7話 ミスティックワールドへようこそ!

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 問題は大きい。
「ちっ、カビくさい」
 アヴェンダはぼやいて、地下牢の壁を叩く。覗き窓から外を見ると、向こうには見張りが一人。他の牢には何人か囚人がいる。
 他の者達がどんな理由で牢に入れられているかは分からないが、罪人と同列に扱われているのは確かだ。ただし、普通には中が見えない牢に入れられているのは、助かった。二人が女性であることを考慮してのことだろう。ベッドも粗末ではないし、テーブルも実家にあるものよりも高そうだ。聖人を崇めるだけあり、それなりに紳士的ということだ。
 なぜか金持ちが憎かった。
「イレーネ様達はどこにいらっしゃるんだろうね」
「きっといい部屋にいると思います。イレーネ様は、彼等にとって大切な人材だから」
「人材ね」
 幼いのにそう割り切っているキーディアの認識に、思わず嘆いた。
 それでも、あのお嬢様二人がこのような場所にいなくて良かった。普通の地下牢よりはずいぶんとマシだが、それでも空気がこもっている。綺麗なところになれていれば、病気になってしまうかもしれない。
 ヒルトアリスの方は、お嬢様ながらに丈夫だが。ここにいるキーディアも丈夫だが。
「そういえばダリは。影の中にいるんだろう」
「ダリはとられました。封印されていると思います。でも……危なくなったら来ると思います。ダリだから」
「ダリだから、ねぇ」
 人間でない分、駆けつけてきても違和感はない。アヴェンダはベッドの上で足を組み、ごろりと後ろへと倒れる。
「退屈だねぇ」
「はい。ここには誰も話し相手がいません」
「誰も……って……」
 つまりは幽霊がいないという意味だろう。それはありがたいのだが、話し相手と見なされていない事を知り、アヴェンダは少々落ち込んだ。
「ここは、封印されているみたいです」
「封印?」
「一切の魔法が使えません。アルファロスなのだから、それぐらい当たり前でしょうね」
「アルファロス?」
「聖性至上主義者の秘密結社です」
「聖性……秘密結社……」
 いきなりとんでもない説明を受け、頭の動きが停止する。
「聖人を崇め奉り、人から神を越える存在を生み出そうというひとたちです。アルファロスというのは、彼等が一番初めに崇めた聖人の別名です。
 各国の要人も密かに参加しています。イレーネ様とヒルトさんは……聖性を持つ者として、丁重に監禁されていると思います。このまま放置すれば、長期にわたる洗脳を受けて、彼等の仲間にされることになります」
 聖人を崇めると聞くと問題はないのだが、実際にはけっして褒められた組織ではないようだ。
 色々と疑問はあったが、その中で一番大きな疑問をぶつけた。
「ヒルトもイレーネ様と同類の認識なの? あいつは聖女じゃないわよ」
「聖女と呼ばれるのは、神にも行えない奇跡を持つひとです。聖性というのは神の力を持つことなく、人を越えた力を持つことです。奇跡は持ってなくても、そういった聖性を持っていればあの人達の目に止まります。
 ヒルトさんの場合は、精霊を見る瞳の特異性だと思います。あれだけ見えるのは、うちにも滅多にいませんから。
 それに、精霊問わず、彼女は愛されています。そういった他者を魅了するのもまた聖性と認められるんじゃないかと判断したのと思います」
 彼女は子供なのに、裏社会にも詳しいのだ。アヴェンダは何も知らなかった己を恥じ、当たり前のように持論を述べる少女に感心した。
「あんたはまだ小さいのに賢いねぇ」
「アヴェンダさんとそれほど違いません」
「そうだね」
