18話 素直になる薬

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「障害を乗り越えた恋って素敵ねぇ」
 浜辺を散歩するヒルトアリスとセルスを見て、アーリアがうっとりと囁く。
「ねぇ、ダーリン」
 カロンは完全に彼女に目をつけられたらしい。そのせいか最近よく怪我をする。そう、端から見て分かるほど、本当に運気に見放されているのだ。
 ヴェノムはつい先日、歩いていたカロンの方へとどうしてか折れてしまった練習用の剣の切っ先が飛んでいき、危ういところで結界により助かった彼を目撃している。その時はハウルとヒルトアリスが共になぜこんな事にと謝り倒した。
 彼は自分の発明によってなんとか事なきを得ているが、それで防げない手の不運により大きな痛手を負っている。
 不運の元、アーリアによる被害はカオスから聞いていた。しかしこの目でその現場を見ると、この女は本当に呪われているのではないかなどと思ってしまう。女であるヴェノムはその被害を今まで見たことがなかったので、実は楽観視していた。
 先祖のせいで呪われ続けている家系というのも、少ないがいないこともない。しかし恋の女神にはさすがに何代にも渡る強烈な呪いをかけるほどの力はない。では何かと本気で考えてしまう。それほど彼女に関わる男性は不自然に不幸になる。付き合うまではまだいい。付き合ってからは悲惨なのだそうだ。
「そ……そうだね」
 カロンが遠い目をしている。アーリアはヘビのような女だ。狙われたのがハウルでなくて良かった。
 しかしカロンも一児の父。アーリアの毒牙にかけるわけにもいかない。
「アーリア、諦めなさい。彼は男性が好きだと言っているでしょう」
「これだから受け身の女は。だからテリア君にも距離を置かれたのよ」
「あれは人に頼まれると断れない性格の延長です。捨ててやったのは私です。あなたの頼みを聞いたときは、さすがのテリアも以後断るようにしたようですが」
 杖に言われるがままに世界を旅している馬鹿男は、知恵を働かせてついでに帰ってくればいいのに帰らないくせに、アーリアに追われるとがむしゃらに逃げまどう。それが腹立たしい。自身の些細な不幸よりを回避することの方が、ヴェノムの元へ帰るよりも優先されるのだ。
 というわけですっぱりと切れた。可愛い娘さえいればよい。今は隣で呆れ眼の可愛い孫だ。
「ほらほら、ダーリン。行きましょう。街にいいお酒の肴が売ってるのよ。買いに行きましょう」
「ああ、それは必要だ。チーズもいるな。」
 擦り寄るアーリアに、身を引きながら同意するカロン。
「海が近いところは美味しい物が多くっていいわね。
 ハウル君、楽しみにしてなさい。お姉さんが美味しい物を買ってきてあげるからね」
「ラフィ、行くよおいで」
 ヴェノムの腕から抜け出したラフィニアは、歩いてカロンの元へと行く。最近はよく歩けるので、飛ばないようにしつけているのだ。眠たくなると飛ぶらしいが、外に行くとなると言いつけを聞くいい子になる。
 ラフィニアを抱き上げてアーリアから解放されたカロンは、ほっとした様子で立ち上がる。
 そして三人が出ていくと、ヴェノムは可愛い孫を見た。なぜか気まずげに顔をそらしている。
「お酒を?」
 我が家で酒などと言う単語、久々に聞いた気がした。
「カロンが大量にあるからって。ワイン」
「…………」
 ワインなど、しばらく飲んでいない。皆が揃って飲むなと言うから。
「わ、わーってるよ。飲みたいんだろ。いいけど、お前は絡み酒になるから、部屋でだぞ」
「一人で飲むなどつまらないではないですか」
 ハウルは視線を泳がせる。赤くなっているのは、恥ずかしがっているからだろう。
「オレが付き合ってやるよ」
 ヴェノムに酒を飲むことを許可するのが、それほど彼にとっては羞恥心を煽るのであろうか。年頃の男の子はいまだによく分からないところがある。彼は素直だが、素直でないところがある。ババアなどとよく言うが、実は誰よりもヴェノムに懐いているところは、可愛くて仕方がない。
 なぜあの男とあの娘に一時期でも育てられてここまで可愛い男の子に成長できたのだろうかと不思議に思うのだが、奇跡が起こったと思えば不思議でもない。
 もしもこれが運命の女神の導きだとしたら、少しばかり恐ろしいが。
