アヴェンダはがりがりと頭をかく。
「あんたいくつ」
「さあ。いくつぐらいなんでしょうねぇ」
と、彼はヴェノムに向けて首をかしげた。その時からいた本人が覚えていないのに、彼はどうしてヴェノムに振るのだろうか。
「あなたは本当に何をしに来たんですか? 用がないなら、その子を置いてお帰りください」
「どうして置いて行かなきゃならないんですか。僕はただ、ダリが風変わりな新しい主を持ったというから見に来ただけですよ」
「ああ、ウェイゼル様が最も近寄りたがらない、むさ苦しい少年ですが」
「連れてきてください。笑ってやります」
「今はいません」
「いるはずですよ。連れてきなさい」
ウェイゼルはにこりと笑い、ヴェノムの顎に手を添えた。それを見て、ヒースが不機嫌な顔をしてウェイゼルの腕をぐいぐいと引く。
「好かれていますね、ウェイゼル様」
「当然ですよ。それよりも、呼んできてください」
ここまで言われては拒否することも出来ず、ヴェノムは肩をすくめた。
「オヤジ、ダリの主はさっきの仮面の女の子だよ」
「は? 女の子!? そんなはずはありません」
「んだよ。何かおかしいのか?」
「世継ぎは男の子だったはずですよ。死んだとは聞いていませんが」
「うっかりそうなったらしい」
その瞬間、ウェイゼルの姿がかき消えた。
「いいか。じっとしているんだぞ。あの男と顔を合わせたら身の破滅だ」
ダリは小さな主と、可憐な剣士に向かって言い聞かせる。二人は真剣な表情で大変素直に頷いた。
「その方はそんなに恐ろしいのですか?」
「いや、そういうわけではない。どちらかと言えば穏やかなタイプだ。ひょうひょうとしていて、気ままな風来坊だ。簡単に言えば遊び人だ。美女を好む無類の女好きだ。ヒルトアリスよ。お前は危険だ」
ヒルトアリスは一度頷いてから首をかしげた。
「……ひょっとして、お姉さまが一番危険なのでは!? アヴェンダさんもいません! 大変です!」
ヒルトアリスは人の話を聞いていないのか、一人で完結させて部屋を飛び出て行った。
「ちょ、待て! お前は何を考えてっ」
神を顎で使う女を心配して出て行く馬鹿がどこにいる。
ダリは彼女を引き止めようとしたが、本体──キーディアと彼女が持つ剣から離れられない事を思いだし、主をひょいと抱き上げた。
「ダリ」
「大丈夫だ」
キーディアはまだ幼い。その上、顔には大きな傷がある。興味を持っても、何かされることはないだろう。それでも心配だ。
「ダリ、ハウルさんのお父様が来ました」
「来……」
来るではなく、来た。
「あ……あはははははははははっ」
男の甲高い笑い声が、広くないその倉庫に響いた。声の方を振り向くと、腹を抱えて馬鹿面下げて、人を指さし笑う風神の姿があった。
「何がおかしい」
「っくくく……なにって……ぶっ」
よほど笑いのツボにはまったらしく、彼の笑いは止まらない。こうなると長いのは、経験から知っている。
「ダリ、ハウルのお父様はどうして笑っているんですか?」
「長く生きすぎて頭が空洞になったんだろう」
「ボケちゃったんですか?」
「そんなところか」
「誰がボケだってっ!?」
子供の言うことを真に受けてすごみ、キーディアは怯えてダリにすり寄った。ダリはそんな彼女を抱き上げて慰める。
「子供を睨まないでいただきたい」
「可愛らしい女の子ですねぇ。まさかお前がそんな趣味だったとは……」
「どういう意味ですか」
「よし、今からみんなにダリが童女趣味だったことを言いふらしに」
「行かないでください!」
「なら、理想の女を育てるタイプか。どちらにしてもあのダリが幼女を選んだだなんて、ああ、兄さんが聞いたらきっと一緒になって笑いに」
「落ち着いてください」
風神と地神の二人が人を囲んで笑い転げる様など、見たくもないし見せたくもない。火神がいれば多少の冷静さは発生するが、いないと二人に水をかける者はいない。飽きるまでからかってくるだろう。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「キーディアです」
「いくつ?」
「十歳」
「しっかりしてるねぇ。こっちにおいで」
キーディアはダリの腕から抜け出し、ウェイゼルの前まで歩く。止めようとも思ったが、相手は一級神だ。従ういわれはないが、止める手だてもない。
「十歳か。可愛いねぇ」
と、彼はキーディアの頭を撫でた。この程度なら害はない。キーディアはまだ幼い子供だ。ウェイゼルも幼い子供には手を出さないことが救いだ。
