7話 ミスティックワールドへようこそ!

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 両手を腰に当て、二人の少年を叱りつけるイレーネは、お嬢様風の仮面を脱ぎ捨て、一人の少女になっていた。
「いいですか。吸血鬼というのは、人間が炎や闇を恐れるように太陽を恐れます。あなた達のしたことは、人間に炎を押し当てるようなものですよ。それがどれほど残酷なことか、分かりますか?」
 怒っていても彼女の口調は柔らかく、小さな子供を叱っているようだった。
「ごめんなさい」
 二人は肩を落として謝った。
「一体どうしてディートリヒにあんなひどいことをしたの?」
「それは……」
 二人は顔を見合わせ、互いの脇を肘でつつき合う。
 ハウルはそんな少年達を見て、出されたジュースを飲んでいる。
 ここがどこなのかは分からないが、とにかく関係者専用の控え室のようだ。可愛らしい服装のメイド達が、ジュースと菓子を一瞬で設置し、瞬く間に去っていった。イレーネに対する粗相を恐れ、巻き込まれたくないという強い意志をひしひしと感じた。
「ねーちゃん……ごめん」
「イレーネ様、もうしわけありません」
「謝罪は結構ですから、理由を言ってください。
 なぜこのような事になったか、わたくしが分かるように。そこに誰が関わっていようとも、隠し立てせずに言ってください」
 イレーネは二人を交互に見つめ諭すように言う。前に見た、家庭教師というのがこういう雰囲気だった記憶がある。相手にしていたのは、六、七歳の子供だったが。
「言わなければ、自白剤を飲ませることになりますよ」
 イレーネは、見た目と言葉の印象とは違い、意外に乱暴だった。二人はその言葉で慌てて白状する。
「うちの師匠が、昔ディートリヒさんに弄ばれてフラられたことを根に持って腹いせに!」
「マディアス様の許可を得て!」
 ハウルはグラスを落としかけ、イレーネは額を抑えて身を震わせる。
「あんの馬鹿白男っ!」
「あのおばさん、また男絡みかよっ! 反省ないのか!?」
 彼女はどこでも男に復讐しているのだろうか。その余波を受ける方はたまったものではない。
 イレーネは脱力して椅子に腰掛けた。ハウルはジュースを手渡し、彼女を気遣う。
「ありがとうございます」
「大丈夫か? さっき色々と連れ回したし」
「大丈夫です。預ける方を間違えたかと、少し後悔しただけですもの。いつものことですの」
「そりゃ後悔するだろ……」
 ハウルはちらと少年二人を見る。見た目は普通の少年達だ。どこにでもいる、活発そうな少年と、少し賢そうな少年。活発そうな方のゲルトは、イレーネを『ねーちゃん』と呼んでいた。
「ねーちゃん、その人と知り合いなのか?」
「ええ。今、お見合いデート中です」
「お見合いデート中って……」
 彼は言葉につまり、ハウルを穴が開きそうなほど凝視した。
「結婚するのか!?」
 いきなり飛躍した。
「それはわかりません」
「ってことは、邪眼の魔女の孫と結婚する可能性もあるってこと……だよな?」
「可能性は」
「師匠……暴れないかな」
「なぜですか?」
「いや、きっと大丈夫。美男子にはこっぴどくフラれない限り甘いから。そのにーちゃんには、別にまだフラれてないし。
 でもフラれる前に、確保しとかないと危ないからな」
「では、それとなく伝えてください。
 それとわたくしとの関わりを匂わせれば、当分の間は安全です、ハウル様」
 たおやかに微笑む彼女は、どこか違う世界の住人だった。必要外の苦労をしていそうな、それ故の穏やかさがある。
 しかしハウルは自分の身の安全が保証されることについては感謝した。薔薇の魔女のあの絡みつく視線。いつも冷たいクールな目や、暖かく優しい視線や、睥睨するような視線に慣れているので、女性が時々向ける絡みつくような妙な視線が苦手だった。
「ところで……そいつらは、イレーネの弟なのか?」
