7話 ミスティックワールドへようこそ!

6

 食事は悪くなかった。
 キーディアは小さな口でちまちまと冷めても不味くならないそれらを食べていた。その姿を見ていると、この子だけは守ってやらなければという、保護欲が湧いてくるのが不思議だ。
 外の様子は分からないが、今はもう夜も更けただろう。
 キーディアはこくりこくりと水を飲み、空になったグラスに水差しの水をすべて注ぐ。彼女は水が好きで、毎日大量に飲んでいる。どうやらここの水も気に入ったらしい。
 いつもならうつらうつらとしだすのだが、今日はたっぷり昼寝をしたため目がさえていた。
「水がなくなったね。ちょっと待っておいで。そこの見張りに持ってこさせるから」
 アヴェンダは立ち上がり、覗き窓を開いて看守を呼んだ。
「ちょっと、そこの看守さん」
「ん……なんの用だ」
 看守は表情のないのっぺりとした仮面を被っている。だが、彼自身の目元や声は表情豊かであった。
「水が足りないんだけど、持ってきてくれないかい」
「水? 少なくはなかったと思うが」
「子供はよく水を飲むんだ」
「水か。分かった、持たせよう。こんな所に入れられたら、緊張もするよな」
 男は仮面の下で笑ったような気がした。食事を運ぶときにも、キーディアの事を気にしていた。子供が閉じこめられることを快く思っていないのだ。
 それが人としてまともな感覚である。
「あ、そこの女」
 看守は誰かに声をかけた。アヴェンダの位置からでは、相手は見えない。
「はい? 何でしょうか?」
 聞き覚えのあるような、ないような、そんな気がしなくもない声が返ってきた。
「水を持ってきてくれ。子供だからジュースでもいいが」
「お水ならございますわ」
 女が近づく足音は、隙のない、静かなものであった。
 最後の水を飲んでいたキーディアが顔を上げ、アヴェンダに目で訴える。それに一つ頷き、アヴェンダは訝しがる男に声をかける。
「気の利くのがいるじゃないか。差し入れを持ってくるなんてね」
「いや、しかし……」
 のぞくと、黒髪の女が水差しとバスケットを持ち近づいたきた。
「こちらをどうぞ」
 バスケットを渡され驚く男は、バスケットの中身を見ようとかぶせられた布に手をかけた。その瞬間、ヒルトアリスの拳が男の側頭部に叩き込まれた。
 がくりと崩れ落ちる男。
 ヒルトアリスは仮面を外し、その美貌を輝かせアヴェンダの元へと走り寄る。
「ご無事でっ」
「無事だよ。さっさと鍵をあけとくれ」
 ヒルトアリスは再び男の元へと駆け寄り、鍵がないことだけを確かめ悩み始める。
「イレーネ様は?」
「さあ……そこに隠れていらしたはずですが」
 ヒルトアリスがそう呟いたとき、イレーネと知らぬ男が姿を見せた。手には鍵が握られている。やはり、ヒルトアリスよりもイレーネの方が頼りがいがある。武人のくせにこの手の気配りで女王陛下に劣るなど、恥ずかしいことこの上ない。
「鍵はあちらの方が持っていました」
 男がイレーネから鍵を受け取り、牢のドアを開けた。キーディアは牢を飛び出て、真っ先にその青年にしがみついた。
「死体だ」
「死体? なんでまた」
 しかも動いている。キーディアが操っているわけでもないのに、それは動いて、イレーネに従っている。
「イレーネ様、死霊術を使えるんですか?」
 精霊達の力を借りないような魔法は、ヒルトアリスには使えない。そうなると、自然にイレーネしか可能性がなくなる。
「わたくしは魔法はつかえません。でも、キーディアの魔力をもらったので、死霊術に特化した魔石を作りました」
 アヴェンダはイレーネが握りしめる拳を見て、それ以上は聞かなかった。
 死体をどのようにして作ったかも、聞かなかった。
 必要のないことだ。
「さ、これを着て、これを付けてください」
 イレーネは転がったバスケットの中から、服と仮面を取り出しアヴェンダに手渡す。そして死体の男は男、子供が一人入れるようなトランクの蓋を開けた。アヴェンダはそれを持って牢屋に戻り、着替える。実質男はいないのだが、ヒルトアリスの視線が気になるのだ。
「キーディアはこの中で。大人の振りをするのは、ちょっとはやいですから」
「はい。分かりました」
 イレーネの言葉に、彼女はこくと頷いた。
「イレーネ様は死体繰りがお上手ですね」
