8話 黒幻の悪魔再び

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 笑っていた。彼女の笑みを見るのはどれほどぶりだろうか。確かラァスが来たばかりの頃以来だ。そう思うと、ハウルは己の祖母の無表情ぶりを思い知る。
「サギ様の周囲でうろちょろとしているだけならともかく、また私の城に来るとはいい度胸です」
 空気すら冷たく感じるその声音は、彼女の鬱積したわだかまりがそろそろと漏れだしているかのようだった。
「……なぜそのような恐い顔を」
「恐い? 私が恐い顔をしていると?」
 エヴァリーンが「ヒューム様、刺激してはいけません!」などと小さく訴えたが、ヒュームには効かなかったようで、続けてこう言った。
「年増女が怒ると、醜くしわが出来るぞ」
 その一言が、ヴェノムの忍耐にとどめを刺した。今まで微笑んでいたカロンは、巻き添えを食らうことを恐れてそそくさとハウル達の元へと逃げ出した。
「マース、また水をかけてやりなさい」
「へ……へい、お嬢さん!」
 今のヴェノムはマースにとっても恐ろしいらしく、主の言葉ではないのに素直に従い水を召喚しようとした。
「ははは、甘い! ヴァルナが嫌がらせのように買ってくるむやみに甘く可愛い土産物の砂糖菓子よりも甘い!」
 嫌がらせをしているということは、ダーナの方が未だにペットを殺されたのを根に持っているのだろうか。主の周囲をうろつく害ある男であるので、普通に嫌っていてもおかしくはない。それでも律儀に土産を買うのはダーナらしい。きっと、旅先で子供向けの可愛い形をした菓子を見つけるのだろう。
「私は前回の水掛けで反省し、友と協力して、そう、私は進化した!
 努力と有り余る才能により、今度は絶対に落ちない絶対焼けない日焼け止めを開発したのだ。そして紫外線を防ぐ吸血鬼専用目薬も改造し、紫外線100%カット、十五時間持続を実現した。例え帽子を脱いでも、目が焼けることはない。
 そう、吸血鬼の絶対的な弱点はこの世から消え、完璧な存在へと進化したのだ!」
 彼は熱く語り続ける。それを聞き流しながら、皆は同時に思う。
 ──ああ、それでイレーネは日焼け止めなんて販売を始めたのか。
 開発期間はかなり短いはずだが、よくぞそこまでやったものだ。動機がこのくだらない対抗心なのだと思うと、そこから莫大な利益が生み出される可能性が生まれることに皮肉を感じる。
「そのことに関しては感謝します」
 実はかなり大きな化粧品会社も経営しているヴェノムは、イレーネと契約して大々的にあの日焼け止めを世界で売り出し始める予定らしい。魔道に関わる物品以外に流通ルートを持たなかったイレーネは、喜んでヴェノムの提案に乗った。来月には、大がかりなプロモーションを始めると聞いていた。
 女商人二人は、着実に仲良くなっている。なにせハウルよりもヴェノムの方がイレーネとよく話しているのだ。
「は? 何のことだ? なぜ感謝などという言葉が出てくる? 年増だと気付かされたのが嬉しいのか?」
 ヴェノムは瞬きもせずに、いつもよりもやや目を大きく開いて唇をひくりと震わせた。今日のヴェノムはとても表情豊かだ。ハウルではあんな表情を引き出せない。なぜか悔しくなってきた。
「しかしそれは白の方の手柄。容赦はしません。マース、こんなこともあろうかと、私の部屋にあれが一リットルあります。持ってきなさい」
「へい、マドモアゼル!」
 マースはこれ幸いと、まるで人間のように走って去っていく。ローシャが手を振って見送り、巻き添えを食わないように自分の花壇に戻った。
「エヴァリーン。貴方達の主に伝えなさい。くだらないことで、こんな不愉快なナマモノを送りつけないでくださいと。サメラ様にも、苦情を入れておかなければ」
 サメラへとの上の一言に、ヒュームはびくりと震えた。弱点があるくせに、人に迷惑をかけるようなことをする彼が悪いのだが、わずかながらに同情を寄せてしまう。彼はこれから、ひどい目に合うに違いない。
「ああ、邪眼の魔女が出てきてくれて良かったよ。どうやって止めようかって、結構悩んでたからさ」
 すっかり部外者のつもりになっているディートリヒが、ハウルの隣に立って話しかけてくる。前回一緒にイレーネの捜索をしたことで、ささやかながら仲間意識を持っているようだ。
「俺も腹が減ったな。食事しようと思ってたところで閉じこめられたエヴァよりはマシだけど」
