17話 渚の恋模様

 きらめきながら白波寄せて、浜辺で遊ぶように広がり消える。その様を海岸からぼうっと眺める。
 これが最近の日課で、楽しみでもある。
 走り込んだ後、肌寒い浜辺で火照った身体を冷やし、愛しい人を思い出す。それが彼女の幸せだった。
 まるで真珠のような女性だ。初めて彼女を見た時、おとぎ話に出てくる人魚の姫君のようなはかなさを含んだ愛らしく美しい姿の虜となった。
「ああ……セルスさん」
 彼女の名を口にするだけで、冷えかけた身体が再び火照る。
 世間知らずなところが可愛い人。
 胸を焦がすこの思いは、彼女に伝わっているのだろうか。
 そんな風に彼女を思っていると、それが風に届いたのか、水面に愛しい女性の姿が見えた。
「セルスさんっ」
 靴を脱ぎ、ランニング用のズボンをたくし上げ冷たい海へと走る。這って寄ってくるセルスへと手を差し出すと、濡れた彼女を抱き上げて浜辺に設置してあるテーブルの上へとそっと座らせた。イスの上では綺麗な尾びれに砂がつく。彼女は恥ずかしそうに頬を朱に染め、足へと変化すると置いてあるサンダルを履いて立つ。
「今日も良い天気だ」
 彼女は恥じらって当たり障りのない天気の話を持ち出す。そんな彼女が愛おしい。
「ええ、とっても」
 いつもと変わらぬ、いつもの朝。
 大切な一時。


 幸せそうだ。
 とてもとても、幸せそうだ。
 初めの頃は惚れっぽいヒルトアリスも懲りるだろうと思って始めたことだが、あまりにも睦まじく今更暴露するのが躊躇われた。
 それを横目で見ながら、ハウルは鏡に向き直る。
「で、上手くいったのか?」
「それがひどいんです。うっかり飲みつぶしてしまっただけなのに、お前とももう飲まないと言うんですよ」
 イレーネがぷりぷりと怒っている。
 そそのかされて本当に作戦実行した彼女は、うっかり自分のペースで飲ませて潰した結果、恐怖心をもたれてしまったらしい。
 こうしてあっけらかんと報告してくれるのは心を開かれたようで嬉しいが、夜這いの結果報告名のだと思うとなんとなく胸が傷む。
「……しばらくつれなくしてやったらどうだい? あの手のタイプは構ってもらえていると安心して餌をやらないタイプだね。つれなくされていたのが急に軟化すると油断するよ」
「まあ、カロンったらさすがね」
 何がさすがなのか分からないが、なぜか参加しているカロンと、カロン目当てに度々遊びに来るようになったアーリアが背後で騒ぐ。
「突き放されていた時に急に優しくされると、何でもないことでも嬉しく感じるのよねぇ」
 だからこの人は男に騙されて恨みを晴らすを繰り返しているのではないだろうか。腕はいいのに、腕は文句なしにいいのに、なぜ彼らは中身に問題があるのだろうか。
「で、ハウル様は?」
「いやいやいやいやいや」
「ハウル様だけずるい」
「ずるいって、あのな、うちは小さな子もいるんだぞっ」
 キーディアは夜寝るいい子なのだが、ラフィニアは夜中気付くとベッドの中にいたりと恐ろしい子だ。
 ヴェノムの部屋に行くことも多い。
 そんな事を考えていると、肩を叩かれた。
「ハウル君、お兄さんがとびきりのワインをダース単位で持ってこよう。そしてヴェノム殿にも特別飲ませあげるといい。子供達は危険だからと遠ざけ、私の部屋も鍵をかけておこう。何の問題もない」
「な、何馬鹿なことを」
「もちろん君にすべては望んでいないよ。しかし好きならいっそプロポーズぐらいしてしまうといい。君の祖父上だって、放浪して帰ってこないから捨てられたが、可愛い時期に告白したのは正解だったのだよ。ウェイゼル殿にますます似てきた時よりも、今の方が可能性は高い。チャンスは今だ。今やらなければ男が廃るぞ。よし、一週間ほどでなんとかしよう。イレーネも愛に生きると決めたのなら、何なりと協力しよう」
 愛に生きる男と、愛を求める女は、この点に関してはとてもとても気が合うらしく、無関係なのに盛り上がっている。
「そ、それよりも、あっちのカップルを先にどうにかしてやれよ」
 ハウルは浜辺の二人を指さす。
「それはもっと難しい」
 カロンはきっぱりと言う。
「手出しをして二人を傷つけたくはないし……。
 二人が出会ってから、ヒルトアリスが一目惚れをしなくなったような気がするのだよ」
「でもよく素敵な方って言ってるぞ」
「彼女はすべての女性にそう言わずにはいられないのではないか?
