9話 理の都

 

6

 顔を隠しているとき、彼は妙な安心感を覚える。こういう場所では、ばったり知り合いと出会うこともある。変装していても、知り合いなら見抜くこともあるだろう。
 とくにこういう場所では、怪盗の時よりも敵に発見される可能性が高い。盗むときは夜で、仮装をして、つばの広い帽子とマントで隠している。モノクルにも若干飾りを付けたりしている。それでカロンをカロンと見抜くのは難しいだろう。最近では、若者達の間でモノクルが流行っており、若者であるカロンが身につけていても違和感はない。もちろん火付け役は怪盗セイダだ。
 その正体であるカロンは、現在大切なモノクルを外して、仮面を付けている。ラフィニアは可愛らしいウサギのラーフちゃんの着ぐるみを着て、可愛い眼鏡をかけている。お気に召してくれたらしく、外して捨てたりはしていない。
「ごまかしは遠慮願うよ。君たちのためにも」
「もちろんでございます」
 しかし、なかなか肝心の場所に連れて行こうとしない。ようやく階を下ったと思えば、男は振り返り失礼なことにもこう言った。
「その前に、ボディチェックを」
「必要はない」
 カロンは即答し、鼻で笑う。
「私は武器の扱いは得手としていない。魔術こそが私の力。魔道師にボディチェックなど馬鹿馬鹿しい限りじゃないか? 私は他人に触れられるのは不快だよ。とくにこの子に触れられるのがね」
 ラフィニアの背中には翼がある。この子の顔や存在は知られてもかまわないが、背中の翼だけは知られるわけには行かない。もしも見られたとしても、この時のために玩具の翼を作ったのだ。ちなみに、ラーフちゃんういんぐと名付けたのだが、イレーネにかなり冷たい目を向けられて却下された。
「左様でございます」
 彼は観念したらしく、再び歩き出す。
 途中、これから売られていくのだろう。結界でがんじがらめにされた、小柄な竜が鳥かごに入れられて運ばれているのが目に入った。それに竜が大好きなラフィニアは手を伸ばす。
 心は痛むが、彼の知ったことではない。知り合いならともかく、知りもしない相手のために、危険を冒すほど若くも愚かでもない。
 目的は一つだ。セルスと思われる人魚を取り戻すことだけ。背後からついてくる傭兵や魔道師達など、彼にとっては敵ではない。
 カロンは余裕の表情で周囲を見回し──様子がおかしいことに気付く。
 前方、部屋の入り口がある。だが、ドアは開け放たれている。目を細めてよくよく見ると、誰かが倒れているような気がした。
「何があった」
 案内の男の言葉に、後ろにいた警備の男達が走って確認に行く。
 どう見ても侵入者が通った形跡だ。
「これはいけない」
 生物を持ち去るなど難しいが、得難い価値があるのはセルスだろう。盗みのプロが、獲物を横取りされてはたまらない。
「失礼」
 カロンは走り、男達に追いつく。従業員は見事に眠らされている。前方に見えるドアは、蝶番からやられたらしく外に倒れている。唯一の隙が、そこだったのだろう。いい腕だ。
 カロンは中へと足を踏み入れ、立っている人間が数人いることに気付き──顔が引きつった。
 人魚姫のような姿のセルスと手をつなぐのは、仮面を身につけた黒髪の女。側にいるのは、高いヒールを履いてもなお小柄な黒髪の女。それよりは背が高く、胸の大きさ段違いな茶髪の女。金髪の女も、言われなければ気付かないだろうが、その奥にあるのは金の聖眼。
 ──どうしようか。
 まさか彼女たちが合流してここまで来るとは。
「賊ですか」
 まさか知り合いです、とも言えず、カロンは黙っていた。魔法なしにしても、彼らはヒルトアリスには勝てない。彼女は、あの可憐な容姿でハウルよりも剣技は上だ。その上精霊に好かれている。あまりにも強烈な力のため、身につけている封印を外せば、周囲にたむろする精霊に、お願いすることも出来るだろう。