 アヴェンダは十六歳だが、身長のせいでいつも十二、三歳に見られる。大人になってしまえば、たかがそれだけの差など気にならなくなるだろうが、まだ成長期である彼女にとって、それは気になることだった。しかし反論するまでのことでもない。大人気ない。
「じゃあ、あたし達はどうするべきかねぇ。ちょっとした鍵なら開けられるけど、これはあたしにも無理だよ」
「大丈夫です、きっとイレーネ様が助けに来てしまいます」
「ダメだろう、それは。立場が逆だよ」
「でも……たぶん来ちゃいます」
 彼女の言葉は、確信のようだった。彼女も望んではいないのだが、イレーネはやってしまう。そう信じているのだろう。
「兄からイレーネ様のことはよく聞いています。兄の言葉を信じるなら、イレーネ様は、時にとても残酷になる方です。そんなところが、兄は気に入っているみたいです」
「そー。残酷なところが気に入ってるのかい」
「統治者とは、優しいだけでは意味がない。残酷なだけなら存在価値がない。バランスが大切。賢ければなお良し。イレーネ様はそのバランスが取れている、と、兄が言ってました」
「想像できるねぇ」
 きっと、変わり者の堅物だ。
「イレーネ様は、きっと来てしまいます」
「どうして? 残酷になれるのに?」
「出来ることは、多少無理をしてでもやってしまう方だから」
 出来る事。
 おそらく、彼女たち以上の監視の中、どうやったら出来るというのだろうか。
「ひょっとしたら、ハウルさん達の方が早いかも知れませんけど」
「それはあるねぇ。まあ、どちらにしても待つしかない、か」
 キーディアはこくりと頷き、そしてベッドに横になった。
「なら、お休みなさい」
「お……お休みなさい」
 突然、キーディアはベッドに潜り込んで寝てしまった。夜に備えての事だろう。アヴェンダも彼女を見習い、眠ることにした。ベッドは、それほど悪くない。


 イレーネはドアの横に座り込み、じっと何かを待っていた。
「何を待っているんですか?」
「食事を運び込む時です。その時、少なくともここから手を入れるでしょう。その時がチャンスです」
 チャンスとは、逃げ出すチャンスだろう。しかし、中に入ってくるならともかく、彼女が予測するのは、ドアの下にある、小さな痩せた子供なら通れるかも知れないと思う程度の小さな、差し出し用の戸だ。
「そんな小さな穴でいいんですか?」
「わずかでも手が内側に入ればいいんですよ。この小さな戸を閉めるためには、どうしても指先だけでも中に入れないと無理でしょう」
「ええ」
「チャンスさえ逃さなければ、これでどうにかなります」
 彼女は黒い石を見せた。飾り気のない、そこらにある小石のような形の石。
「貴女が寝ている間に、不格好ですがこれ一つだけ作り出せました。先ほど皆さんから魔力を頂いていて助かりました。わたくし一人の力で生成しようと思うと、丸一日以上かかるところでした。魔石の元にしようと思っていた分を回したら、何とか出来ました」
 彼女はぎゅっと魔石を握りしめ、ナイフを構え直す。
「そういうことは私が」
「いいえ、わたくしの魔石を使うにはコツがいりますから」
 イレーネは薄刃のナイフを構えたまま首を横に振った。
「それでどうなさるんですか?」
「傀儡を作ります」
「傀儡?」
 彼女は曖昧に微笑み、再び息を殺した。
 静かな時がゆるりと流れる。日も暮れかけ、外は夕闇が迫っていた。イレーネの真剣な面差しは、普段の柔らかな雰囲気を残したままで、とても落ち着いていた。
「来た」
 耳を澄ませば、足音が近づいてくるのが聞こえた。
 綺麗な足音だ。男性の、背筋を伸ばした、軍人のような歩き方。それが複数。
「やはり二人。3人じゃなくて助かったわ」
 イレーネは足音から人数を予測し、口をすぼめて長く息をつく。ヒルトアリスはもしもの時に動きやすい位置に立つ。彼女は素手でも腕に覚えがある。イレーネ一人守ることぐらいは出来る。