「そのかわり、真剣にカロンのことを考えてやれよ。昨日あいつ、アヴェンダに実家の妖精を一匹連れてきてくれとか本気で頼んでたから」
「……考えておきましょう」
 まさかそこまでカロンが危機感を覚えているとは思わなかった。礼だと思って、アーリアに他のいい男を人身御供として紹介してみようか。しかし、カロンから気を逸らすほどの男というと、思い出すのはヒルトアリスの兄やら、あまり幸運ではなさそうな者ばかり。
 難しいものである。


 予告なくやって来た友人は、人の顔を見るなり抱きついてきた。
 理由は分かっている。カロンから少し聞いた。
「何? 居たたまれなくなったの?」
 ラァスの問いにハウルは離れて距離を置く。
「ついに師匠に告白するんだってぇ?」
「な、な、なんでっ」
「イレーネとカロンから聞いてるよん」
 言うとハウルはあぶんぶんと首を横に振る。
「何言ってるのぉ。今がチャンスじゃん。飲んで飲ませて押し倒せ」
「阿保かっ!」
 ハウルはまっ赤になって首を横に振る。ここで軽く受け流したり出来ないのが、実に彼らしい。だからこそからかいがいがある。
「そっちは、どうなんだよっ」
「アミュはまだ恋愛とかには興味なくてさぁ。姫様も妨害するしぃ。
 でもそっちは妨害ないでしょ。風神様には漏れていないはずだし」
 ハウルが顔を顰めた。
「そういや、なんで……」
 風神は風の神。
 噂は風に例えられるもの。
 それを風神が知らないのはおかしいと感じたらしい。
「そりゃあ箝口令が敷かれてるから」
 ハウルの足元からはい出てくる流砂が答えた。しかしまったく動じもしないハウルの反応に少しいじけながら出てきて床に座る。
「箝口令……って?」
「僕がみんなに言っちゃ駄目だよって」
 流砂を見下ろしていたハウルの足元に、再び顔が現れた。流砂と似たような顔立ちの少年が、またもや驚かないハウルを見て不服そうにする。
 これが自分の上司かと、改めて思うと悲しくなる。
 沈んでいたクリスはすぐに気を取り直し、ハウルの頭を撫で始める。
「クリス伯父さん、何の用だよ」
「もちろん、可愛い甥の応援だよ!」
 ハウルは胡散臭そうに実の伯父を見下ろす。この世に彼ほど胡散臭いという単語が似合う神も他にいまいと思っているので、人のことは言えないが。
「僕はねぇ、恋する少年を応援するのが大好きなんだよ! だからウェイゼルとかには言わないように、みんなに命令してるんだよ。風精達も聞かれてもいないことを僕に逆らってまでべらべらしゃべる勇気はないからね」
 脅迫まがいのことをして、甥のためと言いながらかなり楽しんで活動している。
 その娘達は『禁断の愛っ! 素敵っ!』と言いながら、余計なことをしようとするのでラァスが止めておいた。これに関しては感謝して欲しいが、感謝されるまでの過程を聞かせるのも可哀相だとさすがに思う。
 彼は良くも悪くも、異性に対しては純情だ。事実を知ったら卒倒しかねない。
「いいかいハウル、結婚はいいよぉ。家庭があると、大地震なんて絶対に起こしちゃダメだなって自制できるし」
 あの一家は、あれでもこの国の役に立っているらしい。
 周囲もクリスの感情を逆なでないように必死で、常に娯楽を提供しないといけないので大変だ。この国に祭りが多いのはそれが原因でもあるらしい。そうまでしなければならないほど、大地の動きは人々に大きな影響を与える。最低限、力を逃がす程度に抑えることのみにクリスを集中させることこそが、地神殿の存在意義と言っても良い。だからこそ、地神殿には変な仕掛けが多いし、観光地になっている。すべては地神を楽しませるため。
 積み重ねられた歴史を見ると、先人達の苦労が手に取るように理解できて、思わずほろりとなる時がある。そんなことを思うのは、被害を受けやすい者だけなのだが。
「そうだハウル! お兄さんが女の人の口説き方を教えてあげようか? これでも独身の頃はよく火遊びもしてたんだよぉ」
「いや、火遊びは必要ないから」
「本命の子の口説き方の方がいいか」
「いいって」
「聞いてよぉ」
「何が悲しゅうて伯父ののろけ話を聞かなきゃなんねーんだよ。俺、帰る!」
 クリスがぶぅと声を出す。最近、こんなような子供の相手をしているアヴェンダがよく愚痴っているとハウルが言っていたが、きっとこんな気持ちなのだろう。
 年寄りのくせに、とか。