 精霊使いというのは、そういう人間達だ。
「どうやら、別の手が回っていたようだね。私は彼らでもかまわないよ。人魚は海に戻されるだろうから」
 実際には、セルスも仲良くお祭り見物をするのだが。もちろん今度はしっかりと変装させてからだ。それは、おそらくラァスがやるだろう。カロンも変装は得意だが、他人にさせるのは苦手である。
 向こうでは、カロンに気付いたヒルトアリスが口を開こうとして、アヴェンダに蹴られていた。
 ヒルトアリスは何を勘違いしてか、セルスと手をつないでいる。彼女は二度も男に騙されていることに、気付いてもいない。しかし相手はあの害のないセルスだ。ヒルトアリスに経験を積ませるためにも、自分で気付くまでは放っておくことにした。彼女も、見る目を養う必要がある。セルスには可哀想だが、一人の少女の幸せのためである。
「それとも、彼らをどうにかするかい? 私は手を貸さないよ」
 貸しても取り逃がすだろう。
 勝手に逃げてくれるのを待てばいい。これで余計な出費はびた一文すら払う必要が無くなったというわけだ。魔石を渡したのも失敗だった。そう思っていたときだった。
「貴方は、ここの責任者?」
 そう尋ねる声は、少女の声。誰ぞのようにフードをかぶるその少女は、慌てて被ったせいか赤毛が一房こぼれ落ちているアミュ。
 ひょっとしたら、あれは彼らなりのユニフォームなのだろうか。顔を隠すだけなら、他の面々を見て分かるように仮面だけで十分だ。彼女の赤毛は美しいが、そう珍しい色ではない。仮面さえ付けていれば、目立つこともない。ハウルの髪に比べれば彼女の姿は平凡なものだ。彼が目立ちすぎるだけなのだが。
「それとも──その後ろの人?」
 アミュの問いに、男は振り返り目を見開く。
「ロード!? なぜここに!?」
 案内の男と、護衛達は驚いた様子で頭を垂れるのを横目で眺めた。
 人が背後から近づいてくるのは知っていた。振り返り、予想通りの男がいて、そしてその隣には予想に反する少女がいた。
 金髪碧眼の愛らしいことこの上ない美少女である。
 少女だ。
 ああ、ゲイルかと一瞬思ったが、先ほど部屋の中でゲイルを見たような気がして、慌てて振り返る。するとやはりゲイルはいた。ではあの少女は何者だろうか。
「あれぇ、何してるの?」
 少女はこくんと首をかしげた。可愛い女の子だ。あの胸のふくらみ、そして腰のライン、どう見ても女の子だ。しかし、ロードに腕を絡める少女のその背後には、見知った三人の男がいた。
「って、王子がどうしてここに」
「っていうか、可愛い!」
「うさちゃんか。やっぱ女の子は可愛いなぁ」
 カロンの存在に一人だけ真面目に疑問を口にするカリムに、喜ぶラフィニアを見て相好を崩す残り二人。
 あれは、クロフィアの地神直属の魔法騎士達である。
「…………」
 では、あの胸の谷間まである少女は、やはりラァスなのだろう、間違いなく。どんなわけがあるかは分からないが、彼は今、女の子になっている。
 しかしそれでも彼の愛は健在だと実感した。ラァスに対する愛は、女の子になった程度では揺るぐはずもない。彼はどこまでも彼である。
 そんな思いを中断させたのは、アミュの低い声だった。
「その人が、責任者?」
 冷たい声は、まるで薪のない真冬の暖炉のようだった。いつも暖かな彼女に、こんなことをさせるなど時女神を恨む気持ちも湧いてくる。しかも事の発端はラフィニアだ。
「……賊か。無能な見張りばかりだな」
 ロードは案内の男を睨み呟いた。そしてラァスへと微笑みを向け、口を開こうとした。しかしラァスは戸惑いの表情を浮かべ、ロードからじりじりと離れていく。
「おじさま、何をしたの?」
