15 女王様の家出

2

 満月の美しい夜だった。
 こういう夜は酒でも飲みながらつまみをつつくのが楽しいと呟き料理に使うワインの栓を抜こうとするヴェノムからそれを取り上げたヨハンは、何食わぬ顔をして果汁水を全員分用意した。付き合いが長いだけあって手慣れている。
 ヴェノムといっしょにいると、酒を飲めないというのがカロンにとってほんのわずかだがストレスになっている。それでもヴェノムに迫られるよりはよほどいい。酒が飲みたければ、自分の家に帰ればいくらでもあるのだ。
 弟子達が各々でテーブルに向かい勉強を始めたので、口寂しいと呟きながら、ヴェノムとイレーネが続きの部屋で世間話に花を咲かせていた。
「ええ、ですからあの組み合わせが一番です」
「さすがはヴェノム様。尊敬いたします」
「そちらの技術は必要があるからこそ、わたくしのような道楽者には手のでない域まで達しています」
「何をおっしゃいますの。こちらも道楽ですわ」
 ふふふと笑う二人。
 片方はたおやかに、片方は冷ややかに。
「つか、何を話してるんだ、あの二人。こえぇーよ」
「確かに気持ちは分からなくもないけど、もう三日目なんだからそろそろ慣れな」
 ハウルの呟きに、律儀なアヴェンダが返す。
「あれはただ化粧品の話をしているだけだろう」
 カロンは主語のない二人の会話の内容から、それを理解していた。
「化粧品……ああ、そういえば提携してるんだっけ」
「ヴェノム殿のメーカーは高級品から、大衆品まで幅広い。店舗も各国にあり、モルヴァル国内と理力の塔の関連施設にしか顔の利かないイレーネにとって、ヴェノム殿は実に得難い商売相手だよ」
 そのつてだけでも十分成功していたが、彼女と出会って手を広めたようだ。
「ほら、美白関連の製品はイレーネの方が強いだろう。しかし化粧品としての質はヴェノム殿の方が強い。イレーネが日頃から使っているものの半分は、ヴェノム殿の会社の製品だ」
「……なんで孫の俺より、赤の他人で女ですらないお前の方が詳しいんだよ」
 ハウルはヴェノムが香水と化粧品を中心に扱う会社経営していることしか知らない。香水はラァスと出会ったときに乗っ取ったもので、化粧品はかなりの老舗のはず、という知識しかないのだ。ハウルが興味を持つのはそれはそれでおかしいから。
「ノーラにも肌にいい物を摂取させてやりたいじゃないか。せっかく美人に作ったんだ。絹のような滑らかな肌を保つためにも、金を惜しむことはないのだよ。なあノーラ」
「そんな薬物を混ぜていたのか」
「いや、天然素材だよ。薬物というのは、お前に注射している物の方だ。人間が摂取したら死ぬからな」
「そんな劇薬をっ」
「ノーラにとっては大切な栄養だ。魔素を取り込む効率が普通の精霊よりも悪いから、今はどうしても必要になる」
 それができないから、彼女は精霊として欠陥があるのだ。それさえできれば、彼女は人工だろうと完璧な精霊となる。
 毒を飲んで生きるなど、なかなかロマンティックではないか。
「あら?」
 イレーネが声を上げて、小指につけた指輪を見つめた。それから何を思ってか人差し指をかみ切り、溢れた血をハンカチに含ませてテーブルに置いた。そして手首の腕輪をかざして血を止めると、立ち上がりハウルの元まで歩いた。
「ハウル様、よい月ですので、二人でお散歩でもどうですか?」
「え……あ……ああ」
 突然の申し出にハウルは戸惑いつつも顔を赤らめて立ち上がる。寒いからコートを取りに行こうと彼女の手を取り、紳士的にエスコートしていく。
 カロンは小さく喉を鳴らして笑う。
 さて、どうなるやら。


 月明かりが海を照らし、イレーネが掲げる石が二人の足下を照らす。
 夜の海も綺麗で、女性と二人で見るにはなかなかいい景色だ。
 二人きりでこうして夜に出歩くのは実は初めてで、少し緊張していた。
「ハウル様、どこかおすすめの場所は?」
 イレーネが見上げて微笑みかけてくる。白いゆったりとした室内着が、この場ではどことなく幻想的だ。コートも持ってきたが、それはハウルが抱えている。部屋から出たばかりで、夜風に少し当たりたいのだそうだ。