 死体繰り──と、その言葉でアヴェンダは改めて、イレーネの隣に立つ青年をまじまじと見つめた。医者の知識のある彼女だが、動く新鮮な死体をそうと認識することなど不可能である。顔色は悪いが、言われなければ一生気付かなかっただろう。まさかこれが死体などとは。背筋も伸びて、眼球も動いているのだ。白目を剥いているとか、だらだらと歩いているなどという、見苦しい特徴がないのだ。
「ええ、伊達に女王などやっていませんもの」
「イレーネ様は死体をよく操るんですか?」
「うちの国では、ですけれど」
 アヴェンダが着替えている間だ、イレーネはキーディアと話していた。
 どんな国に住んでいたら、死霊術の込められた魔石の扱いが得意になるというのだろうか。
 ヒルトアリス達とおそろいのワンピースとエプロンドレスも身につけると、まるで下働きにでもなったような気分になる。
「わたくしは死体繰りに慣れていますので、乱暴な扱いはしません。
 それでも窮屈で時々痛いかも知れませんが、我慢して入ってください。すぐに外に出て、出してあげますから」
「はい」
 血など見たこともありませんというような、清らかな乙女の如き微笑みの彼女は、男に命じてキーディアをトランクに横たえさせた。キーディアは、信頼しきった様子で手を振った。トランクは閉められ、立てられる。中では膝を抱えて座るような形になっているだろう。
「平気ですか?」
「暗くて狭いところは好きです」
 暗所恐怖症閉所恐怖症の人間が聞いたら、彼女の正気を疑うだろう。
「さて、長居は無用です。行きましょう」
 イレーネは二つの魔石を掲げ一つを口にくわえてかみ砕く。いや、砕く前にそれははじけて彼女の喉の奥へと消えていた。彼女の吐息でかき消されるようだった。
「さあ、行きましょう」
 と、彼女がトランクを押し始めた。
「え、なんでイレーネ様が?」
 てっきり男にやらせる者だと思っていたのに、なぜか彼女が力仕事を始めた。
「大丈夫です。慣れていますから」
 平然と車輪のついたトランクを押す女王様に、困惑するその他。死人まで困惑しているように見えた。脳みそが新鮮なだけに、考えることが出来るのだろう。
「でも、子供とはいえ人が一人入っていますし」
「大丈夫です。持てます。そのために魔石を一つ破棄しましたから」
 イレーネはずんずんと進んでいってしまう。
 初め見たときはバッグ以上に重い物を持ったことがなさそうにも見えたのだが、階段の前まで行くとトランクをひょいと片手で担ぎ上げてしまう。
「ちょ、か、片手でっ!?」
「魔石の力です。そのまま持っていてもいいのですが、魔石というのは使い捨てにしたときにこそ真価を発揮します。力を与えてくれる魔石を作り、それを破棄しました」
 魔石を使い捨てなど、自己生産出来なければとてもではないが不可能な、贅沢極まりない使い方である。その損失を計算すると、アヴェンダは頭が痛くなったので考えを放棄した。
 損をするのは彼女ではないし、イレーネは損をしたわけではない。利益を失っただけである。
 トランクを持ち上げ、淑やかに階段を上がるリューディアに続く。一階上に上がったが、まだ上へと続く階段に足をかける。もう一階登ると、イレーネはトランクを床に置いて押していく。
 人に見つかれば怪しいのだが、堂々としているため、女王陛下が逃げ出しているのだとは気付かれないだろう。
「ああ、イレーネ様、ステキ」
 ヒルトアリスはむやみやたらと頼もしいイレーネの背中を見つめて呟いた。今回だけは、彼女の気持ちも分からなくはない。
「あんたはそれ以外に言えないのかい」
「だってステキなんですもの」
 誰か一人に言うならいいのだが、彼女は知り合う女性のほとんどにその賛美を送っている。希少性がなければ、何の意味もないのが賛美だ。
「まあ……いいけど」
 言うだけで、手をつなぐ以上の大胆さはない。害はないのだから、どれだけ自分の言葉の価値を貶めようとも、彼女の自由である。


 かち、かち、かち、という、円滑な動きを阻む音を立て、そのダイヤルはゆっくりと回る。
 カロンはルートの首の付け根にまたがり、手帳サイズの機械を操作する。中央には水晶板がはめられていて、それ越しに周囲を見回している。
 かちかち音が鳴るのは、見える次元を合わせているらしい。ほんの少しずれた次元を。もちろん異次元に行けるわけでもなければ、人がそこに入り無事でいられるはずもない。