 片方はずいぶんと親しげだ。女王に対する態度ではない。
「ゲルト──こちらの方は、弟のようなものです。
 亡くなってしまいましたが、彼のお父様に養っていただいたこともありました。わたくしの両親は、小さな頃に流行病で亡くなり、その時からずっと一緒にいます」
「そっか……大変だな」
 と言って、自分の知り合いには、身内を亡くした者が異様に多いことに気付く。ヴェノムがそういう子供を拾ってくるのが趣味なので、確率が上がるのは当然なのだが、そうでない者まで両親がいないと聞くと、気が重くなる。
「ハウル様のご両親は、どんな方ですの? 風神様のいらっしゃるウェイゼアは、争いごとの少ないとても素晴らしい国と聞きます」
 国は確かに立派だが、そこにいる神が立派とは限らない。
「…………風のように気ままな男に、絶食した方がマシというか、人間が食える物じゃない料理を作る、手加減知らずの女」
「………………まあ」
 イレーネはやや斜め下を見て呟いた。身内に欲しくないとでも思っているのだろうか。
「母さん、味覚障害なんだ」
「それは大変ですね。腐っていてもなかなか気付かないのではありませんか?」
「腹丈夫だから」
 自分であれを食べて平気なのだ。匂ってくるほど腐っていない限り、腹をこわすことはないだろう。
「あんまり、自慢できる身内じゃないだろ」
「わたくしの家族は、吸血鬼の方が多いので、人事とは思えませんわ。
 少し、ディートリヒの様子を見に行ってもよろしいでしようか? 彼もわたくしにとっては家族ですから」
 なんていい子なのだろうかと、年上相手にハウルは思う。
 彼女は自分の容姿がどうのと気にしているが、これだけ性格が良ければ真剣に言い寄る男がいても良さそうなものだ。何せ、国がついてくるのだ。なのになぜ、彼女は伴侶に悩んでいるのだろうか。
「ああ、あんな事があった後じゃ、ダメージを受けてそうだしな」
「ありがとうございます。ゲルト、ディートリヒのところに案内していただけるかしら」
 ゲルトはこくこくと頷き、それからにっと笑いイレーネの手を握った。
 二人はまるで、本物の姉弟のようだった。


 日が暮れた頃、ハウル達は戻ってきた。
「なんだい、早かったじゃないか」
「遅かったですぅ!」
 アヴェンダの言葉に、ヒルトアリスが首を横に振る。髪を一つにまとめているため、凶器になりかねない。視界封じの伊達眼鏡の下、彼女は瞳に涙を溜めていた。
「まあ……気付かずにハウル様を連れ回しまってごめんなさい」
 イレーネは何か大きな勘違いをして、ヒルトアリスに謝罪した。アヴェンダはその様を見ながら足を組む。その時、彼女の視界に見知らぬ少年達が目に入る。
「そちらは?」
 うちの一人は、イレーネよりも色白で、淡い金髪の美少年だった。つばの大きな帽子をかぶり、紅い瞳と唇が花を添える女性的な顔立ちで、思わず見とれてしまいそうになる。その他に二人ほど少年がいるが、目立つところはない。
「吸血鬼のディートリヒだ」
「なんだ、死人かい」
 少しいいと思ったのだが、死人には興味はない。それにラァスほどの魅力もない。
「これはこれは、澄んだ血の乙女達だ」
 ディートリヒは、着替えてお嬢様のバカンス風になったイレーネに熱い視線を注ぐヒルトアリスに目を付けた。彼女は外見から、いかにも吸血鬼に狙われるヒロインといった雰囲気である。アヴェンダはどちらかというと、吸血鬼を退治する方がイメージだろう。
「ディートリヒ、失礼のないように」
「心得ております、イレーネ様」
 つばの広い帽子を手にし、キザったらしく頭を垂れた。かわいげがない。動作の一つ一つに愛らしさを感じるラァスとは大違いだ。
 カロンはイレーネの手を取り口付けし、とても他人には真似できないほど爽やかに微笑んだ。
「イレーネ、今夜ディナーショーに行こうと思うのだが、一緒にどうだい?」
「あら、でしたら一番良い席を手配させます。もちろん、カロンの好きなワインも。先日、とある商人にとてもいいワインを百本頂きましたの」