 彼女が結婚できないのは、確実に育ての親の恐怖が原因だ。それがなければ、女王でなくとも好いてくる男はいるはずだ。彼女は絶世の美女ではないが、可愛らしいし愛嬌もある。化粧をして大人っぽくすれば、十分美人の範疇にはいるだろう。ただ、噂ほどの壮絶な美貌がない、それだけだ。
「近くに、洞窟があるんだ。昼間探してもなかなか見つからないようなところに入り口がある」
「あら、素敵」
 彼女は血を残していった。つまりどうやってかマディアスの接近を感知したのだ。海に近い見つかりにくい場所を彼女は好むだろう。
「イレーネの気が済むまで付き合うよ。見つかっても、海に潜れば追ってこないしな」
「今、海中は危険なのでは?」
「俺はそんなに信用ないか?」
「いいえ。信じています」
 その言葉を聞くと、ハウルは岩場へと向かう。
 ここはよくハディスを釣ってしまったポイントなのだが、この付近は遊び場が多くて昔からよく探索している。昔は元気に飛び込んでから泳いで目的地にまで行ったが、空を飛んでいくのが一番早い。
「このあたりは昔よく、ヨハンと一緒に洞窟探検をしたり、貝をとったり、海草を採ったりしたんだ」
「まあ、ヨハン様と。高名な騎士様に遊んでいただいたなんて、とっても贅沢な遊び相手ですのね」
「ガキのころは、なんか強いおっちゃんって思ってたからなぁ」
 子供というのは実に無邪気である。
 ハウルは海が足下に見える場所まで来ると、イレーネの手を離して彼女に向き合う。
「こっからちょっと飛ぶから、抱き上げていいか?」
「ええ、喜んで」
 イレーネの背に手を当て、膝をすくい上げようとしたとき、殺気を感じてイレーネを抱き寄せた。
「ハウル様……あら、マディアス」
 一瞬驚いた顔をしたが、殺気の主と目が合うとイレーネは納得したとばかりに冷たい声を出した。
「あらではない。僕がどれだけ探したと思っているんだっ!
 どこの誰とも知れぬ男などと人気のない場所に来るなど……っ」
「どこの誰かは知っています」
「確かに、どこの誰かは顔を見れば一目瞭然。
 風神なんぞの息子に、可愛いお前をやれるかっ」
 そう言われても仕方がない父親であるため、ぐうの音も出ない。せめて仕事は真面目にしている地神や、噂が一切無い火神のようなタイプが親ならこのような屈辱に甘んじることはないというのに、あのダメ男のせいで彼は臍を噛むのだ。
「ひどいわマディアス。ハウル様はとってもウブで可愛らしい真っ直ぐな方よ」
 マディアスは淡い紫の瞳を怒りに染める。
 魔力が冷気を作り、息が白くなる。魔力の影響だけで気温が下がっている。とうの昔に人間を捨てているとはいえ、元は人間であったのが信じられない魔力だ。イレーネがいなければ彼は相手を八つ裂きにするだろう目をしている。
 確かにこれは恐い。イレーネに好意を寄せた男がことごとく逃げるのも理解できる程には、恐い。イレーネに寄ってくるほどの男だからこそ、彼の怖さが余計に分かるだろう。
 ハウルの場合、父親というもっと恐ろしい力を持つ存在がいるからこそ平然としていられるが、人間に堪えられるものではない。
「確かに困ったオヤジだな」
 イレーネが彼で悩むのも当然だ。
「おや……オヤジ!? 僕のどこがオヤジだっ!」
 おじさん呼ばわりされたと思ったのだろうか。
「十代の少年から見れば、貴方などオヤジです!」
「誰がオヤジだっ! 僕は永遠の二十歳だ!」
 その背後でまたさばを読んで、私より年下なんですか、などと下僕二人が囁きあっている。
「…………イレーネ、年寄りってさ、永遠の何歳って好きだよな。俺、何度も違う奴の口から聞いたことがあるぞ」
「実は私も最近気付きました」
 微妙なところがヴェノムと似ている。認めたくないが、似ている。ウェイゼルの女関係となれば、ヴェノムもこんな雰囲気だろう。
「まったく、若者の逢瀬を邪魔するなんて、本当にダメな年寄り」
「と……」
 イレーネが火に油を注いでハウルに抱きついてくる。ハウルは彼女の意を察して、予定どおりに抱き上げる。
「わたくしがいつまでも子供だと思ったら大間違いです」
「子供ではないから心配しているんだろう! そんなケダモノから離れて、戻ってこいっ」
 本当に心配しているのだ。ハウルの父親が父親だから、よけいに。
 しかしあれでも結婚はしているし、騙して弄ぶようなことはしていない。