「ところで、このあまり可愛くない仮面は?」
と、ウェイゼルはあっさりと仮面を引きはがした。
「こらダリ! お前、この子のこの傷はどうしたんですか! なんのためにいるんですかお前は。戦闘力だけなら、僕らよりも上だろう」
「アルラがやりました」
彼はキーディアの顔に仮面を戻しながら、ああとつぶやいた。
「気をつけてくださいよ。アーライン家に何かあったら、ラーハとターラが動くんですよ。洒落になりません」
かつての横暴な上司の太陽神と、滅多に動かない温厚な死神を思い出す。
「アーラインに何かあれば、太陽神様と死神様は動くでしょうか」
「……さあ。エリキサを追い出してからは、僕もほとんど会ってないし。動くとは思うんですけど……。
大変みたいですよ、お前がいなくて。あいつ止められるのはお前ぐらいでしたからねぇ。ははは」
「もう私には関係ありません。二度とあんな生活は嫌です」
「そうですね。こんなに可愛い主がいれば、そうですよね。あの偏屈男の腰にしがみつくような生活は嫌ですよね。あれを見ると、部下達が皆揃って、太陽神の部下でなくてよかったって言うぐらいですからねぇ」
そんな偏屈で扱いの難しい神の片腕をしていた昔を思い、思い切って反逆的な行動を起こして良かったとすら思う。望んだ結果とは違うが、自分だけは逃げられた。逃げたと言うよりは、罰を受けただけなのだが、それでも関わりは断ち切られている。
「しかしいいのですか、ウェイゼル様。私のような者と長く話していても」
「別にかまいませんよ。僕は過去のことにはこだわらない性格ですし、キーディアちゃんは可愛いし」
ねぇ、とキーディアに声をかけ微笑む。キーディアは首をかしげて笑った。もう少ししたら、彼女もウェイゼルの笑顔に心動かされるようになるのだろうか。今はまだ相手の容姿よりも死霊の方が気になるようだが、いつかきっと──生身の男に興味を持ってもらわないと大変困るだろう。彼女を母親のようにしてはいけない。
「ところで君たち、そこで何をしてるんですか?」
入り口で中を覗き込んでいたハウル達は、別にと言って部屋に入ってくる。薄暗く狭い部屋だ。そろそろ手狭に感じた。
「なぁ、ダリって神なのか?」
ハウルはダリを見て首をかしげた。
「そうですよ。今は立派な邪神です」
「え、そーなん」
「ええ。昔、ちょっと悪いことをしたんで。後始末をしたのは僕ら四神だったのに、ラーハが勝手に処分しちゃったんですよ。中には僕の部下もいたのに」
「へぇ……」
何をしたんだろうという、分かりやすい目でハウルとアヴェンダが見つめてきた。ウェイゼルはそのことにはそれ以上触れず、再びキーディアの頭を撫でた。
「キーディア、大きくなったら迎えに来ますからねぇ」
「どこに行くんですか?」
「ははは。大きくなったら分かりますよ」
などと戯けたことを言う彼に、ヴェノムが冷ややかな邪眼を向けた。力のこもったその瞳は、人であれば鼻血を噴いて倒れるか死んでいるほどの力がこもっている。人間の持つ魔眼としては、やはりこの邪眼が最も強いだろう。ウェイゼルはキーディアから離れて、何事もなかったように微笑む。
「痛いじゃないですか」
彼でも痛いと感じることもあるらしい。彼の場合、痛みでないものを痛いと言っている可能性の方が大きいが、ダリには判断が出来ない。彼ほどの大きな存在になったことがないから、彼の気持ちは一生理解できない。逆に、ウェイゼルもダリ達のような小さな存在について、理解できないはずだ。
「子供に馬鹿なことを吹き込んでいるからです。嫌ならおやめください」
ヴェノムの言うとおりだった。キーディアのような、恋愛も知らないような小さな子供に、破廉恥なことを吹き込むようなことが許されるはずがない。
そんなとき、軽やかな足音と共に、戻ってこなくていいヒルトアリスが部屋に顔を出した。
「あ、皆さん。ようやく見つけました。集まって何をなさっていらっしゃるんですか?」
ハウルは彼女を見て慌てて隠そうとするが、一目でも見てしまえば、ウェイゼルにとっては関係ない。
「あら……?」
ヒルトアリスはウェイゼルを見て首をかしげた。
「ヒルトアリス?」
「ウェイゼルお姉……様?」
ヒルトアリスはウェイゼルを見て首をかしげた。
──お、お姉さま……。
ウェイゼルは男だ。女性的な顔立ちをしていても、男にしか見えない男だ。それは彼がそれを望んでいるからだ。
「お姉さま……どうなさったんですか? 今日はまるで……」
「ほ、ほーら、ヒルト。いつものお姉さまですよぉ」