 祟り神かお前は、とか。
「あ、でも、ウェイゼル以上にガディスにバレないように気をつけるんだよ。
 僕とハミアは味方だから」
 海を越えたところにいるはずの水神までが知っているのは知らなかった。比較的常識があると言っていたのはこのクリスと水神バーミア。ハミアは現地での発音だ。
 その常識のある片割れがこれでは、あちらも期待できない。
「俺、もっと静かなところに行く……」
「そうした方がいいよ。ここ、騒がしいの好きな人が多いから」
「静かなところ……あ、あそこ」
「あそこ?」
「イスのところは静かそうだ」
 そう言って、ハウルは部屋を出て行った。
 しずかを通り越して、閑散としているような気がするのだが。おそらく雪景色で、怖いほど静かなのだ。ラァスには絶対にない選択肢である。
「……最近、お仕置き組と接点が多いから邪神だって忘れてるね、あの子は」
「何か問題あるんですか?」
「特にないけど。今のイスは大人しいからね」
「昔はやんちゃだったんですか?」
「まあねぇ。悪い子ではなかったけど、時々やんちゃだったね」
 あの落ち着いたイーシヴィールがやんちゃだったとは。
 神様でも年を経て落ち着くという場合もあるのだ。少し見直した。


 雪に埋もれた木々を横目に、記憶にある大きなうろのある木に触れる。拒む気配が消えたので中に入ると、エティマの膝枕でころんと横になったイーシヴィールが目に入った。
 ひょっとして、邪魔だったろうか。
「何の用だ」
 起き上がり動いた瞬間、イーシヴィールの手足に鎖が現れて消える。
「いや、周りがうるさいから静かそうなところへ」
「…………そんな理由でこんな雪の日に」
「寒いのは平気だから」
「気楽な物だな」
「気楽じゃないのか?」
「気を抜くと寒いだろう」
 そういえば中は温かいのだが、気を抜いていないからなのだろうか。
「って、寒暖に弱いのか?」
「植物などそんなものだろう。私は元々温かい地方に住み着いていたから、寒さは堪える」
 それで横になって丸くなっていたようだ。
「力を封じられているから、どうにも調節が上手くいかない」
 よく見れば、前着ていた服よりも暗い枯れ草のような色の、冬っぽくて暖かそうな服を着て、さらに羽織を肩にかけている。
「その服、どうしたんだ?」
「部下が持ってくる。私は動けないから、代わりに部下が私として崇められている。だから冬になると秋の収穫を持ってくる。まるで里帰りする人間達のように」
 マヤと違い、彼は人気のある神である。しかし本人が動けないというのも、信仰する側だって可哀相だ。なんとなくだが、子に世話をされる寝たきりの老人を思い出す。
「そういえば、ダリも部下に慕われてるなぁ。過激だけど」
 キーディアがそれで顔を傷つけられた。主が幼い女の子を主とするのが許せないと、それだけの理由で。
彼の部下には何人か会ったことがあるのだが、皆おっとりしているために心配はない。
「地神様の気配がする」
「さっきまでいたから」
「そうか」
 懐かしむように彼は上向く。
「そういえば、ヴェノムと結婚するのだそうだが」
「は!? 誰が!?」
「お前のことだろう」
 彼はきょとんとした顔をした。ハウルを見つめて。真面目に。
「なんでそんな話しがここまで……」
「絶望の谷が近いから、鬱憤が溜まった精霊が叫びに来る。自然と私のところまで話しは来る」
 ──うわさ話の終着点かよここは。
 人間には地獄へとつながるとか言われているし、精霊は吐き出しに来る。なんとも奇妙な場所だ。
「他人の恋愛に口を挟むつもりはないが、大変だぞ」
「…………」
「誰しも心の中など理屈ではないことだが」
 彼は胡座を組んで座る。
 沈黙が不安を生まない。
 落ち着く場所だ。いい匂いがするし、さすがは緑を司る神。邪魔なのがいないと本当に癒される。
「この匂いは?」
「私の体臭だ」
「…………体臭って言われると嫌な感じがするな」
「この匂いのせいで、私が動くとすぐに分かると言われた」
 彼は少し沈んだ様子で言う。美点のように思えるが、本人にとってはコンプレックスなのかも知れない。あのラァスも女装している割には男の格好で女扱いされると嫌がるのだ。
「最近、人工的な香りばっかり嗅いでるから、落ち着く匂いだ」
「人工的……女の香水か。香神は繁盛しているらしい」