 その問いに、ロードは初めて動揺の顔を見せた。
「……どうして、彼女が?」
 ラァスの声はわずかに震えていた。演技とは思えない、心の底からの恐怖がにじみ出ている。アミュがいることに対する動揺もあるだろうが、彼もこの場の状況を利用することにしたらしい。
「彼女たちは知り合いかい?」
「存じています。あの方は時女神の尖兵。おじさま、何をなさったら、あの方がこんな場所にいらっしゃるのかしら?」
 ラァスの言葉に、さすがにロードも顔色を変えた。彼も知っているのだろう。時の女神の干渉を。
「時女神の尖兵? 彼らが?」
 ラァスは無言でただ頷く。青い瞳がロードを捕らえ、その瞳には強い拒絶の色が宿っていた。いつも伸びやかな彼のこんな表情を見るのは、なかなかに興味深い。それが演技だと分かっていても、面白い。
「おじさま、ここには何があるんです?」
 ラァスは強い調子で問い、後ずさる。何かに脅えるように。
 その迫真の演技を見て、ロードは悪びれた様子もなく肩をすくめて言う。
「ただの時精だよ」
 カロンは我が耳を疑った。
 幸運の妖精なら、捕まえるのは簡単だ。しかし精霊──しかも数が少なく人の前に姿を現すことなどない時精を捕獲するなど、前代未聞である。
「そんなもの、捕まえられるのっ!?」
「さあ。私はただ仲介だからよく分からないよ。あるから売る。それが商売だからね。私が捕まえたわけでも、私がどうこうするわけでもない。まさか、この時点でそんな大層なお方が出てくるとは思いもしなかったよ。私が知っているのは、せいぜい意識を無くした具神ぐらいだ」
 時女神の使者の意味を、知らぬわけではないだろうに、彼は言い訳もせず、恐れることもなく言う。
 理由は簡単だ。彼はただの仲介者であり、アミュがここにいるのもただの偶然である。本来は捕獲される場面、または、売られて最終的な持ち主の手に渡った瞬間に彼らは動き始めるはずだからだ。彼は運命を動かす歯車の一つではあっても、動かす者ではない。その決まりを知っているからこそ、彼は驚くほど余裕を持っている。そして、今の時点で彼女が出てきたことに驚いた。
「……変な人」
 アミュは小さく漏らした。知っていて恐れないのも珍しいのだろう。彼女に経験など亡いに等しいが、話は聞いているはずだ。活動をしている以上は、聞いていないはずがない。その知識と照らし合わせて、アミュはロードの反応に呆れていた。
 ラァスが取り入る理由も理解できる、有能ないい男だ。ラァスの知り合いでなければ、口説いてみたかったのだが、残念だ。
 アミュは唇から再び感情を消した。
「私は彼女を連れ帰ってもいいでしょうか」
 アミュはちらと背後を見て言う。目元は見えないが、それは分かる。彼女の背後に、すっと白髪の美女が寄り添った。カロンも実物をここまではっきり見るのは初めてだ。時女神やらその配下は見ようと思えばいつでも見られるが、精霊を見るのは難しい。光沢のない白い髪は、銀髪と言うよりも白髪だ。瞳は紫。文献で読んだ時精の特徴そのままである。それがアミュに寄り添った。
「どうやら、本当のようだね。あれだけ火の気配が強いのに、時の使者とはお笑いだ」
「おじさま、失礼ですわ。彼女は火神様のご息女であらせられるんですよっ」
「おや、それは失礼。私にとっては、そちらの方が重いよ。ローラ、もっと早く言ってくれなくては」
 ははは、と笑う彼を見て、ラァスは肩を落とした。
 彼にとって、ロードは扱いにくい部類の男だろう。しっかりと手綱は握っているようだが、いつ振り落とされるか分かったものではない。あまり近づいて欲しくはない、というのが本音だ。ロードは男色の気もあると噂を耳にしている。美しければ、男でも女でも手を出す両刀だと。