 しかし昔のような熱がないんだ」
 受け入れてくれた女性が出来たことによって、今までの情熱が一方向に向いたのだろう。彼女が出来ても他の女性に惚れてしまうのは問題なのだが、彼女はそうではないらしい。
 だからこそ、なおのこと言えなかった。
「ヴェノム殿は言い寄られることしかなかっただろうから、役に立ちそうもないし」
 カロンは一瞬アーリアを横目で見る。
 彼女こそが恋ではなく、失恋の達人である。悲惨な失恋を繰り返してきたのだろう。
 受け身の女と、追う女。両極端な女がいる。
「一回、ヴェノムも交えて話し合うか?」
「そうねぇ。心のケアに関しては参考になりそうねぇ。あの女、弟子には優しいから」
 心のケア。破局前提。
「本当に……どうすっかなぁ」
 二年連続で失恋など、セルスが可哀相で仕方がない。


 世界は光に満ちている。
 そんな晴れ晴れしい友人の笑顔に、夢を見るたびに遊び相手をさせられるアヴェンダはげんなりとした。
 約束どおり帰してくれる。
 遊んでくれるという保証があれば、彼は寛容になるらしい。
 形を持った夢へと続く扉──アヴェンダの場合はバングル──は外されたら終わりだ。だから外さないことに気をよくしているらしい。外したら、次に引きずり込まれた時に強制契約されかねないと脅されているから外していないだけなのだが。
 自分がそんな悩みを抱えていれば、友人は色に溺れている。
 女だと思い込んで、男とも知らずに。
「アヴェンダさん、どうかしました?」
 手を洗ったばかりのキーディアが、アヴェンダの視線を追う。屋敷に仲良くやってくる男女。男女なのは本来正しいにもかかわらず、実は間違っている。
「キーディア、あんたはまっとうな男を好きになるんだよ」
「はい?」
「ダリがいるから安心だけど、頼もしすぎてイレーネ様みたいにならないとも限らないからねぇ」
 彼は過保護そうだ。
「私はキーディアが望むのなら止めはしない」
「相手の方を試すんだろ?」
「この子に好意を持つ相手は、少なくともお前達のような人間だろう。そうであれば問題ない」
 凡人がこの姿のキーディアに近づくとも思えないのは確か。そして普通の人間は財産目当てでアーラインには寄ってこない。世の中にはもっと楽にすり寄れる金持ちがいるのだ。
「アヴェンダさん、おはようございます」
「おはようございます」
 二人は爽やかに走り寄ってくる。心地よい朝に、爽やかな恋人達。
 これがまっとうな恋人なら腹が立っただろうが、この場合は哀れに思える。
 言ってしまえと囁く自分と、できるだけ穏便に知らせることが出来るように考えたからにしろと言う自分がいる。
「い……いい天気だねぇ」
 人間には、何か一押しがないと決断できない時がある。それが今だ。
「手、洗いな。セルスも」
 最近は彼も朝食を共にする。
 まず打ち明けるならセルスだろうか。
 いや、彼は被害者だ。悪いのは性別にこだわるヒルトアリス。彼は好きで女のような顔をしているのでも、好きで触れても気付かないほど華奢な身体をしているのでもない。
「…………ダリ、あれはどうするべきかねぇ」
「私に聞くな。私は身体を動かすことでなら相談に乗れるが、知恵に関してはなにもない。それは今、私もどこか知らない場所に封じられているはずだ。知識なら、知識を知恵に結びつけられる賢者が二人もいる」
 知恵の神もお仕置き封印組だ。よく勘違いされるのだが、知恵の神と知識の神は別人だ。お仕置き組の中でも厚い信仰を保っているのが闘神と緑神と智神だ。
 その内の二人と会ったことがあるのを思うと、どんな人生を歩んでいるんだと自答自問してしまう。