「友達だったのか?」
「いや、領域は被るが彼は風神様の配下。ほとんど会話をしたことがない」
 地神の配下と風神の配下。接点は少なくないが、やはり主が違えば話す機会もない。香神とやらには会ったことがないので風神配下だと言うことすら知らなかった。
「ああ、そうだ。何か密閉できる小さな器を持っているか?」
 言われて、心当たりを影の中から取り出す。
 水筒に薬瓶数種。中身がない小瓶をイーシヴィールは選び、蓋を開けて指をかざす。指先から透明の液体が滴り落ち、小瓶を満たしていく。
「体液?」
「…………」
 彼は無言で蓋をする。
「愛情を深めるのだが、いらないのならいいが」
「…………ふ、ふか……深める?」
「素直な優しい気持ちになると言った方がいいだろう。商談をする時に使う人間もいる。相手を丸め込めやすい」
「そんなんあるんだ」
「人間にとっては原材料が手に入りにくいから出回っていないが、私は植物のエキスならいくらでも作り出せるからな。今でも風神様あたりがうちの果物を美味しくしろと尋ねてくる。配下に頼むと複数人のところを回る必要があるからな。
 それでヴェノムとも知り合った」
 あの父は、食べる物のことのためなら何だってするらしい。だからマヤのことも強く出られなかったのだろう。
 情けない。
「飲み物にでも一滴加えて飲ませるといい。素直になれる」
「素直に……」
「素直にならずに後悔するのは、なかなか辛い。まだ後があると何もしなければ、状況は変化し手遅れにもなる」
 手遅れの結果が、今のエティマだろうか。元は人間だったという彼女は、生まれたての融通が利かない精霊のようだ。人間から精霊になる場合、井戸に住み着くマースのように、生前の人格を保つのが普通である。それすらない、歪んだ結果。それは彼が素直でなかった結果だと、本人は思っているらしい。
「俺の場合はそんな深刻でも何でもないけど……」
 素直になるというのは、ハウルにとってもいいことだろう。素直になったら、答えが出るかも知れない。
「静かだからって突然押し掛けたのに、悪いな」
「どうせ退屈だ。たまに客が来るとわくわくする」
 とてもわくわくしているようには見えないが、大人びて見える彼でもマヤと一緒で退屈しているのだ。他にも世界には退屈しているお仕置き組がいるのだろう。
「好きなだけいるといい。ただ、飯は出ないが。この時期は実りがない。腹を満たすほど作り出すのは骨が折れる」
「いや、それは期待してないって。律儀だな」
「お前の父君は要求してくるからな」
 どこまで無遠慮なのだろうかあの父は。
 その父の存在が、今は一番怖い。
 もしもこんな噂を聞いたら、どんな反応をするのだろうか。


 屋敷に戻ると皆のいる図書室で膝を抱えて座り、貧乏揺すりをする。
 本当にやるのか。
 というか、自分はどうしたいのか実はまだ自覚していない。
 ヴェノムは好きだ。間違いなく好きだ。
 しかし、愛の告白というのは、なんだろうか。自分がそんな物をすることになろうとは。しようとしているのだ。させられようとしているとも言うが、抵抗しないのは、抵抗するほど嫌ではないからだろう。
 ヴェノムは好きだ。
 ずっと一緒にいたい。それだけは間違いない。
「…………ハウル、なにそわそわしてんだい。もっと、落ち着きなさい」
 貧乏揺すりが気になったのか、アヴェンダがペンを置いて言う。
「うぅ」
「なんか企んでるらしいけど、あんまりあの二人と真剣に付き合ってると馬鹿を見るよ」
 頬杖をついてハウルを見つめる。
「カロンが言っていた。告白するんだ」
 ノーラが余計なことを言う。
「ああ、とうとうするんだ。まあ、あんたはそれなりに可能性は捨てきれないからいいんじゃないの」
 可能性がなかったアヴェンダに言われると悪いような気がする。問題外だと思っていたヒルトアリスはセルスとテラスで星空を見上げている。まだ正式なカップルではないが、内容は前と変わらない清い交際を続ける二人が妬ましい。
 破局するものだと思っていたのに、意外と続いている。それもすべてセルスの顔の効果である。
「あの二人を見てると、ちょっと落ち着くかもしれねー」
「ああ、確かに。ダメだと思っても可能な場合もあるって、自分を慰められるかもね。
 あーあ、どっかにいい男いないかねぇ」