 彼にとって、時に少年のような愛らしさを見せるラァスは、理想の少女だったのだろう。
 男なのだから当然だ。
「火女神様。その精霊を連れ帰ることを許可しない場合は、どうなさるおつもりで?」
「燃やします」
 アミュは迷い無く宣言する。それだけの力も、大義名分も彼女は持っている。
「おお、恐い。幼い少女の口から聞くと、なかなか楽しい言葉だな」
 その言葉に、ラァスはロードの腕をぎゅっとつねる。ラァスはアミュをなめ回す視線に怒りを覚えたのだが、ロードは機嫌を良くして彼の髪を一房手に取り口付けた。
「もちろん、君との語らいが一番楽しいよ」
「白々しい」
 ラァスはつんとそっぽを向き、頬をふくれさせた。緊張感のない二人だ。
 そんな二人のやりとりが、いつものカロンとラァスに重なり憎らしくなる。
「まあ、そちらの精霊はお返ししましょう。どうせ危険にさらされるため、売る相手に困っていたところだ」
 時の加護は魅力だが、危険すぎて誰も買わない。いても加護をくれるとも限らない。それならばもっと現実的な人魚の方がいいだろう。
「ところで、一体なぜ商品が外に出ている? 人魚は時には関わりを持たないはずだが」
 ロードはヒルトアリスと手をつなぐ、女装させられたセルスを見た。どうせ食ってしまうのだ。女である必要もないが、美しい者を食らうことに快感を覚える変態が存在するのも事実だ。
「彼の一族は私の主の恩人」
 そういえば、すっかり忘れていたのだが、サメラはとても病弱で死にかけていた。それを助けたのがラフィニアだが、そのラフィニアの卵を守っていたのがセルス達だった。
 つまりはセルス達があの姫君を助けたと言うことになる。恩を仇で返すこともいとわない女神だが、必要が無くなればそうでもないはずだ。
「連れ帰るが、よろしいですか」
「それは時には関わりのないことか?」
「私自身の判断です」
「炎の女神として?」
 その言葉に、アミュから不機嫌が漂い始めた。彼女は父親にかかわるととたんに不機嫌になる。いつも静かで我慢強い彼女のそういう姿は、なかなか微笑ましい。
「私一個人として」
 人として、とは言わないようだ。サメラの元に行ってから、彼女も自分が人とは異なることを痛感することもあったのだろう。
 時折彼女にも会っているが、短期間でずいぶんと大人びた。大輪の花に添えられる、小さくも可憐な花のような笑みを絶やさない少女だったが、それが少し変わってきた。彼女はずいぶんと大人びた。
 ラフィニアも、ヒルトアリスのように物腰が上品で、アミュのように穏やかで、イレーネのように賢く、アヴェンダのように面倒見が良く、メディアのように芯の強い女性になってくれればと思うのだ。さらにゲイルのように動物からも好かれる女性になれば完璧である。もちろん、そこまでは求めていない。求めすぎるのは子供にプレッシャーを与えてしまう。
「一個人、ですか。それは神の意志よりも恐ろしい。神の理に縛られない神混じりほど恐ろしいものはないよ」
 彼はくくくと笑い、目を細める。
「高かったんだぞ、彼は」
「もう、おじさま! 誰に向かって言っていると思ってるんです!? 道を空けることが先決でしょう! お金の事なんて気にしている場合じゃないでしょう!」
「珍しく動揺しているのか? そんな顔も可愛らしいよ」
「どうしておじさまは動揺しないんです!?」
「長くこの商売をやっているとね、色々と危ない橋も渡るんだよ」
 どんな危ない橋を渡れば、時の女神に関わることに動揺しないというのだろうか。もっとも、格好付けで有名な彼のことだ。動揺を押し隠し、平然を装っている部分もあるのだろう。
「それに彼は、目玉商品だった。まあ、命は大切だから、どうぞお連れ下さい、火女神様」
 アミュは静かに頷き、精霊の手を取る。アミュは俯いたまま、ヴェノムに似た紅の唇を開く。