 彼等は今イレーネ達がさらわれた場所を探している。
 隠されているため、肉眼では確認できない。それを見るには、特別な儀式と道具が必要だ。それをする手間を省くのが、彼の持っているこの装置。カロンのモノクルにも近い能力があるそうだが、主に魔道的な力を見ることに特化しているため、次元のわずかなぶれは見えないそうだ。その点これは、次元の歪みを見ることに特化しているらしい。
 アルファロスは施設を隠すに当たって、次元のずれが発する視覚の湾曲効果を利用している事が多い。次元のずれは人の視覚を歪めるのだ。そう、例えば前を向いているのに、自分自身の後頭部を見る、などと言うことすらある。
 視覚を揺るがすには、周囲の数カ所で、ほんの少しだけ次元を揺るがす力を起こせばいい。わざわざその装置に触れない限り人に害が及ぶことはない。それに触れるには、内側から触れるしかないため、通行人が巻き込まれることともない。
 その歪みを、彼は探しているのだ。
 眼下の暗い森はどこを見ても一見普通で、ハウルの目には何も映らない。しかし水晶板越しに見ると、時折歪む場所があった。歪むと行っても、そこに稲妻でも走ったかのような、奇妙な現象が起こるのだ。だがこれは自然に起こる、無害な現象だそうだ。そう、空に風に砂が混じるような物である。普通の場所なら害はない。これが大規模になると、穴が開く。その先には別の次元があり、偶然そこに生物がいれば──それがアイオーンとなる。
 もちろん、風で例えるならば穴が空くのは竜巻以下の確率であり、さらに向こう側に何かがいる確率は、雨乞いをしてすぐに雨が降る可能性よりも低い。
 理解していても、その可能性を目にするというのは、複雑だ。相手は問答無用で殺される可能性が高いのだ。その前にこちらが死ぬことになるだろうが。
 ハウルはそれを想像すると、ぞっとした。
「うーん。揺らぎが見えると言うことは、このチャンネルで合っていると思うが、中には周囲に影響を与えないこともあるからして……しかしここまで増えていると言うことは、近いとも受け取れるし何とも言い難……」
 ぶつぶつと呟くカロンの後ろ髪を引く。最近はラフィニアを背負う回数も減り、また言葉が理解できるようになってきて、ラフィニアも髪を引っ張らなくなったので伸ばしているらしい。見た目だけは王子様が似合う彼は、髪を伸ばしていても女性の心はがっちり掴むだろう。そして男性には憎まれそうだ。
「なんだね、急に」
「もう少し静かにしろよ。ルートが気にするだろ」
「…………」
 カロンは静かに捜索を再開する。
 彼の研究室を覗くと、機械をいじりながら一人で話し続けていることが多い。彼は根っからの解説好きである。その延長なのだが、捜索を開始してからずっとこの調子で鬱陶しかったのだ。
 空を飛ぶディートリヒも頷いて同意していることから、やはり彼は鬱陶しかったのだ。
「独り言は、殿下の悪い癖ですね」
「ヴェノム殿まで……」
 彼は目だけは働かせながら、振り返らずに抗議した。
「おや……歪みの数が増えたぞ」
 カロンは周囲を見回し、かちかちとチャンネルを微操作する。
「ルート君、もっとゆっくり飛んでくれ」
「そんなことしたら墜落するって」
 この巨体が空を飛ぶのだから、相当な力がいる。飛びやすい速度を崩せば、彼に負担がかかる。分かってはいるが、少し速い。
「おっ」
 カロンの声音が変わる。
「これだ!」
 カロンは叫ぶと、水晶板で周囲を遠くまで見回す。
「旋回してくれ」
「へーい」
 ルートが旋回する最中、彼は握り拳を作り叫んだ。
「った! 見つけた! あちらだ! 旋回しすぎた! そう、そのまま真っ直ぐ約十キロ!」
 背後から覗き込むと、離れたところに歪みが大きく何かを包み込んでいた。それが、アルファロスの施設らしい。
「ああ、お待ち下さいイレーネ様。今すぐにこのディートリヒが助けに参ります!」
 ディートリヒは力強く叫んだ。しかし彼は今、ルートの尻尾に捕まって置いて行かれないようにしている。ルートの背は、大人四人が乗るには、まだ小さいため、彼は本当は置いて行かれるところだったのだが、何としてでもとついてきた。
 吸血鬼である彼は、夜の今ならばそれなりに役に立つこともあるだろう。昼間は子供に拘束されて腕を灰にされられているような、少し情けない吸血鬼ではあるが、本来吸血鬼というのは、高等な存在である。