 アヴェンダは机に突っ伏した。失恋したばかりなのに、夜な夜なしたくもない子守をしている彼女だ。何とかしてやりたいという気持ちはある。
「アヴェンダはどんな男がいいんだ?」
「どっちかって言うと小柄な可愛い系で、優しくて、強くて、馬鹿じゃない男。背が高すぎる男は問題外」
 確か前にも背の高い男は嫌だとは言っていた。
 彼女好み男なら探せばいるだろうが、探さなければ滅多に出会えないタイプである。アヴェンダの性格やら現状を鑑みると、かなりハードルが高い気もした。とくにマヤのせいで彼女は日々、遊びを考えて人の話を聞いていない時が多くなっている。のんびりとしたタイプの方が合う気がするのだが、彼女の好みとは違うのだろう。
「もしそんな男見つけたら、紹介するな」
「…………人間?」
「いや、人間だろ。基本的に」
「そりゃよかったよ」
 彼女は頭を持ち上げ、ペンを手に取る。彼女は手紙を書いている。祖母ではなく、アヴェイン系列の店で働いている若い薬師からの相談らしい。
「ああ、なんで相談してくるのはみんな女なんだろうねぇ」
「頼れるからだろ」
「頼るんじゃないよ」
「頼りやすいんだよ」
「ったく」
 文句を言いながらも、しっかりと考えて返事をするので、彼女は立派だ。ハウルなら気楽になれよで終わらせてしまいそうなのに、対策をきっちりと練って、いくつかの妥協案を書いている。
 彼女を見ていると少し落ち着いた。自分の悩みなど、彼女の夜の悩みに比べればずいぶんと平凡で小さいのだろう。
 落ち着いたところで、とりあえず自分の気持ちに整理をつけることから始めよう。
「…………」
 始めようと思ったが、頭が空っぽになる。
「ハウル、答えは先に延ばせるから、何も今すぐに行動することはないよ。明日でもいいし、明後日でもいい。だから、いちいち落ち込むのはやめなさい」
 アヴェンダの鋭い観察眼に驚きながらハウルは頷いた。
「……わかった。やめる」
 頭を空っぽにして、薬と酒を飲もう。体質的にあまり酔えないが、ほろ酔いになるぐらいなら出来る。下手な考えを捨てれば、もう少し向き合えるのではないだろうか。
 父を忘れて、常識を忘れて──
「ハウル、元気かぁ」
 ドアが開き、見慣れぬ顔の男が入ってきた。
 母に似た、人間の男。
 緑の瞳が印象的な可愛い系の少年。
「だ、誰?」
 アヴェンダが少し興味を持ってハウルの髪を引っ張った。
「…………知らない人」
「おいっ! 祖父の顔を忘れたのか!?」
 アヴェンダが引いた。
 かなりどん引きした。
 可哀相に。彼女のトキメキを返してやれ。
「…………な、何しに来たんだ?」
 放浪の愚者である彼が来る。それはつまり、世界に影響がある事件が起こる可能性を意味している。なぜ今、この場所なのだ。やはり自分も時の女神に呪われているのだろうか。なぜかサギュはハウルに対して、意味深な事を言っていたような気がする。やはり呪われているのだろうか。
「いや、精霊が俺の顔を見てヴェノムがどうのと言いながら避けてくから、何かあったのかと」
 精霊達は気を使ってくれたようだが、その意味深に見える行動がかえって呼び寄せる原因となったらしい。ハウルはこの男の存在など、すっかり頭の中から消していた。考えるべきだった。
「何もねぇよ。帰れっ!」
「帰れって、俺にとってここは実家も同然なんだよ」
「旅に出ろ! 杖、連れてけ! 寄りつくな!」
「なんでそんなに嫌うんだよ。今夜は泊まってくから一緒に風呂でも入ろうよ」
「入るかっ」
 告白騒ぎどころではなくなった。どうやってこの男を追い返そうか。とにかく何が何でもヴェノムに近づけてはいけない。
「さっきヴェノムと話したら、なんか美味い酒があるんだって。楽しみだな」
「お前に飲ませる酒はねぇ!」
「なんでそんなにツンツンしてるの? まあ、滅多に帰らないから仕方がないかもしけないけど、家族なんだからな」
 寒気がしてハウルは顔を背ける。
 なぜこんな時に帰ってくるのだ。昨日だったらまだよかった。しかし、今は最悪だ。しかも泊まっていく。
「中止だね」
「だな」
 アヴェンダの言葉に頷き、ノーラがぶーぶーと騒ぐ。
 彼女も他人の恋愛が気になる年頃らしい。やはり女の子だと考えさせられた。

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