 異様に顔色の悪いエヴァリーンは、ヒルトアリスに支えられ彼女の血をもらっていた。ディートリヒも男苦手の彼女に血をくれとは言わないだろう。彼女は未だに剣を持っている。ちらとアヴェンダを見たが、その瞬間、彼女は腰から愛用の拳銃を取り出して磨き始めた。彼女は銀の弾丸も常に携帯している。
「カロン、ディートリヒが血を欲しいって」
 カロンは爽やかに微笑み、心得たとばかりにラフィニアをハウルへと差し出そうとした。
「男の血を吸いたいほど飢えてはいない」
 ディートリヒは勢いよく首を横に振る。
「まあ、どうせ男なら、人間よりも神混じりのあんたの方が」
「そういう餌付けするとうちのババアが怒るからごめんな」
「ちっ」
 と、彼はそこでキーディアに目をやった。キーディアは突如出現したダリの手で、ブリューナスへと預けられるとすぐさま消えた。
 彼はヒュームに真の悪魔がどうの最も優れた悪魔は吸血鬼だどうのとくどくどと語りかけられ、キーディアを押しつけられ、いい加減にしろとでも言いたげに唇を一文字に結んでいる。
 ハウルは無視されているヒュームに問う。
「ヒューム、心の底から面倒くさそうに見下されながらも挑んで楽しいのか?」
「楽しいか楽しくないかとかそう言う問題ではない! 我ら吸血鬼を差し置いて、たかが死霊ごときが夏の怪談話を独占する、その現実を打破しにやってきたのだ」
 ハウルはあまりにもの馬鹿らしさに、うずくまって頭を抱えた。
「本当にくだらないことで」
「黙れ乳牛年増。中身まで萎れた貴様に、この情熱など理解できないだろう」
 ヴェノムは無言で近くに落ちていた大きな斧を拾って構えた。
「……私の斧」
 ブリューナスが小さく言うが、もちろん小さくなので届かない。彼も自己主張するつもりはないらしく、隅の方で目立たないようにしている。ヴェノムは彼が唯一、大人しく従う人物である。
「たかが吸血鬼が、くだくだ言いながら人の家の庭に大きなゴミを持ち込んだあげく、土地の所有者に楯突くとは笑止千万。この城は、死霊含めてすべて私の財産です。手を出すなら、それ相応の覚悟はなさい」
 ヴェノムが怒っていた。見て分かるほど怒っていた。表情には出ていなくても、斧を担ぐ姿を見れば、怒っていなくても怒っているように見えるだろう。
「ヴェ……ヴェノム、そういうのは俺が代わりに」
「いいのですハウル。最近身体がなまっているので、ちょうどいい機会です。ラァスがいなくなってから、ずっと大人しくしていましたから」
 本気だ。本気でヤる気だ。
「ヴェノム、斧はないだろ!」
「魔法では城に被害が出ます」
「ドレスだぞ!」
「大丈夫です。昔からの癖で、ドレスの下にはちゃんと着込んでいます」
 どれほど昔からの習性だろうか、とは恐ろしくて言えない。
「ドレス、高いんだろう!?」
「仕立屋が喜ぶでしょう。金は天下の回り物です。使ってこそ価値があるのです。破壊されてこそ誕生があるのです」
 ヴェノムは斧を持った腕をぐるぐると回した。ラァスに力の使い方を教えたのは彼女だ。メディアのような攻撃的な魔力の使い方も出来れば、ラァスのような魔力の使い方も出来る。高い運動能力を持つ魔道師というのは稀であり、だからこそブリューナスを押さえられるのだ。死人というのは、魔力で劣る生き人が魔力で押すよりも、武器を利用した方が有効なのだ。
「ヒュ……ヒューム。今なら謝れば許してもらえるかも知れねぇぞ」
「なぜ謝らなければならない?」
 だめだ。こっちもやる気満々だ。年増女に興味なしという姿勢は崩れていない。
 解決方法を色々と考えたが、どれも止めてくれそうな誰かを呼ぶ、という案ばかりで現実味がない。彼を止められるのは、サメラ達ぐらいである。
 いや、違う。一人すぐに呼べそうな止められる人物がいた。
 ドレスの裾を破り動きやすくなったヴェノムは、斧を持って走り出した。
 斧を構え、魔力を使い重力を感じさせない動きである。
 早く止めなければ。
「ヒルト、ウチのオヤジを呼べ」
「へ?」
「いいから! いつものように愛を込めて、名前を呼べばいいんだよ、ヴェノムのために!」
「は、はい」
 彼女は不思議そうに、それを口にした。
「ウェ……ウェイゼル様?」
「もう少し感情を込めて。あいつをお前の好きだった美女の頃だと思って」
「はい」
 しばしすると、彼女はぽーっと考え事をしだし、それからその名を口にした。