「とにかく、マディアスが気付く前に助け出さなければな。一度ミスティの外に出てしまったから、感知された恐れもある」
「ししし、しまったぁぁあ!」
 突然ディートリヒが叫び出す。
「どういう意味だ?」
「彼女はマディアスとケンカする度に、家出をしてね」
「女王陛下が家出って……」
「昔は気配を辿って一日で見つけられたそうだ」
「昔からかよっ」
「最近はイレーネの技術も伸びて、気配を辿れないように工夫が出来るようになった」
「つーか、気配でどうやって探すんだよ」
「ミスティには、私が開発した結界装置が使用されている。そのため、マディアスに見つかることはないのだよ」
 ミスティというのは、ミスティック・ワールドの愛称らしい。
「でも、行き先の候補にはなるだろ」
「いいえ。何せ、彼はイレーネが作ったあの施設の存在を知らないからね」
「保護者が知らないのか!?」
「ええ、表立った運営者は、別の者ですからね。イレーネは影の経営者です。ついでに、設計デザイン担当」
「あれは全部イレーネの趣味?」
「そう、イレーネが気に入ったモノをモデルにする。最近も、何かか誰かを気に入ったらしくて、デザイン画に没頭していたようだ。何か可愛いモノでも見つけたんだろうね。彼女は小さな生き物が好きだから」
 ハウルはどこぞの魔道師を思い出した。人とは思えないほど、巧みに魔力を操る世紀の天才。神の僕。その実女好きと可愛い物好きが表裏一体となった二重人格。
 あれほどはひどくないだろうとは思いながら、小動物に囲まれる彼女を思い、小さく笑う。男と違って、か弱い彼女なら似合う。
「そうと知った者が彼女にぬいぐるみを送ることもあるが、飾っているとマディアスが捨ててしまうらしい。だからよけいに、あそこは彼女にとって思い入れがある」
「なんで捨てるんだ?」
「気に入らないからだろう。自分が欲しい彼女にはいらない趣味だ」
「我が儘な男だなぁ」
「我が儘な男だよ。我が儘でもなければ、今の彼はいないよ。研究者というのは、そういうものだ」
 そう言うカロンも我が儘な男だ。
 ラフィニアの事は可愛いらしく、ちゃんと面倒を見ているのでいいのだが、ヴェノムに預けていることも多い。彼の実験は危険なこともあるそうだ。
 時々、彼はうっかり仕事着で戻ってくることがあるのだが、その姿はどこの危険地帯に行くのかと、むしろ炎の中に特攻する気かと問いただしたくなるようなものである。何をしているかは、謎に包まれている。彼の家は、彼にしか行けないのだ。
「ルート君、あと少しで上空を通り過ぎる。その時揺らぎの中に入るから、ゆっくり飛んでくれ」
 ルートは言われたとおり、ゆっくりと飛行した。
 やがて視界が揺らぎ、そこには突如として巨大な建造物──城塞が姿を表した。松明でかろうじて薄く照らされたそこは、古びて不気味であった。少なくとも、女王が滞在すべき場所ではない。
 規模は城塞としては平均的なものだろう。昔は頻繁に大きな争いが起こっていたらしいので、こういうものが数多く残っているらしい。もちろん今でも小競り合いはあるし、軍事施設は数多くあるが、使われていない古いものも多くある。
 それが故意に使われなくなった可能性は、それほど低くはないだろう。現にこうして、古く忘れられた建造物が隠されて占拠されている。
「さて、イレーネ達はどこかな」
「忍び込むのか?」
「当たり前だよ。私を何だと思っているんだい?」
 ハウルはしばらく考え、
「ドロボウ」
 ラァスがいなくなって最近活動が目に見えなくなったため、うっかりと忘れていたが彼は宝石専門の盗賊である。
「怪盗といいたまえ。不幸にして捕らわれたかの美姫達を救い出すのが私の使命なのだよ」
「欲しいだけだろ」
「イレーネは至高の宝。この世で最も控えめでその実存在感の大きな宝石」
「それ……褒めてるのか?」
 宝石に例えるなら、もっといい言葉がある。確かにイレーネは地味な顔立ちをしているが、それを表現することはない。
「彼女は彼女であることが、最も魅力的なんだよ。もしも男性だったら、連れ去ってしまいたいね」
「はは……」
 顔だけを見ているというわけでもないのだろう。彼が気にかける男性の大半が、美男子であることを抜きにして考えても。
「しかし、ルート君が着地して見つからなそうな場所はないようだね」