 先ほど二人でワインを一本飲んでしまったのだが、イレーネが用意するというワインを思うと、よだれが出てきそうだった。アヴェンダは大の酒好きである。その中でもワインは最高の贅沢品だった。
「カロン……酒好きなのか?」
 ハウルは意外そうに尋ねた。
「そりゃあ」
「いつも飲まないだろ」
「子供達の前で飲むのはどうかと思ってね。
 それにヴェノム殿の口に入るのが恐ろしいからだよ。それならいっそ、一人で隠れて飲むさ」
「何で誘わないんだよ!」
「君が酒臭かったら、ヴェノム殿にもねだられるだろう。いいのかい、ヴェノム殿が私を襲っても」
「う……」
 ヴェノムはタチの悪い酒乱らしい。
 ハウルが料理に使う酒の分量を、毎日のようにチェックしているのを思い出した。
「嫌だろう、私とヴェノム殿がそのような関係になったら。私も嫌だ」
「ごめん……」
「そう言ってくれると助かるよ。私はヴェノム殿を敬愛しているからね」
 と言って彼はくすりと笑う。
 アヴェンダは一つ学んだことを良しとした。ヴェノムに酒は飲ませるな。酒が絡むと人が変わるタイプは厄介だ。しかし酒を与えなければ問題ない。
「で、そのヴェノムはどうした?」
「別室でラフィのおしめを替えてくれているよ。もちろん、酒も飲ませていない。飲んだのは私とアヴェンダだけだ」
「アヴェンダも飲むんだ」
 ハウルは意外そうにアヴェンダに顔を向けた。祖母が大の酒好きで、幼い頃から飲まされている。女は酒に強くないと生きていけないそうだ。
「でしたらわたくし、着替えて参ります」
 つい数時間前に着替えたイレーネが言う。
 ハウルは目を丸くして言う。貴族の女性なら、一日に何度も着替えるのは珍しくない。女王ともなれば、何度着替えても不思議ではない。無意味に着替えているのではないのだから、これはマシな方だろう。夜会の最中に次々と衣装替えする強者も存在するのだ。
「ところで、エヴァリーンはどちらに?」
「用があるとかで、席を外しているよ」
「そう、着替えを手伝ってもらおうと思ったのですが……」
 女王ともなれば、一人で着替えることもないのだろう。ドレスを一人では着られないというのが正しいかも知れない。シンプルに見えて、一人では着づらいほど凝っているのが高価なドレスだ。
「わ、私、お手伝いいたします」
 目を輝かせ、祈るように両手を合わせてヒルトアリスが名乗り出た。
 下心が見え見えだった。下心といっても、彼女の場合はただうっとりと見とれるだけという、無害きわまるものではあるが。
「そんな、申し訳ありません」
「いえ、お気になさらないでください。イレーネ様の衣装や装飾品もぜひ拝見したいと思っていましたの」
 何が何でもやる気だ。下着をたっぷり着込んでいるだろうから、それほど問題はないので、アヴェンダは無視することにした。一緒に寝るとか、風呂に入るというなら反対をするが。
「じゃあ、お願いしようかしら」
 知らないとは、罪なことだ。
「ああと……」
 ハウルは言葉に迷い、きょろきょろと周囲を見回した。女同士には違いないが、ヒルトアリスに彼女をどうこうというような大それた思考というか、男のようなスケベ心などないのは理解しているが、それでも迷うのだろう。
「えと……キーディア、お前も手伝ってこい」
「え? あ……はい」
 不思議そうにハウルを見上げた後、キーディアはこくと頷いた。ハウルの気持ちは理解していないだろうが、イレーネを世話する事に関しては抵抗はないようだ。
「じゃあ、キーディアも着飾ってみますか?」
「着飾る?」
 キーディアは仮面に手を当て首をかしげた。
「キーディアに似合う耳飾りがあるの。その仮面にもきっと映えるわ」
 キーディアはこくと頷き、イレーネが差し出した手を握る。
「アヴェンダもどうですか」
「あたしまでよろしいんですか?」
 名前を覚えられていたことにも驚いたが、誘われたことにも驚いた。