「ウェイゼル様」
 隣ではヒュームが魔法を使用してヴェノムの斧をなんとか自力で避けられる程度にそらしている。魔法を使うヒュームに、魔力だけで魔法は使わないヴェノム。どちらが化け物か分からなくなる。
 ヒュームは簡単には滅びないだろうが、万が一ヴェノムが怪我をしてはいけない。ヒュームのような放置すれば回復する化け物と、例え妖怪じみていても生身の人間を同じに考えてはいけない。やはり何とかして止めなければ。
 これでウェイゼルが来なければ──そう考えていた矢先、突如として春風のような爽やかで心地よい風が吹き抜けた。
「呼びましたか、僕のヒルト」
 季節に合わない花びらとその香りを散らし、光を受けて輝く派手な女が現れる。他人から見れば、彼もああ見えるのだと思うと、髪をもっと短くしたくなった。
「まあ、ウェイゼルお姉さま。お久しぶりです!」
 ヒルトアリスは懲りずに女装するウェイゼルを見て、光に吸い寄せられるようにふらふらと近づいていく。
「お姉さま、大変なんです」
「何が大変なん……って、ヴェノムが大変ですね」
 ウェイゼルのことなど気にもせず続けているヴェノムを見て、彼は何が大変かなのだけは理解した。
「ヴェノム、お転婆なことはやめなさい」
 ウェイゼルに話しかけられ、ヴェノムは掴んでいたヒュームのマントをぱっと離す。しばらく目を離している間に、ヴェノムに捕獲されていたようだ。夜なら霧になって逃れることも出来るだろうが、今は昼間である。
「……何か?」
「何か、じゃあ無いでしょう。そんなに熱くなるなんて……」
 何か思い出したらしく、ウェイゼルは口を閉ざす。
「まあ、十五年ぶりですね」
「思い出すだけで腹立たしいですね。この怒りは、ついでにこの方にぶつけるということで」
「しょうがない。サギの所有物なので、せめて頭かち割る程度ですませなさい」
「分かりました。頭かち割るのですね」
 父は役立たずだった。
「なんて野蛮な女だ」
「他人に喧嘩を売りに来た馬鹿者の言うべき台詞ではないぞ」
 ウェイゼルまで出来たせいか、たまらずブリューナスが口をはさんだ。
「私には崇高な使命が」
「人気を取られて悔しいから八つ当たりに来るのは、崇高なのか」
「吸血鬼の誇りだ」
「なら、自分で売れそうな小説を書けばいいではないか。筆の力は強いぞ」
 その言葉に、ヒュームは何やら衝撃を受けたようで、大げさな身振りをした後固まった。どうやら、考え始めたようだ。
 始まりは本。ならば筆の力で、と本気で考えているのだろう。
「高貴なる闇の貴公子殿なら、その程度の物を書くのはたやすいだろう。なにせ、私の話を書いたのは当時まだ少女だったぞ。ホラー好きなあまり、この城までたどり着いたなかなか勇敢な少女だった。まあ、高貴なる闇の貴公子様は、そんなホラーオタクが書いた物など問題にならない素晴らしい小説を書けることだろうな。なにせ、吸血鬼とは知的な種族なのだろう」
 知能が高いのと面白い小説を書くのはまったく別の才能だが、ここまで言えば彼のプライドを刺激することが出来るだろう。雅文は書けても、それが面白いとは限らない。
「一理ある」
 乗り気である。彼の書く小説など果てしない自画自賛の嵐であることなど、書き上がる前から予想がつくため、別の意味でなら面白いだろうが、小説としては三流以下であることは容易に想像できてしまう。が、彼は信じて疑っていない。
「いやぁ……ヒューム殿が書くなら、地神様のあの姉妹に書かせた方が売れると思うが」
 カロンは引きつった笑いを浮かべながら言う。知っている女性の話題が聞こえ、ヒュームはカロンへと目を向けた。
「地神様の娘君は、それほどの巧者なのか」
「まあ、売れる物は書かれるな。題材にされる方はたまらないが」
 どんな風に書かれるのだろうか。ラァスとカロンも何やら被害を受けたとは聞いているが、二人ともその内容については語らない。
「マディアス殿の写真を見せてやれば、きっと売れる物を書いてくださるだろう。本人達が許可を出すなら、市場にも出せるからきっと売れるだろう」
 ラァスのは全部回収して燃やしたらしい。
 あの羞恥心の薄い彼が絶えられないほどの内容である。きっとすさまじいものだろう。ヒュームはそれを知らないようだ。
「うーん。こんなに身近にそのような文豪がいたとは」
「どちらかが文を書いて、どちらかが挿絵を描いているらしいが」