「では、帰りを待っています。ごきげんよう」
 と、彼女は一瞬炎に包まれ、姿を消した。
 呪文も魔法陣もなく、神のようにあっさりと転移してしまった。神なのだが。
 ──早ハウル君を越えてしまったか。それともハウル君が人としての自分に固執して全て封じてしまっているか……。
 残されたセルスは、きょとんとして首をかしげた。今の会話では、アミュがセルスを連れ出してくれる雰囲気だったが、自分の足で帰ってこいということだ。
 残された面々は戸惑う。彼女の正体を知る者はそれはそれで戸惑い、知らなかった者は当然戸惑う。しかし一番初めに立ち直ったのは、知っている二人だった。
「……帰りましょうか」
「そうだね」
 メディアとゲイルが肘で突き合い、アミュの元へ帰るべく足で歩き出した。当然のようにカロンへと近づき、横を素通りする。そして
「どきなさい」
 メディアは人が眠りこける部屋の真ん中に立つ、ロードとラァスに言い放つ。ラァスはロードの手を引いてさっと道を空けた。通り過ぎようとした瞬間、メディアはばっとラァスを凝視する。
 その胸を。
「……………………」
 メディアは何か言おうとしたが、何とかこらえて前を向き、動揺した足取りで前に進む。何もないところで転びそうになったりと、実にメディアらしくない歩みを見て、やはりラァスの胸が本物に見るのは、カロンだけではなかったのだと安堵した。
「では、私も帰らせてもらおう。ラフィ、バイバイ」
「ばいばい」
 ラフィニアはバイバイと手を振り、笑顔を振りまく。他者を摂理のごとく魅了する愛らしいこの天使は、その方法を生まれながらに知るように愛らしく笑うことが出来る。
「ばいばーい」
 ラァスが相好をくずし、デレデレと笑みを浮かべながら手を振った。今日のラーフちゃん着ぐるみが最高に愛らしいのだろう。
「君は子供が好きなのかい?」
「だって可愛いんですもの」
「もう少し成長したら、作ろうか? 私と君の子なら、もっと可愛らしくなるんじゃないかな?」
「もう、やだおじさま」
 やだというよりも、不可能だ。今なら可能かも知れないが、彼は普段は男の子である。
 カロンはくつくつと笑いながら、手に入れられると思い込んでいるロードをを哀れんだ。
 そして同時に、我が身を振り返りため息をつく。
「ラフィ、兄様は頑張るよ」
「ばる?」
 首をかしげると、ウサギの耳が垂れる。
 ラフィニアは今日も今も次も明日も、最高に愛らしいのだ。


「たっだいまぁ〜」
 ラァスは手をあげ、皆に挨拶をした。ここはカオスの部屋である。執務室であり、会議室になることもある。人がそれなりに集まることも出来て、外に会話も漏れない場所らしい。
 多少遅くはなかったが、まだ月のある内には帰ってこられせいか、皆そこにいた。知らない少年少女達もいるが、塔の関係者だろう。きっとあの場所にいた人達だ。キーディアはもう寝る時間だったようで、ソファに腰掛けるヴェノムの膝枕で眠っている。メディアの母、聖女アルスと保護者ミンスはこの場にはいないようだ。つまりは、カオスとヴェノム以外は皆子供である。
 本当は引き止められ、それこそ子作りに誘われそうな雰囲気だったが、連れていった騎士三人が、あまり遅いと皆が心配すると言い、抜け出すことに成功した。もちろん、後をつけられたが、そこはラァスが三人に指示を出し、見事に撃退してから帰ってきた。元腕利き暗殺者を尾行するには、未熟だった。もちろん無能というわけではなさそうだが、ロードの部下の人材不足ぶりには同情を禁じ得ない。
「誤魔化すのに大変だったよぉ、さりげなくアミュのこと聞いてきてさぁ。こいつ等含めて鬱陶しかった」
