10話 砂を吐くほど甘い夜
2
「ここに座って」
部屋にある二つの椅子の内の一つにアミュを座らせ、ラァスはその前に座り込む。一度にっこりと笑い、そして予告も無しにアミュの手を取り口付ける。
「可愛い人」
その微笑みは、女の身になったはずなのに、いつものラァスよりも男らしく感じた。アミュもそれを感じ取ったのか、動揺する気配を見せた。
あのアミュがだ。
メディアは衝撃を受け、ごくりとツバを飲んだ。
「君のその眼差しが、君のその熱い吐息が、僕の心を惑わせるんだ」
見つめる瞳はただひたむきに。他の全てを忘れたかのようなその視線は、ただ一人に向けられている。
「僕の可愛い人。僕の女神。星のきらめくそ明け空の瞳に、どうか僕を映してほしい。君の瞳の星は、夜空の星よりもなお美しい」
もう一度、手の甲に唇を落とす。
「僕の胸は君を思う度に熱くなる。太陽ですら僕の心をこれほどまでに焦がしはしない」
アミュが居心地悪そうに身動ぎする。顔は引きつっていた。
「君に触れられるのなら、炎の中にも手を入れるよ」
そう言って今度は人差し指に唇を落とす。見上げるのは金色の瞳。戻ってきた時は青い瞳だったが、今は元に戻したようだ。
アミュは思わずといった様子でうう、と呻く。うっとりと眺めたりしないが、頬は瞳のように真っ赤だ。アミュが徐々に弱ってきている。
「夜空の星は無理だけど、僕らの家を星よりも煌びやかな宝石で飾ろう。ああ、君の瞳の石と、僕の瞳の石を並べて飾ろうか。だとしたら、その間に置く石は、何色になるだろうね?」
つまりこれはプロポーズと言うことか。メディアはこの男の長々とした台詞を聞きながら、額の汗を拭う。これを向けられているアミュは、さぞ辛いことだろう。メディアなら始めの方で暴れている。
ラァスは顔を上げて、椅子の背に手を置いて少し身体を上げた。
「ららら、らぁすくんっ!?」
「穢れた園に咲く穢れ無き人。白き薔薇のうなじに花を」
「ええ!?」
ラァスの顔がアミュの髪をくぐり、首筋にキスをした。その間アミュは固まって、動いていたのは何度も開閉する唇だけ。
「君の赤き薔薇の唇で、僕の心までとろけさせてはくれないかい?」
ラァスはさらに顔を上げて──
「っっっ!?」
アミュが悲鳴にもならない声を上げた。
顔が近づき、しかしメディアは友人のピンチと気付いたときには既にパニックを起こして杖を取り落とした。
ラァスの手がアミュの頬に添えられて、彼の顔が少し傾く。
──ほ、本当にするの!?
するだろう。あの男にとってはキスは挨拶代わりである。
そう思った瞬間、動いたのはアミュだった。
自分から前に出て、ごすっと音が出るほど激しい、それはもう激しい頭突きを食らわせた。
「あちちちっ」
痛みよりも熱の方が強かったらしく、ラァスは額を押さえて蹲る。
メディアは情けない姿を見て呆れてため息をついた。先ほど焼かれてもいいと言っていたような気がするのだが。
「見事な口だけぶりね」
「だって私はか弱い女の子だもん」
こんな時ばかり、彼は現在の性別を盾にする。
「あ、太陽云々は、平さんの作品のごく一部を拝借して、炎に手を入れるところはササキさんって人の案。星と宝石はトムさん。改造しまくったけど」
ラァスは楽しげに笑い、その笑顔でアミュは我に返って騒ぎ出した。
「ら、ラァス君!? だだだた、大丈夫!? 火傷は!?」
アミュが混乱して、右往左往しはじめた。
自分がラァスに攻撃するなど信じられないのだろう。たまには噛みついてやればいいのだ。女にはその資格があり、男はそれを受け入れる義務がある。
「大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけだから。それとごめんね。びっくりしちゃった?」
額がほんのり赤いラァスは、笑顔でアミュへと顔を近づけた。
受け入れてはいるが、まったく懲りていない。