「人を見た目で判断してんじゃねぇよ」
 人は最低限を見た目で判断するものだ。容姿や身なり、清潔か不潔か。手入れの具合によって、相手の性格や暮らしが想像できる。しかしそれがすべてではない。
「そうですわ、マディアス様。あの方はよだれが出てくるほど純情な坊やです」
「そうそう。純情で奥手」
 下僕達が何やら言っている。
 彼女の一人もいたことがない手前、強く反論できない。
 出会いがなかなか無いのだから仕方がないではないか。いつも一緒にいるのは、レズだったり、自分と背が近い方がいい女だったり、恋愛対象としてみるにはまだ小さな子だったりと、縁がない相手ばかりなのだ。
「そういう男こそ危ないんだろう! 遊びがない男はたがが外れると何をしでかすが分からないぞ!」
「ってか、失礼だなあんた!」
 まったく、なんて過保護なのだろうか。たまには娘を信じればいいのに。
 これではまるで──
「なあ、マディアスさん。あんた、結局のところ、イレーネに結婚して欲しいのか、して欲しくないのか?」
「な、何をいきなり。まさか……もうそこまでの約束を」
「してないから」
 握りしめた拳がわなないているのをみてすぐさま否定する。否定しなければ、自分の身が危険である。
「結婚はすべきだが、半端な男になどやるものかっ」
「いるのか、あんたが納得する男なんて」
 下僕二人が両手をクロスさせて、皆無であることを示す。
 本気で婿をもらう気はないようだ。
「念のために聞くけど、どんな男ならいいんだ?」
「僕を越えろとは言わないが、僕並みの頭脳と魔力と才能のない男は却下だ」
「や、無理だろ。ヴェノム以上のジジイの知識を持ってる若者なんていねぇよ。こえぇよ。いるとしたら、賢者だろ。そうなると若い男はカロンだけだぞ。あいつ無理だし」
「彼でも却下されていました。もちろん男色家だと知る前に」
 イレーネが虚ろに月を見上げて言う。
 断言してもいいが、彼が許す男はこの世にいない。
 マディアスはそうとう苛立っている様子で、しかし海が近いので近づいてこない。
 本当に海が苦手のようである。
「あんたやっぱり、結婚させる気無いだろ」
「そ、そんなことは……ない」
 迷った言葉を向けられれば、イレーネはさらに反発するだろう。はっきりしないのが、一番不安だ
「で、あんたはイレーネを結婚させたいのか? させたくないのか?」
「結婚はする必要がある」
「必要とかじゃなくて、あんた個人の気持ちだよ」
「………………」
 明らかに嫁になんかやりたくないって顔をしている。
 しかし立場上口には出来ないのだろうか。
 ハウルの肩を掴むイレーネの手に力がこもる。
「はっきりしねぇな」
 マディアスも、イレーネも。
「ちょっくら頭でも冷やして出直せ」
 ハウルは地を蹴り背後の海へと身を投げる。空気を身に纏わせてイレーネの服が濡れないようにして、覗き込んでも見えない場所に来るとすぐに浮上する。
「ハウル様……」
「すぐ近くだから安心しろ。定住できるぐらいの設備と、一週間ぐらい困らない食料があるから、籠城できるぞ」
「ご迷惑をおかけします」
「気にするなって」
 イレーネはハウルの首に手を回して抱きついてくる。
 ヴェノム以外の女性とこのように接触した事などほとんど無いため、目が回りそうだ。


 海面すれすれを移動して洞窟にたどり着くと、イレーネの息を飲む音が聞こえた。彼女を地面に下ろすと、光る石を持って子供のようにはしゃぎながら走る。
「素敵っ」
 イレーネはいかにもな洞窟に目を輝かせた。光を持って洞窟の奥でくるりと回る。
「イレーネ、こういうところ意外と好きだろ?」
「まあ、分かります?」
「あんな遊園地を作るぐらいだからな。夜ともなると雰囲気があるし」
 彼女は外見同様、幼い心を忘れていない。自称二十三歳のヴェノムと違い、本当の幼心だ。
 可愛い物が好きで、格好いい物が好き。そんな当たり前の心。
「小さなころに読んだ小説を思い出します。宝探しとかに憧れたんですよ。女の子なのにって言われたんですけど、その時は海を見たことがなかったので」
 彼女はさらに奥へと進み、ハウルが運び込んだ古い椅子に触れた。