 夢神には遊び相手を命じられるし。
「アヴェンダさん、なにか悩みでも」
「なんでもないよ。マヤ様への土産を何にしようか悩んでるんだよ。クラが恋愛小説を読みたいとか言うし」
 なぜお前なんだと殴っておいたが、持っていかないのも可哀相だ。しかし、あの図書室にそんなものがあるかどうか。
 悩みは尽きない。


 朝食後、肝心の二人を除く面々が集まった。
 皆が危機感を覚えていたらしく、招集したわけでもないのに見事に集まった。キーディアとルートにはノーラとラフィニアを任せてある。ノーラは色恋沙汰には興味がないらしく、しかしここにいたいと我が儘を言うのだ。一人だけのけ者にしたら後々うるさいので仕方がない。兄としては妹たちが可愛いのだ。
「どうぞ」
 ヨハンが目の前にティーカップを置く。アーリアが土産に持ってきたハーブティーだ。気を静め、頭が回るようになるらしい。
「さて、どうしたものですかねぇ」
 ヴェノムはハーブティーを口に含み、珍しく頬杖をつく。
「セルスは身内の方に任せるという手もありますが……」
「あいつらけっこう直球で物言うぞ」
「……そうですね。単刀直入です。勘違いした詩人の果てしなく回りくどい表現を少し見習わせたい程度には直球です」
 ため息をついて、振り出しに戻る。
 言うしかないのだ。言うしか。
 しかしそれを誰がするのか。
「セルスの方はハディスが来た時に任せてみてはどうだろう。そろそろまた来る頃だろう。彼はセルスからも相談を持ちかけられていたようだし、複雑な恋愛をしている。水妖の血が混じっているのに細やかなところに気を使う性格だし、上手く伝えてくれるのではないだろうか」
 臆病な水妖の血が混じっている割にはしっかりと女の前に立つし、父親よりよほどいい男なのだが、人はいい男に惚れるというものでもない。駄目な男がいいという女までいるぐらいだ。
 それよりも問題はヒルトアリスだ。
「彼女はもしも相手が本当に女性だったとして、何を望むのだろうか。こう言うのも何だが、ヒルトアリスの方は俗世とは無縁の雰囲気がある。女性は好きでも、手を取り合うだけで幸せそうにも見えるよ。女性とは、元々そういう触れ合いこそを至福と感じる部分があるからな」
 もしも先に進むとしても、可愛らしいキス止まりだろう。
 今はそれすらない。彼女の年頃で先に進まないのは珍しいことでもない。
「だからまあ、ほっとけるんだけどな」
 ハウルは腕を後ろ頭に組んで仰け反る。
 ヴェノムの弟子を挨拶も無しにプロポーズやら傷物にすることはないはずだ。とくに水妖は好きな相手が少しでも嫌がることを好まない。好きでなければ平然と見殺しにもするが、この点にかけては人間の男よりは信用に足る。ハウルと同じぐらいの信頼度だ。ハウルは目の前に裸の美女がいても何もしないだろう。きっと逃げてくる。それぐらいの信頼だ。
「パーパ」
 カロンの後頭部にラフィニアが張り付いてくる。話し合いに参加したいのだろう。愛おしいが、ここは鬼になって叱らなければならない。
 ここで癖付けては、将来に関わる。
「ラフィ、パパではない。兄様だろう」
 昔の「てー」のほうが幾分かマシだった。
「にーた」
「そうだ」
 ラフィニアを撫でてクッキーをやる。犬をしつけているようだが、悲しいかなこれが一番効率的だ。
「あれ、ノーラは?」
 カロンはラフィニアから目を離し、一人でちょこんと床に座るキーディアと、窓枠によじ登っているルートを見た。
「ノーラはヒルトさん達を追って行きました。見つからないから大丈夫だって」