ふと、メディアの脳裏にハランの姿がよぎった。
「火傷!? 赤くなってる、火傷!?」
「大したことないよ」
「ごごご、ごめんなさいっ! 大切な顔がっ」
「大げさだなぁ。それにアミュになら何をされてもかまわないよ」
「でも、ラァス君の顔は商売道具だしっ」
「もう、アミュったら混乱しているの? 私はラシィよ」
アミュははっとして騎士達を見た。しかしもう一度ラァスの顔を見ると、邪眼を潤ませた。
「でも、ラシィも宝石を生む微笑みだしっ」
「あらありがとう。
でもアミュは、宝石を光らせる光そのものよ。私はアミュの光があるから今輝いているの。アミュは月を照らす太陽のように、いつまでも私を輝かせて」
続けている。頭突きを食らわされて、額を赤くして、まだ続けている。
ふざけている振りをしているが、本気なのだろう。本気で勝負に出たのだ。
「私の言葉はお兄様の言葉、私の唇はお兄様の唇だと思っていて。私もお兄様も、アミュのことを心から愛しているわ。ちなみにさっきのはてふてふ婦人から頂いたお言葉を大改造してみたの。出来ることなら全部劇的びふぉーあふたーな様を紹介したいぐらいだけど、時間がもったいないから割愛するわ」
今度は紛れもなく女の子の笑顔なのに、アミュは再び動揺のあまり身を引いた。
男でも女でも、ラァスという人間が持つ独特の魅力は変わらない。男の時も女として魅力があったし、女になっても男としての魅力がある。
それを理解して、最大限利用しているのが彼だ。
そして好意を寄せているアミュに対して、必要とあれば彼はそれを使うのを迷わない。
ラァスは突然くとると振り返り、首をかしげてハウルへと問う。
「で、わかった?」
「…………うん、お前には恥がないことだけ理解した」
「もう、駄目でしょ!
男ってのは、羞恥心を心の奥に封じ込まなければならないときがあるの! 女の子のためなら、我慢するの!」
「そこまで出来るか」
「もう、君のためにみんなの前で恥ずかしいのにやったんだよ?」
「ノリノリだったじゃねぇか!」
「アミュを口説くんだもの。本気で口説かなきゃ失礼でしょ」
ラァスは本気のようだ。ハウルは視線をそらしメディアと目が合った。そしてどういうわけか目を見開き、硬直する。不審に思ったメディアは振り返り、彼の行動の全てを理解した。
いつの間にか無言のヴェノムとカオスが騎士達の後ろに佇んでいた。騎士達もようやく気付いたらしく、慌てて動いて互いの足を踏み合った。
「ラシィ、一体どうしたのですか? 先ほどから聞いていれば、みんなの前でアミュを本気で口説いて」
ヴェノムはいつもの落ち着いた声で問う。
「ハウルは女の子の前だと緊張してあまりよく話せないでしょ? だからあれぐらいの台詞を練習して、本番で少し落ち着いた台詞を言わせようと思って。明日は当然の如くイレーネ様とデートだし」
予定など立てていないはずだが、ラァスの中では決定しているらしい。
「まあ、ハウル。貴方がそんなに積極的だとは思いもしませんでした。私も協力しましょう」
「じゃあ師匠。ぜひハウルに口説かれてあげてください。私じゃあ恥ずかしがって何も言えないんです」
「なるほど。ではハウル。この師をイレーネ様だと思い、思う存分口説きなさ……ハウル、どこへ?」
窓を開けて外に飛び出たハウルの背へと、ヴェノムが手を伸ばす。ラァスは憤慨しながら夜空へ向かい、このヘタレ男と叫んでいる。
ハウルにそんなことを求めるのが間違っている。普通の男でも、ラァスのような言葉を口にするのは躊躇われるだろう。そして気色悪さに殴り倒したくなる。あれはラァスだから許されているのだ。
「ハウルは駄目ね。私では手に負えないわ。
もうぶっつけ本番ね。心得は出来たでしょうし」
と、ラァスは突然ハディスへと視線を向けた。
「次はハディスよ。りぴーとあふたーみぃ!」
ラァスは自分を親指で示しながらハディスに言うが、彼もまた窓から逃げだそうとしていた。