「ねーちゃん、あんまり他人にほいほいくれてやるなよ」
 少年の一人が、イレーネを諫める。
「あら、アーラインは他人ではなくてよ。もしもわたくしが死んだとき、またお世話になりますもの」
「そんな不吉なことは言わないでくれよ。ねーちゃんは俺達よりもずっと長生きしてもらわなきゃ困るんだ」
「あら、早死にするなどとは言っていませんよ」
 イレーネはくすりと笑い、キーディアへと微笑んで部屋を出て行く。アヴェンダもそれに続いた。
 女王陛下の衣装部屋は、一人の女として少々気になる。イレーネの着るようなドレスを着たいとは思わないが、見るだけなら楽しい。彼女の持つ装飾品にも興味がある。きっと豪邸が建つような値段の宝石を持っているのだろう。
「ここは複雑な建物ですのね、イレーネ様」
 ヒルトアリスは周囲をきょろきょろと見回した。ここで見捨てられたら、元の場所に戻る自信がないのだろう。
「ええ、お客様の通る場所を第一に考えると、従業員の出入りするような場所は、必然的にその合間を縫うことになります。この施設は着ぐるみが通りますから、絶対に人目を避けなければならないんです。この壁一枚隔てたところには、小さな子供達もいます」
 つまり、子供達は自分たちの横を、大好きなラーフ達が通っていることを知らないのだ。
 手狭な従業員用の通路だろうが、手抜きのない洒落たデザインの壁紙と飾りが施されている。実に見事な建物内を、イレーネは迷うことなく歩いていく。爽やかな白いワンピースとカーディガンという、どこにでもいるお嬢様風の彼女は、誰かに案内してもらわずとも、複雑な建物内を知り尽くしているのだろう。
 カロンの言葉から想像するに、自分の作りだしたものに対しては完璧を求めているようだ。自分で考え、自分で作り、自分で確かめる。
 そういう人間は、嫌いではない。
 薬師というのも、似たようなものだ。
「こちらです」
 イレーネが鍵を手にし──ドアノブに手を添えると、かちゃりと回り、扉が開く。鍵が開いていた。
「エヴァリーンかしら」
 イレーネが部屋に入り、周囲を見回す。
「エヴァリーン?」
 アヴェンダ達も部屋に入ると、並べられた衣装を見てため息をついた。
 まるでどこにでもいるような町娘の服から、これから社交界にでも行けそうなドレスまで、さまざまな種類が並べられている。
 その間から、何かがころころと転がり出てきた。何だろうと思った瞬間、アヴェンダはそれが何であるか認識し反射的に息を止めた。
 それは、ぱんっ、と小さな音を立ててはじけ、白い粉をまき散らす。
 アヴェンダはそれが何であるか知っていた。
 昔いたずらで作ったこともある、仕掛け爆弾だ。栓を抜くと、薬品が熱を持ちしばらくしたらはじける。砂や胡椒を入れて遊んでいたのだが、これはそういった無害なものではないだろう。
 背後のドアが閉まり、隣でヒルトアリスがパタリと倒れる。肉弾戦では強くても、こういうときには弱いようだ。
 アヴェンダはポケットに忍ばせた紙を口に当て、息を吸う。
 これで毒を排除することができる。薬の調合時にマスクとして使うものだが、職業柄いつもポケットに入れて持ち歩いている。
「キーディアっ」
 イレーネの声が聞こえる。王族なだけあり、毒には耐性がついているのだろうか。それとも、魔石の力だろうか。どちらにしても、一番最悪な結果は免れた。彼女の毒殺が、最も最悪なパターンだ。
 白い粉が床に降り積もり、視界が正常になると衣装の奥から、施設の制服を身につけた、のっぺりとした白い仮面をした者達が出てきた。
「何用です」
「やはり効きませんでしたか」
 男の声で、うちの一人が呟いた。
「抵抗なさいますな。さもなければ、貴女の僕が滅びることになります」
 うちの一人が、気を失ったエヴァリーンを抱えていた。のど元に、短剣を押し当てている。
「穢れた化け物にも情けを向ける、お優しいあなた様だ。どうすればよいか、心得ておいででしょう」