 通り過ぎて城塞が見えなくなると、カロンは機械を荷物の中にしまい込み、腕を組んで考えた。
「ルート君、私たちは飛び降りるから、もう一度上空を通過してくれ。君は、小さくなって森の中に潜んでいてくれると助かる」
「了解。みんな気をつけてね」
 ルートは旋回し、もう一度あの結界の中へと突入する。
 カロンは迷わずルートの背を蹴り、ハウルも続く。
「いってらっしゃい」
 と、ヴェノムだけは手を振って見送った。彼女が実戦に参加しないのはいつものことであり、彼等だけで問題がないという、確信と信頼が合ってのことだろうが──彼女は、一体なぜ何のために、ここまで来たのだろうか。
 いざ聞いてみれば、ドレスを着ているので飛び降りたくないという、単純な理由なのだろうが、すでに二人が消えてしまった空を眺め、ハウルはため息をつきながら城塞の屋根に着地した。。


 外が見えた。
 暗い外。一番初めに行動を起こした頃は黄昏の暗さであったが、今はとっぷり日も暮れ宵闇が支配している。外は月明かりがなく、歩くのも難しいだろう。曇っていて、星明かりすらないのだ。昼間はディートリヒの肌を焼くほどの日差しであったが、山の天気は移ろいやすい。一雨来る前に見つからないような場所に非難できればいいのだが。
 現在は深夜とまでは行かないが、皆どこかにこもって飲み食いし、遊んでいる時間だ。見張りの者しか外を歩いていない。脱出には好都合だ。
「おい、待て。何だその荷物は」
 トランクを押しているイレーネは、仮面の男に呼び止められた。皆例外なく仮面を身につけているのだが。
 内心では舌打ちをしながらも、振り返り、声音を変えて彼の質問に答えた。声を変える訓練は受けている。どこに放り出されても、自力でどうにか出来るような、あまり王族らしからぬ訓練を一通り受けているのだ。もちろんマディアスの意向だが、役に立つ時がたまにあるという事実が嘆かわしい。今回に限っては、ほとんど護衛も付けずに家出をした彼女にも問題があるため、大きな事は言えないだろう。彼女の優秀な護衛達も右往左往してそろそろ気付いただろうマディアスの叱責を受けているだろう。彼等には悪いことをしてしまった。
「なんでもございません」
「なんでもないわけがないだろう」
 わけもなくトランクを押す女などいないだろう。
「ご主人様が外に持てと」
「主? どこの誰だ?」
「それをお聞きになるのですか?」
 曖昧さは美徳である。いくらでも誤魔化せる。
「外…………まさか、バイブレット様がまた何か?」
 仮面の下で、イレーネの顔が強張った。
 頬がひくひくと引きつり、こめかみがぴくぴくと痙攣し、仮面をかなぐり捨てて走り去りたい気持ちになる。
 彼が口にしたのは、この組織の中で数少ない知っている名前だった。そして一番接触してはいけない相手の名前だった。
「どうか、お気になさらず」
「そ、そうか。気をつけてな」
 彼はイレーネを上から下まで視線を往復させ、哀れむように言う。
 彼女たちは何をされるのだろうかと、想像して哀れんでいるのだろう。
 身内にそんな印象を持たれているような、かなり危険な男で──アルファロスの抱える未登録の聖人の一人が、そのバイブレットという男だ。
 もちろん偽名。謎に包まれてはいるが、性格だけは皆知っている。
 変わり者、サディスト、女好き、我が儘、傍若無人、その他色々。
 その上、その聖性はとても攻撃的なものである。
 可及的速やかに立ち去らなくてはならない。そう、一分一秒たりとも長居は無用。
 おそらく、彼の元に報告は行っていないだろう。そんなことをすれば、嬉々として彼がやって来ていたはずだ。彼の危険性は皆が知るところであり、組織内では彼からイレーネのような聖性を持つ女性を守らなくては、という意識すら生まれているように思える。経験上。
 帰ろう、見つかる前に。
 今はヒルトアリスのような『絶世の美女』を連れてしまっている。もしもの事を思うと、ぞっとする。アヴェンダも彼の好みだろう。ひょっとしたら幼女でもいいかもしれない。危険だ。こんなに女性を連れてしまっている。彼女一人ならどうにでもなるが、他人を連れていてはさらに危険である。
「それでは、失礼します」
「ああ、早く行った方がいい。待たせて気分を害してはいけない」