「そう。じゃあ僕から伝えておくね」
「待て! 何をする気だ!?」
今まさに飛び降りようとしていたハディスは、目で捕らえられぬほどの速さでラァスへと詰め寄った。
「ん、何って、君の悩みについて、ゲイルちゃんと相談を」
「やめてくれ、何でも復唱するからやめてくれ」
「あら、そう? じゃああとで練習しましょうね」
ゲイルがきょとんとしてラァスを見つめて、つんつんとメディアの肩を突く。
「あとでネタを聞いておいてよ。ハディスがあんなになるような脅迫ネタって、すごく気になる」
「ああ、そうね」
お前のことだと言ってやりたいが、何も敵を作ることはない。後ではぐらかそう。
ラァスは満足した様子で、握りっぱなしのアミュの手を胸の高さまで上げた。
「そうだ、アミュ。私達は私達で明日デートしよう」
「でーと?」
「いや?」
こくりと首をかしげて、ラァスは悲しげにアミュを見つめた。男ならこれ一撃で落ちるだろう。
アミュは一瞬うう、と唸り、ふるふると首を横に振る。嫌ではないが、よくもないという反応だ。
アミュの様子がおかしい。先ほどのことがあるにせよ、おかしい。
「でも、メディアちゃんが……」
「メディアちゃんは忙しいでしょ。それに……」
ちら、とハディスを見た。
アミュがフリーでは、二人きりにさせてやれない。聡いアミュはその意味を察して、引きつった笑みで頷いた。
友人を愛人にさせるわけにはいかないので、未婚のハディスとまっとうな恋をするのが一番である。アミュもそれを分かっているから、断れないのだ。
メディアも忙しくはないが、ここは友人達のためにも身を引くのがいいだろう。アミュもあんな上司達にあんなことをさせられるなら、ラァスと結婚してしまった方が幸せだろう。結婚すれば子供も出来る。子持ちに危険な仕事をさせるほど、常識が外れていることはないだろう。つまりは結婚すれば、それだけで逃れることも出来るかもしれない。
ラァスも昔の職業が何であれ、今は大神官候補である。生活も安定しているだろう。賄賂という名の貢ぎ物ももらいたい放題だ。
「わーい、デートだ。ハディスとゲイルちゃんも二人でデートしなよ。明後日からはどうせみんなで一緒に行動でしょ」
ゲイルは不思議そうに指をくわえて首をかしげた。
「ぼくらはアヴェンダ達と一緒に見物すればいいんじゃないかな。ちょっと仲良くなったし、もっと話したい」
「駄目だよ! みんな勉強があるし!」
キーディアは姉たちと一緒にいるだろうし、ヒルトアリスはなかなか上手くいっているセルスと一緒だ。アヴェンダはフリーだろうが、男女の邪魔をするような気の利かない女ではないだろう。
「ハディス、あとで練習しようね」
「…………すればいいんだろう」
彼はため息をついて肩を落とした。あんな言葉をハディスが口にすればゲイルは笑うだけだろうが、気が利いた上に分かりやすい言葉でないと、彼の思いは届かないだろう。いまだに同じベッドで寝ているのだ。
ハディスはなんと忍耐強い男なのだろうか。男の本性はケダモノというのに、彼の半分は理性で出来ているに違いない。
「よし、じゃあアミュ、部屋から出ようか。じゃないとハウルが寝不足になっちゃうからね」
アミュは無言でコクコクと頷いた。
メディアはその様子を訝しみながらも、部屋を出た。
夜空は星がうるさいと感じるほどその存在を主張している。
ハウルは星など欲しいと思ったこともない。女性はあれが欲しいと思うのだろうか。ヴェノムは宝石が好きだから、欲しがるかも知れない。
では、他の女性なら──
「イレーネはどうなんだろう」
考えるが、彼女が星を欲しがるほどロマンチストだとは思えない。可愛い物は好きなようだが、達観している部分がある。
「ハウル様、お呼びになりました?」
ハウルは心臓が口から飛び出そうなほど驚いた。
尻もちをついて振り返ると、暗闇の中、小さな光る石を持ったイレーネが立っていた。
「な、なんでそんなところに!?」