 はははと笑いながら、ラァスは背後に立つ騎士達を指さし部屋を見回す。もちろん、彼らには本当のことを話した。彼らはある意味、時女神の配下でもある。地神を通して必要なときにかり出されるのだ。
 どういうわけか、知り合いの皆がラァスをじっと見つめている。顔ではなく、胸を。もう一度説明したハウルとヴェノムは普通に顔を見ているが。
 この奇妙な状況を打破すべく、彼はセルスへと笑みを向けた。
「あ、セルス。無事に帰ってこられて良かったわねぇ」
「え……あの」
 セルスは頬を赤らめ視線をそらした。昔彼はラァスに一目惚れしたことがある。それが女になって帰ってくれば、戸惑いもあるだろう。その隣には、しっかりと手をつないだヒルトアリスがいる。
 カロンのお仲間だと聞いていたのだが、彼女もセルスの見た目に騙されてしまったようだ。ラァスを女の子と思っていたようだし、その上を行く女顔のセルスに騙されるのは当然だろう。可哀想に、誰も忠告していないようだ。
「アミュもお疲れ様」
「ラシィがいてくれて、とても良かった。一人だったら殺していたと思うから」
 そう微笑む彼女を見て、ラァスは胸の痛みを覚えた。
 出来ることなら、彼女にこんな仕事をさせたくない。無闇な殺生を嫌う彼女に、こんな仕事をさせてはいけないはずだ。ラァスが逃げ出してきた道を、彼女に歩ませたくはない。そう思うが、実力がそれに伴わない。彼女の代わりに活動できるほど、彼は人間離れをしていない。
「あの人は、ラシィの大切な人なんだよね?」
「ああ。あの人顔も広いし何でも買ってくれるし、何よりも情報タダでくれるから使えるけど、別に大切じゃないよ」
 騎士達の視線が後頭部に突き刺さる。先ほどまで楽しげに売られていく生き物を眺めていたのに、それはないとでも思っているに違いない。
 あの男は大物だが、紳士の皮を被っているから、避けるべき所を避ければケダモノの素顔を見せることもない。バレたら恐いが、慎重になれば扱いにくい男でもない。そろそろ手を切る必要があると思っていたのだが、今回のことでそれを痛感した。有能すぎて、いつか身元が割れてしまいそうだ。人材には不足しているらしいのが幸いだ。
「ロードを手玉に取るなんて、まるで若い頃の僕みたいですねぇ。実に頼もしい」
 カオスは頬杖をついて笑う。カロンのような爽やかさはなく、力ないその表情や仕草には、妙に艶があるのだ。ヴェノムの昔話を聞いているだけでも、女性には不自由をしていないことはわかる。さりげない仕草でこれなのだ。メディアも苦労する相手を選んだものである。今からでも真面目なハランに乗り換えればいいのにと、心の底から思った。
「カオス……カオスにもそんな趣味が!?」
 メディアは別のところに引っかかりを覚えたらしく、信じられないと首を横に振った。女装などしていたのかと、彼女は言いたいのだろう。
「まさか。いい男には、何もせずとも色々と集まってくるんですよ。いい人材から、幸福やら、災難やら。それを上手く利用できるのが、出来る人間というです。彼女には、そういった才能があります」
 カオスは気の抜けた顔を引き締め、昼間の人の良さそうにも見える胡散臭い笑みを浮かべる。
「……そう。それはそれは」
 メディアは今更取り繕うカオスに呆れながら腕を組む。カオスはまだ信用を取り戻していないようだ。何気なくあんな表情をしてしまう男を、女が信用できるはずがない。
 その人材が美女であったり、幸福が贅沢な暮らしや快楽であったり、不幸というのが不倫相手の旦那が出てきたり、本命に見つかるのであったりする可能性もあるわけだ。メディアもようやくそれに気付いた──いや、ヴェノムに教え込まれた成果である。
「……そ、そんなことよりも、みんな集まって何してるの? 僕の帰りを待つような人達じゃないと思うし」