「……またあなた達……」
 イレーネは小さく舌打ちし、彼等を睨み付ける。
「貴女が、白き悪魔の元を離れるのを待っていました。ようやく離れたと思ったら、賢人達と合流して、少々戸惑いましたよ」
 他の場所では無理と覚り、この場所で襲った。ただし、アヴェンダ達は余計な邪魔者だっただろう。
「レディを迎えに来るのに、このような無粋な真似はいただけません。お引き取り願えるかしら」
「もちろん、正攻法でも来ていただけるのであれば、そうしますが……なにぶん、貴女は白き悪魔に洗脳されておいでだ」
「わたくしはわたくしで考えて生きてます。貴方にどうこう言われる覚えはありません。この卑怯者」
「どうぞ、今はお好きに罵り下さい。もしも抵抗するのであれば、この化け物を滅ぼし、次はアーラインの娘です。さすがに一般人のお嬢さん方には、手を出したくありませんが……」
 彼等の素性は知らないが、イレーネをイレーネと知って、彼女を誘拐しようという、犯罪者であることは理解できた。しかもそのためなら、卑怯なこともする馬鹿者ども。
「なんだい、このゲス野郎どもは」
「口を慎め、小娘」
 男の声音が変わる。事実を言われたのが癪にさわったらしい。
「謹んでほしけりゃ、女を誘拐するのに女を人質に取るんじゃないよ。例えそれが死人でもね!」
 こういう卑怯な連中が許せないアヴェンダは、懐に手を伸ばす。
「アヴェンダ」
 イレーネに声をかけられ、アヴェンダは手を止めた。
「大人しく行きましょう。ただし、この者達に手を出すのであれば、わたくしは死んでも行きません」
「イレーネ様っ! 何をお考えで……」
 誰が死のうとも、彼女が誘拐されるのが一番問題になる。多少の事があろうとも、彼女を守ることが優先されるのだ。
 アヴェンダは意を決して、ポケットの中に手を入れる。中には、もしものときのための幻覚薬がある。混乱している中、銃でも撃てば、音に驚いて誰かが来てくれる。
 そう思った矢先、全身に痛みが走った。
 ただし、それをはっきりと自覚することなく、アヴェンダの意識は闇に飲まれた。
 それが電撃であることに思い当たったのは、目覚めてからだった。


 あれは何だろう。
 意識せずにそう思い、あれは見知らぬキャノピーだと結論づける。
 見たことがない、白く滑らかな生地が張られたサテンの生地。
 自分の実家では、薄紅色の物を使用している。今住んでいる深淵の城では、天井から吊す蚊帳を使用している。
 ──白いキャノピーは、汚れが目立つから嫌いです。
 そう思ってから、
「え……」
 完全に目が覚める、彼女は身を起こす。そこは柔らかなベッドの上だった。知らぬ、白い部屋。色調も家具も洗練されたセンスのいい部屋。
「起きたのね」
 どきりとして声のした方を向けば、ベッドの傍らの椅子に腰掛けたイレーネが、とびきりの笑顔でおはようと言った。
「イレーネ様……ここは? 私たしか、イレーネ様の衣装部屋に……」
「ごめんなさい」
 彼女は笑顔をかげらせ、謝罪する。
「わたくしにも分かりません。まさかあんなところに、あれほどの多勢が進入しているとは……油断しました」
 彼女の耳朶にあった琥珀色のピアスがなくなっていた。胸に下げた黒い石もなくなっている。指輪も、腕輪もない。
「魔石はすべて没収されました」
「まあ、なぜ?」
「単刀直入に言うと、わたくし達は誘拐されました」
「まあ……」
 ヒルトアリスは頬に手を当て驚いた。それは一大事だ。
「アヴェンダさん達はどうしたのでしょうか」
「別室で人質としてとらえられています。わたくしが逃げ出さないように」
「まあ……なんてこと!」
 アヴェンダと小さなキーディアが人質など、許されることではない。不安な時を過ごしているだろう彼女たちを思うと、涙がぽろりとこぼれた。
「泣かないでください。必ず助け出します。それに彼女を傷つけることはないはずです」