「それはこちらの台詞です。どうして、そんな茂みの中に? お声がしたので驚きました」
室内着にガウンを羽織っただけのイレーネは、ハウルのいる茂みへと笑みを向けた。髪も結わずに、化粧もしていない。きっちりとした身なりの彼女も悪くないが、こういう時は素朴さを感じて好感が持てる。
「いや、ラァスに見つかったら、あの月は君の物だとか(わさびさん)、どんなに暗い夜にも君を照らし続ける月になりたい(匿名さん)とか言わされるんだ」
「……まあ、一体なぜそんな遊びを?」
あんたを口説けと言われている、とはまさか言えない。
イレーネは女王だ。しかも吸血鬼等というナルシストばかりの種族に囲まれているのだ。口説かれるのも、甘い台詞にも慣れているだろう。
ハウルが付け焼き刃で身につけても、彼女の心を動かせるはずがないのだ。
ハウルは近くにあったベンチに移動し、イレーネはハウルの横に腰を下ろす。
「イレーネは、そういうこと言われて嬉しいか?」
彼女は一瞬きょとんとして、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
「嬉しくない女性というのは、ごくわずかの例外ではないでしょうか。ハウル様のようなハンサムな男性なら、どれほど男性を知っている女性でも、夢心地でしょうね」
彼女は月を見上げて言う。この言葉に、表情に、引っかかりを覚えて問う。
「……イレーネは例外なのか?」
「……そうですね。美しいと心にもないことを言われるのは好きではありません」
彼女は少し迷った後、隠さず答えた。嘘ではないだろう。
「やっぱり慣れてるのか?」
「ええ。身分が、自分に不相応な男性を回りに寄せるので、外見がよく、それを利用する術をご存じの殿方と多く面識がありますの」
「やな男とか多いだろ」
「ええ。素敵な男性も多いですよ」
相手が素晴らしい場合と、取るに足らない場合があるだろう。本人達が目の前にいるわけでもないのに、否定する言葉を置き換えるのは、よく貴族がすることだ。初歩的なことなのだろうが、つい感心してしまう。
彼女の言葉を聞く内に、気が楽になった事に気付く。無理をして口説いても、笑われるだけだと覚ったからだ。イレーネはアミュとは違う。
「でも、マディアスが全部追い払ってしまいますの」
イレーネはどこか嬉しそうに言った。ハウルがヴェノムにかまわれて嬉しいのと同じなのだろう。
「大変だな。厳しいのか?」
「そうですね」
彼女にとっては親代わりであるマディアスは、すっかり頑固な父親の如く、娘に近寄る男を問答無用で蹴り落としている。
「それに救われている部分もあります。自分ですると角が立ちますから。頑固親父に追い返されるのなら、わたくしには傷がつきませんもの」
「やっぱ……そういう男は鬱陶しいのか?」
自分でも思うのだ。歯の浮くような鳥羽を並び立てるだけの男など、鬱陶しい。
「ええ。だって、下心が見え見えなんですもの。ハウル様のように純粋な気持ちで隣に立ってくれる男性は、あまりおりません」
つまりカロンとかラァスのような男だろう。恋愛対象にはならないが。
イレーネはガウンをかき寄せ、静かに月を見ている。今夜は一番輝く一の月だけが見える。
その月明かりに照らされた庭をよく見れば、どこかの貴族の城にある庭園のように綺麗に手入れされて、季節の花も咲いている。魔道とは全く関係ないのだが、ヴェノムの元で修行したカオスが責任者だと考えると納得できた。美しい花はあるだけで潤いをもたらしてくれるというのが、ヴェノムの一番始めの教えである。彼も当時は庭の手入れをしたのだろう。
昼間ならきっと恋人達の散歩コースになっているのではないだろうか。
「イレーネはどうしてこんなところに?」
「夜風に当たりたくて。こんなこと、マディアスがいない時しか出来ませんから」