ウェイゼルは皆の前で女の姿へと変化した。その変化に、ヒルトアリスは頬を赤らめ、彼の胸へと飛び込んでいく。
「ウェイゼルお姉さまっ」
「ヒルトアリス」
抱き合う二人を、キーディア以外が冷めた目で見つめた。ウェイゼルは美女だった。微笑む様は、女神そのもの。だからこそ、よけいに皆の目は冷たかった。
「ウェイゼルお姉さまとこんなところでお会いできるなんて、夢のようです」
「僕もだよ」
さすがに口調はいつものまま、ウェイゼルはヒルトアリスの頬に優しく指先で触れた。顎のラインをなで、額にキスをする。そのあたりで、ハウルがウェイゼルの横腹を蹴った。
「は、ハウルさん!? 女性になんてことを」
「これは俺のオヤジだ!」
ヒルトアリスは自分が抱きついている美女を見上げた。
「おやじ?」
「そーだよ。父親。男」
ヒルトアリスは微笑むウェイゼルの顔をじっと見つめた。それから不思議そうに言う。
「ウェイゼルお姉さまは女性です」
「いや、正確に言うと性別は本人の自由で、普段は男なんだよ」
ヒルトアリスは首をかしげる。かしげる。かしげる。
「でも……女性です」
「その男が、私の可愛い娘を孕ませて、ハウルとこの子ができました」
今度はヴェノムの説得が始まった。彼女の腕の中には、すやすやと眠るウェイゼルの娘。彼女はそのウェイゼルの女だった。ウェイゼルが自分の城に女を入れたと聞いたとき、驚いた記憶がある。彼はそれまで、自分から女の元へと通うことはあっても、自分の近くに置いたのは初めてだった。逃げられてからも追い続け、そしてその女の娘を妻にした。彼らしくないこの結末は、ダリの目から見ればいい傾向だった。昔の彼にあった残虐性が消えている。
「ウェイゼルお姉さまは、男性なんですか?」
「違いますよ。どちらでもありません。ヒルトアリスが望むなら、僕は女性でいましょう」
ウェイゼルの言葉に、ヒルトアリスは頬を朱に染めた。
「ではその格好のままで帰ると? ああ、メビウスを呼びましょうか。別れさせるいいチャンスです」
「すみませんヴェノム。それだけは勘弁してください」
「では、ヒルトアリスから離れなさい」
「はい」
ウェイゼルはヒルトアリスと距離を置き、ヴェノムから娘を受け取る。
「可愛い」
「ヒルトアリスにも話していたでしょう? 僕の娘のヒースです」
「お姉さまに似てとっても可愛いです」
「ありがとう」
ヒルトアリスはウェイゼルの娘を見て喜んだ。仲の良い二人を見て、ヴェノムは肩をすくめた。さすがのウェイゼルも、彼女のような純粋な少女には弱いのだろうか。いやそんなはずはない。汚れのない少女を自分に染めるこそこそ至高の喜びとしているはずだ。ヒルトアリスの純粋さに自らの汚らわしさを自覚するなどと言うことはあり得ない。
「ウェイゼル様、どうなさったんですか。こんなに美しい少女に何もしていないなんて」
「自分の国にヒルトアリスのような子がいたら、普通は気づきますよ。僕だけじゃなくて、他の者も皆知っていますし、僕と同じ事をしていますよ」
「皆?」
「はい。ヴェノムの知っている者はほぼすべて」
ヴェノムは表情を変えずに頭を抱え込む。
「そちらこそ、なぜヒルトがここに? お嫁に行くと聞いていましたが」
「彼女は今精霊使いとして勉強中です。婚約は破棄されました」
「あいつら……僕にわざと内緒にしていましたね」
ウェイゼルはヒルトアリスを守るために結束した部下達に対して、暗い目をして覚えていろと小さくつぶやいた。
「そういえばダリさん」
ヒルトアリスは周囲を見回して言った。
「なんだ?」
「危ない男性というのは、どうしたんですか?」
彼女は、ずれている。仕方のないことなのかもしれないが、ずれている。
「それはそこの女装男のことだ。危ないから、近づいてはいけない」
ヒルトアリスはまた首をかしげた。ウェイゼルを見つめ、それからふるふると首を横に振る。
「ウェイゼルお姉さまは、危なくありません」
そう思っているのは、彼女だけである。
『女装のウェイゼル様? やだそれ見た〜い。そのままクリス様のところに来るように言ってよ〜』
めずらしくラァスの方から連絡が来たので、現在の状況を話したら、ラァスが子供のようにだだをこねた。
「お前、オヤジにそんなに興味あったっけ?」
『だって、女装したハウルを見るようで楽しそうじゃん!』
「普通に女になってるだけだぞ。お調子者のオヤジだから意外性もねぇ。ウォーレスとかの女装なら俺も見たいけど」
『確かに、ノリのいい人だからそれほど珍しいって感じはしないけど……やっぱり見たぁい』