 見つからないだろう。見つかるつもりが無ければ。
 しかしあのノーラだ。こちらがくだくだと悩んでいるのを見ていて、黙っていられるだろうか。あの直球で物を言うノーラが。
「まずい、一番タチの悪いのがっ」
「追うよっ」
 友人の危機にアヴェンダが真っ先に動いた。窓から外に飛び出し、慌ててルートがそれを追う。短気ではないが、啖呵は切るのが彼女である。うっかりきっぱり言う心配があるのは彼女も同じ。
「ああ、まったく、どこで育て方を間違えたのやら」
「見た目は大人でも中身は子供だから仕方がないだろ。あれぐらいの年は大人の話に首を突っ込み、自分が解決してみたくなるもんだ」
 ハウルは腕を組んで悟りきった様子で言う。彼もまだまだ大人にはほど遠いくせに。
「行くか」
「んだな。ルート、ヨハンと一緒にラフィ見ててくれな」
 ヨハンにラフィニアを任せ、アヴェンダに倣い窓から外に出る。
 まったく、どこへ行ったのやら。


 水面の近い岩の上、二人は並んで座っていた。
 セルスがヒルトアリスの背に手を置こうとするが引っ込め、また手を出して引っ込める。
 じれったいとはこのことだろう。
 ノーラは物陰に隠れて二人をじっと、じぃぃぃっと見守る。
 やれ。やってしまえと応援する。この場合は何をやるのだろうかと考え、まずは肩を抱くことが目標とした。なんて低い志し。
 などと考えていると、ついに背に手を置いた。ヒルトアリスが驚くと引っ込める。ヘタレというやつだ。情けない。ハウルよりもダメだ。
 だがしかし、偶然触れ合った手が、自然と重なり、絡まりゆく。
 これがその場のノリというやつか。ムードとはヘタレを勇者にするのだと、一昨日読んだ本に書いてあった。カロンが馬鹿になるからやめなさいというが、なかなか面白いのだ。それにカロンが渡してくるコテコテの恋愛小説は読んでいると全身がむずがゆくなっていけない。しかし、目の前で起こることはなかなか興味深い。
 今度は片手ではなく、両手で握り合う。
 ここはコテコテ恋愛小説の場面か。
 その後に待つ破局があるから悲恋か。
 口を出してはいけない。だから見守る。これでよい。面白いし。
「こら。勝手に行くんじゃないよ」
 後頭部を突かれる。アヴェンダが隣に並んで二人を見た。
 文句を言おうとしたその瞬間、セルスは男になった。
「おおっ、接吻したぞ」
「げぇっ」
 ロマンスを見てげぇとは、アヴェンダには夢がない。ここからの破局がいいのではないか。どうせいつものことなのだが、双方盛り上がっているから興味深い。
「まさかそこまで本気とは……」
「盛りのついた男女だ。何があってもおかしくない」
「あんたねぇ、カロンにも言われてるだろ。へんな事が書いてある本は読むんじゃない」
「…………」
 唇をとがらせる。アヴェンダは説教臭いところがいけない。
「カロンに遊んで欲しいのは分かるけどねぇ、どうせならもっと別のことで気を引きなよ。菓子を作ったら食べてくれたでしょう」
「でも、引きつってた」
 全部食べたけど。
 ラフィニアは食べなかった。
「次は普通に美味しい、その次は本当に美味しいって言わせるようにするんだよ。練習しないとね。あと、ヒルトは抜きで。きっと美味しい菓子を焼けるよ」
 材料を間違えるのはヒルトアリスだ。二度目の時は分量だけだったので食べられたが、材料は間違えると食べられなくなる。
「あの……アヴェンダさん?」
 離れたところにいたはずなのに、ヒルトアリスは話し込んでいる間に隠れていた茂みを覗き込んでいた。
「そんなところでなぜお菓子について話し合っているんですか?」