「……私はなぜイレーネ様とご一緒なのでしょうか」
「それは……あなたの周囲を、心配した精霊達がうようよと漂っていたからだと思います」
「精霊達がいると、なぜ人質にされないのでしょう」
 言われ、イレーネは困ったように腕を組んで考え込む。
「そうですね。
 理解するのは難しいと思いますが、まずは彼等について説明しなければなりませんね。
 彼等──わたくしたちをここにさらってきた者達は、俗に聖性主義者と呼ばれる者達です」
「聖性主義者?」
「はい。聖なる者は神と同列だと主張し、聖性を持つ者を、正しい道に導くことが自分たちの使命だと思い込んでいます。そして自分たちを母神の御使いだと名乗っています」
 つまりは、聖女である彼女を、神と同列と考えていると言うことだ。なんと大それた思想だろうか。
「この『アルファロス』という組織は、各国の闇に浸透し、大きな力を有しています。実際に、わたくしの国にも幹部がいるはずです。ただ、誰も尻尾を出さず、あぶり出しにも応じません。本当に、良くできた組織です、困ったことに」
 イレーネは肩をすくめて見せた。
「確かに、わたくしのこの力は地神様にもないものです。そうでなければ、魔石の一番の産出国はクロフィアということになりますもの。
 ですから彼等は、わたくし達を執拗に狙っていました。神に出来ないことが出来る女は、世間から『聖人』として認定されます。それ以外に取り柄がなくとも」
 彼女は脣をとがらせ、怒ったように言う。
「おかげで誘拐されたのも、実はこれで三回目です」
「まあ、誘拐には慣れておいでですのね」
「ええ、慣れました。これまではマディアスが助けに来てくれましたが、今度は自力で逃げ出したいと思います。毎回嫌みを言われるのも癪ですもの」
「まあ、ご立派です」
 イレーネは淑やかに微笑みながら、スカートをたくし上げた。その脚線美に、ヒルトアリスは思わず見とれてしまう。
「わたくし、ブーツの中にいつも刃物を仕込んでいますの」
 彼女はブーツを脱ぎ、内側にある細い紐をとく。布地の下に、紙に包まれた刃が収められていた。しっかりと固定されていたので、イレーネの足を傷つけることはないのだろうが、その意外性に驚いた。
 柄もない、ナイフの刃だけなのだ。
「それでどうなさるのですか? 柄がなければ危険です」
「ちょっとひっかくだけでいいのです。
 そろそろ、食事を運んでくれる時間です。今晩、この部屋から出してもらえることはないでしょうから、好都合」
 ヒルトアリスは彼女を助けるために、いつものように精霊達に心で呼びかけた。呼びかけたが……
「あら、精霊の皆さんはどこに行ってしまったのでしょうか」
 いつもなら、眼鏡をしていてもその存在だけは感じることができる。眼鏡を外せば、美しい彼女たちの姿が見える。しかし、この部屋にはまったく精霊の気配がしない。『自然』にもっとも近いと言われる、意識のないような精霊達の気配もない。
「精霊はこの部屋には入れません。壁紙で隠されているのでしょうが、ここは魔封じが施されています。貴女の様子を見て、ここに押し込めてくれたようです。わたくしも途中までは気を失っていたので、よく分かりませんが……ヒルトアリスも、彼等に目を付けられてしまったようです」
 ヒルトアリスは理解できずに、じっとイレーネの顔をじっと見つめた。
「撲滅したいのですが、これがなかなか……。逃げ出す事に成功したとしても、今後気をつけてください」
「え……」
 ヒルトアリスは悲しげに首を横に振る。
「頑張ってください。出来る限り、相談に乗ります」
「は、はい」
 イレーネは立ち上がり、ドアの横に座り込んだ。その傍らには、食事を差し出すための小さな戸がある。窓には鉄格子がはめられており、ここは要人を監禁するためにあるのだと、ようやく実感した。

 

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