「それはヨハンに遊んでもらってたときに運び込んだんだ。洞窟の前で釣りして、それ食って、ここで昼寝して、夕飯を食べに戻るんだ。見つけたのはヨハンだから、俺とヨハンの秘密基地かな」
 ハウルとヨハンだけの空間。ヴェノムの弟子もわざわざ招いたことはない。招いたわけではないが、押し入ってきたのはラァス達ぐらいだ。
「掃除したばかりだから座っていいぞ。毛布は洗濯したばっかりだからダニもいないから、安心して使ってくれ。ヨハンが隠してる酒もあるし、飲むか?」
「隠しているのですか」
「ヴェノムの目に届くところに置けないからな。あいつあれで手に負えない酒乱なんだ。
 イレーネは酒に強そうだな」
「ええ。飲み負けしたことはありません」
 そこまでの強さは予想していなかったのだが、女性がアルコールに強いに越したことはない。
「ハウル様は?」
「俺はあんまり酔わない体質なんだよ。すぐにアルコールが抜けるというか。ほろ酔い以上にはならない。やっぱ親父の血かな」
「二日酔いなんて縁がなさそうですね」
「イレーネも二日酔いするのか?」
「人間ですもの、二日酔いぐらいは。でもマディアスよりも強いのには変わりありません。吸血鬼でも泥酔するんですよ。何か大切な内緒事をするときは、ガンガン飲ませて潰れた後にしているんです」
 人間相手に飲み負ける吸血鬼というのは、かなり情けない気がする。
 ハウルは貯蔵庫にしている穴から保存食を引っ張り出し、鍋に水を張ってかまどに火をつける。もちろん手作りのかまどだ。
「何を作られるんです?」
「腹減っただろ。簡単に作るから。俺、魚とかとってくるわ。まず見つからないから待ってろ」
 ハウルは銛と獲物を入れるための網を持ち、そっと海に入る。
 海底を探るとすぐに貝を見つけてそれを網の中に入れる。焼くと美味しいのだ。
 いくつかの貝を捕るうち、魚を見つけて銛で突く。
 手早く適度な量を手に入れると、湯が沸いているだろう洞窟へと戻った。
 海水を蒸発させながら奥へ進むと、いい匂いがした。イレーネは袖をまくり、スープの味を見ていた。
「あら、お帰りなさい。スープの具になるようなものは捕れましたか?」
「あるとけど、イレーネはゆっくりしてろよ」
「あら、わたくし料理も出来ますのよ。味に文句を言うにも、作り方を知らなければ的確なことは言えませんもの。口先だけの人間の文句よりも、出来る人間の文句の方が納得できますから」
 本当に、悲しいほどに自分で何でもしてしまう。
 そうさせているのはマディアスだろう。
「なら、処理は俺がするから、イレーネが味付けてくれるか」
「よろこんで」
 普通に真昼に探しても見つかりにくくなっている場所だ。
 あのイレーネびいきの下僕二人が真面目に探しているとも思えないし、のんびりと料理をする余裕もある。
 肌寒い夜の月下で、冷静に考える時間はたっぷりあるだろう。


「まったく、馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわ」
 浮遊の力を持つ魔石を織り込んだスカーフに腰をかけ、薔薇の魔女アーリアがわめく。
 人間を維持したまま生きている彼女は、海に気力を削がれることはない。
 偶然イレーネを尋ねてきた彼女を連れてきて良かった。
「なぜ私がイレーネ様とヴェノムの孫の仲を引き裂かなきゃならないの。あの女は嫌いだけど、あの子も生意気だけど、イレーネ様がいいと思うなら悪くない相手よ」
 マディアスとの付き合いの方が遙かに長いのに、彼女はイレーネを気に入っている。
 先代とはただの商売相手であったはずだが、イレーネの何をそこまで気に入ったのだろうか。
「ああ、私は他人の男なんてどうでもいいのよ。あの女から男をかっさらうならともかく、イレーネ様が相手じゃあねぇ」
「なぜ男を寝取ることになっている」
「だって美少年なんだものぉ」
 こういうところは昔から変わらない。
 弟子にした何人かが彼女に付きまとわれたことがあり、何人かは陥落していた。
 しかし彼女の才能を知れば知るほど、力の差を思い知り苦しむ。
 築き上げた矜持を失い、長くは続かない。
 彼女に見合う男など、この世界にどれだけいるか。
 邪眼の魔女への対抗心と男好きと執着心がなければ、彼女はもっと高みに行けるだろう。