夜遊びができないのなら、こんなところにはいないだろう。着飾って出かけているはずだ。つまり、庭の散歩を禁止されているようだ。
「なんでだ? モルヴァルの王城は夜に美しい城だって聞いたことがあるのに、もったいない」
「だからこそ、人が多くいますから」
いい雰囲気だからイレーネが危険ということだ。
これは本格的に親バカなのではないだろうか。いくら雰囲気を作ることが出来たとしても、女王に無体なことをする者などいない。賊であれば女王自ら魔石を使い撃退するだろう。マディアスは自分の育てた娘が、男を見る目がないと思っているのだ。
市井で育った彼女は、今の生活をどう思っているのだろうか。
「でも、ハウル様はなぜそんな遊びを?」
「ラァスの趣味だろ」
イレーネはよほどおかしかったのか、腹を折ってくすくすと笑う。爆笑しないのはさすがだ。教育の賜か、元から淑やかだったのか。
「イレーネは、マディアスと会う前からそうだったのか?」
「まさか。立ち姿も汚かったですし、教養もありませんでした。平均的な田舎娘と思っていただければ間違いありません」
では前者か。月前者なら、ハウルには耐えられないだろう指導を受けたに違いない。
「やっぱ教育は厳しかったのか?」
「それほどでも。ただ、みすぼらしい自分に恥じ入りました。周囲は皆が色白で、すましていて、違う世界でしたもの」
「辛くとかなかったのか?」
「それはありません。マディアスには村を助けられたことになりますから」
自虐的に聞こえるほど、その言葉には含まれる物があった。吸血鬼が親切心で人間を助けることはない。元は人間だが、だからこそ生きている人間を見下したり、恨んだりしているらしい。城にいる悪霊達も、人間を助けようなどという親切心を持つ者はない。興味を持って、偶然助けた形に見えることがあるだけだ。
「女王は大変か?」
「そうですね。美女という噂が消えるまでは、辛いでしょうね。わたくしを見ては落胆する殿方がいるのは、さすがに……」
「失礼なヤツだな。イレーネは普通に可愛いのに」
普通にという言葉は失礼だが、この場は適切だろう。彼女は容姿を過剰に褒められるのが嫌いだ。美しいというのは嘘になるが、可愛らしいというのは本当だ。
「絶世の美女を想像した後ですよ。見た目もまだ幼いでしょう」
「噂か……」
噂に惑わされる男なんて、と言いたいが、ヴェノムの噂もひどいものだ。しかもヴェノムを見て仕方がないと思うのだ。
「噂と言えば、エインフェ祭はとてもユニークだそうですね」
「ああ。変な祭りだ」
イレーネは祭りのためにマディアスに頼み込んでアンセムに訪問したらしい。
遊園地は内緒で作るのに、旅行には許可を取るなど、そちらの方がよほどユニークだ。
女王が来るというのは、迎える側もかなり大変だっただろう。しかもお忍びなのだ。それを分かっていて来ると以上、本当の目的は観光ではなく別にあるに違いない。
「魔動技師はモルヴァルこそ最先端ですが、ここには魔道技術があります。それがあるからこそ、技師はいち早くより奇抜なものを生み出します。それが羨ましい」
つまり彼女は自分の目で視察したかったのだ。実に熱心なイレーネらしい理由だ。
「そっか。魔動機は魔道の論理が基本だもんな。イレーネはここの魔道機を見るために来たのか」
彼女は嬉しそうに、ええと言って頷いた。
魔法を使うときに現れる、黒い帯に浮かび上がる光の文字。あれが解明されていくほど、魔動機が進歩するのだ。より神の領域に近づける。神本人達は無意識に出来ることを、人間はそうやって解明していくのだ。イレーネはそういうことが商売を抜きにしても好きなようだ。本人は魔法を使えないため、道具でそれを越えることを目指しているのだろうか。
「夢があるんです」
イレーネは突然、そんなことを言い出した。何の意図があるか分からず、ハウルは瞬きを何度もした。
「いつか、マディアスに参った言わせてやるんです」
「……参った?」
「ええ。魔法だけが力ではないと教えてやるんです」