 やがて、足音が部屋の前で止まった。刹那の静寂は、とてもひやりとした空気をもたらした。
「イレーネ様、お食事をお持ちしました」
 男の声にイレーネは無言だ。もちろん、声をあげるわけにはいかない。少しでも勘が良ければ、彼女が待機している場所が分かってしまう。
「このような所から申し訳ありません。明日になれば、もっとよい部屋とよい侍女がご用意できます」
 ドアの下部に備え付けられた小窓から、料理が差し出され、男の手がわずかに入る。それに向かって、イレーネは刃を振り下ろす。
「それまでおまち……」
 刃先は、ほんのわずかに男の手にかすった。ひっかいた程度のその傷で、男は沈黙し、両膝と手をついた。先ほどまで生命力が溢れていた男から、突然それが消えてしまった。
 イレーネは素早く魔石を持った指を、わずかに部屋の外に出し、
「死者よ、我が意のままに」
 突然に生気を失って膝をついた男は、料理の載ったトレイをさらに奥へと押し込んだ。
「どうした?」
「なんでもない」
 仲間に問われ、男は先ほどよりも気力のない声で返事をした。
「イレーネ様、何かご所望の物がございましたら、お申し付け下さい」
「ではお茶をちょうだい。このような安物のワインを飲むなら、お茶の方がいいわ」
 イレーネは男達に命じ、料理を引っ込めわずかに指を外に出し、ドアの前に座る。
「かしこまりました。では、お持ちいたします」
 男の抑揚のない声。二人は静かに去っていく。
「お前、どうしたんだ」
 仲間が男に声をかける。
「イレーネ様の前で緊張しているんだ」
「緊張していると言うよりも……」
「ほら、手がこんなに震えている」
「震えてなどい……ぐがっ」
 突然、男の一人がどさりと倒れる音がした。
「な、なにを……」
 なんとか意識を保っていたらしく、力ない言葉が口から漏れる。その男へと、生気のない男が追い打ちをかけた。何をしたかは見えないが、確かに何かしたのだと彼女は分かっていた。
 小さな複数の金属が打ち合う音がして、カチャとドアが開く。
「お待たせしました」
 仮面を被る武装した背の高い男は、イレーネに貴族風の礼をする。これはウェイゼア風の礼だ。彼はウェイゼアの貴族なのだろう。
「それを部屋の中に。あと、人が減った頃に着替えを持ちなさい」
 男は言われるがままに『それ』を部屋に引きずり込む。
 背に剣を突き立てた、それを引きずり込む彼と同じ姿の死体。
 迷いのない、急所への一突きだ。
「汚れましたね。廊下の血をシーツで拭いて」
「かしこまりました」
 男はイレーネの命のまま、シーツで床を拭く。
「では、行きなさい」
 イレーネは部下に命令するように、男に言い放った。
 死んでなおイレーネの命令に従う男は、ウェイゼア風のキザと評判な大振りの礼をして、部屋を出て行った。
 あっという間の出来事に、何も出来なかったヒルトアリスは、気まずく思い尋ねた。
「そのナイフは……」
 それで刺して、彼は即死した。死体が動いた理由は、キーディアの魔力を利用して作ったという、魔石であることは容易に想像がつく。しかし、このナイフはわからない。人が即死するほどの毒が塗ってあるものを、イレーネが素手で持つとは考えられない。ましてや、ブーツに仕込むなど万が一のことがあっては元も子もない。
「これは殺意を込めて斬りつけると、相手をかすっただけで呪い殺してしまう呪具です。持ち主のわたくしに殺意さえなければ、何の力も持たないので、彼等は見逃したのでしょう。これを知るのはわたくしと、マディアス達と、ゲルトと貴女だけです」
 それはつまり、とても重要な秘密の共有。
 イレーネにとっては、とても大きな秘密だ。このように優しげな女性が、このような恐ろしい呪具を持っているなど、誰が想像するだろうか。ましてや、あれほど静かに使いこなすなど。