 そんな時間があれば、好き好きに行動しているようなタイプだ。
「みんな君を待ってたんですよ」
 カオスは胡散臭い笑みのまま、両手を広げて言う。
「ど、どうして? いつもならそんなことしないのに」
 そう、いつもなら、みんな好き好きに寝たり本を読んだり勉強したりしているのだ。それが、なぜ今日に限ってただ待っていたというのだろう。彼らはどう見ても、本を読んだりなど、その手の他ごとをしていない。
「裏組織のボスの所に行った聖人が帰ってこないっていうのは、かなり大事だと思うんですけど。地神様に信頼されて預けてくださったのに、妊娠させましたとかなったら、もう責任問題じゃないですか」
 言われてみればその通り。無事貞操は守ったからいいものの、未来の大神官が地神に無理矢理女にされて襲われましたなど洒落にもならない。
 もろちん今のラァスはラシィであり、大神官候補ではない。しかし、魔法で目の色を変えてもらっているが金の聖眼であることには変わりない。それはこの騎士達も知っている。この瞳を青くしてくれたのは、カリムなのだから。
 カリムが変装用のこの魔法を知っている理由は定かではないが、それに甘えて彼にかけてもらった。
 今思えば、彼が死んでいたらこの聖眼も露見して危なかっただろう。一番身元が割れやすい特徴である。そしてロードにバレた場合、今度は逆に利用されるのだ。なんと恐ろしい。
「あ、明日からはお兄様として男装して活動するわ。そうすればチカンも変態も平気でしょう?」
「そういう問題じゃないんですがねぇ。ラァスも痴漢にあうでしょうし。
 まあ、無事に帰ってきて何よりですよ。今回の祭りは、三人もの聖人が集まる特別な年です。しかも、剣の長もいらっゃることになっている。こちらも色々と緊張しているんですよ。危険なことはしないで下さい。さもないと、出番が来るまで塔に押し込めますからね」
 白く永遠に続く回廊を思い出し、ラァスは顔を顰めた。
 そして、剣の長という言葉に意識を移す。一瞬分からなかった、ダリミオンの剣、つまりは世界一の傭兵ギルドのギルドマスターが来るようだ。噂は聞いていたが、本当に手を組むのだと改めて認識する。
 世界一の魔道組織と、傭兵組織が協力する。その結果が何を生むのか、ラァスは考えるのも放棄したくなった。もちろん、大きくは変わらないのだろう。別に統合するわけではないのだ。手を貸し合うだけだ。
「貴方でも緊張するのですか?」
「いやだな師匠。僕だって人間ですよ。問題が起きたらどうしようとか思っていた矢先に、未来の大神官様が女体化ですよ。バレやしないか冷や冷やものです」
 ラァスは後ろに立っている三人の騎士達を意識した。幸い、彼らはラァスではなく代理のラシィが来たという意味だと思ったのだろう。ラシィは魔力を封じられただけで、ラァスはもっとひどいことになっているので、妥協案として彼女がここにいることになっている。
「問題ないでしょう。ラァスも普通にしていれば女の子と間違えられるのです。ラシィが男装しても、大差ありません」
「あの師匠、それはちょっとひどい……」
 それでは『ラァス』が可哀想だと思わないのだろうか。同一人物とはいえ、女の子になれば多少は顔立ちも違うし、体格も違う。女装するには苦しいコルセットが必要だし、男装するには胸を締め付ける必要がある。
 どちらもそれなりに大変だ。もちろん、男が女の格好をする方が大変だ。女性でさえ苦しいコルセットを、男がくびれを作るために身につけるのだ。苦しいに決まっている。子供の内はまだいいが、大人になったら今の方法は不可能だろう。
「ラァスかぁ。今頃どうなってるんだろうな」
 ダリウスが呟き、デリックが頷く。
「人間に戻れてるといいな。そうすればラシィが男装なんてことにはならないのに」