まるで子供のようだ。気取ってばかりでないのも、彼女の魅力だ。彼女はきっと、誰にでも悪意を持たれにくいだろう。
「で、遊園地だったのか?」
そんな発想が、女性的だなと思った。
「ええ。魔動技術は、大がかりな装置に組み込む事は少なく、ほとんどは儀式のためでしたもの。実験を兼ねて常用魔動機を作り、成功したのでもっと大がかりなものを作ろうと計画しました。
そのついでに、わたくし独自の資金源を兼ねた実験場になる上、人心を掌握し、子供達を私の創造物の虜にすべく、子供受けする商売を始めました。いつか子供達は、大人になってわたくしを賛美するでしょう。子供の頃に好きだった物は、ずっと覚えているものです。そしてその子に引き継がれます」
まったくユニークな女王様だ。政務をして、その合間に夢を叶えるべく努力をする。その努力は、凡人の先を行く。商売を成功させるだけでも難しいのに、彼女の目的はそれではない。子供のような、可愛らしいささやかな願い。
「そして道具によって、マディアスを越えてやるんです。あと、女王をやめたときのために」
これが、彼女の言う「田舎娘」の名残だろうか。今は言葉も上品さよりも子供っぽさが強まっている。今の彼女は実際は二十歳過ぎと言われてもおかしく思える。
「イレーネは」
「はい」
「やっぱ可愛いな」
彼女はきょとんとしてハウルを見た。
「そういうところ、ヴェノムに似てるかも」
「まあ、嬉しい」
くすくすと笑うイレーネを見て、うっかり余計なことを口にした自分を内心で罵りながら、ハウルは頬をかく。
無意識のうちにヴェノムと比べるのはよくない。相手も普通は不快だろう。快く笑ってくれるような寛容な女性でよかった。
「イレーネはまたあの死霊術師一家に案内してもらうのか?」
「いえ。彼女たちは祭りは初めてですので、こちらが疲れますわ。案内の方は、他に頼む予定です」
「よかったら俺達と来るか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。それとも、騒がしいのは嫌か?」
去年はとんでもないことになった気がするが、今年はさすがにないだろう。しかしあの店にはイレーネを連れていってはいけない。田舎の純朴娘経由の一国の女王様には、同じ女王様でも縁のない変態の世界だ。
「賑やかで楽しそうですね。ハウル様さえおいやでなければ、お供させてくださいませ」
「面白いところ連れてってやる」
ハウルは立ち上がり、イレーネの手を取った。
「冷えてきただろう。部屋まで送る。ここは変なのが多いから、イレーネみたいな特赦体質の人間が一人でうろうろとしちゃいけない場所だ」
「まあ、それは大変」
おそらく信じていないのだろうが、かなり本当だ。ここはあのメディアを生み出した場所。メディアの能力が高いから皆は彼女に脅えているが、力があればああなっていく傾向があるのがこの組織の特徴だ。
イレーネのことを女王だと知る者は少ない。魔石を生み出さなければただのお嬢様だが、魔石を身につけているので恐喝に合うかも知れない。
「出来るだけ側にいるから、イレーネは一人にはなるなよ。夜出歩きたいなら、付き合うから。それとも、一人で外に出たいのか?」
「ハウル様」
「ん?」
「ハウル様のことだから意識せずに言っていらっしゃると思いますが……そういうことは、誰にでも言ってはいけませんよ」
「へ?」
「相手が女性だと、勘違いしてしまいます」
勘違いと言われても、別に変なことを言った覚えはない。
ラァスのような、耳が拒否するような言葉など、どこにもなかったはずだ。人間ならする当然のことだ。女性が夜に一人でいて、部屋まで送らないなど男ではない。もちろん、送り狼は却下。
「参りましょう」
光る石を持ったイレーネは、ハウルの手を引いた。
そう言えば、手をつないでいる。
甘い言葉は無理だったが、ラァスにはこれで満足してもらおう。