 どちらがどちらの役割かは聞いてないのだろう。不快な思いをしたため興味もないに違いない。
 これならヴェノムの溜飲が下る結果になるため、彼女もきっと斧を置いてくれるに違いない。
「……で、話はすみましたか。まだ頭かち割っていないのですが」
「まだ野蛮なことを。これだから穢れ女は」
 ウェイゼルがやれやれとばかりに肩をすくめる。見守る者の優しい目をしている。この男はせっかく呼んだのに、何もせずに見守る気だ。
「ヴェノム、小さな子供の前で頭なんてかち割るな! キーディアが心配そうに見てるだろう!」
 キーディアは大好きな『吸血鬼』が頭かち割られそうだから心配そうに見ている。吸血鬼という以上の価値はないだろうが、ヒュームは吸血鬼という価値がある。
「しかし、それでは私の気が収まりません」
「ヴェノムは一度切れるとなかなか熱が冷めませんからねぇ。そんなところも、可愛いんですが」
 ウェイゼルはヴェノムと長く付き合いすぎて感覚がずれてきている。やはり頼りにならない。他に止められそうな奴を必死で考えた。ガディスは別の意味でまた怒り出して収拾がつかなくなる。クリスは呼び出す手段がない。いっそ身近な──
「クロフ!?」
 いつもなら見守っているはずのクロフの姿が見えない。肝心なときに何をしているのだと思ったその時、
「お呼びでしょうか」
 クロフは歩いてドアから出てきた。背後にはマースが、腕には瓶がある。
「あら、クロフが持ってきてくれたのですね」
「マースには見分けが付かないと思いましたので、差し出がましいこととは思ったのですが」
「そんなことはありません。さあ、クロフ。その中身をぶちまけてやりなさい」
 クロフは顔をしかめて、ウェイゼルを見てそしてハウルを見た。
「まあ、それで気が済むんならやってやれ。頭かち割りよかマシだろ」
 ハウルはクロフに言う。顔を顰めるヒュームは、邪魔をするヴェノムを黒い瞳で睨み付けている。
「ヒューム、避けると話が長くなるからな。かぶっとけよ」
「かぶれといわれても、中身は何だ? 私はさっさと勝負を付けたい。
 それにディートリヒ、お前達を連れてきたのは、露払いのためだったはずだが、何もしていないではないか」
「空腹で動けません。ヒューム様の潔さ、ここでしかと見届けさせていただきます」
 本音は馬鹿らしくてそんなこと出来るか、だろう。
 クロフがやれやれと明後日の方角を見て一息つき、壺を浮かせてヒュームに中身を全てぶちまけた。
 中身はオイルだった。
「何だこれは」
「その日焼け止め用も落ちる超強力だけどお肌に優しい『クレンジングオイル』です」
「…………」
 当たり前だが、その後彼は焼けただれ、今度は瓶を頭からかぶせられて、郵便屋にお持ち帰りされた。


「イレーネ様、ただいま〜」
 子供のような満面の笑みを浮かべてノックもせずに部屋に入ったディートリヒは、無邪気にネグリジェ姿のイレーネを抱きしめた。妙齢の女性の部屋に勝手に入ってくるとは不届き千万だが、態度が異様なのでそっと背中に手を回して慰めた。こういうときは、辛い目にあったときだ。
「どうしました。最近姿を見ませんでしたが。またマディアスに変な命令をされたの?」
 彼はともかく、エヴァリーンまでも数日黙って姿を消すことなど今までになかった。だから心配していたのだが、やはり二人ともろくでもない目にあっていそうだ。エヴァリーンはいい血を飲んだのか、他人の生気が溢れているが、ディートリヒはかなり空腹状態である。
「イレーネ様大好き。大好き。愛してる」
「はいはい」
 イレーネは肩に掛かる髪を払い、首筋を出す。彼がこうして甘えるときは、どうしようもなく空腹の時だ。マディアスのせいでろくでもない目にあったであろう彼を多少甘やかすのは問題ない。彼も飲む量は心得ている。一口で十分回復するほど、彼女の血は力に溢れているらしいのだ。
 悪いのはすべてマディアスであり、疲労している彼は被害者だ。
「こら、ディートリヒ! 私よりも先にイレーネの血を吸うとは何事だ!?」
 足音を高く響かせやって来た、マディアスの悪友でありイレーネの頭痛の種その二である、自称黒幻のヒュームが……。
 イレーネは遮光カーテンが敷かれた薄暗い部屋の中で目をこすり、もう一度彼を見る。
「なぜ……焦げているのですか?」