「遊んでくれないカロンの馬鹿ってこの子で出ていったからだよっ!」
 人のせいにしないで欲しい。しかし、ここで騒いではおとなげない。ここは一つ我慢しようと思った時──
「ちょっと! 何邪魔しているの!?」
 予期せぬ、聞いたことのない声に驚く。岩場の影から出てきたのは人魚だ。
 覗きは他にもいっぱいいたらしい。
「せっかく弟が男気を見せたのにっ」
 となりでアヴェンダが「あ……」と言って口を手で覆う。
 言った。
 人魚が言った。
「おとうと……」
 ヒルトアリスが不審がった。アヴェンダがため息をついて頭を抱える。夜は夢神、昼間は友人の世話をして、本当に他人の世話をするために生きているようである。医者のようなものになりたいらしいから、好きでやっているのだろうが、悩んでまで投げ出さないのは立派だ。
 しかし、これはもう終わりだろう。
「もう、セルスが悪いのよ。人魚のくせに奥手だなんて。
 あなたのお父様はとっても立派だったわよ。お母様をいとも簡単に口説き落としていらっしゃったわ。あのお母様が今でも忘れられないでいるのよ。もっとハキハキして、男らしさを見せないとっ!」
 引導をわたすというのは、こういう事を言うのだろう。可哀相に。ヒルトアリスはよろよろと後退して、泣きながら走っていった。
「あら、恥ずかしがり屋なのね。悪いことをしてしまったわ。ほら、嫌われたくなかったら慰めに行きなさい」
 それは止めを刺すという奴ではないだろうか。人魚とは魚だけに天然である。
「ちょ、とょっと待ちなっ!」
 アヴェンダは走っていこうとするセルスを止めた。
「どうしました? あ、カロンさんとハウル様まで」
 走ってきたカロンは肩で息をして。ハウルはけろりとしている。完璧なように見える男の数少ない、しかし大きな欠点である。
「その格好では……行っても逆効果だよ」
「どういう意味ですか?」
「まあ、色々とあるんだよ。可能性が欲しかったら、来るといい」
 可能性があるとの言葉に、アヴェンダがはぁ? と声をあげる。
 破局するから悩んでいたのではないのだろうか。どうやって傷つけずに破局させるかが問題で、仲を維持するのは違うのではないだろうか。
 カロンの考えはよく分からない。


 それからしばらくの後。
 カロンの作戦はとても簡単だった。
 曰く、ヒルトアリスは男性は苦手で女性に弱いが、環境がそうさせたのではないかと。あの剣の腕だ。幼い頃から騎士にでもするつもりで育てられたのだろうと。女性の騎士は数が少ないため、身分の高い彼女なら確実に女王付の騎士になれる。だから女性の扱い方こそ叩き込まれていたのだろうと。しかしその関係で男嫌いになり、女性を敬うようになり、今の彼女がある。
 それはノーラにも何となく理解できた。
「ラァス君の事にしてもショックを受けていたが、その後もときめいていただろう。つまり彼女の好みは女性らしい女性の顔なんだよ」
「でも、男だよ。友達としてべたべた出来ても、恋人となると……その時が、ねぇ」
「それは多少何とかなる。彼は華奢な上に、人魚だ」
 アヴェンダは言いたいことを理解したようだ。
 アーリアがさすがダーリンとか言っている。この女は嫌いだ。あの2人とは違いどうしようもなく一方的なので気にならないが、それでもやっぱり嫌いだ。
 彼は今、姉の服を借りて、姉の装身具を借りて、女性のように着飾っている。
 巧みな話術で慰めそそのかし、あの姿で説得に行かせた。
 それが功を奏して、ヒルトアリスは驚き戸惑いながらも女に対する態度だった。
 カロンが黒板に文字を書く。