「恐いでしょうか?」
 彼女は不安げに問う。
「す……素敵です」
 優しい彼女が、目的のためには非情になる。なんて素敵なのだろうか。
「す……ステキ、ですか」
「はい、とっても」
 イレーネはふふっと笑い、ナイフをブーツにしまう。ヒルトアリスは男の背に刺さった剣を抜き、白いシーツで血を拭う。いい剣だ。一度人を切ったら、刃として使い物にならなくなる剣が多いが、これはとても綺麗だ。ヒルトアリスが愛用する魔剣ほどではないが、これも何か力を持つ魔剣である。
 死体からも剣を取り上げた。こちらもなかなかの魔剣である。イレーネの操る背の高い男の魔剣よりも小ぶりで、イレーネは悩んだ末に死体から奪った剣を使うことにした。
 いらない剣は持ち主に返した。どうせ鞘も彼が持っている。鞘なしの剣など、持ち歩くと危険だ。とくに魔剣は、鞘がその魔力を封じる役割を持っている。
「ヒルトアリスは剣を扱えるのですね」
「はい。私の家系は代々軍人で、女でも剣を習わされることになっています」
「素晴らしいわね。女性らしいのに、剣を扱えるなんて羨ましいわ」
「何をおっしゃいます。イレーネ様のような方は剣を持つ必要などございません」
「でも、今のようなときは剣を持てた方が便利だと思います」
「大丈夫です。私が必ずお守りします」
「頼もしいわ。もっとも、ここに私達を害そうとする者はいないので、ケガの心配はありません。でも、相手を殺すことを躊躇う必要はありません。あの方達は、わたくし達以外を殺すことに躊躇いを持たない人たちです。自分たちに賛同しない一般人は、家畜同然と思っています。身分の高い方が多いですから、なおさらです」
 狂信者というのは、一番手に終えないと嘆いた。その間にも、彼女は指をほんの少し外に出している。そうしないと効果が切れるのだろう。
 再び静かに待つ。
 眠気を覚え、時間の感覚が曖昧になっきた頃、一人分の足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
 男が扉を開くと、イレーネは一瞬手を引き、開いた隙間から手を外に出す。その間に男はテーブルの上に紅茶のセットが乗ったトレイと、布のかけられたバスケットを置く。
「ご苦労様」
 イレーネは手を引っ込め、ドアを閉めた。その瞬間、男は崩れ落ちる。イレーネはバスケットにかけられた布を剥ぎ、その中に押し込められていた白のエプロンドレスや仮面を取り出した。
「さあ、着替えましょう」
 気分はほんのりメイドさんごっこだった。


「まずい!」
 カロンは拳を握りしめて言う。
「マズイっていうか、ヤバイだろ!?」
「ああああああっ」
 比較的冷静に慌てるゲルトに、周章狼狽のあまりまともな言葉も口からでないディートリヒ。
 そしてハウルはといえば、騒ぎ立てるのに疲れたか、建設的に皆の行方を風に尋ねている。ただし、風達は方角を教えてはくれるが、どこにいるかまでは分からないという。
 そんな一同を眺めながら、ヴェノムは膝の上のラフィニアの相手をしていた。
「もしもマディアス様にバレたら……ディートリヒにーちゃん、お仕置き決定だな」
「うわぁぁぁぁぁあ」
 ゲルトの言葉に、ディートリヒはさらに取り乱す。自他共に認める美少年が台無しだ。
 エヴァリーンの方は不意をつかれ襲われたのか、かなり消耗して眠っている。ヴェノムの血を何滴か飲ませたので、回復は早いだろうが、しばらくは寝込むことになる。マディアスも彼女にお仕置きをすることはないだろう。彼は女性には甘いところがある。
「マディアス様に知られる前に、ねーちゃんを助けなきゃ」
「そそそそ、そう! それ!」
 ディートリヒはよほど己の主が恐ろしいらしく、ゲルトの言葉に何度も頷いた。