 慣れぬ者が見れば卒倒するような、表現するのも躊躇われるグロテスクな姿をしている。普段は吸血鬼らしい美青年なのが信じられないほどだ。
「年増女を甘く見すぎていた」
「と、年増女?」
 彼は十代の少女であろうと、穢れていれば年増という男だ。その女性が本当に年増とは限らない。しかし、確実に迷惑をかけているだろう。
「ヴェノム殿のことですよ」
 ディートリヒの囁きに、イレーネの顔から血の気が引く。
「ヒューム様! ヴェノム様に何をしたの!?」
「あの年増に用はなかった。用があったのは狂気のブリューナスだったのに、邪魔をしてくれたんだよ。しかしこの日やけ止めを落とすようなオイルが市販されていたとは……」
 察しが付いてしまった。渡したのはイレーネである。持っていて当たり前だ。
「ヒューム様、もう二度とヴェノム様に迷惑をおかけしないでください」
「イレーネ、あの女と知り合いなのか?」
「孫のハウル様と懇意にさせていただいています。邪魔をなさらないで」
 イレーネはヴェノムの様子を想像して、ぞっとした。ヒュームは容赦のない男である。さぞひどいことを言われているだろう。高価なオイルをぶちまける程度には。
 衣服の様子から見ても、おそらく全部つかわれただろう。
「イレーネ、私の薔薇よ。
 ハウルとは、もしやあのキラキラ眩しい髪の男か?」
「ええ、そうです」
「…………風神の息子の?」
「ええ」
「あれを狙っているのか?」
「狙っているなんて言わないでください。親しくさせていただいているだけです」
 それではまるでいたいけな少年に毒牙をかけようとしているようではないか。
「ああ、ハウル様がお怒りでなければいいけど……」
 彼は祖母にべったりの少年だ。彼との付き合いは、母親よりも祖母との関係が大切なのに、選りに選ってこの二人を連れて喧嘩を売りに行くなど……。
「ご心配なさらないで、イレーネ様。ヴェノム様はヒューム様にはお怒りでしたが、イレーネ様のことはむしろ同情心を寄せられていました」
 エヴァリーンの言葉に、なぜだろうか。その様子が目に浮かんだ。
「……ああ、後で謝罪をしなければ」
「お詫びの品は私が手配します」
「そうしてください」
 イレーネは椅子に座り、額を押さえた。
「イレーネがいいと言うなら止めはしないが……風神の息子か」
「ハウル様は風神様のような方ではありません。とても……純情で可愛らしい方です」
 見た目に反して驚くほどに純情であった。イレーネでも誘惑できるような美少年というのは少ない。
「それよりもイレーネ」
 ヒュームはイレーネの側に寄り、焼けただれた顔を近づける。血を飲む気だ。
 頬に触れた冷たい皮の手袋に包まれた手を払い、立ち上がりガウンを羽織った。
「わたくし、今は貧血でとてもヒューム様の舌を満足させることは出来ませんの。どうぞお帰りになって、あなたの至高の白百合から頂いてはいかがでしょうか」
 皮肉を込めて言ったのだが、彼には通じなかったのか、
「イレーネ……気分を害したのなら謝ろう。今度からは、ちゃんとイレーネも誘うことにする」
 と言った。
「そんな常識を疑われる事に誘わないでください」
 どこまでもずれた感覚は、長く存在する者特有の現象なのだろうか。ヴェノムも、少しだけずれた部分がある。もちろん、彼やマディアスのようなものではない、可愛らしいものである。
「さあ、出て行ってください、ヒューム様。食事は適当な者を見繕ってください」
 幸い、彼は乙女が好物であり、血を吸った後に何か良からぬ事をしたり、ひどい扱いをしたりということはないため、安心して夜の街に解き放てる。ディートリヒなどは、美味い血よりも美女がいいというタイプなので、トラブルの元になることもしばしあるため、簡単には夜の街には解き放てない。
「……貧血ならば仕方がない。私の薔薇よ、健やかに。おやすみ」
「ええ、お休みなさい」
 手を振って見送り、しばらく待って完全にいなくなったことを確認し、ディートリヒに血を吸わせた。美女の血にこだわる彼も、イレーネの血は相当美味いらしく、美女でなくても喜んで吸いに来る。もちろん、マディアスには内緒で。
 変な男にばかり好かれていることを自覚しながら、ハウルのことを思い出した。
 彼も、可愛いのだが、少し変わった少年であることは、否定できない。

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あとがき