「愛しているんです」
 セルスがその通りの台詞を口にする。
 本人に見せているわけではない。カロンの作った魔具で、文字の情報を特定の相手の頭に響かせるというものだ。受信端末を持った側の魔力が強く、その上魔力を受信して理解できる者という限定があるため、今まではノーラに対してしか使えなかったのだ。人間では無理でも、人魚の彼なら可能だった。
「ヒルトさんは……私のことがもうお嫌いですか?」
 上手い。こんなことを言われて、さっきまで好きだった相手に嫌いなどとは言えないだろう。
「カロン……アレで大丈夫なのかい?」
「彼女のことは私が一番よく理解しているよ。私も相手がラァス君だったら折れるだろう。
 どれだけヒルトが本気だったかによる賭けだがね」
 よく理解できない。
 カロンの趣味も理解できないし、ヒルトのことも理解できない。さらに言えば、ハウルやイレーネの悩みと何が違うのかもあまりよく分からない。
 性別の差というのは、生殖以外の問題があるとも思えないのだ。生殖は初めから捨てているのだろうから、それは問題ない。ならば何が問題なのだろう。カロンは女のような顔をしたラァスが好きだ。では女ではいけないのだろうか。胸があるのが嫌なのだろうか。その差が、ノーラにはどうしても理解できない。
 カロンはさらに次の指令を送る。
 泣け、と。
 戸惑った彼はとりあえず泣いた振りをする。
「せ、セルスさんっ」
 ヒルトアリスは戸惑い、立ち上がって蹲ってすすり泣くセルスの元へと近寄った。
 普段泣いているくせに、泣かれると弱いらしい。
「な、泣かないでください」
「わ、私は……」
 よく見れば本当に泣いているらしい。泣いていいと言われたら本当に悲しくなったのかも知れない。性別のせいで嫌われたなどと知ったらノーラも泣きたくなるかも知れない。
「やっぱり、好きなんだ……」
 セルスの計算もない純粋な言葉。
 揺らいでいる。カロンの目論みどおり、あの綺麗な顔がヒルトアリスの心を揺さぶっている。
「さすがはセルスだな……。ラァス以上の威力だ」
 ハウルは苦虫を噛みつぶしたような顔をして言う。
「彼はノーマルの男性もその道に引きずり込みかねないからねぇ。逆もあるだろう。もともとヒルトは女装したラァス君にもきっちり反応する子だから」
「節操無しって言いたいんだね」
 アヴェンダが言うと、カロンは小さく笑う。昔はもっと節操無しだったと思われる彼は、何も言えないに違いない。
 しかしヒルトアリスはまだ悩んでいる。
 カロンが指令を出すがふるふると首を横に振る。可哀相に、傷ついたのだろう。その様子を見ていると、隣でハウルがそわそわと、アヴェンダがイライラと、アーリアがウキウキとしはじめた。
「ああ、もう、じれったい!」
 アヴェンダは短気だ。仕事ではとても気長だが、こういう時は短気だ。
 止める間もなく岩場を渡り、ヒルトアリスからも見える位置に出てしまう。
「ヒルト!」
 怒っている様子のアヴェンダを見て、ヒルトアリスがぎょっとする。
「さっきから見てたらはっきりしないね! セルスはあんたのことが好き! あんたはどうなの!?」
 ヒルトアリスは言葉を詰まらせ、セルスは顔を上げる。
「いい、ヒルト」
 アヴェンダはセルスの腕を掴んで立ち上がらせて、岩場の縁に追い込むと蹴落とした。
 大きな水しぶきがアヴェンダの服も濡らす。
 大胆である。容赦なく、頼もしく──いいかもしれない。何がいいのかよく分からないが、あの行動にはわくわくさせられる。
「アヴェンダさん、なにを……」