 まるで犠牲者を見るかのような、青い瞳が印象的だった。聖性主義者は真面目な者も多い。彼もその一人だったのかも知れない。
 それを思うとため息が出る。
「バイブレットさんって、偉い方なんですか?」
 ヒルトアリスが耳元でそっと尋ねた。
「そうです。偉そうで、他人を虫けらのように考え、女性を使い捨てにしては、また新しい犠牲者を求め、気に入った相手は手に入れるまで諦めません。他人の女性を寝取ることも好きですし、手に入らない相手を力づくで手に入れることも好みます。そういう、世界で一番嫌な聖人です」
 彼女の言葉に、皆は理解を示してくれたらしく、その瞳には明らかな嫌悪感が見て取れた。
「聖人って……それで聖人名乗ってもいいの?」
「奇跡を起こせるかどうかが問題です。わたくし以外にも聖女は存在しますが、その一人はとある組織の暗殺者であったそうです」
「言葉だけなんですね、聖女って」
 心が清らかで慈愛に満ちただけの人間など、実は何の役にも立たない。残酷さこそ、人々を導くには必要な場合が多いのだ。表に立たせるだけならいいかもしれないが、それだけの人間など少し問題があると騒ぎ立てて、使い道がないのだ。
「聖人など、皆普通の人間です。普通以下かもしれません」
「そんなことはありません。イレーネ様はとても素晴らしいです」
 ヒルトアリスはイレーネの言葉を否定する。彼女の言葉はまっすぐだ。それでいて、非道なことに文句も言わない。その上美人だ。
 彼女のようなら、マディアスは満足したのだろうか。そんな馬鹿なことを考え、どうしようもない現実から逃避する自分の弱さが憎らしくなる
「ヒルトアリス、よく聞いてください。
 彼の特徴は、他の人たちよりもハデで、キザな赤いスーツを身に纏っています。独特のオーラを放っているので、見れば分かります。もしそういう方を見たら、全力で逃げてください」
 危険人物の特徴を、よく教えた。隣に並ぶ彼女は、こくは首をかしげ、前方を指し示す。あとわずかで、外へと続くドアがあるはずの前方を。
「あの……前からそういうような人が入ってきたんですけど」
 イレーネははっと前方を見据え、見覚えのある男を目視し、顔を強張らせた。
 間違いない。ヤツである。
 まずい。回れ右をしなくてはならないが、今すれば怪しまれる。幸い今は仮面を身につけている。身元が露見することはないだろう。なにせ彼はイレーネ達のことを知らない様子だ。知っていれば、態度が違うはずである。
 だというのに──
「イレーネ殿?」
 ヤツの口から、その名が漏れた。
「その体つき、間違いなくイレーネ殿!」
 ──どこで覚えている!?
 イレーネは思わず石でも投げたくなった。
 おそらく、彼の好みに合うのがイレーネの身体だけなのだろう。エステ三昧な彼女は、肌とボディラインだけはマディアスにも褒められる。
「なぜイレーネ殿がこのような場所で、そのような姿を?」
 イレーネはトランクからキーディアを助け出し、念のために用意していたズタ袋に入れて肩に抱える。突然のことで驚くキーディアだが、暴れることもなくなすがままである。
「しかし、その姿もなかなかいいじゃないか! 仮面もよく似合う! さては私のため……イレーネ殿!? なぜ行ってしまう!?」
 さらにアヴェンダを担いで逃げ出したイレーネ背に、バイブレットは手を伸ばす。ヒルトアリスの足が速くて助かった。死体は元よりリミッターがないので、人間の限界をこえるような動きをさせても壊れることはない。
「貴様! なぜイレーネ殿と一緒に走るっ!? 生意気な!」
 生前の記憶からか、死体の男から動揺が伝わってくる。
 バイブレットほど人徳というものと無縁な男も珍しい。
「捕まったらおしまいです。全力で逃げましょう」
「だったら、あたしを降ろした方がっ」
「平気です」
 アヴェンダの運動神経を疑うわけではないが、体力はないだろう。
 剣を持つ二人の手をふさぐわけにもいかないので、二人を運ぶのはイレーネの仕事だ。イレーネの前にわけも分からず立ちふさがった男を蹴倒し踏み越え、階段までたどり着く。
 前方からは見張りがやってきたので、イレーネは階段に足をかけた。
 今はバイブレットから逃げ切ることが一番重要なのだ。

 

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