 どこまで不幸なことになっていることになっているのだろうかと、ラァスは頭を抱えたくなった。流砂に任せたのが間違いだったのだろう。できれば儀式の時には男に戻りたいのだが、説得しているのが流砂で、その相手が父親のクリスだ。喧嘩して成果を得ずに来るかも知れない。
「師匠、どうにかならない?」
「…………そうですね。ウェイゼル様が来たらお願いしてみてはいかがですか? おそらく、そのままの方が可愛いとおっしゃって、何もしてくださらないでしょうが」
 背後で『可愛い生き物になっているのか』とか『ブタになっているって聞いたけど』とか『ブタも可愛い物ですよ』とか聞こえるのだ。彼らはラァスがブタになってもいいと思っているに違いない。ラシィがブタになったら全力を尽くしてくれるだろうが、男であるラァスなどどうでもいいに違いない。ラァスだってそう思うのだから。
「ところで」
 メディアが呟き、ラァスの元へと歩み寄る。
「なぁに?」
 彼女の目が据わっている。約束の時間に行かなかったことを怒っているのだろうか。そう思った瞬間、彼女はラァスの胸を鷲づかみにした。
「…………な、何?」
 問う言葉を無視して、メディアはラァスのドレスの胸元を引っ張った。当然胸元は露わになり、デザインと寄せて上げる機能で選んだレース使いの高価なブラジャーに包まれた胸が露わになる。背後から、騎士達が覗き込むのが分かった。
「なっ!?」
 驚き裏拳で男達を撃沈するラァスをさらに無視して、メディアはまた胸を掴む。
「本物!?」
「本物だよ!」
 詰める必要がないのに、詰め物をするはずもない。ただ一度のチャンスを、思う存分有効に活用している。詰め物などという無粋な物を使うはずがない。
「くっ……」
「メディアちゃん、ひょっとして、ぼ……私の胸の方が大きくなって、嫉妬してる?」
「っく、うるさいわね!」
 やはり、メディアも成長の兆しを見せない胸のことで悩んでいるのだ。一つしか年の違わないアミュが、顔だけではなく胸のサイズでもヴェノムを追っているのを知っているから、余計に焦るのだろう。
「大丈夫よメディアちゃん。全部カオスさんに任せれば」
 ラァスは彼女の手を取り、私は純粋無垢な穢れ無き乙女ですとばかりの笑みを浮かべる。
「どうしてカオスが出てくるの? まさか……カオス……胸の大きくなる呪い何てあるの!?」
 ずれた発言をするメディアを見て、カオスはクスクスと笑う。ここにアルスがいたら、きっとラァスは殴られていただろう。ラァスも相変わらずその手の知識に疎いメディアが可愛くて笑う。
「そんな呪いはないよ、メディア。それよりも、皆、そろそろ寝なさい。ラァ……シィが帰ってきたんです。もう心配はないでしょう。明日からは忙しくなるんですから」
「……それもそうね」
 メディアは誤魔化すように肩をすくめるが、その頬は赤い。必死になってしまった自分を恥じているのだ。
 ラァスは胸元を綺麗になおしながら、ふとアミュを見た。彼女はいつものように微笑んでいる。
「アミュ、明日からは楽しもうね」
「うん。でも、今日も楽しかった」
「それは良かったわ」
 あれで楽しかったというなら、本当に良かった。ロードが愚かな物知らずでなくて、この時ばかりは良かったと心の底から思う。
 彼も、これからは商品を選ぶだろう。もしも次があれば、殺されることは理解しているはずだ。つないだ手は、ずいぶんと湿っていたから。
 余裕の顔を見せながら、きっと彼は脅えていたのだろう。
「じゃあ、おやすみ」
 ラァスは手を振り、カオスの部屋の前で別れた。
 ラァスが向かう先はもちろん、去年と同じハウルの部屋だった。



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