 ヒルトアリスは岩場に戻ってきたセルスに手を貸した。ぺたんと座る彼をアヴェンダは見下ろし、何を思ったか押し倒して服を脱がせる。
「アヴェ……セルスさん!?」
 混乱した様子のヒルトアリスは、頭を抱えて動けないでいる。上半身を脱がされて、実に人魚らしい姿となったセルスは、恥ずかしそうに身体を隠している。
「見なさい、この貧弱な、女以上に華奢な身体!」
「え……うぅ」
 セルスは一度引っ込めた涙を、再び溢れそうなほどに浮かべた。
「いいかい、ヒルト。性別なんてくだらないことは忘れるんだよ。くだらないだろう? あんたなら分かるはずだ」
「は、はい」
 一番こだわっているくせに分かるのか。ノーラにはその言葉がよく理解できない。
「大切なことは、性別なんかじゃない。好きか嫌いかお友達かただの知り合いか、そのどれかだよ!」
「は……はい」
 ヒルトアリスは頷いてセルスを見る。
 今でも女に見える。男特有の無骨な骨格や筋肉がないからだ。
「いいかい。こう思ってみな。胸のない女だと」
「胸のない女性っ!?」
 彼女は驚いたようだ。
「正直、裸にしてみてもなかなか男だとは信じられないよ。見な、この可愛い顔を! この可愛い顔の人魚が、あんたを好きだって言ってくれているんだよ! あの華奢で可愛い人魚が!」
 洗脳しようとしているような気がするのは気のせいだろうか。
「あれは絶対に、ノーマルの男もその道に落とす男だよ」
 それはカロンの言葉だ。
「裸になっても汚いものが外に出ているわけでもないしね」
「汚い物?」
「いいかい、大切なのは心だよ。そう、心だよ!
 昔話にもあるでしょ。美しい姫君が、バケモノのような姿をした心優しい男と恋に落ちるって。姫君は外観でなく、心の美しさに惹かれたんだよ。で、あんたは何を基準に他人を好きになるんだい? 顔か。顔かい。ずばり顔なんだねっ!」
「そ、そんなことは……」
「じゃあ、よく考えな」
 ヒルトアリスはこくりと頷いた。しかし、すぐに首を横に振る。
「私……セルスさんのことはまだ好きです。でも、結婚などしたらどうなるか……」
「いきなり結婚なんて考えなくていいんだよ。人間は結婚する前に交際するだろう。つまり、恋人になるんだよ。それが上手くいったら結婚するし、いかなかったら別れて別の相手を探す。深刻に考えることはないよ。告白されたからってだけでつきあい始める人間はごろごろしてるんだ。あんたは好意があるんだろ? だったら、少しは前に進んでいるじゃないか」
 アヴェンダは呆然としているセルスにも視線を向ける。
「つきあってもダメなら、セルスも諦めやすいだろ」
「は、はい」
 アヴェンダは結論が出ると立ち上がった。
「じゃあ、あたしはガキどもを今夜はどうやって遊んでやるか考えるから行くよ」
 彼女はちゃんと毎日考えているらしい。あの律儀さは嘘を好まぬ精霊から見ても驚愕だ。ただ我が儘を言われただけなのに、彼女は我が儘にすら付き合う。
 最後まで信じられる人間とは、きっと彼女のような人間なのだろう。彼女が裏切るなら、きっと誰もが裏切るのだ。きれい事を並べないからこそ、聖人君子のふりをする奴らよりもはるかに信じられる。
「まだ子供なのに、逞しいわねぇ」
「まったくだよ。男より男らしい。ノーラもヒルトアリスの気品と、アヴェンダの優しさを見習いなさい」
 カロンが苦笑いして、荷物を持ってその場を退散した。


 それから数日後、以前と変わらぬとまではいかないが、仲睦まじく浜辺を歩く二人の姿が見られた。

 

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