 ヴェノムは客観的な立場で、その場を観察している。弟子達は心配だ。前の弟子達なら、皆が皆自力で帰ってきそうだったが、今の弟子達はそれほど常識外れた能力はない。少なくとも『元暗殺者』や『神族』や『闇の申し子』ではない。それぞれ得意分野は並の専門家では敵わないほど突出しているが、それでも常識を外れたことをするほどではない。だからある意味安心だ。常識外の事が出来なければ、相手もムキにはならない。
「とにかく、北に連れて行かれたのは確かです。山脈のあたりから気配が消えたということは、そこから先に何か仕掛けがあるということです。ディートリヒ殿、部下を使って調べさせてはいかがですか」
「そ、そうだね。それがいい」
 ディートリヒは部屋から飛び出て行く。よほど混乱していたようだ。
 ハウルはめげずに精霊達に問い、カロン機械を取り出しいじりだし、ゲルト達は落ち着いてお茶を飲み始めた。
「落ち着いた子達ですね」
 皆にも見習わせたいほど落ち着いている。どうでもいいわけではないだろう。ゲルトの方はイレーネを姉と慕っている。
[ねーちゃん、誘拐されるの慣れてるから」
 ゲルトはそれを平然と、姉は家事に慣れているというような軽さで言う。
「そうですか。慣れとは恐ろしいものですね」
 ヴェノムも茶を飲み、うとうととし始めたラフィニアを、用意させた揺りかごに横たえる。よく寝るいい子だ。人よりも早く成長する分、それを補うようによく食べよく遊びよく寝るのかもしれない。有翼人に多いタイプだから、その想像はあながち間違っていない可能性が高い。
「さて、私達も行きましょうか」
「行くのか?」
「ええ。ルートを使えば、あっという間です。日が暮れたら、夜の闇に紛れてしまいます」
 ハウルは小さく頷いた。彼も比較的冷静だ。ヴェノムが落ち着いて座っているので、ある程度安心しているのだろう。
 誘拐というのは、生かしていてこそ意味がある。死なれては意味がない。良くも悪くもいいところのお嬢さんばかりだ。手荒な事はしないだろう。彼等は紳士を自称する者が多い。もしも万が一のことがあったとしても、危なそうな二人の性格と行動力を考えれば、一人や二人相手なら返り討ちにしてしまう。もちろん、そんなことはないだろう。彼等は生半可な欲に飽きたからこそ、聖人を崇めているのだ。
 もちろんそのような可能性の話は彼等にするつもりはない。急いでもどうしようもないことがある。焦らせれば使い物にならなくなるので、冷静でいられるならその方がいい。
「ゲルト、ラフィニアを見ていてくれる方を呼んでください」
「はい」
 ゲルトは部屋の外に控えていた使用人に話を付けにいく。
「殿下、何をされているのですか?」
「んー。どうせ金をかけて施設を大がかりな装置で隠して、結界を張っているだろうから、それを破るためにね」
 彼は今、何かを組み立てている。ひょいと手前に手を伸ばし、白い球体を空から引きずり出す。それを装置の中核とし、完成したようだ。
「なぜそのような小さなものを、ばらして運んでいるのです?」
「理由は簡単だ。この白い球。これは私の作った結界装置の末端でな、とても稀少なもので出来ている。そのユニットには予備がないため、渋々こうしているんだよ。一つはずれると、安定が悪くなって結界の質が落ちるからな」
「そうですか。これが『バリア?』の末端装置ですか」
「いや、それはメディアちゃんが言い出したもので……」
「では、正式名称は?」
「GOMと呼んでいる」
「そうですか。出来上がったら行きましょう」
「あと五分で出来る」
 五分。その五分に、短気なハウルは苛立ち、椅子に座って足を踏み鳴らした。


 顔を隠すような連中ばかりで幸いだった。