好奇心の強い奴だ。もしかすればストレスが溜まっているのかもしれない。
「誰と話してるんですか、ハウル」
件の女装オヤジは、まだ城にいる。夕飯まで食べていくつもりらしい。ヒースがいるものだから、ヴェノムも追い返せないでいるのだ。ヒースに関しては、いつまでいてくれてもいいが、ウェイゼルには今すぐにでも帰ってもらいたい。
「ラァスだよ」
「ああ、クリスのお気に入りの黄色い坊やですか。相変わらず元気ですねぇ。おかげでクリス兄さんの気が国内に向いてくれていて助かってますよ。口うるさいですからねぇ、あの人は」
だからラァスのことを覚えたのかと、父の現金さに呆れた。
そんな覚え方をされるラァスが、急に心配になった。
「お前、ストレスためてるか?」
『たまるよ。お嬢様二人の威力が一番大きい』
「ああ、あの二人か……」
『あ、ごめん。ちょっと呼ばれた。今からパーティなんだぁ』
だから自分から用もなく連絡をしたのだろう。パーティなどストレスが溜まりそうだ。
「がんばれよ。愚痴があったら聞くからな」
『ありがと。パーティ自体はいいんだよ。パーティはね。んじゃ行くよ』
ラァスが言うと、貝殻から向こう側の音が消えた。
ラァスは変装してパーティに出るのは平気らしいが、自分自身としてパーティに出ることは苦手らしい。しかも大神官候補として見られているから、下手なまねは出来ない。ハウルに出来ることは、話し相手になる程度だ。
「大変ですねぇ。あの国は、クリスが王宮に住んでるからよけいに大変でしょうに」
「風神官はもっと大変だな。オヤジみたいなのに仕えなきゃならなくて」
「馬鹿なことを言わないでください。クリスと違って、僕は神官には迷惑をかけませんよ。干渉しませんからね」
過干渉と無干渉、どちらがいいのかは分からない。神が干渉してどうなるわけでもないのが人間の世の中だ。ならば下手に関わらない方がいいのかもしれない。肝心なときにだけ口を出せばいいのだ。
「ヒルトアリス、君は将来、僕の巫女になりませんか?」
「巫女ですか? 何の巫女でしょうか」
この話の流れで、ヒルトアリスはすっとんだ事を聞き返す。彼女は今、ヒースと人形で遊んでいる。
「風神ウェイゼルの巫女」
「風神様の巫女に? なぜですか?」
「いや、僕の巫女になってくれたらなぁ、って。イヤならいいんですけど」
「お姉さまの巫女に?」
ヒルトアリスはきょとんとして首をかしげる。
彼女は理解していないのだ。
「ヒルト、これが、一級神風神ウェイゼル本人だぞ?」
「え……えぇえっ!?」
ヒルトアリスはヒースを抱きかかえたまま立ち上がる。やはり理解していなかった。
「ウェイゼルお姉さまは、風神様だったんですか!?」
「そうだよヒルト」
「そんな……じゃあ、本当に男性だったんですね。私……私……ヴェノムお姉さまっ」
ヒルトアリスは泣きながらヴェノムに抱きついた。もちろんヒースは抱いたまま。ヴェノムはヒルトアリスを抱きしめて慰める。
「やっぱり私にはヴェノムお姉さましかいませんっ」
「可愛い子。あんな男の巫女になることなんてありませんからね。思えばウェイゼル様には、さんざんな目にあわされてきました。幼く無垢だった私を返してください」
ヴェノムが無茶なことを言い出す。さすがに時効だろう。ウェイゼルと出会わなくとも、一世紀生きれば十分に汚れるだろう。数世紀生きている彼女は、ウェイゼルがいなくても十分汚れているはずだ。
「ヴェノム、人とは無垢を捨てることにより、より美しくなるものです。貴方は時を経てますます美しくなりましたね」
「私が美しいのは周知の事実です。ウェイゼル様に言われるまでもなく、私は美しいのです」
ヴェノムは自信満々に言う。否定はしないが、普通自分でいう言葉ではない。自分で言いたくなるほど、ウェイゼルに褒められるのが嫌なのだろうか。
「何より歳などとっていません」
「はい。お姉さまは一番お綺麗です」
「可愛いヒルト。貴方はウェイゼル様の毒牙にかかってはいけませんよ」
「はい」
ウェイゼルがつまらなさそうに椅子を蹴っていた。そんな彼に、キーディアが声をかける。
「風神様。死神様って、どんな方な……」
突如出現したダリにより、キーディアはウェイゼルから離された。それからダリがキーディアに夕飯になるまで説教を始めたので、以後ウェイゼルにかまうのはラフィニアぐらいであった。
チビっ子達と遊ぶ背中は、少し寂しげだった。
しかしこれが一番、平和でいいのかもしれない。