 神の加護を持つヴェノムは生半可なことでは死なないが、彼女も長く生きられる。こんな身体にならなければ先がなかったマディアスとは違う。
「お前は何百年才能の無駄遣いをすれば気が済む」
「無駄遣いじゃないわよ。恋に生きることのどこが無駄なの。
 マディアス、貴方にも恋は必要よ。気に入る相手を娘のように可愛がる気持ちだって理解できるけど、彼女たちは娘じゃないのよ。
 恋をして、束縛するならその女を束縛なさいな。だれも文句を言わないわ。
 ああ、いい男に最期まで束縛されてみたいっ」
 数百年の時を生き、そして今も生きている彼女は言う。
 彼女の素晴らしいところは、病と孤独とは無縁なところ。
 不老となるための時の術を操る者ですら千年生きられる者が数えるほどしかいないのは、病に犯されるという致命的な欠陥を持つため。しかし彼女は幼いころに大病を患っただけだという。出会ったのはまだ二十代のころで、本当にいつも生気がみなぎり、寝込むとしたら怪我をした時だけだった。
 かかるといえば、恋の病だけ。常に恋を求めることにより、本来ならそろそろあるべき孤独の壁がない。生まれたころの知り合い、その関係で続いていた知り合いも死に絶えている頃合いで、生きているのは師である闇の賢者ぐらいであろう。しかし彼女に孤独の陰はない。
 研究に対する執着で生きるのではなく、生を楽しみ続けることで生きている。手ひどく振られても、恋した男が老いても、復讐はするが、基本的に彼女はけろりとしている。そろそろ悩み始めるころだが、その兆候がない。このまま三百年、五百年の壁を越えれば、彼女は本当に長く生きるだろう。
 あそびがあるからこそ、長く保つ。
 彼女を見ればそれは理解できる。
「恋人でもない相手にガチガチに縛られてれば、火遊びの一つしたいと思って当然よ。
 稀に見る物わかりのいい子でよかったじゃない。まだ貴方の可愛いイレーネ様よ。他人の女になったイレーネ様じゃあないの。私なら堪えられないわ」
 物わかりがよいのは理解している。
 いきなり女王になれと言われ、屍肉を食らい在り続ける祖母を見て、時折起こす小さな癇癪だけですんだ。頭が良く、反抗するにしても自分を貶めるような方法は選ばない。
 何やら他人を巻き込んで企んでいるようだが、彼の弟子や部下も噛んでいるようなので、危険であることはないと放置しているが、たびだび家出をして、このように男の元へと転がり込むなら、話は別だ。
「話せばいい。いくら僕でも、事前に話されていたら許しもする」
「好きでもない、覚悟もない、絆もない男のことを話すはずがないでしょう。
 データを取って、マディアスが許しそうな男の名を告げて会いに行かせたいの? それこそ餌食にされるわよ。
 出会いの機会も、時間も与えないでは、まともな男を見分けるなんて出来るはずないでしょう。何を矛盾したこと言ってるの」
「…………」
「だからイレーネ様が怒るのよ。さっきあの子が言っていたでしょ。どうしたいのかはっきりしなさい。じゃないとイレーネ様が可愛そうよ。
 結婚なんて、好きな相手として、祝ってもらってこそ価値があるのよ。女の子の夢よ。イレーネ様もまだ二十歳過ぎの女になったばかりの子よ。枯れ果てている年寄りとも違うの」
 探すのは手伝うけどと、言い、海の上を漂い眼下を調べる。
 海の中にいるかも知れないが、いないかも知れない。
 少なくとも、離れることはないだろう。この距離で海から離れれば、すぐにマディアスには分かる。
 イレーネはそれを理解している。
 賢い子だ。弟子にしてきた者達の中でも、かなり賢い。計算の速さは素晴らしいが、それが出来ても生活の役にはあまり立たない。しかし彼女の賢さは抜き出ている物があるのではなく、それ以外はバランスの良い、柔軟な考えにある。
 生き残るための知恵も、度胸もある。
 無茶はしない。
「分かっているんだが……」
「いくつになっても、人間って変わらない物は変わらないのよね」
 少しずつ少しずつ移動しながら彼女は呟く。
 彼女はこのような緻密な作業をさせて実力を発揮する。性格との不一致に昔は惜しい人材が死んでいると思ったが、数百年たってみれば、この性格だからこそと思うようになった。

 

back    menu    next