 顔を隠した二人は、男に案内されて悠々と歩いていた。幸い二人とも目立つような髪色はしていない。ヒルトアリスのつややかな黒髪は美しいが、その美貌の印象が強く、顔を隠されると分からなくなるものだ。ここにいる者達は栄養をたっぷりと取って、いい洗髪剤を使っているため、ヒルトアリスほどの美しい髪の者は珍しくもない。イレーネの髪など、ごく標準的な色で、とても目立たない。
「わたくし、ドレスよりもこちらの方が心落ち着きます」
「なぜですか?」
 顔全体を覆い隠すヒルトアリスは、仮面の下の瞳をきょとんとさせて問い返す。
「わたくしが歩けば、皆は嫌でもかしずきます。こういう姿をしていると、誰もわたくしのことに気付かないので、好きです」
「変装が趣味なのですか?」
「ええ」
 少年のような格好をして年老いた庭師の手伝いをしたり、下女達に混じって掃除をしたり。悲しいかな、ノーメイクでみすぼらしい格好をすると、彼女専属の侍女達ですら、彼女の名を呼びながら素通りしていくときもある。ただし侍女頭を誤魔化せたことは一度たりともない。マディアスではなくイレーネに仕えてくれているため、エヴァリーン達よりも信頼出来るのだが、作法に厳し過ぎるところが玉に瑕だ。教育係よりも、彼女の方が厳しいのだ。このような姿をしていると知ったら、また説教が一時間続くことになるだろう。
「アヴェンダさん達の所に行くには、どうしましょうか」
 ヒルトアリスは窓の外を覗いた。外は暗く、月明かりが山の姿を映す。ここはどこかの山の中のようだ。逃げ出しても簡単には町にはたどり着けないだろう。乗用竜があればそちらを奪って逃走することにした。
「今の地下には看守が五人います。身分の低い者達ですが、腕の立つ者達ばかりです」
 死んだばかりの死体は、脳が新鮮で考えもはっきりしている。これが腐ってくると、単調な命令しか聞かなくなり、自分で考えることは決してない。
 捕らえられているのは、彼等に敵対する重要人物もいるだろう。ついでに知り合いがいたら助けてやろう。次に来たときは、もぬけの殻となっているはずだ。
「そうですか。ではだまし討ちしましょう」
 部屋から酒とグラスも持ってきた。適当に飲ませてその隙に殺せばいい。ナイフは出し入れしやすいように、部屋で靴の先端に仕込み直しておいた。元は違うナイフが仕込んであったが、気を失っている間にナイフだけが外されていた。抱き上げたときに誰かが気付いたのだ。ただし、靴を脱がすようなことはしなかった。他にナイフが仕込んであっても、イレーネの技量だけでどうにかできるような相手は少ないからと、侮ってくれたのだ。
 剣を使えるというヒルトアリスは、剣をドレスに隠している。帯剣する女性も多いらしく、見つかっても不自然ではないらしい。
 二人と一体は階段を下りて行く。地上に着き、地下へとさらに進もうとしたとき、背後から呼び止められた。
「お前、どこにいく」
 振り返ると、二人組の男が立っていた。タイミングが悪い。地下に向かう理由など、限られてくる。
 仕方なく、イレーネは死体に身体を寄せて言う。
「野暮な方ね」
 相手が分からない以上、こういっておくのが一番だ。顔が出ていないというのは素晴らしい。金をかけて結果、身体には自信があるので、一生顔を隠していたいぐらいだった。身体だけ見れば、皆があっさりと騙されてくれる。
「二人相手かよ。聖性主義者の風上にも置けない奴だな」
「待ち合わせをしている」
 死体が適当にはぐらかし、イレーネは彼をせかすように言う。
「早く行きましょう」
 見回りの二人はそれ以上追求してこなかった。
 互いに過干渉はしない連中だ。堂々としていれば、怪しまれることもない。ヒルトアリスも慌てて後をついてきた。

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